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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

笑う心臓

作者: 青嶋幻

    笑う心臓



                      1

 このところ、胸に違和感があった。時折、心臓が不規則に鼓動するときがあるのだ。いわゆる不整脈という奴なのか。


「ああ、ビールはいいや」


 妻が俺を一瞬不審げに見て、手に持っていた缶ビールを冷蔵庫に戻した。

 ビールの代わりに味噌汁を一口のみ、トンカツを頬張る。

 甘いソースと衣のさくっとした感覚、中の肉汁が口の中で絡み合い、得も言われぬ幸福な気分になる。

 これでビールがあれば、もっと幸せなんだが。そこで心臓を意識しする。不安が襲ってきて、ひやりとした気分になる。


「急にビールをやめるなんて、どこか具合が悪いんじゃないの」

「そう思うか」

「だってお酒を飲まないなんて、この間インフルエンザにかかったとき以来じゃないの」

「実は……」


 俺は心臓の症状を話した。


「お医者さんに診て貰った方がいいんじゃない」


 妻が心配そうな顔をする。


「でも、半年前の健康診断は異常はなかったし、もう少し、様子を見ていようと思うんだけど」


「だめだめ、こういうのは早い方がいいのよ。症状が悪化してからだと、手遅れになるわ。だいたいお父さんがあたしにそんな話をするのは、お医者さんに行こうか迷っているからでしょ」


 確かにそうだった。二十年も連れ添っていると、俺の考えることがわかるのだろう。

 正直言って若くはないし、健康にいいことなんて、ほとんどやってない。一日一箱タバコは欠かせないし、仕事が遅くなっても平気で同僚と飲みに行ったりする。もちろん運動なんか一切しないから、典型的なメタボ体質だ。

 早速病院の予約を取り、半月後、精密検査を受けた。採血から始まって、CTスキャン、エコー検査、血圧脈波とかいう検査もした。心臓のみの検診だけあって、色々な項目があるんだなと思う。


 一週間後、病院から結果が送られてきた。


「ふうん、コレステロールは高いけど、ほぼ異常なしなんだね」

「なんだよ、俺が健康でなんだか不満みたいじゃないか」


 仏頂面で報告書を読む妻を見て、思わず腹が立ってくる。


「あれこれ心配して、なんだか損しちゃった気分になるのよ」


 妙な理屈をこねやがると思うが、ここで争っちゃいけない。二十年一緒に暮らしてきた教訓だ。何度くだらない言い争いが、大げんかに発展してきたことか……。

 ともかくこれで安心した。今日からは大いにタバコを吸ってビールを飲んでいこう。

 不意に、心臓が激しく鼓動した。

 まるで、俺の心を察知しているかのようだった。


 ぎょっとして胸に手を置く。


「どうかしたの」


 妻が不審げな顔をして俺を見た。


「どうって……。俺、なんか変な顔したか」

「なんだか、びっくりしたような顔したから」

「気のせいだよ」

「そうかしら」


 なおも不審げな妻の視線を避けるようにして立ち上がり、トイレに入った。スボンを脱いで便座に座り、一息つく。書斎なんてしゃれたものを作る余裕なんてない、狭いマンション住まいにとって、トイレが唯一のプライベート空間だ。

 改めて右手で胸を押さえる。反応はない。次に右手の上に左手を重ねて、強く押してみた。


 ドキン。


 心臓が激しく鼓動した。

 反射的に、両手を離した。

 まさかねえ。

 もう一度胸を押さえる。


 ドキン、ドキン。


 今度は二度大きく鼓動する。

 心臓が俺の意志に反応している。

 あり得ないだろう。


 ドキン、ドキン、ドキン、ドキン。


 鼓動が激しくなる。


 俺は大きく深呼吸し、心の中で心臓に語りかけてみる。


――お前、意識を持っているのか――


 ドキン。


――もしそうなら、二回大きく鼓動してみろ――


 ドキン。ドキン。


――今度は三回だ――


 ドキン。ドキン。ドキン。


 間違いない。こいつは自分の意志を持っている。


――ドッドッドッドッドッ――


 唖然としている俺に、心臓は連続して大きく鼓動を繰り返した。


 なんだか、笑っているみたいだった。


                  2


「おーい安川、ちょっと行こうぜ」


 同僚の大崎が人差し指と中指を口に持っていく。タバコの誘いだ。


「悪い……。最近半分に抑えているんだけど、今日の分はもう全部吸っちゃったんだ」

「なんだよ。嫁さんがうるさいのか」

「そうなんだ。もう歳なんだから禁煙しろって言われているんだけど、なかなかやめられなくててさあ」

「で、妥協して半分にしているってわけか」

「そうなんだよ」

「俺も新婚当初は言われたけどな、今じゃ子供の前で吸わなけりゃ何にも言われないよ。むしろ肺がんで死んでくれれば、家のローンも保険金で払えるとか思ってんじゃねえのかな」


