#21「タンタ・ペナ」
夕食会は佳境。
時刻は21:00を回りかけた。
デニスの甥であるカイルは雨が降り始めた道中。
おじさんから借りている車で来るから平気だという。
デニスは良き人たちに囲まれている。
カイルもきっと、良き人なのだろう。
無根拠にそう考えた。
でもどうして、私の影は何に震えているの。
やがて大きなエンジン音がやってきた、それは庭先で停まり、バタムとドアを閉める音が聞こえた。一連のリズムはクセも何もない運転を思わせる。
ジジー、ジジー。
ドアアラームが、2度鳴った。
彼がやってきたのだ。
マティルダが玄関先に向かう。何故だろう、何故、私の影は震えているのだ。葛藤に似た疑問、焦燥か、その答えはすぐに得られた。
何故。
「ジスレーヌ……紹介するわ、甥のカイルよ」
その男は少年、17歳程の年齢で。
キツネ色の頭髪、細く3白眼のツリ目。
奴は私を見るなり、知っていたかのようにほんの少し右側の口角を上げた。
何故、何故、何故、こいつがここに。今このタイミングで。だがそんなのはどうだっていい、間違い無いなく今目の前にいるのは……、どれだけ姿形が変わっても一目見ればすぐに分るその風袋。この臭い、私と同じ罪人の臭い。
心の白刃に刻まれた人物。
体中から、心の奥底から噴流が迸る。
「 " はじめまして、ジスレーヌ " さん俺の名前はカイルだよ」
ほら、どうした?と投げかけるような余裕混じりの目つき。
「 " はじめまして、カジロ君 " デニスと捜査を共にしている、処刑人ジスレーヌだ」
すぐにでも封殺してやるよ、と眼力で返してやった。私が呼んだ彼の名にデニスは聞き間違いかと少々戸惑っている。こいつの名ならいくらでもある、どんな名でも人物と結び付いた瞬間に吐き気を覚えてしまう。カーライル、カリル、カノーラ、カディス、カイト、カジロ……そしてこの異世界ではカイルか。
カイルはデニスとマティルダに挨拶を交わすと、リビングの一脚の椅子をずるりと引いて勝手知ったる自宅の椅子のように座ると本を開き始めた。タイトルはキャッチ・ミイ・イフ・ユウ・キャン。
抑えろ、抑えろ、こいつは全てをお見通しだったのだ、知っていてここにいるのだ。今ここで戦闘を始めればデニスやマティルダが巻き添えになってしまう。抑えろ、抑えろ。
デニスとマティルダは出会うやいなや剣呑な気配を漂わせる私に困惑している、早く彼らを逃がさなければ……。事情など説明していられない、そんな時間は無い。
しかし、デニスが何かに気付いたのか夕食会に似使わない口調でカイルに問う。
「……すまんカイル、学校の人がマイクに面談するってマティルダから聞いたが学校の誰が家に行くんだ?」
……私は、決定的な事を見落としていた。すっかり頭の中から抜けていた。
こいつ、こいつ、こいつ、これが狙いか。
カイルは、白々しさを限界まで露出させて答えた。
「え~っと、え~っと、誰だっけ。学年主任じゃなくてカウンセラーじゃなくて……俺も詳しく誰が来るかなんて聞いていないんだ、でもきっと……ハーシェル先生だと思うよ」
デニスの表情は、何てことだ、それをそのまま浮き彫りにしたかのよう。場が一変した夕食会にマティルダはそれぞれの表情を見回すばかり。もうダラダラしてられない、一刻を争う。
「デニス!マティルダを連れてカイルの家に行け!早く!」
命令と言っても過言では無い言葉だった。
「……!?どうしてマティルダも!?」
何故、お前は動かず俺とマティルダが、というのだ。
「説明している時間など無い!早く!いいか、必ずマティルダは守れ!」
彼は下唇を二度三度噛むように顔を力ませる、どうにか状況を理解しようとしている。
「ならジスレーヌ!お前も来るべきだ!」
いけるのなら共に行きたい。だが目の前には奴がいる。
「出来ない!カイルと共に私はここに残る」
信じろ、信じてくれ、こいつは、こいつは…!!
