翠
水流の音が鳴り止まないことで、自分が数分の間ぼーっとしていたことに気がついた。鏡に映る自分の顔は、帝国軍大佐とは思えぬまぬけ顔をしている。蛇口から手を離し、軽く手を拭く。
腕時計を見る。あと一時間ほどで合議が始まる。ささっと手洗いに寄るつもりが、結構時間を潰してしまったようだ。早めに将軍と皇帝の元に戻った方がいいだろう。二人きりにしておくと、永遠に静かな口論が続いてしまう。
鬼塚が手洗いを出ようとすると、ポケットから財布がこぼれ落ちた。慌てて拾うと、中に差し込んである写真が目に入ってきた。美しい女性、緊張した男性、小さな赤ん坊、幸せな家族。何故こんなものを捨てられないのだろうか。鬼塚は首を振って財布をしまった。
ふと、黒瀬の事を思い出した。今は休暇中らしいが、上手くリラックス出来ているだろうか。部下とは上手くやっているだろうか。…何か、思い詰めているような気がするが。
いや、思い詰めていない訳がない。黒瀬は余りにも色々な物を抱えすぎている。…それは、自分のせいでもあるのだ。
静かな軍施設の中、鬼塚は一人回想に耽った。
一人の長身の男が話し掛けた。
「おい、あいつって…何したんだ?」
話し掛けられた眼鏡の男は、長身の男が指差す方を見る。一人の少年が、食堂の椅子に座って独りで食事をしていた。
長身の男は定食の乗ったお盆を持ったまま、食事をしている眼鏡の男の横に座った。
「あんな子供がJ地区に居るなんて、犯罪でもやっちまったのか?それとも両親が捕まったとかか?」
眼鏡の男は、食事の手を止めないままに答えた。
「いいや、何もしてないよ。というか、ここは犯罪者の地区じゃないだろう。どうやらあの子、母子家庭だったらしくてな。母親が死んで、親戚との繋がりも薄くて、最終的にはここに連れてこられたみたいだ」
長身の男は少年を見る。無表情で、静かに動き、瞳は光を宿していない。ただ機械的に、食事を口に運んでいる。
「可哀想になあ。あの歳でここに来ることになるなんて。しかも誰が悪いわけでもなくて、運が悪かっただけってか」
「元々ここに来る奴らなんて、少なからず運が悪かった奴らばかりだよ。あの子はたまたま、そうなるのが早すぎただけさ」
「名前は、何て言うんだ?」
「あー…確か」
少年は食事を終え、配膳台へと食器を運び始めた。その背中を見ながら、眼鏡の男は言った。
「黒瀬、だったかな」
食堂を出て、薄暗い廊下を歩いていく。奇異の視線を向けられることにも慣れてしまった。どうせ此処にいる大人達なんて、ろくなことを話しやしていない。
J地区は、コロニー内の地区の中でも異質なものだった。犯罪者と、様々な理由で普通の生活が困難になった者…例えば、失業、借金、親の死を経験した者…が暮らす地区である。尤も、前者と後者の居るエリアは分けられてはいるが。
この地区に居るものは常に監視され、行動は制限され、自由は許されていない。風呂、食事、就寝の時間は厳守しなければならないし、昼間は帝国のための労働をさせられる。労働成果や生活態度の優秀だった者は、一般社会人に戻る権利が得られることもある。
黒瀬は、先程大人達が話していた理由で此処に来た。そのことについては、別に悲しいとも思わなかった。
母親はいつも無理をして笑っていた。自分の見ていない所では泣いていた。日に日に弱っていく母親を見るのが苦痛だった。母親が死んだ時は悲しかったが、やっと楽になってくれたのかも、とも思った。
母親が死ぬまでに、一般教養が得られる程度の教育は済んでいた。それまで学んだことからしても、世の中に希望は何も持てなかった。自分が不幸だとも思わなかった。人は社会のために生き、働いて、みな平等に死んでいくのだ。自分は少し寄り道をさせられるだけで、少しだけ孤独を味わうだけで、ゴールは皆同じなのだ。
自分のことをつまらない奴だと思う。大人ぶって世界を分かった気になっている、生意気な子供だとも思う。…いいだろ別に。俺はこんなに早く母さんを亡くしたんだ。心が歪んだって仕方がないだろ。いじけた思いが心を支配していた。
自分の部屋に戻った。電気を点けると目に入ってくるのはベッド、収納棚、トイレ、机、他には何もない。シンプルすぎる、独房のような部屋だ。
入浴予定時間までは30分ちょっと余裕がある。それでもやることなど無いので、ベッドに寝転んだ。つまらない世の中、寝ている時は時間が加速して良かった。
目を閉じて、早く眠りに落ちないだろうか、などと考える。意識が飛ぶまでの時間は、ひたすら退屈だ。
やがてどれくらいの時間が経ったのか、現実と夢の区別が曖昧になり、自らの思考が闇の中に溶けていくのを感じ始めた頃であった。部屋の隅の方で、何か物音がした気がした。家鳴りか何かだろうか。気にすることではない。しかし、目を閉じて過敏になっている精神は、その物音をやたらと捉えてくる。何度も意識の外に飛ばそうとするが、その度に耳に入り込んでくるのだ。
億劫に思いながらも、目を開けて起き上がった。物音は窓の方からしている。コンコン、コンコン、と何かが窓を叩いている音がしていた。
その瞬間、背筋がゾクリとした。ここは十階。人が登れる高さではない。隣の部屋の者が渡ってきて悪戯をしている?何のために?