 大崎がヘラヘラ笑いながら喫煙所へ歩いていく。俺は内心ほっとしながら後ろ姿を見つめていた。

 まさか、心臓に止められているなんて、口が裂けても言えなかった。

 それが起きたのは、昨日のことだった。いつものように、十一本目タバコを吸おうと、箱から出したときだった。


 ドキン、ドッ、ドドド。


 心臓が、激しく鼓動し始めた。

 口に運びかけた手を止め、タバコを箱に戻す。

 鼓動が正常に戻った。


――タバコの吸いすぎだって言うのか――


 心の中で問いかける。


 ドン、ドン、ドン。


 ゆっくり、大きく鼓動した。


 心臓のくせにしゃらくさいと思ったが、吸い過ぎなのは間違いなかった。

 俺もそろそろセーブしていかなきゃとは思っていたのだ。

 ムキになって吸うのも大人げないし、ここは心臓の言うとおりにしたがって、十本でやめることにした。


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。


 納得したということか。確かに喫煙者は心筋梗塞が多い。タバコを吸うのは、心臓にとって迷惑この上ない話だ。


 夕方になり、終業の時刻が近づいてきた。上司が席を立ったところで、大崎ともう一人の同僚である高村が近づいてきた。


「今日は残業するのかよ」

「ないない」


 この二人が来た時点であらかた用件がわかっていた俺は、ニタリと笑った。


「だったら帰りに一杯どうだい」

「いいねえ」

「決まりだ」


 定時を過ぎると、俺たち三人はまだ残業をしている奴らを尻目に、そそくさとパソコンを閉じ、会社を出た。


「赤井君はまだかりかり仕事していたじゃないか。お前は手伝わなくてもいいのか」


 ニタニタ笑いながら高村が話しかける。


「いいって。あいつはまだ若いんだし、やらせとけばいいんだよ」

「俺らと違ってえらくなる余地はあるんだしな」

「そうそう。俺らみたいに五十近くにもなって管理職じゃなけりゃ、もう先は見えているもんな」


 大崎がため息をついた。


「これで景気が悪くなったら、俺たち真っ先に首を切られるんだろうなあ」

「よせよせ、暗い話ばっかりするんじゃねえよ。これから飲みに行くっていうのによ」


 前を歩いていた高村が振り向いて顔をしかめた。


「ごめんごめん。おいしいビールと焼き鳥が待っているのにな」

「いやいや、刺身とポン酒だな」

「焼肉とチューハイっていうてもあるぜ」


 あれやこれやと悩んだ末に、最近開店したばかりの唐揚げがウリの居酒屋へ行くことにした。

 入店して、早速唐揚げとビールを頼んだ。程なく店員が持ってきた山盛りの唐揚げに、テンションが上がる。ビールを流し込みながら、夢中で頬張った。


「丸岡の奴、次の異動で名古屋支店長に内定したみたいだぞ」


 高村が思わせぶりな笑いを浮かべた。


「お前なあ、さっき暗い話をするなって言ってたのによお。自分で暗い話を振ってどうするんだよ」

「同期の動静を話題にして、何が暗いって言うんだよ」

「名古屋支店はウチの会社で売り上げトップなんだぜ。歴代の名古屋支店長がその後どうなるかなんて、お前もよく知ってるだろ」

「丸岡も、とうとう取締役が見えてきたって言う訳か」

「はあ……」


 高村が今日、俺たちを飲みに誘った意味がようやくわかった。

 スタートラインは同じなのに、一方は取締役、もう一方は係長止まり。こんな現実を共有し、傷を舐め合いたかったに違いないのだ。

 ああ、嫌だ嫌だ。今日はべろべろになるまで飲んでやる。既にジョッキ二杯を開け、三杯目を頼むため、テーブルにある呼び出しボタンを押そうとした。

 そのときだ。


 ドキッ、ドキッ、ドキン、ドッ、ドッ。


 不整脈が起きた。


「どうした?」


 呼び出しボタンに向かって手を伸ばしたまま、動きが止った俺を見て、高村が不思議な顔をした。


「いや、ちょっとね……」

「なんだ。ビールでも頼もうとしたんじゃないのか」

「どうしようかと思ってさ。今日は止めてウーロン茶にしとくよ」

