二人で、星を見た
一の姫の立太子と婚約発表を終えたその日、深夜。
雲の無い真っ暗な空から零れ落ちんばかりに星が散りばめられた、そんな幻想的な夜。
漆黒のヴェールをかけたような薄暗がりに、ランプの明かりが灯る。連鎖するように部屋を白い明かりが次々と灯り包み、暗幕を打ち消した。
白と青を基調としたドレスを侍女のコーラに脱がせてもらい、ナイトドレスを着付け、鏡台の前に座る一の姫、アクアリリー。アクセントに青に浮かぶ小ぶりな百合の髪留めを外してもらい、特に結う事もしなかった青い滝のような髪を梳き、整えた。
「ありがとう、コーラ。お前も休みなさいな」
静かな、本当に静かな。いや、もはや音すらもない木漏れ日差す湖畔のような声だ、と。侍女コーラは改めてその耳に姫の波紋を沁み渡らせた。
短い返事と共に礼をした侍女コーラのそれと同時に、扉が小さくノックされたのを、二人は当然聞き逃さない。
「それでは、姫様。お休みなさいませ」
「ええ。お休み」
コーラは来客をお通しして、今一度頭を下げ今度こそ退室していった。外で待つ同僚フィナと共にその場を去る。
扉がゆっくりと閉められる音だけが、長姫の私室に後を引いてのこる。
ぽつんと所在なく佇む来客は、二の姫。姉と同じようにナイトドレスに身を包み、一部編み込んだ髪をおろした姿で。
「おねえ、さま」
「ローズ。今日はお疲れ様……いらっしゃいな」
いつの間にやらアクアリリーは寝室の扉の前まで足を延ばしていた。ちょいちょい、とその手が妹を誘う。
「っ、く……、ふ……」
薔薇の蕾のような唇を噛み下を向く妹姫マリンローズであったが、姉の誘いを断る筈はなかった。彼女は目に力を入れて、一足先に寝室へ入って行った姉を追った。
一粒のベッドランプのみが浮かぶ薄闇の中、ベッドを沈ませ座るアクアリリーの肩がじわりじわりと濡らされていく。
「おねえさま……」
マリンローズは座る姉の膝を跨ぐようにして向かい合い、縋り付いて、泣いた。
別に、この悲しみは今に始まった事ではないのだ。マリンローズはただ自分が情けなく、酷く卑小なもののように感じて、それから。
「リリーおねえさま」
もう数年経つというのに。流しても流しても全く枯れる事のない涙に自分で呆れるばかりであった。
姉、アクアリリーの立太子と、婚約の話はもう随分前から上がっていた。いや、厳密には婚約は姉姫と王子が生まれた時から決まっていた事である。
それでも、マリンローズは姫として生まれ、王族としての意識も責任も自覚しながら。
姉を愛する事を止められなかった。
「ローズ。次は貴女よ」
「ふぐっ……し、っ、知って、わかって、いるわっ」
マリンローズとて、既に決定している婚約発表を控えている身だ。
同盟国へ嫁ぎ、国同士の繋がりを強固とする。その取り決めの為に生まれ、その定めの為に教育を受けてきたのだから。
姉であるアクアリリーは、女王になる自分自身の重圧よりも、祖国を離れ他所に嫁がなければならない運命を哀れに思いながらも。
当然のように妹を愛した。
「貴女は立派だったわローズ。わたくしは……きちんと祝いを述べられるかしらね」
「……述べなくていいもの」
そんな訳にはいかないだろう、と、アクアリリーはくすりと笑ったが、頬を膨らませた妹が見上げてきたので眉を下げた。
その姉姫の表情ときたら。蕩けるような甘やかしい慈愛の中に見える仄暗い激情の燻り。その危うい色気。
これを見られるのは世界できっと自分だけだ。とマリンローズは胸を裂くような悲しみが僅かに和らいだ。恐らく、姉と夫婦になる夜の国の王子でさえも、きっと。そう自分に言い聞かせる事でマリンローズは心の均衡を保っていた。
完璧でありながら繊細、目どころか全神経を奪われ狂わされるような造形を見上げ、マリンローズはふうふうと浅い呼吸を繰り返す。
国一番の美貌? 何を馬鹿な。とマリンローズは口を尖らせる。
「マリンのおねえさま。大陸一……ううん。世界一美しいおねえさま」
「大袈裟な」
口を開けてからっと笑う『淑女の鑑』アクアリリー。そんな姉をとろんと見上げたままの妹の無垢なかんばせに宿るのは、どこか歪んで狂った、でも痛々しいほどに真っ直ぐな、愛。
この無邪気なまでの激情を向けられるのは自分だけ、と姉のアクアリリーは胸を満たしながらも、いずれこの妹の胎に到達するモノへ憎しみが積もっていく。
「切り落としてやりたいわ……」
「?」
きょとんと青い目をしばたたかせたマリンローズに誤魔化して、アクアリリーはそっとその前髪を分け、愛しい額に口付けをする。
「さあ、今日はもう寝ましょう?」
疲れただろう、と妹を気遣ったつもりのアクアリリーであったが、当のマリンローズは。
