友
耳に入ってくる騒音によって目を覚ました。いつものように、部屋の中に起床用の音楽が流れているようだ。就寝時間が決められているならば起床時間もまた設定されていて、これを守らなければ罰の対象となる。毛布を捲り上げて上体を起こすと、自分のいるスペースが少し窮屈なことに気がつく。
「…そうだった」
黒瀬は隣で寝息を立てている少女を見て、現実を思い出した。片手で眉間を抑えながら、自分の頭を奮い起たせようとする。どんなに異質な出来事が起きようとも、自分がJ地区の住民であることに変わりはない。労働に支障を来して懲罰を受けるなんて御免だ。平常心を保つんだ、俺。
翠をなるべく揺らさないようにして、ベッドから降りる。収納から労働服を取り出し、一瞬翠の方を向く。
…多分、まだ起きないよな。
そそくさと服を脱ぎ、着替え始める。よく考えると、昨日の大浴場の時点で着替えを見られる以上の事はされているわけだが。それでも、こういうことを女子の前でするのに抵抗が無いわけはない。
とりあえず何の問題もなく着替えは終わる。顔を洗い、髪を整え、その他朝の準備を終えると、時間はそう残ってはいなかった。早く一階の集会所に向かい、朝礼を受けなくてはならない。
その前に、と、未だにベッドに横たわっている翠を見やる。これは起こした方が良いのだろうか。しかし起きたら絶対に付いてくるだろうし、そうした場合労働の邪魔にしかならない気がする。かといって勝手に出ていけば、自分を探し出すために色々と面倒なことをしそうでもある。
思い悩んでいると、翠は自分で目を覚ました。
「ん~…おは…」
目を擦りながら起き上がろうとする翠は、その言葉を言いかけて慌てて口を抑えた。
『おはよう』
聞きなれた感覚。頭の中に声が響く。
『おはよう。…こっちで喋らなきゃいけないの?』
『うん、誰かに聞かれちゃってバレると嫌だから』
『そういう所は慎重なんだね』
『そういう所はって、どういう意味』
翠が少しむくれて言う。
例えばですね、誰とも知れない男子の部屋に突入して友達になることを強要するとか、その後に浴場まで付いていったりするところですよ。とは言わなかった。
黒瀬は部屋の時計を見る。
『もうすぐ朝礼が始まるから俺は行くけど、翠は』
『行く!』
疑問符をつける前に返事をされてしまった。翠は右手を上げてぽんぽん跳ね、とても楽しそうだ。自分としては不安しか無いけれど。
『言っておくけど、俺が一日かけてやるのは勉強と労働だけだから、面白いものは何もないよ?』
黒瀬が脅しをかけるように言う。
『大丈夫!多分私にとっては何でも面白いから!』
馬の耳になんたら。この程度の言葉が通用するとも思ってはいなかったが。
『それに、友達なんだから離れたりしないよ!』
翠はそう言って、小指を立てて見せる。それを見ただけで、黒瀬は何だか気恥ずかしい想いに駆られた。昨日は勢いに乗せられてあんなことをしたが、この歳にもなって指切りとは。冷静になるとかなりキツい。
『うん、そうだね。…じゃあ、早く行こう』
頬の熱さを隠すようにして、玄関の方を向く。
『うん!』
靴を履き、ドアノブを握る黒瀬の心持ちは、何故だか普段よりも軽かった。
J地区住民の生活はコントロールされている。まず全員が時間通りに起床をし、朝の雑務を行う。雑務の内容はローテーションで変わるようになっており、洗濯、炊事、掃除、設備点検など、自分達の身の回りに関することだ。
今回の朝食は黒瀬の居るグループが当番である。黒瀬が炒めものを作っている間、翠はちょろちょろと厨房を歩き回ってつまみ食いをしていた。姿が見えないのを良いことにかなり大胆な行動をしているため、見ている方としては心が休まらない。配膳された料理の皿を一つ丸ごと盗っていったときは、思わず声が出そうになってしまった。
しかし、翠が住民と共に食事をとるわけにもいかないので、こうするのも仕方のないことではある。もう少しスマートなやり方は無いのだろうか、とは思うが。
雑務及び朝食を終えると、次は座学の時間となる。学校で習う数学、化学、社会科などは勿論のこと、労働に役立つ為の機械操作についても教わる。授業は午前中いっぱい続く。
ここでは翠が暇になってしまうので、黒瀬の席の周りをうろうろしたり、ちょっかいを出したりして遊んでいた。流石に鬱陶しくなり、何とか落ち着かせようと試みる。
『この場所にある何もかもが面白いんでしょ?勉強もちゃんと聞けば面白いかもよ』
『えーでも、黒瀬君と喋ってる方が楽しい~』
