姉妹の軌跡
女王であるラピスロベリアは二の姫を産んだ際、亡くなった。
王婿であったガランドが王の座に就かねばならない事態になるが、彼はそんな中ただ妻の死を酷く嘆き悲しんだ。むしろ一切の感情を捨てたような表情で日々を過ごしていく。
喪に服し、誰もが沈んだ表情で一年忌までを過ごす中、その影響を一番に受けたのは、一の姫。
一年忌を過ぎても仮面を張り付けたままの新王に倣い、暗い顔で笑う事すらもしない大人ばかりの環境は――幼子の精神を、平常を、どこか狂わせてしまう。
まだ幼い彼女は、生まれたばかりの愛らしい妹のみに目を向けた。笑いかければ無邪気に笑い返してくれる存在。純粋な、好意のかたまり。
そんな赤子、血の繋がった妹へと傾倒していくのは当然の事と言えた。おねえさま、おねえさま。と自分を純粋に慕う妹が可愛くない訳がなかった。
すくすくと成長していく姉妹。
妹姫もまた、周囲の純然たる悪意に晒される事となる。
『母を殺して生まれた姫』
『何も知らないで無邪気に笑う子供』
大人たちはその口に何も覆う事なく囁き合う。子供だからと、何も知らないからとそれが聞こえない筈がないのに。
「おねえさま。マリン、生まれてこなければよかったの?」
八歳になったばかりのマリンローズ姫は、まるで「今、雨降ってる?」と問いかけるように自然と。一切の負の感情をその青い目に乗せる事なく、姉姫にそう言った。仔猫のような穢れのない目が姉を見上げる。
十歳の姉姫、アクアリリーはそんな可愛い妹が発した言葉の意味を、最初は理解できなかった。実際には脳が理解したくなかっただけだ。だが、もう一度言って、とはとても言えず。
アクアリリーは温度のない碧眼を、壁へ向ける。控える侍女はただこくりと頷いた。良く見なければ判らないくらいに小さい動作であったが。
妹姫の侍女フィナは予習でもするかのように、数人の人間をすぐに引き出せる位置に持っていく。
女官長の娘。
中年の下男。
初老の教育係。……云々。
誰も彼もが親族の縁故を以て城に上がった者たちと、女王時代の遺物、理想的な統治者の代替わりを認めない化石たち。
批判と中傷をはき違えた愚か者たち。
「……ねえ、可愛いローズ」
姉姫は青い炎を宿らせた目を、すうっ――と細め、ゆるりと口角を上げ妖艶に笑う。それはとても十の少女がしてもいい笑顔ではなかったと、後にその場にいた姉姫付き侍女コーラは回想する。
「貴女はわたくしの笑顔が好きだと、以前そう言っていたわね」
「うん。やさしくて、うつくしい、マリンだけのおねえさまのえがおだもの!」
ぱあぁと光が差し込むような笑顔を見せるマリンローズに、美しい笑顔の姉は。
「この笑顔が出来るのは、貴女が居たからなの。ローズがこの笑顔を作って、守ってくれたのよ」
「ほんとう!?」
「ええ、ほんとう」
すべすべぷくぷくとした妹姫の頬をゆっくりと撫でて、姉姫は恍惚に頬を染めた。そんな姉に蕩けるような目を向けてこの世の幸福を一身に浴びたかのような顔をする妹。
その光景は、それぞれに付く侍女には当たり前の日常であった。異常であると、知っている。だが彼女たち付きになってから数年。もう慣れたものだ。
二人の侍女はふと思い出した。二の姫様が初めてしゃべった言葉を。
たどたどしく、ふっくらした口から出た、一身に自分に愛を向ける存在への呼びかけを。自分を呼んだ! と朗らかに笑った姉姫様ときゃっきゃっと姉妹ではしゃぐ光景を。
そんな回想をしている侍女は気付かない。
姉妹姫のその様子を、初めて陰から目にした者がいた事に。
その姉妹を取り巻く異質な空気に息を詰め、一瞬歯の根が合わなくなり――。静かに、自室に戻って行った者が。
「ああ……ロベリア……っ、ロベリア……すまん。君が、命をかけて産んだ子が……っ、娘たちが……俺の、せいで」
真っ直ぐ、美しく育っていると思っていた二人の娘の真を目にした王、ガランド。あれは、まるで。引き込まれたら二度と上がってこれない、底の見えない深淵を覗いているような。