彼はどうして、と疑問を拭いきれない様子だが、力強く伝えた私の言葉を飲み込んだようだ。
「おいカイル!お前、ジスレーヌとは知り合いなのか!?」
彼はカイルに問う。
「さぁ……?、初対面だと思うんだけどさ」
奴は私に本のタイトルをチラつかせながら、そらを見て喋った。とことんまで私をゴミ扱いする態度。
「マティルダ!訳の分からない状況だと思うが、ついて来い!」
デニスはすかさず自分が座る椅子の傍らに置いていたバッグからホルスター付きのベルトと小さなポーチを取り出した。
「デニス…!?どうして拳銃なんか持つの!?」
「今は一秒でも惜しいんだ!走りながら出来る限り説明する!」
車のキーをじゃらりと握ってデニスはマティルダの手を引いて玄関へ駆けて行く、デニスはその際カイルへ一言発した。
「カイル、後できっちり説明して貰う」
玄関へ身体を向けながら横目でデニスは投げかける。
「後で?はははっ、でもさ、俺は全然心当たりが無いんだ」
奴は本を1ページめくった。
「ちくしょう!クソっ!」
バン!と玄関のドアが押し開けられると、デニスの革靴とマティルダのパンプスのパタパタとした足音が混じって外へ出て行った。奴はデニス達が何をしようとどうだって良いのか彼らの行動を背後に、遮る事は無かった。
バム!バム!2度、車のドアが締まった音。彼の70年式ダッチ・チャージャーは唸りを響かせながら、そのエンジン音は遠ざかっていった。玄関のドアは閉められなかったのだろう、夜の雨に冷やされた空気がリビングへ吹き込んできた。
「お前、本当に馬鹿だな " お一人様 " で俺をつけ回すなんて」
奴は手を高く挙げると本を椅子の裏へ放り投げた。
「馬鹿はお前の方だ、血の使者を誰一人と顕現していない状態でこの私の目の前に現れたのだからな」
間違いなく、この異世界でこいつは誰1人として血の使者を顕現していない。今までの調査でそれは裏付けられていた。散々てこずらせてくれた2人の騎兵であるシータとアンプルールも、最強格である共食いの女王たるザウバーもいない。これまでの奴との戦いは、肉薄する寸前で血の使者共に邪魔をされた。それ故に奴には辛くも斧が届くことは無かった、だが、今はいない。
こいつの首は他の追跡者共にはくれてやらない。他の追跡者達と徒党を組んで追い掛け回してどこぞのどいつかが首を取っても、私にとって復讐の足しになんかなりゃしない。私は調査の中、こいつが血の使者を顕現していなという確信に至ってからは独自捜査を始めた。その末に現れた悲願の1対1のチャンス、絶対に逃しはしない。
すると奴はアーハン?と両手の平を宙に開いてジェスチャー。椅子をガタンと倒しておもむろに立ち上がった奴の姿は肌はどす黒く、血管はグリーンに光り、白目は黒く瞳は翠に変質した。が、ルシールの槍すら無く手ぶらだ、完全に舐められている。
だが構わない、私の周囲に銀の煙が漂うとそれは1本の線を描くように纏まった。そして現れるのは女神の祝福を得た一撃で血の使者を滅し、一振りで奴を封印せしめる " レオノールの斧 " 両腕を使って右側へ握るその巨斧は全長4mの柄、ギンコの葉に似た1mに及ぶ白刃。
背後に伸びて蠢く私の影が左側で握るのは実体無き影の斧……この私 " ジスレーヌの斧 " 対である2挺の私達姉妹の斧は今、瞼の裏に焼きついた悲願の獲物を前にしてその刃を光らせている。
あぁ、レオノール……待たせたね、ようやくここまでこれたよ。邪魔する奴などいない。あぁ、レオノール……。あぁ、レオノール……。握り締めた斧の柄からは脈動にも似た質感を覚えた。奴を目の前にするレオノールの斧はどこまでも応えてくれるだろう。行こう……、レオノール。
こいつを懲役無限の地獄に封印してやる。
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マイクの家を目指して俺はダッチ・チャージャーをぶっ飛ばしている、もういくつ信号を突破しただろうか。リアを滑らせながら街路をコーナリング。焦りと混乱が抑えきれない。