無理だった。むしろこっちから話しかけたことでやたらとうるさくなってしまった。
社会科の授業になり、皇帝に関する事柄が取り扱われると、翠は興味を示し始めたようだった。
『ふつうの人は、皇帝の姿は見たことあるの?』
『いや、俺は無いよ。大体の人はそうだと思う。政治に関与することは無いし、軍部では…なんだっけ、神器?を授けるための儀式を行う…とか聞いたけど。でも俺達庶民に関わることなんて殆ど無いしね』
『ふぅーん…黒瀬君は、皇帝についてどう思う?』
『どう思うって…うーん、別に何か感じることも無いけど、軍の人とかに束縛されてそうで可哀想だよね』
翠はじっと黒瀬の事を見つめていた。視線が合う。
『皇帝がどうかしたの?』
『ううん、ちょっと気になっただけ』
翠は誤魔化すようにして笑った。
その後も授業に関係ある話もない話もしながら、翠はずっと話し掛けてきていた。なるべく不自然な素振りを見せないようにしながら、授業時間は無事に終えることができた。集中は出来なかったが。
昼食を挟み、午後は長時間の労働となる。日によって労働の内容は千差万別であり、力仕事もあれば緻密な作業をすることもある。今回は前者だった。
労働者達は工場に集められた。黒瀬のグループに与えられたのは荷物の梱包・箱詰め・配送作業。その中から一人一人に一つだけの仕事が与えられ、延々とその作業を繰り返していく。黒瀬には箱詰めの役目が与えられた。
既に梱包されている荷物を箱に入るように工夫しながら詰め、テープで密閉した後に台車に乗せる。台車に乗った荷物は別の者によって運ばれる。
同じ場所に居るものが、皆同じ作業を黙々と続けている。荷物の擦れる音、テープを切り離す音、台車が動かされる音…それだけが機械的な音楽を作り出していた。
黒瀬もいつものように作業を始める。この作業は何回かやったことがあるので、それなりに慣れている。手際よく進めていると、途中で違和感を感じた。
しかし、特に何か異常がある訳ではない。箱詰めに不備がある訳でもない。黒瀬が首を傾げていると、横で翠がニヤニヤとしていた。
『何かおかしい所ある?』
『ううん、何もないよ?』
悪戯っぽく笑う。やっぱり、何かあるみたいだ。
かといってその正体が分かるわけでも無く、とりあえずは作業を続けていく。箱が段々と満たされていき、最後にテープを貼って完成だ。結構重いものが沢山入っていたので、総重量も中々のものになっているはずだ。
箱詰めの様子を横から見ていたのか、中年の男性が声を掛けてくれる。
「坊主、その箱結構重いだろ?俺が代わりに持っていってやろうか?」
黒瀬はその年齢もあって周りから気にかけられることも多く、このような申し出も初めてではなかった。いつもなら素直にやってもらうのだが、今日は何故かその気にはならなかった。
「いえ、大丈夫です。多分」
黒瀬は、何となく違和感の正体が分かった気がした。箱の両端を掴み、腰に力を入れて持ち上げる。案外、すんなりと荷物は持ち上がった。
「凄いな、力持ちじゃないか」
中年の男性は笑った。多分、想像より軽いものだったのだと思ったのだろう。黒瀬は不思議な気持ちだった。確かに思っていたよりは遥かに簡単に持ち上がったが、決して軽いわけでは無い。そう感じてしまうのだ。
『それが私の力だよ』
翠は嬉しそうに、黒瀬の耳元でそう言った。実際声が聞こえるのは脳内なので、耳元に近づく必要は無い筈だ。翠の吐息が耳にかかって、体温を熱くさせる。
『これが、君の魔法の力?』
『うん、君と私の友情の証。この世の理からはずれたちから…』
その時何となく、翠が遠い目をしているような気がした。
『これで黒瀬君も、魔法使いの仲間入り。今は重いものを持ち上げられるくらいだろうけど…その内、もっともっと凄いことが出来るようになるはずだよ。それこそ、人だって殺せちゃうくらい』
黒瀬は、笑いながらそんなことを言う翠の心境が分からなかった。
『でもこれはね、普通の人には与えちゃいけないものなの。だからね、黒瀬君は特別だよ?』
翠は微笑みながら言った。
『黒瀬君はその力を、何に使う?』
その言葉は、やけに重みを帯びたものだった。だが黒瀬は、果たして翠が何を聞きたいのかが分からなかった。
『労働を楽にこなす為に…しか、思い付かないよ』
黒瀬は台車に向かって荷物を運び始めた。翠は含みのある笑みを浮かべて、黒瀬をただ見つめていた。
黒瀬は翠との間にある大きな距離を意識していた。翠が何を考えているのかが分からない。何が目的で自分に近づき、何が目的でこんな力を与えてくれた?
