鬼
前話からの変更点
・大幅にレイアウトを変更しました
「…こいつか」
暗闇の中、懐中電灯で照らされた棚から一つの物体が取り出される。
男の手に握られたそれは、固く密封された瓶。紙テープが表面に貼られ、何やら文字が書かれている。
『実験体A 二号』
その文字を確認すると、思わず笑みが零れた。
まさか、ここまで上手くいくとは。
成宮良治、三十年の人生の中で一番のお手柄だ。
「おい成宮、そっちは見つかったか?」
右方向から、鷺森の声と共に懐中電灯の光が当てられる。鷺森の手には、分厚い文献があった。
「ああ。そっちも上手くいったようだな」
「あとは西野だけか」
鷺森と成宮は棚が平行に何列も並べられた空間を抜け、隣の部屋へ向かった。
大型コンピューターやモニターが幾つも並べられた部屋に出る。
奥の方で、ガタガタと何かを弄る音が響いていた。
「おい西野、まだ見つからないのか?」
「あ、はい、もうすぐで…ありました!」
机の裏に蹲っていた西野が、立ち上がって右手を突き出してくる。机の中の引き出しを漁っていたらしい。
その手には、小さな記録媒体が握られていた。
「よし、これで全部だな。軍人共を騙すのももうそろそろ限界だ、行くぞ」
「ああ」
「はい」
成宮の声に、鷺森と西野が反応する。
ドアを開け、廊下に出た。真っ暗な部屋の中と違い、薄暗いながらも照明が点いている。成宮を先頭にして、三人は一列になって廊下を歩いていく。
「実験結果」の受け渡し役として頻繁に出入りしていた成宮ならば、この区画の地理は大体把握している。幾つもの角を曲がりながら、三人は進んでいった。
「意外と簡単に終えられましたね」
西野が呑気な声を上げた。
「…お前、よくこの状況で声を出せるな。仮にも軍施設の中の廊下だぞ」
鷺森が渋い顔をして反応する。
「でも、誰にも聞こえてないんでしょう?」
「そりゃ、そうだが…」
そう、この声は誰にも聞こえていない。だからこそこのような堂々とした行動が起こせたのである。
「けど、始める前に一番ビビってたのはお前じゃねぇか」
「そ、それは、本当に見つからないのか怖かったからで…え?」
「あ?何だよ……っ⁉」
最後尾を歩いていた西野の足が止まり、鷺森の後方を見上げる。
西野の方を向いていた鷺森も釣られてそちらを見やり、そして息を飲んだ。
先に気づいていた成宮は、二人が足を止める前から無意識に息を殺していた。
三人の前に、明らかに警備用のものとは一線を画しているロボットがいた。
大きさは普通の者より一回り大きく、全身が黒塗りにされており、装着している武装も警備用とは比較にならないほどゴツい。
軍事用ロボット、オブシディア。
ゴッ、ゴッ、と足音を立てながら、三人に近づいてくる。
三人は急いで壁際に寄り、できるだけ体を壁に密着させた。
ゆっくり、ゆっくりと、目の前を黒い兵士が通過していく。
心臓の音が、耳で直に聞こえるくらいに大きくなっていた。
ゴッ ゴッ ゴッ
ドクン ドクン ドクン
拍動と足音が、違うリズムで響いてくる。混乱と緊張で、どうにかなってしまいそうだ。
…まだか。
……まだか。
早く、終わってくれ。
必死に祈りつつ、時が経つのを待つ。
やがてロボットは通り過ぎ、その背中が見えるほどの位置になった。
成宮達が先ほど通った曲がり角に差し掛かると、決まった順路でもあるのか、どちらに行くか迷うこともなく曲がっていった。
その姿は見えなくなり、足音も小さくなっていく。
三人は、やっと安堵の息をついた。
「…見つからないと分かってても、怖えーもんは怖えーな」
「僕、オブシディアなんて初めて見ましたよ」
鷺森と西野が各々感想を漏らす。成宮は何度かオブシディアを見たことがあったが、やはりこういう場面だと威圧感が違う。
成宮は深呼吸を一つすると、二人に向けて言った。
「…さあ、あんなのに一々時間を食ってたらいつまで経っても帰れないぞ。先を急ごう」
二人は頷き、一行は再び行進を始めた。
それからは、スムーズに歩みを進める事が出来た。
