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均一世界のイレギュラー  作者: 長崎 光
7/22

 帰投した黒瀬は、浦賀少佐含め黒瀬の小隊以外の全隊員は死亡したこと、イレギュラーを破壊するに至らなかったこと、またアカネが錯乱し戦闘に参加できる状態に無かったことなど、全てをありのまま報告した。

 一体どんな叱責を受けるのだろうかと思っていたが、意外にも何の追及も無かった。

 それどころか、司令部からこのような任務を授かった。


『イレギュラーの破壊任務は一旦保留、今後は制御区・居住区間の警備に当たられたし』


 浦賀少佐ですらイレギュラーによって殺害されたと言うのに、破壊任務の保留とはどういうことなのか。区間警備も小隊毎に大門を交代で警備し、また大門さえ通さなければイレギュラーを破壊する必要はない。それどころか、破壊してはいけないとまで言われた。

 イレギュラーは元々隣接区間の大門に近づくことはしていなかった。制御区という居住区に極めて近い位置で頻繁に発見されていたものの、あちらから攻撃を仕掛けることはなく、また制御機械に何らかの細工を施す訳でもない。討伐隊が向かった場合にのみ、戦闘を行っていたのだ。

 つまり司令部は、何があってもイレギュラーに手を出させたくはないのだ。数日前までは余程破壊することに拘っていたにも関わらず、この掌返しである。

 司令部からの通信による伝達を終えると、黒瀬は共に報告に立ち会っていた鬼塚にその質問をぶつけた。


「何故、こんなにも突然破壊任務を取り止めたんですかね」

「簡単なことよ。イレギュラーの扱いを巡って、お偉いさん方が喧嘩を始めたのさ」

「喧嘩?」


 黒瀬が怪訝そうに聞き返すと、鬼塚は苦笑しながら答える。


「ああ、実に下らん喧嘩だ。イレギュラーという面倒臭い立ち位置の存在のせいで起きた、な」


 鬼塚の説明を纏めるとこうだ。

 イレギュラーは軍専用戦闘ロボット、オブシディアの脱走機である。元々オブシディアには、戦闘に活用できる程度の人工知能は積んであるが、自我を獲得して脱走を考えるようなシステムは無いはずだ。この原因については未だ不明である。

 通常のオブシディアならば神器所持者の一人でも差し向ければ簡単にスクラップに出来るが、その戦闘能力は先程目の当たりにしたばかりである。

 帝国軍はこれを脅威と判断し、佐官数名を動員してまで破壊しようとした。そこまでは至って普通の流れであったのだが。

 ここで、イレギュラーがオブシディアというロボットであることでの弊害が出てくる。

 オブシディアの製造・運用は帝国軍が行っているが、開発・研究はアカデミーが行っている。そのこともあり、オブシディアの扱いに関してはアカデミーも相当口を出せるようだ。

 そして今回、イレギュラーという異質な存在に対して、アカデミーは興味を示し、研究の対象としたいと言い出したのだ。そのために、破壊することでなく「捕獲」することでのイレギュラーの無力化を要求してきた。

 無論、帝国軍がそのような要求を受ける筈がない。佐官を凌ぐほどの戦闘力を持つ相手を捕獲するために、一体どれだけの手間と犠牲がかかるというのか。

 二者の意見は衝突しており、どちらも折れようとしない。よって一先ず議論の場を設け、イレギュラーに対しての対応を決定することとなった。

 その間、兵士達は交代制による警備…という体の、ほぼ休暇を貰うことになった。交代効率から考えても、三日に一回ほど、半日の警備を行うだけで良い任務だ。先程戦闘を終えてきた身からすると、何だか気が抜けてしまう話である。