友情の証。本当にそうなのかもしれない。昨日の夜見せてくれた笑顔は、とても嘘をついているようには見えなかった。それでも、合理的で打算的な考えを持っている黒瀬は、翠のことを完全に理解しているとは思わなかった。
彼女の笑顔は、彼女の心をそのまま映し出しているのだろうか。それとも、顔面の皮に貼り付いた仮面なのだろうか…。
想いは纏まらなくとも、力のお陰で作業は順調に進んでいった。そのことが、やけに皮肉なことのように思えた。
労働が終わった。工場から点々と労働者達が離れていく。黒瀬も外へ出て、宿舎へと向かう。歩いている途中、やけに自分の体が疲れていないことに気がつき、改めて翠の力を実感した。
不思議そうに自分の体を見渡していると、翠がニヤニヤしながら視線を送ってきた。何となく恥ずかしくなって、早足になって帰路を急いだ。
宿舎の目の前に辿り着いた。普通にそのまま入り口から入ろうとすると、翠に袖を引っ張られて建物の裏へと連れていかれた。
『翠、どうしたの?』
『…』
答えは無かった。
建物の裏側には倉庫があり、更にその倉庫の裏に隠れるような位置にまで来て、やっと翠は止まった。
くるりと振り向いて、黒瀬の方を向く。
黒瀬は何事かと思い、翠が言葉を発するのを待っていたが、その内自分の視界に変化が生まれていることに気がついた。
翠の姿が、くっきりと鮮明に映ってきている。いや、今までも普通の人間と見違えるほど鮮明な姿ではあったのたが、目に慣れていたせいか少しばかり薄い色彩だったことに気がついていなかったのだ。
「うん、これで誰にでも見えるようになっちゃった」
ちゃんと耳に聴こえる少女の声。鮮やかな色が発現され、本当の翠の笑顔を見ることが出来た。ちょっとした感動にも近い感情に支配される。
「一回くらい、透明じゃない時の姿も見せたくて。黒瀬君にとっては、色が薄いか濃いかくらいだろうけど」
そう話す少女の笑顔は、他のどんなものよりも眩しくて。
「…何で、こんなところで?」
「ちょうど監視カメラの死角になってる所なんだ。ここ、監視カメラばっかりで嫌になっちゃうね」
翠はそう言って苦笑いを浮かべた。黒瀬は狐に摘ままれたような顔で翠を見つめていた。自分の中にずっと残っていた違和感に気がついた気がした。
黒瀬は翠に向かって手を伸ばした。右手で翠の左手を取って、さらにその上に自分の右手を乗せた。
「く、黒瀬君…?」
翠は困惑していたが、そんなことも黒瀬は意識の外にあった。
今自分は確かに感じているのだ、目の前の少女の温もりを。手の柔らかさを。生きているという確かな証拠を。
そうか、自分は今まで夢の世界を見ているような気分だったのだ。透明になったり、住居のベランダに登ってきたり、魔法を授けてくれたりする少女を見て、確かな現実を感じられずにいたのだ。
しかしこうして翠はここにいて、この温かさは本物で、自分には…自分には友達が出来ていた。魔法使いがどうだって、不思議な力がどうだって関係ない。自分に話し掛けてくれて、自分を気にかけてくれる友達が出来ていたのだ。
不意に、一粒の涙が零れた。
「黒瀬君!?」
突然の出来事に、翠は慌てふためく。何をしていいのかわからずおろおろしていると、黒瀬が手を握る力が強くなった。
「翠」
「なに?」
心配そうに翠が答える。
「俺、君が魔法使いだとか、不思議な力をくれるとか、どうでも良かったみたいだ」
「えっ…?」
翠の顔が強張る。黒瀬が何を言わんとしているのかは分からないが、とにかくマイナスの感情が込められているように思えたのだ。黒瀬は続ける。
「俺はひねくれてて、陰気で、大人達が沢山居る場所に連れてこられても、どうしていいかわからなくて」
