繋
財布の中にしまってある写真を取り出した。妻と、子供と、自分が写っている。長椅子に座りながらそれを眺めていると、心が締め付けられるようで苦しかった。妻を、子供を、写真の上から指ですっと撫でた。
「陸」
子供の名前を呟いた。本当はもっとたくさん呼んでやりたかった。彼の成長を傍らから支えたかったし、ずっと見てやりたかった。
しかしそれが叶わないのも、全て自分の責任なのだ。自業自得。自分には誰を責めることも出来ない。ただこうして、写真という偶像を眺めて過去に耽ることしか許されない。
「鬼塚中尉」
突然後ろから呼び掛けられ、鬼塚はビクリとして振り返った。幾何学的な模様の描かれた仮面を被り、軍服に身を包んだ男が立っていた。鬼塚の上官、沢渡少佐である。
「何をみているのです?」
顔をすっと写真に近づけてくる。沢渡の仮面には視線を通すための穴が空いていないが、どういう原理か前が見えてはいるらしい。
「これは、貴方のかぞくですか?」
平坦でありながらぐにゃぐにゃと曲がりくねっているような…そんな不思議な口調で沢渡は話す。いつもの通りだ。
「はい…家族、だったのですが」
鬼塚は目を細める。自分で言っている言葉なのに、何故か自分の心に突き刺さってくる。
「自分は軍のことばかりを気にかけて、家族の為のことなど一つもしてやれなかった…そして妻には愛想を尽かされまして、息子と一緒に出ていかれました」
「そうですか」
果たして興味を持っているのか持っていないのか、はっきりしないような口調で沢渡は答える。鬼塚は黙って写真を見つめていた。
「会いたいと思いますか?むすこさんと」
沢渡の言葉に、鬼塚は苦笑する。
「今更会っても、誰だか分かってくれませんよ」
「そうでしょうか」
「ええ」
沢渡はそれきり話し掛けてこなかった。しかし休憩室から出ることもせず、鬼塚の傍に立ってじっとしていた。
これが普通の上官ならば、何か言われるのを待っているのではないかとか、何かしらに対して怒っているのではないかとか考えるのだが、沢渡の行動は総じてよくわからない。平たく言えば変人だ。意味もなくうろうろするし、意味もなく立ち止まったり喋ったり黙ったりする。だから今回も、特に意味の無い行為なのだろう。
静寂の訪れた休憩室に、ドアの開く音が響いた。
「失礼します。沢渡少佐…」
若い男が入ってくるなり沢渡に話しかけるが、鬼塚の方を見て口を閉じる。
「大丈夫、かれはわたしの部下です。信用に足る」
沢渡が言うと、男は咳払いして切り出した。
「突然ですが、沢渡少佐の本日の任務が変更となりました」
「任務が、へんこう?」
沢渡は怪訝そうに聞き返す。一度伝達された任務が変更される、それも当日になど、滅多に有ることではない。
「はい。代わりに将軍閣下から直々に新たな任務が与えられます」
「閣下から直々にとは。それは、何です?」
男は手元の書類を見やり、少し間を置いて言った。
「行方不明の皇族、翠様の拘束です」
* * *
「黒瀬君、私と逃げよう」
泣き止んだ翠は、唐突にそう言ってきた。
「逃げるって、どうして?」
「人を殺しちゃった。きっとたくさんの人が探しに来る」
「でも、あいつは焼け焦げてるよ。俺がやったなんて誰も思わないし、翠は透明になってればいい」
黒瀬は宥めるようにそう答えるが、翠は首を振る。
「人が死んだなら、普通じゃない人…もっと強い人が、魔法使いの力を持ってる人が探しに来るよ。本当に強い魔法使いだったら、私は姿を隠しきれないの」
「魔法使いの力って、軍の人も持ってるの?」
翠は頷く。
「私の従兄のお兄ちゃんは、私よりもっともっとすごい力を持ってて、私よりすごい力を人にあげられるの…だから、軍の人達はお兄ちゃんをずっと部屋に閉じ込めて、好きなことをさせてあげないの。私はそうなりたくないから、ここまで逃げてきたの。お兄ちゃんから力を貰った人達が来たら、黒瀬君もやられちゃうかもしれない」
翠は話し続けるにつれ、段々と語調が強くなっていき、涙も再び溢れてきた。黒瀬が翠の肩に手を置くと、少し落ち着いて涙を拭った。