 軍施設内に居た鬼塚と黒瀬は、休憩所に場所を移し、二人用のテーブル席に座った。


「折角休暇を与えられたんだ、ゆっくり休め」


 鬼塚は二人分のコーヒーカップを手に持って着席する。一つを黒瀬の前に置いた。


「はあ、別に休みが出来たところでやることもありませんがね」


 黒瀬はコーヒーに口を付けつつ返答する。


「何もするな、休めと言ってるだろう」


 鬼塚が握り拳で黒瀬の頭を小突く。黒瀬が大袈裟に痛がると、鬼塚は低い声で笑った。


「お前は頑張り過ぎだ。ガス抜きしないといつか破裂してしまうぞ」


 鬼塚もコーヒーに口を付ける。黒瀬は少し苦い顔をしながらカップを置いた。


「頑張っていたのは昔の話ですよ、今はすっかり萎んでます。仕事に対する熱意も何も無い」

「本当にそうか?」


 鬼塚は黒瀬の目をじっと見つめる。


「そうですよ」


 黒瀬はコーヒーの液面に目を逸らしながら答える。鬼塚はため息をついた。


「俺にはそうは見えんな。お前は昔ほど昇進に拘らなくはなったが…仕事に打ち込まなくなった分、他の事で頭が一杯になっているような感じだ。違うか?」


 鬼塚の追及を受けつつも、黒瀬の表情は相変わらず冷ややかだ。


「…そう見えますか?別に何もありませんけどね。強いて言えば『何も無い』がありすぎますけど」


 鬼塚が眉をひそめる。


「黒瀬、お前はたまに訳の分からないことを言うな」

「気にしないでください、癖なんです」


 黒瀬は誤魔化すようにカップを口元に持っていった。その様子を見ながら、鬼塚はふっ、と微笑んで言う。


「何にせよ、お前がいつも通りで安心した。イレギュラーとの戦いでの怪我も無いようだしな」

「腕をぶった斬られでもしない限り、一時間も経てば大体の傷は治りますよ」


 黒瀬は左手で腕を切り落とすジェスチャーをする。鬼塚は口を開けて笑った。


「だとしても心配させろ。それが上官の特権ってもんだ。…よく帰ってきた、黒瀬」

「ありがとうございます、大佐」


 初老の男と若い青年が、二人して笑い合った。端から見ればそれは、まるで親子のようであった。


「しかし、新世代計画の娘がそれだけポンコツだったとはな。後藤は今頃頭を抱えているだろうよ」


 鬼塚は楽しそうに笑いながら言う。

 そうか、アカネが失態を犯したならば、当たり前のように後藤少佐にも責任が行くのか。黒瀬はそのことを何故か失念していた。

 教え子がそんな有り様だと知って、後藤少佐はどんなことを言うのだろうか。黒瀬は出撃前のアカネの沈んだ表情を思い出す。

 しかし、直ぐにその妄想を振り払った。俺には関係の無いことだ。


「こっちとしては洒落になりませんよ。命が掛かっていますから」


 澄ました顔で黒瀬は答える。


「いざとなったら四肢を切り落としてイレギュラーに投げつけろ。人間の肉体は意外と堅いからな、それなりの殺傷力はあるかもしれん」


 至って普通そうに鬼塚が言う。

 黒瀬はうっ、と顔を引きつらせた。この人はたまに恐ろしいことを言う。


「どんな活用法ですか」

「炸裂弾を括り付けておけば、さらに破壊力増だ」

「それもう炸裂弾だけでいいですね」


 一瞬、骨が爆風で弾き飛ばされれば結構な威力になるかもな、とか考えてしまった自分が怖い。

 鬼塚が軽く咳払いをする。


「さて、冗談はここらへんにしといて、だな」

「冗談だったんですか。安心しました」


 半分本気の口調だったような気もするのだが。というか、過去に本当にやってないだろうな、この人。


「その娘が歩くことすら出来ない状態になっていたのは、恐らく精神的な面だろう。訓練所での数値的なデータでは優秀とされているし、仮にも後藤に育てられているのだからな」

「そこは評価しているんですね」


 黒瀬は意外そうに言う。


「相手の技量を正確に把握出来るのも、実力の内よ」


 鬼塚は何食わぬ顔で答える。しかし喧嘩するほど仲が良いとも言うし、意外とそういうことなのかもしれない。


「とにかく、まともに動けていれば役には立った筈だ。しかし、如何せんシュミレーションによる戦闘しかやってこなかった身だ。初戦闘でパニックになったり、恐怖で足が竦んだりするなど、考え付かない方がおかしい」


 確かにそれはそうだ。エリート兵士としての期待が持たれているのなら、そのことも重圧としてのし掛かってくるだろう。


「まあそこは、後藤でもどうしようも無かったんだろうよ。アカデミーと帝国軍が争っているのなら、一士官にどうにかできる話ではない」

「争ってる?」


 黒瀬はカップを置いて尋ねた。アカネのことについて、アカデミーと帝国軍の間で何かあるのだろうか?