「なんだよ。お前がビール二杯で止めるなんて、初めてだぞ。タバコだって午後から吸ってないだろ」

「実は、最近心臓の調子がおかしくてさ。色々セーブしているんだよ」

「病院には行ったのか」

「うん、だけど異常なしなんだってさ」

「それでも心臓の具合が変なのか」

「ちょっと不整脈気味なんだよ」

「だったら別の医者に診て貰った方がいいんじゃないのか。お前が見て貰った人が、どこか見落としているかもしれないぞ」

「そうかもしれない」


 一応口にはしてみたものの、もう一度やっても結果は同じだろうなと思う。心臓が意志を持っているのだから、検査中はしらを切っているに違いない。もちろん、そんな話はできないが。

 シメのラーメンを断り、俺は帰路についた。


――おい心臓、お前は俺の行動を、あれこれ注文付けるつもりなのかよ――


 ドキン。


――もちろん健康は大事なんだけどな、人には付き合いって物かあるんだぜ。ま、お前にはわからないだろうけどよ――


 ドッ、ドドドド。


――おいおい、怒るなよ。だってお前の相手は俺一人なんだけど、俺はいろんな奴らと付き合わなけりゃ行けないんだぜ。確かに酒もタバコも控えめにしなきゃなんないけどさ、あれこれ注文を付けられてもな、困るときだって有るんだからさあ。頼むよ――


 ……。


――おい、何とか言えよ――


 ……。


 全く。都合が悪くなるとシカトかよ。


 ドッドッドッドッ


――くそっ、笑いやがったな。――


 腹が立ったが、心臓は俺の一部だ。俺が俺を罵倒するなんて、妙な話だ。だんだんと頭がこんがらがってくる。



                   3


 給料日が来た。しかも今日は金曜日。自然と気持ちが浮き足立ち、身に入らない仕事が輪をかけて身に入らない。定時が近づくと、リストラ候補の二人がにやけ顔でやってきた。


「今日、行くか」

「おう。酒と女、どっちだ」

「両方にきまってるでしょ」


 二人のにやけ顔が伝染する。


「了解」


 定時になると、俺たちはそそくさと仕事を切り上げた。

 ATMへ位って軍資金を降ろし、近くの居酒屋へ向かう。軽く飯と酒を飲み、ここでもそそくさと切り上げて外に出た。三人の足は当然の如く風俗街へ向かっていく。


「さて、今日はどこへ行こうか」


 いつの間に仕入れてきたのか、高村が風俗系の雑誌を開いている。


「手堅くデリヘルで行こうか、それとも激安ソープで運試ししてみるか」


 高村の口から決して〈高級〉という言葉が出てこないのが、安心すると同時に哀しくなる。

 あれこれ議論した末、手堅いところで前回行ったソープに決まった。浮き浮きしながら歩いて行く。


 ドキドキ、ドッドッドッ、ドドドド。


 思わず立ち止り、胸に手をやる。


「どうした」


 高村と大崎が、不思議そうな顔をして振り返る。


 ドドドド、ドッドッドッドド。


「悪い……。ちょっと電話をかける用を思い出した。後から行くから先に行っててくれよ」

「了解」


 高村と大崎は、少々不審そうな顔をしながらも、歩き出した。


――おいっ、一体どういうつもりなんだ。人の楽しみに水を差すんじゃねえよ――


 ドドドドド、ド。


――だからさ、何が言いたいんだって――


 ドッ、ドッ……。


 一瞬めまいがして、思わずよろけそうになる。


――馬鹿野郎。お前、止っただろ。俺を殺す気か――


 ドッドッドッドッ。


――俺に何をしろって言うのさ――


 訳がわからないので、一旦元来た道を戻ることにした。不整脈が止った。どうやら正解らしい。

 交差点へ差し掛かった時だ。


 ドッドッドドドド。


――なんだよ。ここで曲がれって言うのか――


 ドドドドド。


 左へ体を向ける。


 ドドッ、ドドドド。


 右へ向ける。


 ……。


 右へ曲がれということか。歩き出す。


 コンビニの前を通り過ぎようとしたときだ。


 ドキンッ。


 一瞬大きく鼓動する。


 ここに入るのか?