「……いや」
「ん?」
体を離そうとする姉に跨ったまま、マリンローズはそれを許さなかった。
美貌の姫、アクアリリーはその夜、瞼の裏に眩しい太陽を見た。
それが爆発したかのように真っ白に弾けた後、光星のようにちかちかと瞬き、堕ちながら消えていく様を、思考のとんだ脳が覚えてしまった。
体も、頭もまるで空っぽになったような感覚でありながら、心臓だけは爆音を叩きだす。
「ローズ、あなた」
言葉を途切れさせながら何とか妹へ真意を問う。いや、その行為自体への詰問ではなく、いつ。
「どこで、そん、な」
手足を投げ出し唇を震わせる姉を、顔を上げて見下ろした妹は。
「教育、うけたもの」
それはもう無邪気に笑う。その口元がやたら艶やかなのが姉の羞恥を更に煽った。じんじんと血管を巡って血が顔に集まる。
「っそ、それはっ、貴女が覚えなくていい、こと」
「おとこの人がする事だから?」
「そ、うよ」
何とか半身を起こそうとするアクアリリーであったが、そこに全体重をかけて乗っかってきたマリンローズに阻止された。覆いかぶさり姉をこれでもかと抱きしめる。
「だめ……おねえさま。その顔は、だめだわ」
「??」
「おねえさま、よかった? おねえさまにも気持ちよくなってほしくて、マリン、頑張って覚えたの」
「……なんですって」
一際低い声がマリンローズの耳を掠めた。信じられない程の力で引きはがされ、逆にマリンローズは天井を見上げる羽目になる。見下ろすのは無表情の美しい顔。
「お、おねえさま……? おこっているの? ご、ごめんなさい」
「にも、ってどういうことかしら? ローズ、貴女、一体誰に肌を許したの」
「はぇ?」
「そういう事をされたのでしょう? 誰なの? 婚約者のあの王太子? それならまだゆるせ……いいえ、許せるものですか」
普段は決して顔を歪め怒りを表す事などない、アクアリリーの静かな憤怒。その据わった青い目の底に渦巻くのは、嫉妬。妹の顔の横でシーツを握りしめた指が真っ白になる。
「まだ公表もしていないのに……手を出したというの? あの」
姉の口から出た同盟国の王太子への罵倒を聞いたマリンローズは、自分のはしたない行動や姉に無体を働いた事を咎められているのではない、と判った。
そんな彼女に安堵の後に訪れたのが、激しい程の歓喜だ。ぐるぐると、体内を循環する浮き立つような、その悦びといったら――。
「ちがうわ、おねえさま。マリンは、誰にも身を許していないの」
「では、何故」
「あ、あう。あの、自分で」
アクアリリーが長い睫毛を何度も上下させ見下ろす先には、恥じらって目が泳いでいる妹がいた。
十二になった時、妃教育の一環として閨教育を受け始めたマリンローズ。
当然、漠然とは知っていた。マリンローズは子供を――跡継ぎをもうけるための存在なのだから、それ以前から自分で意識して知識をつけてもいた。
鳥が飛んできて畑に赤ん坊を置いていく。などと頭に花を咲かせるほどには現実を知らない訳でもない。
けれど、それはあくまでも義務感からだった。
姉の婚約話に実感が伴うまでは。
子供の体が作り変えられ、女になりかける多感な時期。だが、周りの環境は魔窟である。
姉姫アクアリリー。彼女は妹への悪意の対応は徹底しているものの、自分の評判などは二の次だった。それが例え、疚しい、性的な揶揄を含んだものであっても。
(おねえさまの、からだ)
陰で聞いた男たちの猥談。ぞくりと背筋を伝った嫌悪感と、それから。
(あのおねえさまが、王子のものに)
許せなかった。
ただ領土が接しているというだけの、隣り合う遠い国。隣国の世継ぎではない王子、というだけで。あの姉を自分のものにしてしまうおとこが。
「先生。男の人の性技術を教えてください」
にっこりと無邪気に笑った十四歳の末姫から、まさかそんな言葉が出るなどと予想していない教育係。いつもの、女としての振る舞いを教える教師ではない。正真正銘、男の教師である。
「なぜ、そのような……」
「わたし、どういう事をされるのかを知っておきたいの。これも心構えの一環でしょう?」
教師伝手に呼び出されて来てみれば、まるで無垢な姫からそう言われる。護衛も控えているし、まさか自分が実践するためという思惑があるなどとは考えない教育係であった。
(仕方がないわ。おねえさまは王族の中の王族だもの)
マリンローズは、愛する姉と共にある事を諦めた。自分のわがままで彼女の矜持を傷付ける事だけはしたくなかったからだ。だが。
(でも……最初も、最後もマリンだけ。おねえさまと永遠に一緒にいるのはマリンだけだもん)
その夜、悶々と眠れない妹姫は自分を慰めた。