 鬼塚は頷き、話を続ける。


「帝国軍は実戦に少しずつ慣らしていく方針だったんだが、アカデミー側の注文が多くてな。数値による具体的なデータが欲しいと言い、死なせるわけには行かないから実戦には出させなかった。そして戦闘に差し支えない年齢に達し、データも十分取れたら、今度は早く実戦で成果を上げさせろ、と、こういうことだ」

「酷いですね」

「ああ。頭が堅いという話では済まされんな。それでも帝国軍はアカデミーの言う通りにしてきた。新世代計画はアカデミーの主導で行うという取り決めであった上に、費用もあちらが負担しているからな。そうそう反抗することも出来ない」


 鬼塚は少し不機嫌そうになりながら言う。

 アカデミーと帝国軍は、様々な面で癒着しつつも対立しあう関係にある。お互いにもう少し仲良くなれば、効率良く物事をこなせるのだろうが。


「じゃあ、今回の合議では、その話も出てくるんですかね」

「出るだろうな。というか、その話がメインになるかもしれん。元々、帝国軍は多すぎる要求を疎ましく思っていた訳だからな。イレギュラーの件でついに堪忍袋の緒が切れて、アカデミーに抗議するために議論の場を設けたんだろうよ」


 鬼塚は難しい顔をしながら残りのコーヒーを飲み干した。

 黒瀬は腕を組んで頭を整理していた。アカネとイレギュラー、どちらもアカデミーと帝国軍に板挟みにされ、複雑な立場にあるという訳か。ならばその両方が関わっている今回の任務も、中々に異質なものになるだろう。今回、突然休暇が与えられたように。

 アカネ、イレギュラー、アカデミー、帝国軍。一つ一つが極めて扱いにくく、面倒臭い案件であるのに、それら全てが絡み合っているのだ。本当にやっていけるのだろうか。少し不安になってくる。

 そんな黒瀬を見やりつつ、鬼塚は立ち上がった。


「さて、俺はそろそろ行かんとな。将軍の御付きは暇じゃない」

「そうですか。お気をつけて」


 黒瀬が座ったままそう言うと、鬼塚は手を上げて返事をし、休憩所から出ていこうとする。

 が、暫くすると立ち止まり、再び黒瀬の前に戻ってきた。


「いつの間にか話題が逸れてしまっていた。伝えたいことがあったのだ」

「何ですか?」


 鬼塚は真剣な表情で言ってきた。黒瀬も姿勢を改めて聞く。


「新世代計画の娘のことだがな。精神的な弱さがあるのなら、お前がそこを補ってやれ。相方が使い物にならなければ、お前だって危険に晒される」

「補う?自分がですか?」


 鬼塚は頷く。黒瀬はいまいち納得しない表情で返す。


「そんな器用な事、出来ませんよ」

「しかしやらんと、何時まで経っても戦いすらしない人形のままだぞ?それに、お前休暇中やること無いんだろ?丁度いい暇潰しになるかもしれんぞ」


 黒瀬は露骨に嫌そうな顔をする。鬼塚は笑いながら黒瀬の肩をぼんぼん叩いた。


「出来る、出来る。お前はいつも仏頂面で、訳のわからないことを言って、感謝の言葉も棒読みだが、根は優しいということを知っているぞ」

「褒めてませんよね、それ」


 黒瀬の言葉に、鬼塚はさらに笑った。

 そして腕時計を見て、はっと我に返る。


「ああ、もう時間が無いな。じゃあな黒瀬。精々部下の教育を頑張ってくれ」


 黒瀬が言葉を返す暇もなく、鬼塚は休憩所を出ていってしまった。

 静かな空間に一人残された黒瀬は、コーヒーの液面を揺らしながら、鬼塚の言っていたことを反芻していた。



―――――――――――――――――――――――――――――



「買い物に行くぞ」


 一言目がそれだった。

 有無を言わさず、黒瀬はアカネを街に連れ出した。アカネはすべきこともやりたいことも無かったので、断る理由も無かったのだが。

 任務中の失態について、アカネは誰にも何も言われていなかった。帝国軍のシステム自体あまり良く知らないが、恐らく黒瀬に対して何らかの注意があり、その上で自分に何かお叱りの言葉があるのだろう。そう思っていた。

