何もない人の駅
彼は目覚まし時計を止めた後、雑然とした小さい部屋を見回した。
すでにカーテンからは陽の光が漏れている。この明るさだともう昼前だろう。
「今日は休みなんだ。あと、二十四時間以上も自由にできる」
彼はそう思うとウキウキして、外出する準備を始めた。
彼は三十七歳のフリーターで、独身。友人もいない。恋人もいない。親族もいなかった。
働いて、家に帰って、パソコンを弄って、一日が終わる。一年のほとんどはそんな調子だった。
若いころに比べて疲れが取れなくなったので、休日も寝て過ごすことが増えた。それを仕方がないことだと思っていた。
たたまれることのない布団や、床に置かれた衣服、適当にゴミをまとめたビニール袋に神経を使いながら生活しては疲れなどとれるわけがない。そう頭では理解しているのに、それを片付けることがどうしてもできなかった。
昨日の夜、仕事帰りにコンビニで500ミリリットルの缶酎ハイを六本買ってそれを飲んだ。普段酒を飲まない彼にとって、それはただの気紛れだったのだが、彼は機嫌を良くして、
「明日、久しぶりに外へ出かけよう。ぶらぶらと街を歩くのもいい」
そう思って薄い布団の上に寝転がった。
普段冷房のきいたスーパーの店内で働く彼にとって、最近の猛暑は負担が大きすぎた。
歩き始めて数分で汗が吹き出し、のどが渇きだす。
何とか目的の駅に着いた頃には、完全に疲れ果てていた。
駅のホームは日陰もあり、風もあったのでそれなりに涼しかった。
彼はベンチに座り、ペットボトルのお茶を買い、水分を補給した。
口から喉、胃、腸にかけて冷たい液体が流れているの感じると同時に、熱にやられていた頭が、少しはっきりとしてきたようだ。
今日はお盆休みの真っ最中で、駅にはたくさんの人がいた。老若男女、家族連れやカップル、日本人のあり得る、あらゆる組み合わせが網羅されているように思えた。
彼は、家族連れを見た。なんとなく眺めただけだったが、少し幸せな気分になる。
彼は、老夫婦を見た。その笑顔の眩しさは少し羨ましい。
彼は、走りまわる小さな兄妹を見た。普段、あまり笑わない彼も思わず微笑む。
そうやって、色々な人たちを眺めているうちに、時間は過ぎていった。
いつの間にか夜になって、人も電車も、駅から消えたようだった。
彼に二つの白い影が近づいてきた。
二人とも白骨であったが、その身長差と骨格の違いから、カップルのように見える。
男の方が彼を指さしてカタカタと笑った。
すると女の方は男を止めるような動きを見せたが、骨を震わせて笑っているようだった。
気分を害した彼は、白骨の二人を睨む。
二つの白い影は嘲笑うようにどこかへ消えてしまった。
彼は急に吐き気を催して、背を丸め、頭を抱えてコンクリートの地面を見る。
自分には何もないことを思い出して、心臓のあたりに何かがぶつかったときのように息苦しくなった。
もちろん何もないことは知っていた。知りすぎるほど知っていたので、もう考えることもなくなっていた。
昔、自分にはなりたいものがあった。しかし、本気でそれを目指していないのではないかと疑い始めてから、夢や目標を持つことが怖くなった。
決してたどり着くことが出来ない理想郷が彼を押しつぶしてしまった。
父が病死し、母が事故死し、妹もどこかへ消えてしまった。今まで自分を支えてくれた現実も、今では遠くに行ってしまったのだ。
新たな現実を組み立てようとして、挑戦してみたこともあったが、それは無駄なことであった。
何故それが無駄になってしまったのか、彼には皆目見当がつかなかった。
「僕は小説家になりたかったし、自分の作った本が大ヒット、大金持ちになりたかった。有名になった後、美人の奥さんをもらって、子宝にも恵まれて、時々会う友人と昔話をして笑いながら年をとっていきたかった。それももうかなわない」
彼はぐにゃぐにゃになって、ベンチから崩れ落ち、コンクリートの上に寝転がった。
とても暗い駅だったので、空に星がびっしりと輝いていた。
奇麗で、輝いていて、それでいて物静かな星々を見ていると、少し気が楽になったのか、彼は起き上がり、必死で星をつかもうと飛び上がった。心拍数が上がり、妙な興奮が彼を包み込む。
彼は大声を出しながら走り出した。目の前に大きな光が見えて、それに向かって飛び込んだ。
彼の笑顔は血と骨と肉片になって飛び散ってしまった。
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幽霊の見える人がこの駅の近くを通ると、新参者の幽霊が現れたことに気がつくだろう。
彼は青白い顔をして、申し訳なさそうに駅の利用者に頭を下げて回っている。