黒瀬は周りを見渡す。まだ誰かに気づかれている様子はない。工場と住宅が並ぶ、殺風景なJ地区が眼に映るのみである。
「分かった。俺、翠と一緒に逃げるよ」
翠の表情が明るくなる。が、黒瀬は少々渋い表情を浮かべる。
「でも、どうやって?俺は姿を消せないし、監視官殿達の目を欺けないよ。あとは、そもそもどこから抜け出す?」
「誰かに見られる心配は無いよ。ほら」
翠は黒瀬の手を握る。目を瞑って手の力を強めると、翠と黒瀬の色は薄く変化した。
「ほら、これで黒瀬君も見えなくなったよ。手を繋いでる間だけだけどね」
「すごい」
黒瀬は自らの姿を眺める。水の中に入っているような、不思議な感覚。これで透明になれているとは、少し信じがたい。
「それで、どこから抜け出すのかって方は?」
「エレベーターを使ったらバレちゃうから…一回制御区の方に出て、あ、制御区っていうのは黒瀬君達の住んでる場所を囲むみたいに出来てるもので」
「そこら辺は分かってるよ。一応学校には行ってたし」
「そう?とにかく、制御区に行けば業務用の階段があるはずだから、J地区から抜け出すにはそれしかないよ」
「じゃあ、とりあえず…どうする?」
「制御区に向かって思いきり走る!」
単純すぎるほど単純な案が出た。笑顔で言う翠に、黒瀬は呆れを通り越して安心感さえ覚える。
「了解。…制御区って、どっちの方角が近いの?」
「うーん…ずっと走ってればいつか着くよ!どっち行っても変わんない!」
「…翠、真面目に言ってる?」
「真面目だよ?」
「…だよね」
黒瀬はため息をつき、翠をおぶさる。手を繋いだまま並んで走っていては、いつまで立ってもたどり着かないだろう。自分一人で走った方が速い。
「じゃあ、行くよ!制御区に向かって!」
「うん!れっつごー!」
およそ人間のものとは思えない速度で、黒瀬はJ地区を駆け始めた。
* * *
「神器がある」
「え?」
焼死体が発見されたという現場に向かう途中、沢渡は突然立ち止まってそう言った。
「神器、ですか?他の佐官の方がいるのでしょうか?」
「いや、ちがう。これは」
沢渡は仮面を手で押さえ、考えるような仕草を見せる。
「…あきらかに他の者からはなれた位置で、神器を持つものが高速でいどうしている。それも二人」
「もしや、その人物とは」
沢渡は頷く。
「ええ、翠様とその護衛であるかのうせいが高い。しかし、速い。このままでは追い付けなくなります。急いでむかいましょう」
「了解しました」
二人はJ地区の中を走り始めた。
* * *
「ハァ……ハァ…ハァ…」
居住区の端まで一気に駆け抜け、軍人が大門を通る際に横を通り抜けることで、二人は制御区に侵入することが出来た。
翠から貰った力の影響もあり、いくら走ってもバテることなく、全速力を維持することが出来た。が、居住区の階段を上がる段階にまで達すると、流石に疲れが出始め、息も切れてくる。翠は黒瀬の様子を見て、背中から降りた。
『ここから先は私も歩くよ』
『…うん、分かった』
断る理由も無い。手を繋ぎ、横並びになって二人で歩く。無限に続きそうな階段を、ひたすら登っていく。
お互い沈黙を破らずに、淡々と足を動かす。今現在自分達は逃亡しているのだ、という緊張感からなのか、ただ単に話題が無いだけなのか、あるいはその両方か。
先に切り出したのは翠だった。
『黒瀬君は、普通の暮らしがしたいって思わないの?』
予想外の質問。
『普通の暮らし…って、J地区じゃない所での暮らしってこと?』
『うん』
黒瀬は考え込む。そんなことは、今まで気にかけてこなかった。成り行きでここに連れてこられて、そこに居るのが当たり前…という感じで。いつの間にやら、自分は酷く受け身の人間になってしまったのかもしれない。
『俺には親が居ないから』
『…そうなの?』
『うん。あれ、言ってなかったっけ?』
『うん。聞いてない』
『そっか。で、普通の暮らしっていっても誰かが養ってくれる訳でも無いし。J地区は窮屈だけどご飯は貰えるし、家もあるし、そんなに不満は無かったかなぁ』