「ねぇ!デニス!一体どう言う事なの!?」
マティルダは何度も俺に質問をぶつける。俺が知りたいさ、そんな事。ジスレーヌとの捜査でハーシェルが黒に等しいのはわかっていた、だが狙うのはハーシェルではなく、その傍らにいるであろうジスレーヌの仇敵。
ハーシェルだけをトッチめただけでははもう一人のクソッタレを逃してしまう。だから奴を暴くまで泳がしていたというのに……。あのジスレーヌの様子……。やめてくれ、カイル……お前は少し変わった奴だと思っていたがまさかお前って事だけは勘弁してくれ。いくら頭を回してもあのカイルの白々しい態度が疑念を否定させてくれない。
ジスレーヌは " わざと " 俺とマティルダを行かせた。もしカイルが彼女の復讐の相手なら……。彼女はカイルを……殺すのか、殺すんだろうな。ジスレーヌの目が真実を見ているのなら112人もニュージャージー州で殺して回った連続殺人鬼メッサーの正体はカイルとハーシェルだ。
ちくしょう、勘弁してくれ。警察職の間でお決まりの " 身内が犯罪者なら " だとかいうランチタイムを潰すだけの話題じゃねぇんだよ。
「落ち着いて聞けよ、連続殺人鬼は2人組みの可能性があって、その内1人はハーシェルだ。そしてもう1人は……」
「カイルだとでもいうの!?」
「わからねぇよ!まだ!ともかくマイクの家にハーシェルが向かっているんだ、すぐ駆けつけないとどうなるかわからないんだ!」
柄にも無く怒鳴ってしまう、ハンドルを握る手に血管が浮き出た。マティルダは眉間にシワを寄せて煮え切らないという表情を変えられずにいる。状況を変えられないやりとりを続けている内にイースト・ローレル・ロードに入りシカモア・アベニューに接近した。マティルダは現場に近づける訳にはいかない。マイクの家から1ブロック手前でダッチ・チャージャーを路肩に停めた。
「ねぇ、デニス気を付けて……お願い……」
「わかってる、いいかマティルダ……エンジンは付けっぱなしにするから、何か危ないと思ったら迷わずこの車で逃げ出せよ」
「でもあなたが」
「俺はどうにだってなる!」
俺が車から出て、マティルダが運転席に移動した。ホルスターに収まっていた拳銃、シグザウェルP228とマガジンを2本抜き取って数100メートル先にあるマイクの家まで雨の中駆け出した。雨はいよいよ本降りとなり、路上を全開にしたシャワーが降り注ぐ。革のジャケットは雨を弾いたが内側のシャツや足元はびしょ濡れだ。
ゆっくりと、歩みを進めて目指す。家から覗く窓の視界は避けて近付いた。閉められたカーテンからは光りは無く、マイクの家は21時に差し掛かると言うのに真っ暗のようだ。この時間、彼の家が無人という事は滅多にない……。遅かったのか……それともタチの悪いすれ違いなのだろうか。胸にこもった湿度の高い気持ち悪さと焦り……。振り払うには家の中に入り確かめるしかない。
窓の前を屈みながら壁面を沿うように歩き玄関へと向かった。雨水が頭髪からいくつも筋を作り額から頬へ、そして顎を伝って流れている。ドアの両脇にある縦長なモザイクガラスからは光りが無い。完全に家の中は暗闇なのだろう、フラッシュライトを使用するか考えたが、やめる。
もし中に何者かがいるのであれば、ライトを付けっぱなしにして練り歩くのは自殺行為だ。そう考えた俺は深く目を瞑り、瞼の裏で瞳孔を開いた。夜といえど街頭に照らされた目を室内の闇へ慣れさせる為にだ。……よしいいだろう。目を開くと玄関先のドアの輪郭がはっきりと見え、幾分か明るく感じる。
右手にはシグザウエル、左手にはドアノブを握り……ゆっくりと音を立てないよう捻った。するとあっさりと無防備にドアは開いてしまった、鍵が閉まっていない。予想していた起こり得るだろう状況の数々がこれだけで大分絞られてしまう。頼むマイク、ダリア、無事であってくれ。
慣れ親しんだマイクの家が、暖かな感触で迎え入れられる筈の家が、今は悪魔の口の中。飛び込めばもうその顎は堅く閉じてしまい、逃げ出すにはその牙を内側から砕く他無いのだろう。なんだっていい。閉じてみろ、そいつの体を内からかっ捌いてやるさ。
