熱
ずっと、狭い世界に暮らしてきた。
自分にあるのは、教官と仲間達だけだった。
作為的に生まれさせられた自分達は、権利というものを主張することが出来なかった。
指示されるがままに、様々な事を学んできた。自分達が得ることの出来た知識は偏ったものだったが、気にはしなかった。それが自分のやるべきことならば、喜んで受け入れた。
ただ目的を与えられたかっただけなのかもしれない。何かを与えられなければ何も出来ない自分は、本質的に空っぽだ。自分というものを満たしてくれるのなら何でも良かった。
教官の存在は絶対だった。訓練所という閉鎖空間の支配者であり、自分達の存在意義を確かめさせてくれた。
教官に叱られる、幻滅される、果ては見放される。それはそのまま、自分がこの世の中に不要になるということを示していた。
自分はすぐに周りが見えなくなって、一人で楽しくなってしまうタイプだから、教官にも目を付けられていた。叱られる度に、必死になって失敗の分を取り戻そうとした。
自分にとって戦闘とは存在意義であり義務であったが、今まで一度として実戦に出たことはなかった。実験結果である自分達を早々に殺すわけにはいかないだとか、さっさと戦闘能力を測るべきだとか、アカデミーと軍の間での意見の食い違いが起きていることが原因らしい。
もうじき訓練所を出るということが分かった時には、戦闘への参加が可能になるということ以外にも多くの感情をもたらした。
その通達が来た日の夜、共に訓練を受けてきた仲間達と、これからのことについて語り合った。
希望に満ちた顔をした者など、一人も居なかった。どれくらいの戦闘を繰り返したら死ぬだろうか、上官からどんな扱いを受けるのだろうか、訓練所と外のどっちがマシなのだろうか、そんな話ばかりだった。
だが、何故かその空間には笑顔が溢れていた。酷すぎる未来予想を、馬鹿笑いしながら話していた。全員が未来に希望を持っていなくとも、そこにいた者達は不思議な繋がりを持っていた。
造られた人間達の繋がり。自分という存在自体に強烈なコンプレックスを持つ者達の、家族にも似た連帯感だった。
初任務、初顔合わせ。怖い顔をした強戦士が上官になるのだろうと思っていたが、意外にも割りと細身の若い男性だった。
不思議な人だった。真顔で人を貶したり、冗談を言うような人だった。
怒られた。謝った。笑った。追いかけた。
…名前を、付けてもらった。
大切にしようと思った。誰かから何かを貰うなんて経験は、今までに一度も無かった。
名前は人につけるものだ。戦闘ロボットにつけるものではない。
自分は初めて、人間として認められたのだと感じた。
だから、浮かれていたのだ。自分の本領も忘れて、つい子供のような振る舞いをしてしまった。
教官に見られていたのは、むしろ幸運だったと思う。宙にふわふわ浮いているような自分の心を、がっちりと地面に縛り付け直してくれた。
『先ほどの少佐に対する態度は何ですか?立場が上の者であるということに関しては、私と変わりませんよ。あなたは、訓練所であのような態度を私にとっていましたか?』
そうだ。少佐だって教官と同じようなものなのだ。まだ任務が始まっていないから分からないだけだ。
心の奥底で何となく、失敗をしたとしても少佐ならば許してくれるのではないか、と思っていた。それは大間違いだ。
自分が失敗をしたら少佐の面子も潰れる。場合によっては命を危険に晒してしまうかもしれない。そんな状況で無条件に許してくれる人など居ない。
当たり前だ。常識だ。訓練所ではずっとそうだったのだ。何故忘れていたのだろう。
やらなければ。勝たなければ。撃たなければ。生きなければ。役に立たなければ。
重圧が、痛いほどに心を締め付けた。ライフルを握る手が震えているのを感じていた。
初めての実戦だった。訓練通りにやれば大丈夫。そう心を落ち着かせて臨んだ。
しかし目に映ってきたのは、訓練とは程遠い、血生臭い戦場だった。切断され、血を噴き出して地に崩れる肉塊を見ながら、身体の震えは更に大きくなっていった。
戦場を荒らし回る赤い悪魔を見つめながら、アカネはライフルを発射した。訓練ならば確実に当たっていたであろうその射撃は、いとも簡単に避けられてしまった。
驚愕した。「何故?」その言葉が脳内を支配した。
そして、自分にとっては身近である感情があった。
怖い。
『私と変わりませんよ』
教官の声が更に心を締め付ける。失敗した。失敗した。失敗した。
こんなことをしているのを見られたら、教官には確実に怒鳴られる。幾度となく経験したことだった。
では、少佐はどうなのか?もしかしたら笑って許してくれる?