三人とも、先ほどオブシディアに見つからなかった安心感からか、別のオブシディアと遭遇してもそれほど動揺することなくやり過ごす事が出来た。
たまに見かける下っ端の警備兵など、最早恐るるに足らない。途中からはほぼ小走りで、施設内の廊下や階段を突っ切っていく。
やがて、細長い廊下が終わり、大ホールへ抜けた。このホールを抜ければ、外への抜け道が隠された部屋へと到着する。
ゴールまで、あと一歩だ。
浮つく心を抑えながら、大ホールを通過しようとする。
しかし、半分程度まで歩いたところで、反対側から歩いてくる人物の姿が見えた。
成宮は足を止めずに、その人物に目を凝らす。五十代前後の男だろうか。厳格な雰囲気と渋い顔、その立派な体格から、まさに鬼教官といった佇まいだ。
鷺森と西野の目線も、自然とそちらに向く。三人は異様な雰囲気を纏った軍人を見つめながら、何も言わずにすれ違った。
「佐官か」
鷺森が、呟くように言った。
「え?」
「胸のエムブレム、大層なもんだっただろ。あまり詳しくはないが、ありゃ上級中佐か大佐クラスだ」
「へぇ~…」
西野が感心したように声を上げ、後ろに遠ざかっていく背中を見やる。
「でも、帝国軍の佐官って言っても大したことないですね」
西野が、嘲笑を含みながら言う。
「ああ、俺たちの存在に気づきもしてねぇ」
鷺森も、同様の反応を示す。
「全くだ」
成宮も。
「…フ…クク…確かに、その通りだな」
そして、反応するはずのない、四人目も。
三人は、一瞬その事を理解できずにいた。
だが、すぐに心臓が凍り付くような感覚を得て立ち止まり、後ろに振り向いた。
初老の軍人も、やはり立ち止まって、こちらを見つめていた。
「この程度の小細工に気付けないとは、軍の無能さもここまでくると笑えてくる」
クックック、と笑いながら、軍人はこちらにゆっくりと近づいて来る。
「な、どうして…」
「何故俺たちの姿が見える…⁉」
驚愕する鷺森と成宮。西野に至っては、腰を抜かして床に手をついたまま声も出せていない。
自分達の姿が見えているという異常事態に混乱しているのももちろんある。だが、それ以上に。
目の前の男が放っている威圧感。それは、人並みのものではなかった。
「ちっぽけな力を貰って、魔法使いにでもなったつもりか?…生憎と、その力は帝国軍の専門分野だ」
コッ、コッ、コッ、と男の革靴が足音を立てる。
その度に、オブシディアの時など比べ物にならないほど心臓が跳ねた。恐ろしい。ただただ恐ろしい。
この男は、化け物だ。
生物としての勘が、そう告げている。
「さあ、お前たちの所属と、依頼主の名前を言ってもらおうか。…まあ、所属はアカデミーだよなぁ?そんなもん盗む奴は、他にいねぇ。レジスタンスだったら、武器とかを盗んでいくだろうしな」
三人がそれぞれ抱えている荷物を見て、男は言う。三人は、何も言葉を返すことが出来ない。
どうする。どうすればいい。
成宮は鷺森に目配せする。しかし、鷺森の目には、焦燥と恐怖しか映っていない。
…鷺森の目に映る成宮も、同じようなものだったが。
「じゃあ、依頼主は誰だ?所長サマか院長サマのお目にかかりたい誰かか?お前らの独断行動か?それとも、院長サマ自身…」
「あ…あ…ああ…」
男の声を遮って、西野が呻き声を上げ始めた。見れば、腰を抜かしたまま、手を使ってなんとか立ち上がろうとしている。その眼には先ほどまでの陽気さは微塵も残っておらず、絶望だけに染まっていた。
「…にし、の?」
鷺森が声を振り絞って西野に呼びかける。しかし、その声は彼に届いていない。
「あ…ああああ…うあああああああああ‼‼」
「西野!」
西野はまるで犬のように這いながら、軍人とは逆方向に逃げていった。下手に思考を巡らせていた成宮達とは違い、それは本能的な行動だった。
涙をまき散らしながら、最早足を使っているのか手を使ってるのか分からないような動きでひたすら逃げる。
そして、成宮達もハッと我に返った。そうだ、逃げなければ。
軍人に怯えているだけで、思考を固まらせ、動くことすら出来ていなかった。相手に「神器」の力が通用しないならば、自分よりも格上の存在だと分かったならば、逃げなければ。一目散に。
