朱
地球は水の惑星。
生命の宿る、神秘の惑星。
そんな文句を聞くことが出来たのは、どれくらい前の事だったのだろう。
今存在している東京の風景は、全てが凍りついている。
空は分厚い灰色の雲で覆われ、陽光が直接大地に届くことはない。
宙を舞い降りコンクリートに降り積もるのは、雪とガラスが混ざった粉。
道路を流れる水銀は、幾つもの支流を集めて小川となる。
有毒なガスを含んだ大気は、白く濁って遠方の景色を遮断している。
生命の存在を許さない世界。繁栄していた東京の姿は、そこには無い。
背の高い建物が密集している中、唐突に開けた土地が現れる。かつて建物があったであろうその場所は、歪に入り組んだ町の中で、抉り取られたかのように美しい円を作っている。まるで原生林の中にぽつんと置かれた湖の如く、その場所は存在していた。
これは、「蓋」。「盾」とも呼べるだろう。
広く分厚い円の蓋の下には、空間が広がっていた。密閉され、外の世界を拒絶している空間である。そしてまた、その空間の底にも円の蓋があり、その下にもあり…。
何重にも重ねられた防壁は、やがて終わりを告げる。
代わりに、機械だらけの大きな空間が現れた。薄暗く、上下左右に通路が入り組んでいる。また、至るところに「外敵」から身を護るための銃座やトラップが設置されている。
それらを点検しているのは、黒い機械人形。人間の作業に劣らないほどの―いや、正確さという点で見れば最早人間を越えている技術で、パネルを操作している。
機械人形は一つの点検を終えると、次の点検の場所へと向かう。途中、同様の姿をした別の機械人形とすれ違う。絶妙な距離感でもって、危なげなく、また無駄な動きをすることなく通り過ぎる。空間を見渡せば、そのような光景は至る所で見受けられた。この空間には、ガシャガシャと何体もの機械人形が動く音だけが響いている。
同じような空間がまた続く。今度は「蓋」の時と比較にならないほど、多くの空間が存在していた。何層にも分けられた機械空間は、地下に降りて行く内に徐々に細かい通路に枝分かれしていく。通路は上に向かったかと思えば下への階段になり、収束したかと思えばまた拡散したりと、とにかく分かり辛い構造となっていた。
その内の一つをひたすら辿っていくと、一つの扉に突き当たった。重厚で巨大、複雑で堅牢なその扉は、出入りをするためのものというよりは、出入りも出来る防壁のようなものだった。
そして、それもやはり「蓋」だと言える。外界と内界を分けるものではなく、内界自体を分かつためのものであるが。
扉を抜ければ、そこは別世界。
先ほどまでの無機質な光景が夢かと思えてくるほど、異質な光景が広がっている。
街。かつて地上から失われたはずの東京の街が、そこにあった。
目の前に在るのは、間違いなく刺激的な光景。特に今の自分にとっては、殺人的と言っても差し支えないほどの。
昼過ぎの中華料理店。ピークは既に過ぎ去り、店内にはちらほらと空きテーブルが見られる程度の時間帯。
そこかしこに並べられた料理からはもくもくと水蒸気が上がり、視界を遮るほどである。それに付随している香ばしい匂いの素晴らしさなど、言うまでもない。
昼に飯を食べ損ねたので、とんでもなく腹が減っていた。だからこの、自分が箸で掴んでいる小籠包だって、直ぐにでも咀嚼して胃のなかに送り込んでやりたいのだが…。
「あれ?少佐殿、食べないんですか?」
前方から、砕けた口調の声が掛けられる。
少佐と呼ばれている男…黒瀬は箸を置き、目の前の少女に目を向ける。先程まで自分に向かって声を出していたであろう口には、既に春巻が突っ込まれていた。そして、驚きすら覚えるほどのスピードで咀嚼される。
彼女は満足気にそれを飲み込むと、再び声を掛けてきた。
「少佐殿は、中華はお嫌いでしたか?」
言い終わるや否や、肉まんに齧りついた。
「…いや、中華料理は大好物だ」
表情を全く変えずに返答する。
「じゃあ、遠慮しないで食べましょうよ」
右手で肉まんに齧りつきながら、左手で春巻の残っている皿を押して近付けてくる。
その態度に黒瀬は眉をひそめつつ、一応平静を装って言葉を返す。