『変わりませんよ』
その言葉は呪いのように自分の身体に巻き付いた。
そうだ。許してくれる筈がない。自分の命を危険に晒された上で、怒りを覚えない上官が居るだろうか。命の危険とまでは言わなくとも、手柄が取れなければ同じことだ。
あるいは、自分が一端の軍人だったならば。普通に生まれ、士官学校を卒業し、自らの意思で軍に入った者だったならば、そんなことは無いのかもしれない。失敗は失敗として、叱られたり罰を受けることはあるだろうが、それだけだ。
だが自分は人間ではない。人間のように造られた失敗作。戦闘にしか生きられないただの兵器だ。
敵を殺せない兵器が許されるだろうか?弾を発射できない拳銃は戦場に必要だろうか?紙すら切れない刀が役に立つのだろうか?
否。そんなものは要らない。
そんなものは、さっさと廃棄してそれで終わりだ。
怖い。死という未知の概念に晒されていることが怖い。
怖い。自分がこの世から見捨てられることが怖い。
怖い。怖い。怖い。嫌だ。
《おい!少尉!返事をしろ!》
「えっ?あっ…はい」
突然耳に入ってきた通信に、ぎこちない返事を返した。口もふるえていて、上手く言葉が出てこない。
《武器を持ち替えろ!奴が近付いてきている!マシンガンかショ……!…》
奴。敵。イレギュラー。
前を見ると、先程の赤い悪魔が自分に向かって迫ってきていた。
それがトリガーとなった。
アカネの脆い心は、呪いと恐怖による二重の締め付けにより、粉々に砕け散った。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「少尉!」
最早届かぬと分かりつつも、黒瀬は呼び掛け続けた。
自らの持てる力を振り絞り、ひたすら走り続ける。
ワイヤーを使って立体的に動くイレギュラーは、黒瀬の全力をもってしても追い付けないほどの速さだった。あと十秒経たない内に、奴はアカネの所に辿り着く。
イレギュラーはワイヤーを回収し、腕部に収納した。勢いは十分である。このままアカネに特攻するつもりだろう。射撃武装の豊富なアカネなら迎撃手段も数多くあるだろうが、意識がきちんとしているかも分からない今の状態では、何も出来ないだろう。
「少尉!どうしたんだ!」
黒瀬は携帯端末に向かって叫び続ける。返事は無い。
唇を噛み締め、姿勢を低くしてとにかく走った。刀も既に納めている。焦りと不安に支配される脳内を押さえ付けて、必死に身体を動かした。
空中で、イレギュラーが両手を突き出した。黒瀬は、先程のカラクリだらけだった身体を思い出す。
―あそこにも銃口が備わっているのか!?
黒瀬はハンドガンを手に取ろうとする。動いている状況では狙うことは難しいが、何もしないよりはマシか。
そう思った時、イレギュラーが動きを見せる。奴が手を向けたのはアカネに対してではない。しかし、黒瀬に向けた訳でもない。
イレギュラーは両手を自らの左下、右下にそれぞれ向け、発砲した。段差の壁に、釘のような鉄の棒が突き刺さった。
黒瀬はその意味を一瞬理解しなかったが、直ぐに悪寒を感じ、飛び上がった。
離れた場所で対面するように設置された日本の棒は、やがて起動音とともに輝き出した。そして、黒瀬が近づく頃には既にそれは出来上がっていた。
電流?熱線?分からない。だが、棒と棒の間に、バチバチと音を立てて光る光線が造り出されていたのだ。
間一髪、黒瀬はその光線を飛び越え、前転してそのまま走り続けた。あと一瞬でも反応が遅れていれば、自らの身体は胴から上と下に切断されていただろう。
やはり、本命をアカネと見せかけて、神器を持っているであろうこちらを処理する算段だったか。事前にそのことを頭に入れておかなければ、今頃は死んでいたかもしれない。
イレギュラーが空中でこちらを見やった。クヒッ、と少し笑うと、腰に装着していた血塗れのブレードを手に取り、アカネの方に向き直った。
「少尉!頼む、返事をしてくれ!」
懇願するような叫びは、制御区の暗闇に消えていった。イレギュラーはブレードを振りかぶる。
「まずはァ、てめぇからだァ!」