土砂降りの外とは打って変って室内は静寂、そして暗闇。悪魔の口は静かに俺を迎え入れ、窓から漏れるほんの薄明かりだけが頼りのようだ。玄関に靴は無し、マイクとダリアはいつも履く靴を1足は必ず玄関に揃えて置いてある。それが無いというのは外出中か、もしくは……。
そのまま玄関を越えて廊下を渡る、音を立てないよう存在の位置を知られないようにだ。この革靴の底は俺が見繕ったシリコン製のシートを貼り付けており、足音を室内で響かせない。だが歩けば些細ながら音や振動は発生するもの、細心の注意を払い足を運ばせた。仮にこの家に何者かがいるのなら玄関を開けた時点で俺の侵入には気付かれているだろう、きっとドアを開けた時に入り込んだ冷気と雨音はこの家に響いた筈だ。
ぐっと警戒心が高まり、シグザウエルのグリップを握る力が強まった。
そしてリビングに差し掛かる一歩前で歩みを止めた。リビングの様子はわからないが嫌な予感がした、しかし気配や物音は一切無し……。慎重に壁に背を貼り付けて、壁1枚先のリビングの様子を伺う為にゆっくりと境界から目を覗かせた、目線の先にはしっかりと銃口も添えて。
目線の先は単なる暗闇のリビング。目を何往復もさせ確かめるが異変は一切ない。争った形跡も猟奇殺人よろしくの血糊も無し。ただ、異変というのであればマイクとダリアの姿がない。壁から顔を覗かせていた俺は身を乗り出して銃口と共に隅々までリビングをクリアリングした。ソファの裏、キッチンカウンターの向こう、テーブルの下、テーブル中央のランプはいつも通りの定位置。特に何かが見つかる事も、変わった様子一つとして無かった。喜ぶべきか否か、気持ちの悪い焦りの中で変わらない状況にイラついてしまう。
「どうしたんだデニス?こんな夜中に」
暗闇の中、唐突に声を掛けられて心拍が跳ね上がった。それと同時に視線と銃口を向けるとそこに佇んでいたのはマイクだった。驚きと安堵が一度にやってきてしまい深くため息をついてしまう。
「マイク……色々聞きたい事があると思うが俺から聞かせて貰うぞ、ハーシェルはこの家に来たか? ダリアは今どうしてる?」尋ねるべき事を先に済ましたかった。
「デニス……俺こそ驚いたぞ……こんなびしょ濡れで銃を構えてるのはなんかの冗談か? あぁ、まぁいいさ、今日は疲れててな……カイトは今日遅いし、すぐ寝ようと思ったんだ。ダリアは寝室にいる」やれやれと両手を使ってジェスチャー、何の思い違いか知らんがそんなに張り詰めるなという口調だ。
ダリアは向こうの寝室か……、それならもう引き上げようか……結局、カイルのタチの悪い冗談か何かだったのだ。だが加えてもう一つ聞き取る。
「そうか、ハーシェルは来たのか? それとも別の学校職員だったか?」
「いいや誰も来てないし、今日誰か来るなんて話は聞いてない」まいったな本当に取り越し苦労だったのか、そうだったらいいな、心の底からそう思った。
「デニス、いい加減その拳銃を降ろしてくれよ、弟とはいえ、いくらなんでもこのままはマトモに話せない」
降ろせない、まだ降ろせない、理屈じゃもう銃などいらない筈なのに、拭いきれない気持ちの悪い焦りが銃を降ろさせなかった。そうだ、マイクは何故寝る直前なのにシャツとスーツパンツなのだろう。こいつは夕食の前には必ずラフな格好に着替える奴だった、それにネクタイもそのまま。
「悪い、そのまま通路を空けて寝室を確かめさせてくれ、何も無かったら今度いくらでも奢ってやるし、心の底から謝るから」
マイクの背後には寝室へ続く廊下があり、半開きの寝室のドアがあった。暗闇の中で行われるやりとり、この不気味な空気も電気を付ければ少しは変わるのだろうか、水滴がしたたる窓の向こうからは雨音がより一層強まったように感じた。
「……お前、兄夫婦の寝室を夜中に見物するのが趣味だったか? まぁ仕方ないな、これでいいか?」
マイクはわざわざ両手を挙げて距離をとりながらゆっくりと寝室への通路を空けた。あぁ、マイク頼む。俺にお前を確かめさせないでくれ。