 任務中断の命が出てから、一夜が明けていた。休暇を与えられたアカネは、一先ず黒瀬の指示を待つことにしていた。朝起きて身支度を整えると、部屋の中でじっとする。

 謝罪の言葉を脳内で用意し、何度か口にも出して練習し、軍用宿舎のベッドの上に正座してひたすら待っていた。ドアをノックされた時は飛び上がって驚いたし、ドアを開けて黒瀬の姿を見るときなどは、再び震えが戻ってくるのではないか、と思ったほど緊張した。

 だが、アカネが何かを言う前に、その台詞が飛んできた。アカネは何を言われているのか分からなかったものの、連れていかれるがままに階層間エレベーターに乗っていた。

 エレベーターがD地区に止まったところで、黒瀬は出入口に向かった。慌ててアカネも後を追う。

 D地区は食と娯楽の集められた地区である。日頃の疲れを癒すのにも、腹を満たすのにも、暇を潰すのにも便利な場所だ。長期休暇などではもちろん混むが、一般人にとっては今日は平日なので、それなりに空いてはいる。昼前なので、むしろ腹ごしらえのために訪れている労働者が多い印象だ。

 黒瀬は大通りをずんずん歩いていく。アカネも、困惑しながら一緒に歩いていく。

 黒瀬の横に追い付くと、アカネは黒瀬の顔を見上げながら尋ねた。


「あの、少佐殿。どうして自分も一緒に行くんですか?」


 黒瀬は目線だけアカネの方に向ける。


「何か都合が悪かったか?」

「いえ、そういう訳じゃないですけど…」

「なら問題ないな」


 再び前を向き、歩き続ける。アカネは釈然としないまま、それでも付いていくしかなかった。

 黒瀬は素朴な外観をした雑貨店に入っていった。



―――――――――――――――――――――――――

 


 困った。

 励ます手段が全く思い付かない。

 元々、自分はこんなことに向いていない。人付き合いも積極的にしてこなかった。自分の知り合いなど、仏頂面で無言の男に関わろうとする物好きばかりであった。そんな物好き共はそう簡単に落ち込んだりしなかったし、仮に落ち込んでも一晩経てば忘れているような奴等ばかりだった。

 思えば、知り合いに対して自分から何かしらのアプローチをしたことは一度として無かったのかもしれない。じっとしていても構われてばかりで、構って貰おうとしていなかったのだろうか。

 アカネを元気付けるにはどうしたらいいか。とりあえず飯を食わせるという案が最有力ではあるが、まだ時間的には少し早いし、かといってどう暇を潰せばいいのか。

 ショッピング。女子相手ならそうするのが一番ではあるか。しかし、世間に出たことの無い彼女が果たして何を欲しがっているのか、皆目見当がつかない。

 そもそも自分は、女子のショッピングというものがどういうものなのかよく知らない。アカネはもちろん知らないだろうし、二人揃って呉服店の中をオロオロと歩き回るのは辛い。士官学校時代にもっと人付き合いをしておくべきだったか。

 結局、自分の生活雑貨を買うためにどうでもいい店に入ってしまった。いや、ここはここで中々の穴場であり、それなりに通いつめている場所でもあるのだが。

 しかし、こんなことをしている場合ではない。こんなこととは、様々な種類のペン立てを眺め、どれが最適か吟味することである。

 ちらとアカネの方を見てみると、居心地悪そうに店内をうろついている。たまに商品を手に取ったりしながらも、何をするでもなく、すぐに元の位置に戻してまた動き出す。そんなことを繰り返していた。

 黒瀬はペン立てを握りしめながら首を振る。駄目だ、何をやっているんだ俺は。これではアカネを困惑させているだけだ。

 とりあえず、一旦この店からは出てしまおう。少し勝手が分からなくとも、もっと女の子の行きそうな店に行かせてやろう。

 そう思い、とりあえずアカネのいる方向に向かおうとする。その時、ふと目に留まった物があった。


 アカネはメモ帳の並べてある陳列棚の前で立ち尽くしていた。訓練所を出た時に少しばかりの生活資金は貰ったが、特に買いたいものも無く、ただ商品を見つめるだけである。

 ふと横を見ると、黒瀬がこちらに向かって歩いてきていた。


「少佐殿…」


 アカネは声を掛けようとしたが、口の動きが止まる。黒瀬はアカネに近づくやいなや、手をアカネの頭に向けて伸ばしてきたのである。

 アカネは反射的に肩をびくつかせ、怯えたように目を閉じた。はたかれるとでも思ったのか、自分でもよくわからないが、それほどまでに今の自分は臆病になっていた。

 しかし、黒瀬の手は優しく髪をかきあげ、何かの細工をしている。アカネは不思議に思いつつも、そのままじっとしていた。黒瀬が髪から手を離すと同時に、目を開けた。

 黒瀬は、驚いたような顔をしていた。

 そして実際、驚いていた。

 黒瀬は偶々目に留まった商品のヘアピンを、アカネに着けさせてみたのだ。花の飾りがあしらわれたもので、少し安っぽくはあるものの、ひとまえで着けるのに十分なほどの可愛らしさはある。