黒瀬は脳漿が沸騰するような感覚を覚えた。駄目だ。やらせてはいけない。絶対に殺させるものか。
自らの刀の鞘に手を当てると、イレギュラーとアカネの間の真ん中の位置に狙いを定める。
「灼き斬れ…『紅蓮』」
そして、その刀の銘を口にした。
「なァッ!?」
イレギュラーは、左手に握られたブレードがアカネの肉体を切り裂くことを確信していた。しかしそれは叶わなかった。それどころか、自分の身体は衝撃によって吹っ飛び、宙を待っているのである。
ワイヤーをどこかに引っ掛けようと手を伸ばす。しかし、思わぬ場所に段差があり、また高度の把握が上手くいっていなかっただめ、ワイヤーを射出する前に床に激突した。その反動で再び浮き上がり、ついには屋上から投げ出されてしまった。
黒瀬はアカネのすぐ横に転がった。神速の突進による攻撃。上手くいくかは五分だったが、それでも執念で直撃させた。
刀が神器。イレギュラーの読みは正しかった。刀身にしか神器の能力が及ばないというのは半分間違い。刀自体に限定するのならば、刀身にしか能力を及ぼす意味がないというのが正しい。
日本刀の神器、紅蓮の能力。物質に超高温の炎を纏わせる。
短距離ならば炎を噴射することも可能である。それを利用することで、刀の先端から業炎を噴き出し、ブースター代わりにして飛んだのだ。
初っ端のハンドガンも、弾丸に紅蓮の能力を乗せたものであった。マシンガンでも同じような事が出来なくはないが、まず精神力が持たない。
紅蓮の真価は刀身に熱を宿した時に発揮される。弾丸やその他の物に熱を宿した時とは、比べ物にならないほどの熱を生み出し、赤く光るその刀身でもって、鉄も合金も神器を持つ者の身体も、問答無用で溶かし切る。
当たれば必殺。この刀で斬れぬものはない。
…不覚にも今回の戦いでは、それを生かしきれるチャンスを作ることが出来ていないが。
黒瀬は起き上がると、床にペタンと座り込んでいるアカネに声を掛ける。
「…少尉、損傷は無いか?」
返事はない。
「少尉」
黒瀬はアカネに向かって歩み寄る。正面に立つと、アカネは涙をボロボロと零しており、目は虚ろで、手はだらんと垂れてライフルを握れていない。
黒瀬はアカネの肩に手を置くと、彼女の目を見て声を掛けた。
「アカネ」
何かに弾かれたように、アカネの身体がビクンと反応した。次第に目の焦点が合っていき、黒瀬と目が合った。
「大丈夫か?」
アカネは呆然としていた。何が起きているのか訳が分からない、という感じだった。
周りを見渡し、ライフルを見つめ、黒瀬を見つめ、あ…と呟いた。
「少…佐…殿…?」
「ああ、俺だ」
アカネは暫くの間黒瀬と見つめあっていると、突然気がついたようにライフルを握った。そして辺りをしきりに警戒しだす。
「あ…あいつは…イレギュラーは…」
そして立ち上がろうとしたところで、再び崩れ落ちた。足が震えて、身体を支える事すら出来ない。
「奴は屋上から落ちた。だが直ぐに上がってくるだろう」
そこまで言うと、黒瀬はアカネの膝下と背中に手を回し、持ち上げた。アカネが何か言う前に段差から飛び降りると、そのまま走り出す。
屋上から屋上に跳び移っていく。神器の力があれば大したことではない。
アカネは黒瀬に抱き抱えられながら言う。
「なっ、何してるんですか!?」
「逃げる。今のままでは奴には勝てない」
前を向いたまま黒瀬が答える。その表情は変わらず冷淡だ。
「でも…あ…う…」
抗議をしようとしたアカネは、しかし言葉に詰まってしまう。
分かっている。自分が足手まといだから、勝てないのだ。自分を庇いながらの戦闘が不可能だと判断したから、敗走する羽目になっているのだ。
それなのに、何故抗議など出来ようか。
心臓の奥から、不快などす黒い塊が込み上げてきた。そうだ、負けたのだ。全ては、自分が役に立たなかったせいで…。
アカネは両手で顔を抑えた。先程の恐怖とは違う意味合いで、身体が震えていた。
風を切る音の中で微かに聞こえる嗚咽のような声。黒瀬は前を向いたままで、ひたすら走り続けた。