ゆっくりと窓際に近付いていく。ベッド近くからは、ベランダに何か居るようには見えない。見えない…者が…居るのだろうか…?
そんな筈は無い。何か物が引っ掛かっているとか、窓枠の調子が悪いとか、後は…後は…。
窓に手を付けられる程の距離まで近づいた。やはり何も見えていないのに、音はしっかりとリズムを刻んで、近づく度にどんどん大きくなっていって…。
窓に手を付いて、外を見やる。何もない。何もないベランダがそこにあるだけだ。しかし、確かに窓を叩く音が聞こえる。何が起きているのだろうか?
突然、音が止んだ。黒瀬が訝しんだのも束の間、クスッ、と笑い声が聴こえる。そして、窓の外にじわじわと人の輪郭が浮かんでいき、しゃがんだまま自分を見つめる少女の姿が顕現した。
「うわぁあああ!!!」
窓から飛び退き、尻餅をついた。何だ、幽霊?妖怪?何だあいつは!?
口が動くが、言葉は発せられない。その間に少女は立ち上がり、窓の外から黒瀬を見つめていた。目が合うと、ニコッと笑った。黒瀬は、息も出来ないほど緊張した状態にあった。
『こんにちは』
黒瀬は咄嗟に頭を抑えた。今まで感じたことの無い感覚が襲ってきたのだ。頭の中に声が響いてきている。少女の方を見た。少女は頷いた。
『うん、私だよ』
口を開いたまま、唖然とするしかなかった。今、自分がどのような状況に置かれているのか分からない。だが、自分が話している相手があの少女だということだけは分かる。
『だれ』
驚いた。自分の声が、自分の頭の中に響いていた。何となく思った単語が、音となって発現していたのだ。
『上手く話せないんだね。大丈夫、すぐ慣れるよ』
少女はそう言って、再び窓をコンコンと叩いた。
『ここ、開けてくれる?』
黒瀬は混乱のためか、逆らうこともしなかった。震えている腰を抑えながら立ち上がると、窓を開けた。少女はぴょんと部屋の中に飛び込んで来た。
少女の姿をよく見てみると、いかにも和風装束、といった感じで、スカートは短めで身軽そうなのだが、全体的には巫女のような感じで落ち着いた雰囲気を感じる。
「君は…」
少女に向かって黒瀬が話し掛けようとすると、口元で人差し指を立てられる。…喋るな、ってことか?