彼は扉を背にずるずると座り込み、嗚咽を漏らした。
更にこの時期。なんと間の悪い事に、一の姫が十歳になったらと夜の国とあらかじめ予定していた事があったのだ。
夜の国第二王子デルクナイトとの初顔合わせである。
「まあ。ようやくですの」
父王はアクアリリーだけを私室へ呼び、その予定を告げた。あっけなく返ってきた娘の言葉にガランドの方が内心唖然とするばかりであった。
「お前は、覚悟はあるのか」
「覚悟? 何のです」
「王子との政略結婚。ひょっとして愛のない夫婦となるかも知れない覚悟、だ」
「それの何が問題ですの?」
心底首を傾げたアクアリリーのその顔を、王はつい数時間前に見たばかりであった。「生まれてこなければよかったのか」という問いかけをした末姫の顔と、全く同じ。
「むしろあちら方へ申し訳なく思います。慣れない他国へ婿入りをするのですもの。少しでも王子が過ごしやすいようこちらが気を遣わねばなりませんわね」
「ああ、そうだな」
王は、あの姉妹の会話を盗み見なければ……何と賢く、慈悲深く育ったものだろうと感動を覚えたに違いない。
「肩身の狭い思いをさせないようにしなければ。お父様はどうでしたの? お母様と本当に愛し合っていた事は知っていますのよ」
女王ラピスロベリアと、このガランドも政略の婚姻であった。生まれた時からこの国に婿入りする定めであったガランド王子。当たり前に受け入れ、当たり前に王婿となった。
だが、妻となった女性とは長年親交を深め、次第に尊敬の念を抱くようにもなり、そして異性としても心を寄せていった。
「私か。私は、不自由も不満も無かったな。彼女が……ラピスロベリアが上手くやってくれていた」
愛する女の隣を支え、笑い合う日常に不備不満などあろうはずもなかった。だからこそ、今の娘たちの現状に王は途方もない絶望を抱いてしまったのだ。
なまじ、自分が愛のある結婚をしてしまっただけに。
その幸せ、愛する者と心身ともに結ばれるという喜びを知っているだけに。
「まあ、さすがお母様ですわ。わたくしも見習いたいと思います」
静かに微笑むその表情は、一体、いつ、どこで学んだというのか。王となった父親はそんな思いを抱える。
「恨んでいるか、私を」
こんな事を言うつもりではなかった。しかし王はほぼ無意識に口からそんな懺悔ともとれる問いかけが出た事に、また後悔した。
「恨む……? 何故?」
目を瞬かせ、心底疑問の様相を呈したアクアリリーは、しばし後、顔を上げそれはもう美しく、全てのものを包み込むような慈悲をもって、わらった。
「お父様とお母様は、とても得難い存在を産み落としてくださいました。感謝を捧げこそすれ、恨むなど。有り得ませんわ」
ガランド王は退室する娘の小さい背を見る事しかできなかった。
すやすやと寝入った小さな妹を微笑ましく眺めてから、アクアリリーはそっとその場を離れた。
「申し訳ありません。私の不注意です」
夜の空気に溶けるように佇んでいた妹の侍女フィナが頭を下げた。握り込んだ指を悔しさで締め付けながら。
『何も知らない』のはどちらだ、と怒りに頭が真っ赤に染まったその一瞬の隙が、彼女の失敗だった。すぐに、きょとんとしているマリンローズの気を引きその場を去ったが、心無い者たちの心無い言葉は妹姫に認識されてしまったというわけだ。
「わたくしの目の届かないところはお前がついていてくれる。だから安心できるの」
アクアリリーはこの城、この国中で一番信頼のおける者を妹につけている。その信頼は揺るがない。ただ無心に忠実に妹を守るだけでは駄目で、妹のために憤るような人間を見繕ったのだから。
「有り難き、お言葉です」
侍女フィナは許しの言葉を貰えても、その顔は納得していない。
くすりと笑ったアクアリリー。
「避けられない事故よ。その後始末はわたくしが」
侍女が予習済みの引き出しから情報を提供する。
悪意に晒される事のない無垢な末姫は、そのまま純粋に、ただ真っ白に育っていく。