寝室への通路をゆっくりと進む、リビングに佇んだままのマイクの姿が少しずつ遠ざかってゆく。まいったな、寝室へ行きたくない。びしょ濡れの顎からしたたる雨水は体温と混じり、いつのまにか汗と区別が付かなくなっていた。既にここは悪魔の口を通り過ぎて胃の中だろう。俺はもうある程度確信していた、今のマイクは明らかにおかしい。平静を装っているのだろうか、それともハーシェルに脅されているのだろうか。この先の寝室に答えがあるのだろうか。
なぁ、マイク……お前の息子の名はカイルだろう……そうだろう。
誰だよ、カイトって奴は。
銃口と共に寝室に入り、目に飛び込んだのはアルミテープで両手両足を縛られ頭にポリ袋を被せられた2人分の人影。血の気が引く。顔は見えずともシルエットからは……マイクとダリアの姿だった。1つはTシャツとハーフパンツの中年、もう1つはポリ袋から漏れるウェーブがかったブラウンの長髪の女性。息はあるのだろうか、わからない、動きが無い。心拍が高まる、気持ちの悪い焦りは遂に正体を現し激情と混乱へと変わった。
目の前の2人の息を確かめたい、だがそんな時間は無い。すぐさま銃口とともに振り返り、リビングにいた " 何か " を確かめにいく。マイクが2人?俺の見間違い? もうどうだっていい。
リビングに佇む " 何か " に俺は一言だけ告げた。
「マイク、すまない」
「ははっ、よせよデニス」
強烈な破裂音が家中に響き渡り、耳をつんざく、薬莢が乾いた金属音を鳴らしてフローリングを転がった。音速を超えてバレルから飛び出した9mm弾頭は " 何か " の左足首付近を貫いた。俺は問答無用でトリガーを引き、目の前の奴を行動不能にしたのだ。そうしたつもりだった。
が、足を撃ち抜かれたはずの " 何か " は足が抉れたというのに、まるで小石にすら当っていないかのような振る舞い。フローリングにはケチャップボトルを踏み抜いたかのように放射状に広がった血糊が窓から漏れる薄明かりに照らされていた。
「おいおい、デニス、かんべんしてくれよ」
" 何か " は薄ら笑いを浮かべたまま、微動だにしなかった。
「マイク……お願いだ、" マイクとダリア " は無事なのか? 答えてくれよ」
俺は目の前の " マイク " に問いただした、答えなきゃ何発だって撃ち込んでやる、テープに巻かれたマイクと目の前のマイク。どっちが本物かなんてもうわかってる。俺の兄は銃で撃たれて平気なツラするようなゾンビじゃねぇんだ。
「……さぁ? 俺もマイクで、寝室にいるのもマイクさ」
何度も、何度もトリガーを引いた。右足首、左太腿、左肩、右腕を次々と弾頭は目の前のマイクを貫き。マズルフラッシュの度に室内は雷に打たれたように明滅し。いくつもの薬莢がフローリングを跳ねた。
頭部や心臓のバイタルゾーンは狙えなかった。一抹の疑念が、希望が邪魔をしてくれた。こいつはマイクなどではない、そう思っても兄の姿をした人物の頭を俺は撃てなかった。
「いい事を教えるよ、ここにはダリアもいる」
5発も銃弾を受けて身じろぎすらしないのか……。
背後から後頭部を殴りつけられ、床に叩きつけられるように伏してしまう。倒れた拍子にシグザウエルは、手から離れほんの先に転がってしまっていた。ぼやける視界の中に浮かぶ背後の正体は……ウェーブがかったブラウンの長髪をしたダリアだった。姿形も間違いなくダリアだった。手には肉叩き用のハンマー。二日酔いにウィスキーを一気飲みしたような眩みの中、こいつも " 何か " なのだろう……そう感じた。
するとダリアと思わしき " 何か " は自分の右肩を左手で触りながら俺に屈んで語りかけた。
「ふふっ……カイトは素晴らしいわ、彼の力を少し借りてね、いくつもの顔と体を好きなだけ調達出来るの。もうつまらない整形も死体の始末もいらないの」
穴だらけのマイクのような " 何か " が口を開く。
「俺はさ、カイルの担任でさ、少しは面倒を見なくちゃいけない」
カイルだとか、カイトだとか。わざと間違えて言ってるのか?