黒瀬の言葉に、翠は俯く。
『ごめんね』
『え、何で?』
『私、勝手に黒瀬君に近づいてきて、助けてもらって、逃げるのにまで巻き込んじゃって』
『いや、そんな』
黒瀬は手を振って否定する。確かにJ地区の暮らしに不満があった訳ではないが、嫌々翠についてきた訳では決して無い。
『あそこに居て不満は無かったけど、それでもあそこで何かしていたいって思ってたんじゃ無いんだ。それが、翠に出会って、助けたいって思えたからこうして逃げてる。巻き込まれたなんて思って無いよ』
『…そう』
翠の手の力が強まった。
『ありがとう』
『うん』
それから再び、会話は無くなった。
複雑に絡み合っている階段と通路を、二人はずんずん進んでいく。翠は大々の道筋が分かっているらしく、黒瀬を先導しながら進む。
果たして自分達は別階層に向かって進めているのか。黒瀬は疑問を胸に抱くようになりながらも、ここまで来たら翠に従うしかなくなっていた。
目の前に長い長い通路が現れた。パイプと操作パネルに囲まれた四角い通路の奥は、別れ道になったりしているのは見えるが、突き当たりが見当たらないほどに長い。翠が歩き始め、黒瀬も続いた。
『ここを抜ければ、I地区に行ける…多分』
『…うん』
二人は静かに会話した。この道を抜けたとしても、自分達が自由になれるわけではないと悟っていたからかもしれない。
しかし、気分が沈んでいたわけではない。むしろ歩調は速くなっていき、胸は高鳴っていく。この先に希望が待っている訳ではなくとも、再び苦難が訪れるとしても、パートナーと共に新天地を目指すことができる。二人にとっては、それがたまらなく嬉しかったのだ。
しかし、突然翠は足を止めた。黒瀬も慌てて止まり、翠の方を見る。
『翠?』
返事はない。前方を驚愕の目で見つめていた。黒瀬もそちらに振り返る。
軍服を着ている男が二人立っていた。一人は強面、一人は仮面を被っていて顔が見えない。しかし、姿が見えていないなら問題ない筈だ。再び翠の方を向き、呼び掛ける。
『翠、どうしたの?』
『あ、あの人…お面を被ってる人…』
翠は声が震えている。表情は怯えに染まり、足は動こうとしてくれない。
『私達の事、見えてる』
『…っ!?』
その言葉を理解すると共に、黒瀬は仮面の男の方を見た。しかしその瞬間には、仮面の男は黒瀬の目の前に居た。音もなく、一瞬で距離を詰めてきていたのだ。仮面の男は黒瀬の腹を殴り付け、壁に向けて吹っ飛ばした。
「がはっ!?」
黒瀬はパイプに激突し、床にずり落ちる。腹部と背中に強い痛みが走る。特に腹は内蔵を抉られたような激痛で、息をすることすら難しくなっている。
「黒瀬君!」
翠は黒瀬に向かって走り寄ろうとする。仮面の男…沢渡は、その肩を掴んで制止した。
翠が激しく動揺し、また黒瀬が翠から離れたことで、二人の姿は透明でなくなる。
「なっ…子供!?どこから!?」
後方で待機を命じられた鬼塚が驚愕する。沢渡が空を切るように腕を振るったかと思えば、二人の子供が姿を現したのだ。
「鬼塚中尉、神器にはすがたを見えなくする能力を持つものもあります。神器を持たぬ一般人にはむずかしいですが、貴方ほどのじつりょくがあれば注意深くかんさつすれば感じられるはず」
後ろに向けて沢渡が言うと、翠の方に向き直る。
「翠さま、勝手なことをされては困りますね。帝国軍は皇族ありきで回っている。あなたの身勝手なこうどうは、帝国のこんらんに直結します」
仮面の裏にある表情は見えないが、その声色は低く恐ろしい。その威圧感に、翠は肩を震わせる。
「さあ、かえりましょう」
「わ…私は…」
翠は震えながら、恐怖に怯えて涙を溜めながら、それでも沢渡の方を睨み返した。
「私はあなたたちの道具じゃない!軍になんか帰りたくない!」
それは、翠が起こした最初の反抗。軍の内部でただ従うだけだった少女の、心の叫びであった。何故そんなことをする気になったのだろうか。決まっている。
翠は黒瀬の方を見た。黒瀬も、床に伏しながら翠の方を見た。二人の視線が重なりあう。
―黒瀬君、助けて!
―翠、今助ける!