 ドッ、ドッ、ドッ。


 規則正しく鼓動するのが同意の合図だとわかってきた。俺はコンビニへ入った。喉が渇いていたので、とりあえず飲み物の入っている棚へ行く。


 ドドッ、ドッドッドッ。


――なんだよ。違うのか――


 パンのある棚へ行く。


 ドッ、ドド、ドッドッ。


 これも不正解。


 弁当の棚。


 ドンッ、ドドドドッ、ド。


 これもだめ。


 文房具。


 ドッドド、ドッ。


 コーヒー。


 ドッ、ドッ、ドドドド。


「俺に何をさせたいって言うんだよ」


 いらついて、思わず声に出してしまった。

 店内にいた人たちが、奇妙な目で俺を見た。恥ずかしくて視線を逸らす。


――なあ、俺は早くソープに行きたいんだからさあ、用があるならチャッチャッと済ませてくれよ――


 ドッドッ、ドドドドドドドドドドドド。


――怒るなよ。俺だって努力しているじゃねえか――


 視線の先に雑誌の棚があった。


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。


 やれやれ、これかよ。俺は棚から雑誌を手に取る。


 自動車系。


 ドド、ドッ、ドド。


 マンガ。


 ドッ、ド、ドドド。


 アイドル。


 ドッ、ドドドッ、ド。


「ったく。何とかしろよ」


 思わず呟き、また他人の視線を気にしてしまう。


 週刊誌を手に取った。


 ドッ、ドッ、ドッ。


――これか――


 ドッ、ドドド。


――同じ週刊誌でも違う雑誌か――


 ドッドッドッ。


 隣のライバル紙をてにとってみる。


 ドッ、ドッ、ドッ。


 これが正解か。パラパラとページをめくってみる。

 ドキン。


 手を止め、ページを戻す。


 ドッ、ドッ。


 行き過ぎか。一枚ずつ戻っていく。


 ドキン。


 手を止めた。見出しを見て唖然とする。


〈スクープ! 俳優仲川亮一郎(享年五十歳)。死因は腹上死だった〉


――お前……。俺がこんな風になるのを心配していたのか――


 ドキンッ。


――そんなの起きるわけないだろ。心配しすぎだぞ――


 ドンドンッ。


――もちろん百パーセントないとは言えないよ。だけど、気にするほどの大きい確率じゃないぜ――


ドンッ、ドドドッ。


――だいたいお前さ、なんでこんな記事を知っているんだ――


 ……。


――無視かよっ――


「ったくよ……」


 雑誌を棚に戻し、コンビニを後にした。既に気持ちは萎えている。高村に電話をして、急に用ができて帰ると告げた。


 ドキン。ドキン。ドキン。


 満足したのか、ゆったりした鼓動が響く。


「野郎……」


 腹立ち紛れに拳で思い切り胸を叩いた。

 「うっ」

 一瞬息ができなくなり、しゃがみ込んだ。胸に痛みが広がる。


 ドッドッドッドッ。


 クソ……。また笑ってやがる。



                   4


「あなた、最近痩せてきたわねえ。病気じゃないの」


 妻が心配そうな顔で覗き込む。俺が健康的な生活をしているなんて、これっぽっちも思っていないようだ。