母親が死んでどうしようもなく悲しい心も、冷めた心で納得したようにさせて。冷静なように振る舞って、気取って、固まった表情で毎日を過ごして。自分が可哀想な子供だと思われたくないから、無駄な強がりで背伸びをして。
「でも」
それでも俺は、本当は。
「寂しかったんだ」
こんな場所に一人連れて来られて。親は居ない。同年代の子供も居ない。知り合いは居ない。仲間はいない。
だから自分を守るために、自分から大人達を避けた。
「だから君に話しかけられて、友達になろうって言われたとき…嬉しかったんだ、きっと。ひねくれてて気が付かなかったけど、きっと俺は凄く嬉しかったんだ」
翠は黙って黒瀬を見つめていた。
「君が魔法使いでもそうじゃなくても、どうでもいい。俺は、一人の女の子が俺の友達になってくれた事が嬉しい。もう独りじゃない、もう寂しくないんだって思えるから」
黒瀬の心から出た言葉に、翠は微笑んで、自分の右手を黒瀬の左手の上に更に乗せた。
「大丈夫だよ、黒瀬君。もう独りじゃないから、私がずっと傍に…」
「おい、そこで話してるのは誰だ!」
二人の会話を立ちきるように、男の叫び声が聞こえてくる。夕闇の影に覆われた倉庫の傍で、肩をビクリと震わせ、二人は声の方を見る。黒い軍服、銃を腰に差した男。監視官だ。
「翠、透明になって!」
黒瀬は自分の体を盾にするようにして翠を隠すと、急いで翠にそう言う。翠は頷いて目を閉じ、集中するが、その輪郭はくっきりとしたままだ。
「駄目…焦ってると出来ない…」
「そんな…」
「こそこそと何をしている!」
監視官はすぐ傍にまで接近してきていた。 黒瀬の肩を掴んで無理矢理自分の方を向かせる。
「貴様、ここの住民の者か?労働時間はとっくに終わっている筈だ。こんな所で何をしていた?」
「あ、はい、すいません。直ぐに戻りますから」
「俺が聞いているのは、何をしていたかと…ん?」
黒瀬の後ろに見えている小さな人影に、監視官が気が付いた。黒瀬は冷や汗が吹き出てきた。
「お前は、ここらでは見たことが無い…いや…どこかで」
「あ、あの!その子は新入りで!最近ここに配属されてきた!」
黒瀬は必死に誤魔化そうとする。翠は怯えて言葉が出ていない。監視官は暫く翠の姿を見つめていると、閃いたようにして目を見開いた。
「翠様…?」
監視官はそう呟いた。黒瀬はその言葉に、自分の拙い弁解さえも止めてしまう。何で、監視官が翠の事を知っているんだ?
監視官は黒瀬を掴んでいた手を離し、横へ突き飛ばす。黒瀬はバランスを崩して尻餅をついた。
「翠様で、在られますか…?」
「あ…違…」
監視官はゆっくりと翠に近づいていく。翠もゆっくりと後退りして、監視官から離れていく。翠の目は恐怖に支配され、監視官の目は…驚きと歓喜に染まっていた。
翠は、跳ねるように駆け出した。監視官から逃れようとしたその動きは、しかし監視官が軽く手を伸ばすだけで簡単に止められてしまった。
監視官は翠の装束の襟を掴むと、そのまま力任せに地面に押し倒した。俯せに地面に押し付けられた翠は、さらに腕を抑えられ、身動きが取れなくなる。
「嫌っ…!離して!」
「翠様…いけませんよ、こんな所にいらっしゃっては。すべての軍人に伝達が行き渡っています。皇族の身なりをした少女を見かけたら拘束せよ、と。貴女の顔写真まで配布されて」
無表情にそう言っていた監視官の表情は、次第に歓喜の笑みに歪んでいく。黒瀬はその様を見ながら、子供ながらに恐怖を感じた。
「ククク…フフフフ…佐官どもが血眼になって捜しても見つからなかった皇族…まさかこの俺が見つけられるとは!ついてやがる!飛び級昇進間違いなしだ!」
抑えつける力の強さに、また自分が拘束されていることの恐怖に、翠の目から涙が溢れる。黒瀬は傍らで呆然と見つめている。
監視官の言っていることがわからない。翠様?拘束?皇族?どういうことだ?しかし、何よりはっきりしていることは。自分の目に映っているこの男は。