黒瀬は沢渡目掛けて飛び上がった。右手を付きだし、鬼の形相で腕に力を込める。
殺す。こいつを殺して翠を助ける!俺にはそれが出来る。監視官だって殺せたんだ!出来ない筈がない!
翠が身勝手だと?ふざけるな!身勝手なのは大人の方だ!翠は優しい子なんだ。俺の友達なんだ!大人の都合で、勝手に連れ戻されてたまるもんか!
もうすぐでこの手が届く!手が触れればおしまいだ!さっきの監視官みたいに丸焦げにしてやる!
もう届く!もうすぐで!もう…
「自惚れるな」
沢渡は腰にさげていた刀を引き抜き、峰で黒瀬を弾き飛ばした。黒瀬は遥か後方の床にまで吹っ飛ばされた。
剣を抜き、逆手に持ち直し、振るう。その動作を、黒瀬が腕を届かせるまでの僅かな隙にやってのけた。常人離れした芸当である。
「神器のちからを得て、英雄にでもなったのだと勘違いしていませんか?…ざんねんながら、そのちからは誰にでも使えるものです。機会と運さえあれば、実力がなくとも」
―まだだ!まだいける!
黒瀬は痛みを堪えて立ち上がった。何としても翠を助ける。その一心で体を起こした。沢渡の方を見て、再び飛び上がろうとする…が。
黒瀬に方に駆け寄ろうとする翠に対し、沢渡は静かに、単純に、形式的に、刀を突き出した。まるで害虫を駆除するかのように…至って自然に…。
『あ』
刀は翠の背中から心臓を貫き、血飛沫を散らした。照明に照らされて、刃が赤く光った。
『くろ せ く 』
翠の言葉は最後まで続かなかった。刀を引き抜いた沢渡が、首筋を斬って止めを差したのだ。がくりと首を揺らしながら、翠の身体は崩れ落ちた。
「あ、あ、あ」
黒瀬はよろよろと歩きながら、翠に近づいていき、倒れこむようにしてその手を握った。
動かない。
その目は何も映さない。
その口は何も発しない。
その顔は何も表さない。
「あ、あ」
黒瀬は沢渡を見上げた。憎悪も恐怖も、いつの間にか何処かへ消えていた。
「どうして」
自然と言葉が漏れた。
「どうしてこんなことするんだ」
沢渡は何も言わない。
「どうして大人はいつも、こんなこと」
鬼塚は、苦々しい表情で顔を背けた。
「どうしてだよ」
一粒の涙が零れた。黒瀬は床に座ったまま項垂れて、そのまま動かなくなった。
沢渡は息をついた。
「攻撃してこなくなったならば、しょりする必要もありませんね。幸いにも神器が発現するほどの年齢に達してはいなかったようですし、翠様が死んだことでちからも失ったでしょう」
沢渡は、目の前の状況を全く意に介さず、そう述べる。鬼塚は沢渡の横に立つと、最早声が聞こえているのかも怪しい黒瀬を見やった。
「…沢渡少佐、任務は『拘束せよ』とのことでは無かったのですか」
「ああ、あなたは知らないかもしれませんが、私に回される任務の全ては汚れ仕事です。将軍からの直々の任務ならば尚更。拘束せよというのは、『拘束できるならしろ』ということ。もしくは、伝達役に余計な情報を入れないためにそう言っただけでしょう」
鬼塚は、黙ったまま首を振った。沢渡は何も言わなかった。
その時、鬼塚と沢渡の携帯端末が反応した。新たな情報が入ってきたらしい。
「何でしょうか、もうすべて終わってしまったので、タイミングが悪いですが」
二人が携帯端末を確認すると、それは焼死体が発見された現場の住宅に住んでいた、一人の少年の情報であった。行方が知れないので、翠と共に逃亡した可能性がある、と書かれている。
その情報を見て、鬼塚は思わず声を上げた。
「っ…!?これは…」
【要保護人物 J地区在住】
【黒瀬 陸】
黒瀬という名字。妻だった者の姓。陸という名前。忘れるはずもない。自分の、息子の名前。
沢渡はさして興味も無さそうに眺めていた。
「どうでもいい情報が満載ですね。母子家庭だったが母親を無くし、J地区にやって来たと。こんな情報、捜索の役に立つと思っているのでしょうか」
鬼塚は目の前の少年を見つめた。
―どうして大人はいつも
先程の言葉が、痛いほど胸に響いてきた。
数日後、強い要望により、少年は鬼塚の保護下で暮らすことが決まった。