 一瞬むっとするが、よくよく考えれば、肉好き酒好き運動嫌いの俺が、バランスの取れた生活をしているなんて誰も思わないだろう。


「そんなんじゃないって。最近は飲みに行くのも控えているし、会社の行き帰りは一駅分歩いているんだぜ」

「そうなんだ。もしかしたら、この間の不整脈から体調を気にしてるわけ」

「うん……。俺も若くないからな」

「ふうん」


 納得顔の妻を複雑な思いで見た。言っていることは表面上間違いではなかったが、内実は違っている。

 俺の心臓は健康オタクだった。酒やタバコはもちろんのこと、肉ばかり食べていると野菜を摂れと促す。

 夜に小腹が減って夜食を食べようとすると、激しく抵抗した。

 通勤時に一駅分歩けと言い出したのも心臓だ。

 めんどくさい奴だと思う反面、体調も良くなったのだし、悪くないだろうと思う自分もいた。


「おーい安川、今日大崎と飲みに行くんだけどさ、お前も行くか」


 高村の声のかけ方が、以前は〈行くぞ〉だったが、このところは〈行くか〉になっている。

 このところ断る時が多くなっていたので、自然とそんな言い方に変わってきているのだ。

 あまり付き合いが悪いと、そのうち誘ってくれなくなる。

 さすがにそれは寂しいので、時々は行かなければと思う。


「おう、行こう行こう」


 ドドドドッ、ドッドッ。


 心臓が抗議の不整脈を始めた。


――お前なあ、サラリーマンに付き合いってものがあるんだぜ。確かに体調には良くないけど、仕事を円滑に進めて行くには大切なんだから、静かにしてくれよ――


 ドッ、ドッ、ドッ……。


――そうそう、いい子だ。今日は静かにしといてくれよ――


 定時が過ぎて、俺と高村大崎の三人は、ウキウキしながら行きつけの焼き鳥屋へ向かった。

とりあえずビールとめいめいがお気に入りの焼き鳥を頼む。


「ねぎまとつくねの塩二本ずつ」大崎。

「俺はももとねぎまのタレ」高村る

「ねぎまと鶏皮、塩で二本ずつ」俺。


 ドッ、ドッ、ドドドド。


――なんだよ――


 ドッ、ドド、ドドドドッ。


――飲みに行くのは納得したんじゃないのか――


 ドドッ、ドッ、ドッ、ドドド。


――もしかして、鶏皮で反応したのか――


 ドッ、ドッ、ドッ。


――確かに鶏皮は油が多いけど、俺の大好物なんだからさあ。たまには食べさせろよ――


 ドッ、ドドドドッ。


――うるさいうるさい。絶対食べてやるからな――


 ドドドドドッ、ドッ、ドッ。


「安川、どうかしたか」


 隣にいた高村が不思議そうな顔で見ている。


「えっ?」

「いきなり深刻そうな顔をし始めるからさ。仕事でトラブルでもあったのか」

「何でもないさ。気のせいだよ」

「そうだよな。お前、トラブったら逃げ足だけは速いもんなあ」


 ヘラヘラ笑う高村へ、曖昧に笑い返す。


――よく考えたらさ、不整脈をさせたって俺に実害はないんだよな。もちろん、確かにお前は俺にダメージを与えられるよ。でもな、俺に危害を加えたら、お前もやられるんだぜ。わかっているのか――