『こっちで、話そ?』
再び、頭の中に声が響いてくる。黒瀬は不思議な感覚を得ながらも、何とか自分の意思を声にしようとする。
『あ…う…君、は、ゆうれい?』
片言のようになってしまったが、何とか文章にはなった。少女はくつくつと笑った。
『幽霊じゃないよ。私は魔法使いだよ』
おどけた口調でそう言う。黒瀬はポカンとして固まっていた。
『私の姿は今、君にしか見えていないの。君以外には、さっきみたいに透明になって見えなくなってるの。それに、この声も君にしか聞こえてないよ。私は、そういう魔法が使えるの』
『魔法使いなんて、居ない』
常識を外れた存在である少女に向けて、黒瀬は意地を張るように言う。
『じゃあ、どうして頭の中でお話しできるの?どうして私の姿が見えなかったの?私がどうやってベランダに上がってきたと思う?』
少女は少し不機嫌になりながら言う。黒瀬は言葉に詰まり、じっと少女のことを見つめる。今見ている分にはただの少女なのであるが。それでも、さっきから起こっていることを否定する事は出来ない。
『…じゃあ君は本当に、魔法使い、なんだ?』
『分かってくれた?』
少女の顔がみるみる内に明るくなっていく。黒瀬はその迫力に気圧されながらも頷いた。 少女は黒瀬に近づいて床に座り込むと、黒瀬の手を取った。
『今日から私達、友達ね?』
『えっ?』
唐突すぎる言葉に、黒瀬は動揺する。
『駄目?』
少女は上目遣いにこちらを見ながらそう言う。黒瀬はお世辞にも、女子が得意なタイプではなかった。このように接触されるとどうしていいのか分からなくなる。だから、二つ返事で同意することしか出来なかった。
『駄目、じゃない』
『やった』
少女は満面の笑みを浮かべた。黒瀬はその様子を直視することができず、横目で見ながら顔は背けていた。しかし少女の喜ぶ様を見ていて、自分自身も嬉しい気持ちになったのは間違いなかった。
唐突に、部屋の扉がノックされた。黒瀬は心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。跳ねるように飛び上がり、とりあえずは「はい!」と返事をした。慌てながら扉と少女を見比べると、少女は面白がるようにして笑った。
『大丈夫、君以外には見えてないよ』
黒瀬はその言葉を半信半疑でしか受け止められなかったが、しかしこのまま返事をしないわけにもいかなかった。少女を訝しげに見つめながら玄関に向かい、ドアを開けた。中年の男が立っていた。監視官だ。
「早く浴場にいかないと、入浴時間が無くなるぞ」
他の者は既に浴場に向かっていたのだろう。自分だけ遅くなっていることを告げに来たらしい。部屋に掛けてある時計を見やれば、自分は随分と長くベッドで横になっていたようだ。
と、その時、部屋に居た筈の少女が居なくなっていることに気が付く。再び自分にも見えないようになってしまったのか?と思いながら視線を監視官の方に戻そうとすると、なんと少女は黒瀬の横に這い寄りながら近づいてきていた。黒瀬が驚きビクリと体を反応させると、少女は再び先程のような笑みを浮かべた。
「どうかしたか?」
その様子を見ていた監視官が、黒瀬の様子を不思議そうに見つめる。黒瀬は監視官の反応で、本当に少女は不可視の状態に有るのだと分かった。慌てて取り繕いながら返答する。
「いえ、何でもありません。分かりました、直ぐに向かいます」
「そうか。じゃあなるべく急いでな」
監視官が扉を閉めると、黒瀬はほっとして息をついた。横の少女を見ると、楽しそうに微笑んでいた。
『そういうことは、驚くからやめてよ』
『ごめんね、私が本当に見えてないって信じて欲しかったから』
『さっき窓越しに見たときに分かってるよ』
『あ、そっか』
少女は笑いながら言った。黒瀬はその様子を見て、何となく怒る気も責める気も無くしてしまい、溜め息をついて首を振った。玄関にしゃがみ込むと、靴を履き始める。
『どこか行くの?』
少女が横から黒瀬の顔を覗き込む。
『…監視官殿が言ってた通りだよ。入浴時間が終わる前に浴場へ行くんだ』
黒瀬は少し顔を反らしながら答える。
『っていうか君は何でこんなところに来たの?』
小さな女の子が、掃き溜めのようなJ地区に来る必要があったのだろうか。当然のような質問が黒瀬の中に浮かんでくる。
『私?私はね…』
その質問に答える時、少女の顔に僅かな陰りが生まれたのを、黒瀬は横目で捉えていた。
『友達が居ないの』
意外と言えば意外…だが、それなりに予想も出来たであろう答え。黒瀬は返答に困っていると、少女は続けて言う。
『私の周りはね、あんまり私の事に興味がある人が居ないの。私の力とか、私の立場の方が興味を持たれてるから』