大人。汚い大人だ。
大人の笑顔はいつも汚い。母さんは苦しいのにいつも笑顔でいた。この地区の大人達は、特に自分に興味も無いのに愛想笑いを浮かべて構ってきた。この男は、下卑た考えを持って歪んだ笑顔を浮かべている。
大人はいつも勝手だ。自分の父親は家を出ていって、母親は自分を残して死んでしまった。残された自分は、軍人達によってこんな場所に連れてこられてしまった。この男は自分の利益の為に翠を捕まえている。翠が痛がっているじゃないか。どうしてこんなことをするんだ。
『くろせくん』
黒瀬の頭の中に、掠れて消え行きそうな声が聞こえてくる。黒瀬は自分の耳に手を当てた。翠が、何か言おうとしている。
『たすけて』
心の中の声の筈なのに、小さくて、泣きそうで、悲しくて…そんな声を聞いた黒瀬は、自分の中にある感情がもはや恐怖ではないことに気が付いた。
やめろ。翠を虐めるな。
俺の友達だ。俺を助けてくれたんだ。
どうしてそんな酷いことをするんだ。翠はすごく良い子なのに。こんな俺と友達になってくれる、すごく優しい女の子なのに。
やめろ。
やめろ、やめろ!
その手を離せ!
黒瀬は駆け出した。
翠に馬乗りになっている男の左手に飛び付く。とにかく翠から引き剥がそうと、必死にもがく。
「何をする、糞餓鬼!離せ!」
監視官は鬼の形相を持って黒瀬を睨み付ける。しかし、黒瀬は監視官を睨み返して一歩も引かない。監視官は舌打ちをし適当に黒瀬を振り払おうとするが…出来ない。予想以上に黒瀬の力が強いのだ。
「おい、いい加減にしないと…」
「…お前なんか」
監視官はさらに口調を強めるが、その言葉は途中で途切れる。左手に強い痛みが走ったのだ。黒瀬は手の力を更に強める。
「お前なんか、お前なんか!こうしてやる!」
「っ!?痛っ!?」
メキメキと監視官の腕が悲鳴を上げる。
「ぐああぁっ!?痛ぇっ!?やめろ、お前、何を!」
「翠を虐める大人め!消えろ!」
「があああぁぁぁ!?」
ボキリ、と綺麗に監視官の腕が折られた。監視官は悲鳴を上げるが、まだ黒瀬の力は弱まらない。すると次第に、体の内からも痛みが生じてきた。
「お前なんか、こうだ!」
「ああぁ…熱っ!?」
心臓が、胃が、肺が、焼けるように熱くなっている。黒瀬の腕の力に比例するようにして熱は増していき、監視官は自らの胸を手で掻き毟る。
「お前なんか、死んでしまえ!」
「熱っ、熱い!熱いぃ!あぁぁぁあああああ!!!」
監視官は身体中を駆け回る熱に耐えきれず、腕を振り回して暴れる。黒瀬はその力によって振りほどかれるが、その後も監視官は地を転がり回り、叫び続ける。
「あぁっ!ああああぁっ!がああぁあぁぁあああああああ!!!」
そして次の瞬間、監視官の体は火に包まれた。真っ赤に燃え盛りながら、監視官は人のものとは思えない叫び声を上げ続け、そこら中をもがいて転がる。次第に声が掠れていき、火の勢いも弱まっていく。声が聞こえなくなる時には、監視官は既に黒焦げの塊となっていた。
人さえ殺してしまう、力…。
黒瀬はバクバクと脈打つ心臓を感じ震えながら、自分の手のひらを見つめる。これが、俺に与えられた力。俺は、人を殺してしまった…。
呆然とする黒瀬に、突然翠が抱きついてきた。
「黒瀬君…ありがとう…」
嗚咽で掠れた声になりながらも、翠は確かにそう言った。黒瀬はハッと我に返り、翠を抱きしめ返した。
…人を殺した?違う、翠を虐める悪者をやっつけたんだ。
翠に言われた。この力をどう使うかと。その答えが今分かった。
この力は、翠を守るために使う。俺は、翠を虐める奴等から翠を守ってみせる。
だって、友達だ。
翠は泣きじゃくりながら、黒瀬を抱きしめ続けた。黒瀬もずっと抱きしめ返していた。