 それは本当に気まぐれでやったことで、特に意図があったものではなかったのだが。

 ヘアピンを付けるだけで、自分の部下である特務少尉は、只の一人の女の子になっていた。少なくとも、自分の眼にはそう見えた。

 愛嬌があるというのか、華やかさというべきなのか。表現の仕方はわからないが、ともかく「一兵士」としてではなく「女性」としての印象を強く受けたのは、これが初めてだったかもしれない。

 暫くの間見つめていると、アカネは訝しんで自分の頭をぽんぽんと叩く。やがてヘアピンが着けられていることに気がつくと、少しばかり頬を赤く染める。


「なっ、なんですかこれ」

「ヘアピンだ」

「そんなこと分かってます!何で自分にこんなものを着けているんですか?」

「何となくだ」

「何となく…」

「ああ」


 黒瀬は少女の姿を未だ視線から逸らしていなかった。


「うぅ…」


 アカネはもじもじと落ち着かなそうにしながら、それでもヘアピンを自ら取ったりはせず、見られるがままになっていた。

 やがて黒瀬は、アカネの髪からそっとヘアピンを取り外した。アカネはそれを、少し名残惜しそうに見ていた。


「やるよ」

「え?」

「買ってやるよ、これ」


 言うが早いか、黒瀬は会計に向かおうとする。アカネは焦ってその手を取った。


「だ、駄目ですそんなの!」

「気に入らなかったか?」


 黒瀬は平然としてそう言う。一方のアカネは動揺を体全体で表現しているかのように、あたふたとしながら返す。


「いや、そうじゃないんですけど…少佐殿に買ってもらうなんて、そんなこと出来ません」

「遠慮するな。というか、遠慮するほどの値段でもない」

「でも…」

「俺の勝手でやってることだ。気に入らなかったら着けなくてもいい。とにかく、受け取るだけ受け取っといてくれ」


 反論する暇もなく、黒瀬は再び歩き出した。アカネは何か他の言葉を考えるが、思い付かない。黒瀬の背中を見送るだけである。

 アカネはこの状況に何か既視感を覚えつつも、最終的には黙って付いていった。


「…」


 ふと、アカネは自分の前髪を撫でた。

 大きな手の触れた感触が、まだそこに残っていた。



――――――――――――――――――――――



「…」

「…」

 目の前でポチャン、と音がした。池で魚が跳ねたのか、石が落ちたのか、鳥が水面を叩いたのか…いずれにせよその音は確かに鳴り響き、二人の間の沈黙に割って入っていったのだった。

 休日の公園、昼時を過ぎようかという時間帯。運動する老人や、野原で遊ぶ母子などを横目に、アカネと黒瀬はベンチに座っていた。

 昨日の激戦が夢のように感じられるほど、長閑な光景。この空間では、時の流れすら遅くなっている気分になる。

 日差しが眩しく感じられるほど、空は快晴となっている。黒瀬は池の水面に反射する光を、何を考えることもなく見つめていた。

 ふと、横にいるアカネの方を見やる。アカネもこちらを向いた。視線はぶつかり合い、アカネは慌てて俯いた。

 アカネは先程まで黒い軍服姿を身に纏っていたが、今は違う。いや、むしろ全く逆の印象を受ける格好をしている。

 結局ヘアピンを購入した後、黒瀬はアカネを連れて大きな百貨店に向かった。その中にある、若い女子に人気と聞いた洋服店に行き、自分では勝手が分からないので、店員に「こいつに似合う服を頼む」という至極雑な指示をした。

 店員は最初は少し戸惑っていたものの、「幾らでも金を出しそう」という雰囲気を感じ取ったのか、意気揚々としてアカネに色々な服をオススメし出した。アカネは店員の勢いに押され、終始戸惑っていた。