それに今この場面では、「データ」さえ回収できればこちらの勝ちなのだ。
だから、自分たちも逃げなければ。二人は視線を交わし、頷き合った。
そうして西野の方に駆け出そうとするのと、「それ」が西野の足を捉えるのとは、ほぼ同時だった。
「『豪鬼』」
軍人の腕から、何か紐のようなものが伸び、西野の足に絡みつく。足を引っ張られた西野は転倒するが、それでも逃れようともがいている。絡みついたものは、びくともしない。
よく見ればそれは…鞭。しかし、常識外れの長さである。成宮の後方の軍人から、前方の西野まで、三十メートル近くは伸びている。
それに今、軍人は名前のようなものを口にした。成宮は一つの結論に至る。
間違いない…神器だ。
「引き裂け」
軍人がそう言うと、鞭の締め付ける力が増していく。西野が苦しむ呻き声も大きくなっていく。西野の足に鞭が食い込み、血を噴出させ、肉を切り、そして骨まで切り裂いて。
西野の右膝から下は、完全に切断された。
絶叫がホール内に響き渡る。激痛に、西野は右足を抱えてのたうち回る。
「五月蠅い」
軍人はただ一言そう述べると、その場で跳躍する。成宮と鷺森の頭上を悠々と飛び越え、そのまま西野の体を踏み潰した。
地面に亀裂が走り、血肉と瓦礫が飛び散る。
後に残ったのは、静寂のみだ。
「やれやれ、話をきちんと聞かないからこうなる」
軍人は溜息をつき、血の沼から足を出してこちらを向いた。
「それで?貴様ら、俺と話をするつもりがあるか?それともこいつと同じ目に会いたいか?」
成宮は、軍人を上手く言いくるめることが出来ないか、もしくは何か交渉の素材がないかを必死に考えていた。自分だけは、もしかしたら軍人相手に立ち向かえるかもしれないのだ。
だから、気づくことが出来なかった。
隣の仲間が、まともな思考など出来る状況に無いことに。
「貴様ァーーーーーーー‼」
鷺森は胸ポケットから拳銃を取り出し、軍人へと向けた。
しかしその動作の何倍もの速さで、軍人は鞭をしならせ、鷺森の腕に巻き付けた。
「ぐっ⁉」
振りほどく余裕もない。軍人が少し腕を引くと鞭は伸縮し、まるで生きているかのように自在にうねりながら、鷺森の体を空中へと引き上げる。
そして何を言う時間も無いままに、鷺森はホールの壁へと叩きつけられ、絶命した。
成宮は絶句した。この一瞬の間に、仲間二人が無惨に殺された。自分が何もせず、狼狽えている間に。
西野は長年鷺森の下で働いてきた研究者だった。付き合いの長い部下が殺されれば、激昂することだって予想できる。その前に自分が片をつけておけば良かったのだ。
「ふむ、こいつも脆いな」
軍人の手に握られた鞭は、いつの間にか足下くらいまでの長さに縮んでいた。
鋭い眼光が、こちらに向けられる。
「ということは、神器を持っているのはお前か?」
しかし、成宮はもう恐れを抱くことは無かった。あるのは覚悟だけだ。
出口への道は軍人によって塞がれている。後退すれば、もう二度とアカデミーに帰ることは叶うまい。
この状況を打破するためには、奴を殺すしか方法が無いのだ。
それに、何よりも。
奴は、俺の仲間を殺しやがった!
「『轟』‼」
その名を呼ぶと、神器は突如として空間に姿を現し、成宮の手に握られた。身の丈ほどの大きさがある、巨大な斧である。
ロボットや監視兵の目を欺いてきた力の源であり、軍人の持つ鞭と同じ神器だ。
「ほう…」
軍人は目を細め、神器を見つめる。感心しているような、見惚れているような、そんな様子だ。
「そんな余裕を見せている場合か⁉」
成宮は容赦などしない。人間の動きとは思えないほどの瞬足で、一気に軍人との距離を詰める。
正直、正規の軍人…それも佐官を相手にしてまともに戦える気はしない。相手が神器を持っているなら尚更だ。
だから、勝負は一瞬で決める。一瞬で近づき、一瞬で叩き潰す。
轟はパワーに重点を置いた神器だ。相手が同じ神器持ちであろうと、当たれば一瞬で粉々にしてみせるだろう。
軍人の体が、目の前にまで迫ってきた。未だ、動きを見せる様子はない。
突然の出来事に、反応しきれていないのか!