『それでも、こんな所じゃなくて街に出た方が良いんじゃ…』
『街だと見つかって引き戻されちゃうから、ここが一番都合が良くて。それで色々見て回ってたんだけど…ここは大人ばっかりで、私と同じくらいの歳の子は見つからなかったの。そんな時に』
少女はビッ、と黒瀬の事を指差した。
『君が居た』
黒瀬は少女の方を向く。
『別に俺に関わったって、面白いことなんて無いと思うよ』
至って普通の口調で、黒瀬は言う。少女は優しく微笑んで言った。
『大丈夫、私にとっては外の世界の何もかもが面白いの。だから教えて、君の知ってること。何でも良いから、私に教えて?』
少女はいつの間にか、黒瀬の手を握っていた。黒瀬はそれだけで動揺し、どぎまぎしながら言う。
『う、うん。分かった、分かったよ。俺の知ってることなんて、殆どつまんないことだと思うけど』
『…ありがとう』
静かにそう言う少女の笑顔に、黒瀬は一時の間見とれてしまっていた。こんなに屈託の無い笑顔を向けられたのは、一体いつ振りになるだろうか。いや、もしかすると、周りの笑顔を受け入れるだけの余裕が自分に無かっただけなのだろうか。
そうして様々な想いに耽っていたが、暫くして、自分が何故玄関に座り込んでいるのかに気がついた。
「風呂!」
そう叫ぶと、靴を完全に履き込んで立ち上がった。扉に手をかけようとして、少女の方を見やる。
『俺、浴場に行ってくる。君はここで待ってて。…ああいや、別に何処へ行ったっていいけど』
少女はきょとんとして、黒瀬のことを見つめる。
『どうして?』
『どうしてって、さっき言った通り俺は風呂へ行かないと』
『どうして待たなきゃいけないの?』
『え?』
少女は輝かんばかりの笑顔で、黒瀬の心を更に揺さぶるような発言をするのだった。
『私も一緒にいく!』
「…」
洗濯かごに衣服を投げ入れる。というよりは、上に乗せると言った方が正確かも知れない。多くの住民たちの脱ぎ捨てた衣服で、複数置かれたかごの殆どは山積みになっている。これらの衣服は洗濯されて返却される訳ではなく、一日の労働の中に「洗濯」という項目がきちんと入れられていて、自分達の者は自分達で洗濯しなければならない。
「…」
少し躊躇いながらも、下の方も脱ぎ捨てて山に乗せる。辺りをきょろきょろと見回す。殆どの者は既に大浴場の中に入っているのだろう、これから入ると思われる人の姿は見当たらず、逆に出ていく者がちらほらと見受けられる。その瞬間、背中をがっしりと掴まれた。驚いて思わず飛び上がりそうになる。振り返ってみると、誰もいない。
『早く、そのまま入って』
頭の中に声が響いてきた。正体は透明になっているこいつのようだ。
『どうして肩を掴むんだよ、翠』
翠。先程聞いた、少女の名前である。
『だって、他の人の変なものが見えたら嫌でしょ。黒瀬君の背中で隠してるから、早く中に連れてって』
翠は至って平静にそう答える。変なもの、か。自分から男湯に入っておいてそれは無いんじゃないか。黒瀬はそう思いはしたが、口には出さなかった。
『さっきも言ったけど、女性のいる地区の大浴場を使えば良いじゃないか。わざわざこんな所を使う必要なんて』
『だってここから遠いんだもの。それに、女性地区には黒瀬君が居ないし』
何気なく言った言葉なのだろうが、自分の事を特別視されているようで、黒瀬は少し動揺する。
『…じゃあ、そこでまた同年代の女の子を探すとか』
『もうそんなことしてる時間も無いじゃない。それに、私もう疲れちゃった。もうすぐ入浴出来なくなっちゃうんでしょ?早く入ろ』
黒瀬の反論も虚しく、背中を押されるがままに進んでいく。大浴場の扉を開けると、中から湯気と熱気が溢れ出てくると共に、洗面器の置かれる音や水流の音がうるさいほどに耳に入ってきた。
恐る恐る中に入り、扉を閉める。背中の手は外れていないので、翠も離れていないようだ。
そそくさと浴場の中を突っ切っていき、隅にあるシャワーの前に腰かける。周りを見渡す。皆、特に自分を気にしている訳でも無さそうだ。とりあえず、安堵の息をつく。
肩を掴む感触が離れる。と、そこで、あることに気がついた。
『そういえば、服はどうしたの?どこかで脱いだの?』
『うん、さっき黒瀬君の部屋の中で』
『え』
『部屋を出る前に、透明になってベッドの方に戻ったでしょ?あの時、ベッドの下に隠しておいたの』
『えぇぇ…』
黒瀬は項垂れる。そんなものがもし見つかったらどうなるのだろうか。色々飛び越えて、逆に心配されてしまうのではないだろうか。
『そんなことより早くお湯出してー。右側の壁の前にかける感じで!』
翠は能天気にそう呼び掛ける。黒瀬は半ば諦め気味になりながらも、シャワーからお湯を出して壁の方に向ける。お湯を噴出させると、明らかに何か見えない物質に当たりながら流れていく。かなり異様な光景だった。