 金は余っていた。軍の中で階級だけが上がっていって、しかし最後には何もかも失った黒瀬は、何をするでもなくただ腐っていた。残ったのは金と地位だけだ。

 しかしまあ、アカネのために有効活用出来るのなら、ある程度の浪費は構わないか。そう思っていた。

 最終的に選ばれたのは白のワンピー スだった。もともとアカネは端正な顔立ちをしていたので、可愛らしいヘアピンも相まって、さながらお姫様といった格好だった。

 アカネは恥ずかしがって「こんな服装は自分には似合わない」と喚いていたものの、黒瀬が即決で購入し、そのままの格好で街中に出てきた。

 黒瀬は最初から普段着だったが、軍服と見違えるほどの黒い格好だったので、白黒の二人が並んでいる姿は結構おかしかったかもしれない。

 黒瀬の左、アカネと反対側の位置に、紙袋が置いてあった。アカネが洋服を選んでいる(選ばされている)最中に買ってきたものだ。

 手持ち無沙汰になった黒瀬はそれを膝の上に乗せ、中から中華まんを取り出した。一つをアカネに手渡す。アカネは素直に受け取るも、口に運ぼうとはせず、ただ手に持ったそれを見つめている。

 黒瀬はそんな様子のアカネを見つめ、自分の分は取り出そうともせずにじっとしていた。

 暫くして、アカネが小さな呟きを口にした。


「…自分は、謝らなくてはいけません」

「そうか」


 黒瀬は淡白な口調で答えた。アカネは緊張した面持ちで、息をすぅと吸い込んだ。


「昨日の任務中、突然取り乱したこと…大変、申し訳ありませんでした。…次は、このような事がないよう、努力します」


 黒瀬は答えない。アカネにはそのことが、無言の圧力のように思えて怖かった。加えて、自分の言っていることが幼稚なような、浅はかな反省の弁なのではないか、と思えてきた。しかし言葉を継ぎ足そうとしても、自分の単純な頭では気の効いた文句は出てこなかった。


「あの、どんな厳罰でも受けます。だから、その…」


 その声は、末尾に向かうにつれ震えを増していった。


「見捨てないでください。自分には人並み以上の戦果が期待されていて、人並み以上のお金が掛かっていて、でも人並み以下の扱いを受けることしか出来ないって…分かってます。ですけど…お願いします。もう一度、チャンスを下さい。次こそは活躍してみせます。出来損ないの兵器なりの役割を果たしてみせます。…お願いします」


 そして最後には、懇願にも似た言葉が出てきた。

 黒瀬は無言のまま目を閉じ、暫し考えるような姿勢を保った後、目を開けてこう言った。


「出来損ないの、兵器…誰かが、そう言ったのか?」


 その返答は、アカネの予想していたものではなかった。


「い、いえ…自分の思う、自分を表現するのに最適な言葉かと…」


 戸惑いながら答える。黒瀬は深くため息をついた。


「…君は、俺が服を買ってやった意味を理解しているか?」


 アカネは心にズキリと痛みを感じた。しまった。服を買ってもらったこと、それ自体が何かを意味することだったのか。てっきり、自分の為にプレゼントしてくれたものなのかと、そう思ってしまっていた。

 悲痛な顔をするアカネに対し、黒瀬は半ば呆れたような声を出す。


「あー…あー、少尉、またとんでもない勘違いをしているだろ」

「はっ、はい!申し訳ありません!自分の為に買ってもらったものだと、自惚れてしまって…」

「いや、だから、それが勘違いだって…ああ、面倒くさい」


 黒瀬はアカネの肩を掴み、自分の方を向かせた。俯いていたアカネの顔が上がり、黒瀬と目が合う。再び目を逸らそうとするが、今度は顔を両手で挟んでロックした。


「いいか、よく聞け」

「はい…」


 アカネが抵抗しないことを確認すると、黒瀬は手を離した。


「俺は、君に服をプレゼントした。これは何かを暗示するものだとか、君を試していたとか、そういうことじゃない。単純に、君に普通の女の子らしい服装をして欲しかったからだ」

「は、はい…?」


 アカネは全く理解できていない、という顔をする。黒瀬はじれったそうに少し唸りながら続ける。


「あー…えーと…だからな、俺が君に望むことは…何て言うんだ…?」


 黒瀬は暫く考え込み、自分の心の内を整理しようとした。文章の形になってきた所で、口に出す。


「君に、君自信の価値を理解して欲しいんだ」


 自分自身の、価値。その言葉はアカネの心に入り込んでくるようで、しかしするりと抜けていってしまった。つまりそれは、どういうこと?