成宮は既に斧を振りかぶっている。あとは、目の前の男に向かって力の限り振り下ろすだけだ。それなのにまだ、軍人はピクリとも動かない。直撃は免れられないだろう。
「うらああああああああああ‼」
斧を叩きつける。ホール全体を揺らすような衝撃。轟音と共に、地面の破片を辺りに散らした。
しかし、感触が無い。
あるのは舞い上がった砂煙と、床に突き刺さった斧だけだ。
「…それほどの破壊力を生み出すとは、大した神器だ」
「⁉」
後方から声が聞こえる。成宮は斧を引き抜き、そのまま振り返ろうとする。しかし、手を動かすことすら叶わなかった。
いつの間にやら、鞭が全身に巻き付いている。身動きが取れない。
「しかし、使い手がこれではな。…宝の持ち腐れ、という言葉では済まされん」
軍人は手にした鞭を軽く引く。締め付ける力が増し、成宮が呻き声を上げる。
「さあ、言え。誰に命令されてこんな事をした?」
成宮の前に立ち、軍人はそう言った。成宮は、軍人を睨み返す。
「…他者から力を奪うことしか出来ない…蛮族め…!」
体を締め付けられ、呼吸も乱れている状態の中、成宮は言う。軍人は、無表情に手を引き、締め付けを更に強くした。
「ぐあぁぁああ…あああ‼」
「言わなければ、終わらんぞ。殺しもせん。そのまま苦しむことになる」
軍人は冷徹に言い放つ。
成宮は暫く、何もできずにただ苦しむ。締め付けは段々と強くなっていき、呻き声も大きくなる。
しかし、突然轟が発光し始めたかと思えば、成宮は何かを決心し、呼吸を整え目を閉じた。
「⁉」
軍人は反射的に手を引き、鞭の締め付けを強くした。目を閉じた瞬間、成宮の力が急激に大きくなったのだ。
「ぐう…ううぅぅうう…おおおおおお‼」
「…っ!」
神器の力である。破壊力を求めた神器である轟が、使い手の成宮自身にも強大な力を与えている。
成宮の腕が、足が、徐々に鞭の締め付けを拒否しつつある。肉が食い込もうとも構わない。鞭の束縛から何としても逃れようとしている。
両腕が完全に胴に巻き付けられた状態にも関わらず、怪力によって拘束が緩み、若干の隙間が生まれつつある。このままでは抜けられてしまうのも時間の問題だ。
「やはり、神器の方は上物か!」
鞭の締め付けをもう一段階強くしようとする。が、成宮の力が大きすぎるが故に、抑え込むので精一杯だ。
「…フン、どうせこれ以上やっても何も喋らんか」
成宮の腕に鞭が食い込み、血が噴き出す。しかし、締め付けが解かれるのもあと少しだった。
「神器の方は面白かったが、貴様自身は至極つまらない男であったよ。…『豪鬼』」
必死の形相で力を込めている成宮を見つめながら、軍人は至って冷静な表情で鞭を引いた。
「引き裂け」
断末魔を上げる暇など無かった。成宮の体を締め付ける力は、一瞬にして強大なものとなり、成宮という生物を肉片へと変えた。
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『随分派手にやったねぇ、鬼塚大佐』
頭の中におちゃらけた声が響いてくる。機械系の通信ではない。特別な力によるものだ。
「…見ておられたのですか、陛下」
周囲に聞こえぬ程度の小声で、鬼塚は返答する。既に本部からの調査員は到着しており、鬼塚は事情聴取を終えたところだ。
アカデミーの回し者の侵入。目的は「新世代計画」の遺伝子データを奪取すること。元々「新世代計画」はアカデミーが帝国軍に持ち掛けた話だ。
アカデミーが造り、帝国軍が試用する。効率的だが、その二つの組織の協力がどれほど多くの思惑を孕んでいるかなど、言うまでもない。
今回の件については、奪取したデータを廃棄し、帝国軍に重要機密の紛失の責任を問うことが目的だったのだろう。
結局首謀者は分からなかったので、帝国軍が問い質しても「彼らの独断で行った行動だった」と言ってアカデミーは白を切る。それで終わりだろう。
現在は状況の詳しい捜査、侵入者の身元の特定、現場の後処理が多人数によって行われている。特に現場の後処理に関しては、鬼塚が侵入者の血を撒き散らすような殺し方をしたため、かなり面倒な作業になっているようだ。
それらの雑務は調査員達がこなすため、鬼塚の役目はもうほとんど無いが、唯一現場に立ち会った者として残っている。
『勿論さ。君の神器が起動した感覚があったからね。一体どんな激闘が繰り広げられているのか、ワクワクしながら見始めたのだけど…ただの嬲り殺しだったねぇ』