 ドッ、ドッ、ドッ、ドド。


――そうだろ。お前につべこべ言われる筋合いなんかないんだよ――


「鶏皮追加二本」


 心の中で、にやりと笑う。


 ドッ、ドドド。


――へへへ。不整脈をさせる以外に何もできやしないだろ。これからは俺の自由にさせてもらうから――


 不意に目の前がちかちかした。


 めまいだ。考える暇もなく、意識が飛んだ。


 次の瞬間目を開けると、天井と、心配そうな顔で見下ろす高村と大崎の顔が見えた。床にひっくり返っていたのだ。


「おい安川、大丈夫かよ」

「うん、ちょっとめまいがしただけだ。何ともないよ」

「今日はそのまま帰れよ。お前も五十近いんだから、酒を飲んでて突然死にでもなったらえらいことだぞ」


 カウンター席に座ろうとしたところを、高村がいさめる。


「そうですよ。注文キャンセルしときますから、今日は帰った方がいいですよ」


 店の大将もカウンターの向こうから出てきた。


「うん……。まあそうだよな」


 倒れた理由はわかっていたが、ここで言っても誰も信じないだろう。俺は詫びを言って店を後にした。


――お前、自分を止めただろ――


 歩きながら、心の中で心臓を怒鳴りつけた。


 ドッ、ドッ、ドッ。


――馬鹿野郎がっ、俺が死んだらお前も死ぬんだぞ。お前は一瞬止めただけのつもりかもしれないがな、脳がやられたらアウトなんだぞ――


 ドッドッドッドッ。


――笑ってごまかすんじゃねえよ。いいか、二度とこんなまねするんじゃねえぞ。危なくってしょうがねえや――


 ドッ、ドッ……。




                     5


 雨が降っていた。俺は傘を差し、いつものように会社へ行くため、駅へ向かった。台風が近づいているせいか、雨脚が強い。


――おい、今日はこんな雨だから、歩かないで全部電車に乗っていくからな――


 ……。


――へっ、無視かよ――


 焼き鳥屋の一件以来、俺と心臓の関係はぎくしゃくしていた。

 話しかけても、答えてくる回数が激減している。たまに反応しても、いかにも不満げで、もこもこした鼓動を感じるだけだ。

 これが他人だったら縁を切るか、しばらく冷却期間をおくのだが、体の中にいるのでそういう訳にはいかない。


――まあいい、俺とお前は一体なんだからな。俺も体調には気を遣うけど、お前も付き合いとかには妥協してくれよ――


 駅に着いて傘をたたむ。不整脈は起こらないので、電車に乗るのは容認したのだろう。俺は定期カードをかざして改札を抜けた。


 線路の向こう側にあるホームへ行くため、階段を下りようとしたときだ。

 胸に強烈な痛みが走った。左胸、心臓の辺りだ。


――おい、何するんだよ――


 胸を押さえながら、一方の手で手すりに掴まり、転がり落ちそうになるのを押さえる。

 全身から脂汗がにじみ出てきた。

 どうにか階段を降りきったところで嘘のように痛みが消えた。

 荒い息をしながら、ホームの椅子へ座った。


――心筋梗塞かよ。いいか、そんなまねしたって、結局はお前自身に返ってくるんだからな。わかっているだろうな――


 ドッドドッドッドドドッ、ドキン、ドキン、ドドドドドド、ドッ、ドッ――


 狂ったような不整脈が起き始めた。


――おいよせ、頼むから止めてくれよ。何をして欲しいんだ――


 思わず立ち上がった。不整脈が止った。正解らしい。


 再び締め付けるような痛みが襲った。胸を押さえ、思わず一歩進む。


 痛みが弱まった。一息ついたところで再び痛みがぶり返す。


――頼むよ。仲良くやっていこうぜ……。俺とお前は一体だって言っているだろ――


 一歩踏み出す。痛みが弱まったかと思うと、再び痛みがぶり返す。また一歩踏み出す。


 黄色い線まで来た。


――俺に何をさせたいんだよ――


〈間もなく、一番ホームを特急列車が通過します〉


――これ以上出たら、ホームに落ちちまうだろうが――


 次の瞬間、めまいがした。焼き鳥屋の時と同じだ。


 目の前が真っ暗になる。


 気がついたとき、俺は線路に落下していた。


 目の前に迫る特急列車。


 声を上げる暇もなかった。




                   6


 人身事故があった駅は騒然としていた。

 緊急停車した特急列車の先頭が、大きくへこんでいる。

 車両はもちろん、線路やホームにも血と肉片が飛散し、金臭い臭いが充満していた。

 ホームにいた客のうち、ある者は悲鳴を上げ、ある者は遠巻きにして、列車を恐る恐る見つめていた。

 駅員が、強ばった表情をして客に大声で指示していた。雨脚が強くなり始め、たたきつける雨粒が、列車に付着した血を洗い流していった。


 轢死体は車輪によって、腰の辺りで真っ二つに切断されていた。

 車輪とホームの間に、男の上半身があった。

 生前、安川と呼ばれていたその男は、驚いたように目と口を大きく開けたまま、自らの血と、電車から落ちる雨水で濡れている。


 胸が、痙攣したように上下に動き始めた。


 血まみれの内臓がはみ出た傷口の中で、何かが蠢き出す。


 赤い塊が抜けだしてきた。握り拳ほどの大きさで、表面はてらてらとぬめりを帯び、血管が浮き出ている。


 心臓だった。


 心臓は体を不器用に伸縮させながら、線路上にしかれた石の上を進み、ホーム脇にある側溝まで来た。

 雨水が勢いよく流れている。心臓はその中へポチャリと音を立てて落下し、姿を消した。


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― 新着の感想 ―
[一言] 心臓が意思を持つ……とても斬新だと思いました。 ホラーテイストなのがまたよかったです。
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