『もう大丈夫ー。あとは石鹸で洗ってるから、流すときはまたお願いね!』
『う、うん…』
俺、何をしてるんだろう。幼心に、黒瀬の心は何か空しい気持ちを感じていた。とりあえず時間も無いので、自分の体を洗い始める。
途中でふと横を見ると、不自然に石鹸の泡が宙に浮いていた。その度に慌てて周りを見渡すが、自分のいる位置と湯気のせいもあってか、そこまで気にしている者は居なかった。どう考えてもバレるので、湯船に入るのだけは止めてもらった。
そうして、一時も心の休まらない入浴は終わった。
「疲れた」
言いながら、黒瀬はベッドに倒れこんだ。横では、既に服を着て姿を現している翠がベッドに腰掛けていた。当然、黒瀬以外には姿が見えないようになっている。
『そうだねー』
笑いながら翠は言う。黒瀬は枕に顔を埋めながら、お前のせいだよ、という言葉をぐっと飲み込んだ。そのまま目を閉じ、眠りについてしまおうとして黙っていると、背中に大きな衝撃がくる。
『もう寝ちゃうの?』
『…就寝時間十分前だし』
翠が背中に乗っかって来ていた。 黒瀬は目を半分開けながら、不機嫌そうに答える。
『えー、何かしようよー』
翠は黒瀬の上でボンボン跳ねる。苦しい。苦しいがそれ以上に、翠がぶつかってくる度に柔肌の感触が感じられるのが辛い。
黒瀬は翠の攻撃から逃れるようにして起き上がり、ベッドの上に座った。ベッドの上に二人して座り込み、見つめあって並んでいた。
『あと十分で照明も消されちゃうんだぞ。遊べるものだって無いし、何かすることある?』
『うーん…』
黒瀬の言葉に対し、翠は腕を組んで考え始める。黒瀬は翠の顔を見つめることが何だか恥ずかしく思えてきて、顔を逸らしてしまう。状況はかなり特殊だとはいえ、一緒に風呂に入ってしまったのだ。変に意識してしまうのは仕方がない。
唸り続けていた翠が、あっ、と思い付いたように言う。
『私達、友達になったんだよね?』
『…うん、そうなんじゃない?』
結構強引なものだったような気もするので、曖昧な返事をする。
『じゃあ、友達の誓いをしよ!』
翠は満面の笑みでそう言う。一方の黒瀬は困惑する。
『誓い?』
『うん。何があっても友達をやめませんって誓い!』
『…ええと』
何の意味があるの?とは言えない。黒瀬には、その行動の意味が分からない。そもそも、友達ってそういう物だったっけ?
『ね、良いでしょ?』
翠は顔を黒瀬にぐいと近づけてくる。黒瀬は気圧されて後ろに下がるが、その分だけ近づいてきた。
『ね?』
顔が近い。近すぎる。黒瀬は露骨に顔を背けながら、しかし視線は翠の方に向けながら慌てる。
『うん、分かった。良いよ』
そして、先程のように二つ返事で同意してしまった。
『やった』
翠はベッドの上で、体全体を使って喜びを表す。黒瀬は顔が火照るのを感じながら、また心臓が脈打つのを感じながら翠から離れる。駄目だ、自分はこの子に対しては弱すぎる。そう感じてしまい、何だか情けなく思った。
少女は小指を立てて黒瀬に向けてくる。
『じゃあ、指切りね』
黒瀬も、乗り気にはならないまま小指を立てる。直ぐに少女の指が絡み付いてきた。人肌のぬくもりが、熱いほどに感じられる。触れている面積など、大した大きさではない筈なのに。
『…私の指切りはね、普通の人とは違うの』
向き合っている翠が、少し俯いて言う。
『私は魔法使いだから、不思議な力を持ってるでしょ?…これは私の周りの人達には秘密にしてる事なんだけど、その力は人に分けることが出来るの』
『…それを、俺にくれるの?』
翠はチラと此方を見つめる。
『これは私達の友達の証。これが有る限り、黒瀬君はきっと普通の人よりずっと凄いことが出来るようになる。だから私の友達で居て。絶対離れないで…お願い』
唐突な告白だった。黒瀬は狼狽える。何分夢想のような話なので、約束するかしないか、信じるか信じないかとかいうこと以前に、理解が追い付いていかない。
だが、翠が上目遣いに此方を見つめていること…その瞳が怯えと不安に染まっていることを、自分は確かに見てしまった。そしてとことん、自分は翠には弱いようだった。
結んだ小指に、力を込める。
『分かった。約束するよ』
黒瀬がそう言うと、翠の顔が輝きを増していく。翠は、精一杯の笑顔を見せて、小指を揺らした。
『ありがとう…指切りげんまん、ね?』
その時、黒瀬は小指の先から身体中に電流のようなものが走っていくのを感じた。きっとこれが、自分に与えられた力なんだな、と理解した。
しかしそれよりも今は、この目の前の笑顔が、母親の見せてくれなかった心からの笑顔が…自分の心にぐっと響いてくることを…ただ、一心に感じていたかった。