「価値、ですか?自分は帝国軍の士官を補佐して戦闘に役立つことで…」

「ああ、分かった。分かったからちょっと黙ってろ」


 アカネの鬱陶しいほど整然とした言葉を、黒瀬は遮った。

 どんな言葉を言えば、理解してくれるのだろうか?この娘の心に届くのだろうか?分からない。

 普通の人間の心を変えることだって難しいのに、何故このような境遇の者の心を易々と救えるだろうか。

 そもそも自分は、人の心に立ち入ることなど殆どしてこなかったというのに。自分に出来ることとは何なのだろうか。何をするべきなのだろうか…。


「そのワンピース、よく似合っている」

「ふぇっ」


 結果、出てきた言葉はそんなものだった。

 アカネの顔がみるみる内に赤く染まっていく。


「な、何を言ってるんですか…」


 アカネの顔は段々と俯き加減になっていく。

 それでも、黒瀬は伝えたいことがあった。


「そのワンピースの白さに負けないくらい、君の肌も白く綺麗だからな。髪の朱さも手伝って、姿が輝いて見える」

「うぅ…」

「美しさのなかで、そのヘアピンもいいアクセントになっているな。端から見れば軍人などとは思えない。只の可愛らしい女の子だ」

「うううぅ…」


 アカネの顔は既に噴火寸前、といった風にまで赤くなっていた。必死に言葉を紡いでいた黒瀬も我に返り、少し気恥ずかしくなる。一つ咳払いをすると、再び切り出した。


「あーつまりだな、君の価値を測ることができるのは、兵器としての価値だけじゃない。人間として、もっと君は魅力を持っている。…そのことに気付け」


 アカネはその言葉を聞いて、心臓が固まったような感覚を覚えた。それと同時に、何か熱いものが胸の奥に生まれたような気がした。


「でも…私は造られた人間ですから。普通の人間じゃ…」

「普通の人間だ」


 尚も反論しようとするアカネに対し、黒瀬は言葉を被せる。


「いやむしろ、普通の人間よりももっと人間的だ。帝国軍の士官達は、皆昇進を目指してただひたすらに学び、謀り、戦い…盲目に、一心に進み続ける。餌を運ぶ蟻の行列のように、文句一つ言わず従い続ける。君はそんな奴等より、よっぽど人間的だ。旨い飯を食って、壊れるくらい笑って跳び跳ねて…それは紛れもなく、君のかけがえのない個性だ。人間としての価値だ」


 アカネは、反論する言葉すら浮かばなかった。ただ、黒瀬の言葉の一つ一つに、心臓を強く打たれている気分だった。

 黒瀬は、アカネを見つめながら続ける。


「少尉、君は任務中の失態について、どんな厳罰でも受けると言ったな?」


 アカネは無言で頷いた。


「俺は、君に何の罰も与えない。無条件で君のことを許そうと思う。何故だか分かるか?」


 アカネは首を振った。


「自分の犯した何らかの罪が誰かを傷付けた時、それを無償で許すことが出来る場合がある。…それは、相手が自分を愛しているときだ」


 愛。アカネの知らない言葉が、黒瀬の声を通して心に響く。


「自分の愛する家族が、親友が、恋人が犯した罪を、人は無条件で許すことが出来る。…少尉、君は覚えているか知らないが、顔合わせの時こう言ったな?『愛する部下の為に』と」


 覚えている。興奮状態の中で口走った戯言。


「分かった。俺は君を愛して、愛する部下の為に罪を許そう。だからもう、何も気負うことはない。だからもう、自分のことを蔑んだりするな。君は君らしく在れば良い。それこそが君の価値であり、俺が君を愛する理由だ」


 アカネは、胸の奥の熱さを抑えることが出来なくなった。爆発した感情は、雫となって瞳からこぼれ落ちた。

 自分の中に、初めて生まれた感情だった。自分の価値。個性。愛。知らない。しかし何故だか、ずっと求め続けていたもののように感じた。


「もう冷めているだろうが、さっさと食べてしまうぞ」


 黒瀬は紙袋から中華まんを取り出してぱくついた。アカネはすっかり冷めたそれを握りしめながら、昨日とは違う熱さの涙を流し続けた。

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