誰だよ、お前達。ハーシェルなのか? ハーシェルはどこなんだ? ダリアは一体何者なんだ?目の前のマイクは一体誰なんだ?すると背後のダリアと思わしき " 何か " は寝室に向かって戻ってくると両肩に2人分のシルエットを担いで俺の脇に放り投げた。
それをマイクと思わしき " 何か " は2人のシルエットが頭に被っていた袋をばさりと抜き取る。すると現れた人物は……マイクとダリア、間違いなくそうだった。血色は無く、既に絶命しているのだろう。それじゃ、目の前で佇む2人は……。
ほんの少し頭部の痛みが引いてきた。チャンスと思い手の先に転がっているシグザウエルを手にしようとするが、再度、肉叩きハンマーを後頭部に振りぬかれ鼻先がフローリングに叩き付けられる。
「ははっ、戸惑うよな、そりゃぁさ、拳銃でどうにかなるんじゃないかと思うよな」ダリアの姿をした " 何か " が肉叩きハンマーをチラつかせながら口走る。
「お前ら……一体、何なんだ……答えろ……答えろ……」
ふと傍らに投げ出されている2人の顔を眺めた。恐怖に凍てつかせた表情のまま息絶えたマイクとダリア……、胸の奥から悔しさがこみ上げ、悲しみの余り心臓に氷柱を突き刺したような痛みが広がった。
「イーストン高校化学教師、ハーシェルさ。マイクの養子の担任のね」
そう口を開いたマイクの姿を見ると……そこにいたのはハーシェルだった。体は銃弾で撃ち抜かれているが、服装や背格好までもがそっくりそのまま。中年太りのマイクと思わしき " 何か " がついさっきまでいた場所に、打って変ってハーシェルがいた。
不条理な光景に混乱が俺を支配した。
目を開きっぱなしにしてそいつの姿を睨み付けていると、背後のダリアのような " 何か " は思い付いたと玄関へと歩きだした。
「マティルダを迎えにいかなくちゃね、車で待っているんでしょう?」
「やめろぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!」
ちくしょう、ちくしょう!そうだ、頭を撃ち抜こう、ぶち抜いてやる。鉛の如く重かった身体は素直に言う事を聞き、床に伏しつつもすかさずシグザウエルを手にした俺は玄関に向かうダリアのような " 何かに " 銃口を向けた。
しかし、そこにいたのはダリアの姿をした " 何か " ではなく、俺の姿をした " 何か " に変わっていた。トリガーを引く指が思わず止まってしまい、直後、目の前のハーシェルに弾かれたシグザウエルは心無くフローリングを滑り手から再び遠のいてしまった。
俺の姿をした " 何か " は外へと行ってしまった。何も遮ることさえ出来なかった。俺の姿をして何をするつもりだ……決まってる、マティルダをどうにかするんだろう。ちくしょう、ちくしょう。
頭をハーシェルにギチリと踏みつけられ、じっくりと圧を加えられ始めた。するとエンジン音が聞こえてきて、それは俺の愛車たるダッチ・チャージャーのサウンド。虚しくも、そのエンジン音は遠くへと消えていった。
「マティルダはきっと喜んでいるよ、君が無事に車へ戻って来たのだから」
「が…あ……が……が……」
奴の足に踏みつけられ俺の頭部へ加えられている圧は凄まじい力で、顎を動かす事も、考えを纏めることすら出来なくなっていた、もがき、なんとか両腕で奴の足を払うように握るも微動だにしない。苦しい、苦しい。痛みを越えて頭全体に窮屈さを感じる。視界が記者会見会場のように明滅する。
その明滅の中、一瞬だけマティルダの顔が見えた気がした。
マティルダ……そいつは……俺じゃない。