「相手がどんな素人であろうと、神器持ちなら油断する訳にはいきません」
『まぁ、そうだね』
「しかし、陛下の方で奴の神器の起動を感知出来なかったのですか?」
鬼塚は用紙に事のあらましを書き綴りながら、疑問を口にする。
『うん。彼の持っていた神器にはステルス機能が付いてたからね。正確な位置までは分からなかったよ』
「…正確な、位置までは」
『うん。正確な位置までは』
鬼塚は溜め息をつく。
「陛下。意地の悪いことをなさらず、直ぐに教えてください。私が気づいていなければ、奴等には逃げられていました」
『嫌だなぁ、僕もそこまで酷いことはしないよ。君が事態に気付いていたからこそ、放置してみようと思ったんだ。君なら何か面白いことをしてくれるんじゃないかって思ってね』
皇帝は実に楽しそうに答える。
鬼塚は再び抗議の声を上げようかとも考えたが、皇帝の声色から判断して聞き入れてくれそうもないので、やはり溜め息をついた。
鬼塚は苦い顔をしながら、それでも心底困り果てて要るわけでは無かった。長い付き合いによる慣れというものもあり、最近は皇帝の言動や行動にあまり頓着しなくなっていた。そのユニークさを楽しんでいる側面すらある。
…今回のはちょっと洒落にならないが。
「陛下、あの神器はいつ授与されたのですか」
戦闘中より気にしていた疑問を口に出す。アカデミーの者が神器を持っているなど、聞いたことが無い。多くの軍人も同じ考えを持っているだろう。だからこそ、今回のような侵入を許してしまった。
『僕は帝国軍人以外に直接渡したことは無いよ。他人の神器を奪って使用することも出来ないね。考えられるのは、神器の所有者が他人に対して譲渡を認めた可能性だね』
「…帝国軍人の中に、裏切り者がいると?」
『そうだね。…フフ』
皇帝は微笑する。
『裏切り者、か。元々君ら帝国軍とアカデミーは友好関係にあるんじゃなかったのかい?』
「今でも建前上はそうです」
『面白いねぇ』
「笑えません」
暫くすると、レポートも書き終わった。ペンを握っていた手を止めると、用紙を纏めて近くにいた捜査員に手渡す。捜査員は軽く会釈をして離れていった。
ホールの出口の中で、一番階層間エレベーターに近いものに向かって歩く。
『何処へ行くんだい?』
「野暮用です」
隠す必要も無いが、皇帝の口振りからして解っていて聞いているのだろう。
『黒瀬君の所だろう?』
やはり。
鬼塚の頭の中に、顔をニヤつかせながら煽ってくる皇帝の顔が思い浮かぶ。
「かもしれませんね」
適当に返す。
鬼塚はホールから抜け出し、スタスタと建物内を歩いていく。施設の出口のすぐ近くにあるホールだったので、外に出て階層間エレベーターに乗るまでそう時間はかかるまい。
しかし、ここまで施設の外側に来られていたとは。皇帝は面白がっていたが、やはり自分が一歩間違えれば、本当に侵入者を逃していたかもしれない。
程なくして外に出た。夜の時間はもうすぐ終わる。東の空がうっすらと赤く染まっているのが見えた。
星が見えつつも、日の光を感じることのできる時間帯。幻想的だ。
この空が作られたものでなければ、もっと心の底から感動できたのかも知れない。
『鬼塚大佐。僕は昨日、東京の街を「視た」んだ』
鬼塚の心情を知ってか知らずか、突然皇帝が話しかけてきた。
『あそこにはもう、何もないね。星は昔から無かったらしいけど、それ以外の大切なものも、何もない』
「そう、ですか」
『それから、どんどん地下に向かって「視て」いったんだ。扉、防衛区、オブシディア、東京帝国…全部、見てきた』
「はい」
『この穴蔵の中で、東京という街を再現できたとでも思っているのかな。偉い人たちは』
皇帝は笑った。
鬼塚は足を止め、朝焼けの空を見つめていた。
『この百年で、人は色々なものを失ったね。そして今度は人自身を失おうとしている。百年後の世界は、どんな姿をしているのかな』
「…」
『つまらない話だと思ったかい?』
鬼塚は目を伏せる。
「…率直で幼稚な意見を言わせて頂くと」
『うん』
「気の毒な話だと思いました」
皇帝は一瞬間を空けた後、弾けたように大笑いした。
『的確だ』
「どうも」
鬼塚は目を開く。朝焼けは空の大部分を侵食し始めている。日が見えるまであと僅かだろう。
『気の毒だと思うなら、頑張って東京の為に尽くしておくれよ』
「皇帝の為に、でしょう?」
『東京の為に尽くす僕の為に、だよ』
鬼塚は微笑すると、朝焼けに背を向け歩き始めた。