「特務少尉、君は今回が初任務だったな」
「ふぁい」
特務少尉と呼ばれた少女は肉まんを咀嚼しながら返答する。
「俺と会うのも、これが初めてになるな?」
「んぐっ…はい」
今度は茶で口の中の物を流しこんで答える。
「今まで色々な部下と対面してきたが」
「ふぁい」
炒飯を掻き込みながら答える。
黒瀬は口角をひくつかせる。
まだだ、まだ怒りを爆発させるには早い段階だ。対面してから一時間も経っていない。軽率な行動は慎むべきだ。
この部下が何を考えているのかは分からないが、まだ本質が見えていないだけかも知れない。あるいは、こちらの動向を観察しているのか。
…いや多分ただの馬鹿だとは思うが。
「上官と初対面でこんなに…リラックス、している者は君が初めてだ。尊敬に値する。」
考えた末、できる限り軽い表現にしておいた。今の黒瀬に出来る、精一杯の「解れよ」というアピールであった。
黒瀬が笑って許せる、最後のラインであった。
その皮肉は彼女に…。
「えっ?いやいやそんな、自分なんてそんな大した者じゃないですよ。まあ確かに緊張しづらいことにはちょっと自信がありますけど!」
伝わっていなかった。
彼女はほんのりと頬を朱に染め、もじもじと手を弄くりながら照れている。態度を改めさせるどころか、これでは逆効果だ。
よし、駄目だ。
俺は、そんなに良くできた人間じゃない。というか、正常な人間ならここで黙っているべきではない。
上官として、新人の教育をすることは義務でもある。
黒瀬は拳を固く握りしめ、肺に息を送り込む。
心に溜め込んだ怒りを爆発させ、机に拳を降り下ろして怒号を上げる…。
「お待たせしました、麻婆豆腐と追加の野菜春巻でございます」
「おおっ!?来ました、来ましたよ少佐!」
…直前に、店員がやって来た。少女も歓喜の声を上げ、また黒瀬の方に皿を勧めてくる。
店員の前で怒鳴るわけにもいかない。振り上げた拳は行き場を失い、へなへなと高度を下げて机の上に墜落した。
出鼻を挫かれた。
ついでに怒る気も失せた。
後に残ったのは、彼女に対する呆れと空腹感のみ。
黒瀬は一つため息をつくと、再び箸を掴んで料理を引き寄せた。
堅っ苦しい説教も、自分の怒りも、新人の態度も、もはや後回しだ。
今はただ、腹の虫を黙らせることだけ考えよう。
そう決断すると、目の前の少女に負けず劣らずのスピードで料理を掻き込み始めた。
胃の中の空白を完全に埋め、暫し食後の茶を楽しむ。
絶品の料理を食べ終え、改めて店内を見渡してみると、料理だけでなく体裁も中々良い店だと実感できる。
所々に中華風の彩飾が見受けられ、店内を彩っている。それらの綺羅びやかさを無駄にしないほど清掃がいきとどいており、大衆食堂とは一線を画すような高級感がある。
また個人的な意見で行くと、接客にきちんと店員が出てくるところも素晴らしい。
最近は接客ロボットの量産化・安価化により、店頭に全く人が出てこない店も増えている。店にとって効率的であり、客にとっても気を遣わないので面倒臭くない…とか言われているが、どうにも慣れない。やはり、人の相手は人がすべきであろう。
煙草を取り出そうと思ったが、流石に止めておく。
仮にも初対面の部下が目の前に居るから…というのも、まあ無くはないが、さっきのやり取りの影響で、そのような配慮の思いは割と薄い。
黒瀬のモットーとして、煙草を嗜まない女性の前では自分も吸わない、というのがある。
目の前の少女に直接聞いてはいないが、まあ吸わないだろう。…というか、「少女」という表現からも分かる通り、
たった今食事を共にした、軍人であり部下である女性は、どう見ても未成年である。
「いやー、おいしかったですね。私あんまり本格的な中華は食べたことが無かったんですけど、こんなにイケるとは思いませんでしたよ!」
少女は上機嫌にそう言う。
黒瀬の機嫌は反比例して落ちていく。
「…少尉」
「はい?」
黒瀬が声をかけると、茶を啜っていた少女がこちらに目線を向けてくる。相変わらず、ムカつくほど屈託の無い笑顔だ。
なるべく厳かな口調にしつつ、話を始める。
「端的に言って、君の行動は少しおかしい。俺でなかったらテーブルを蹴り飛ばして本部に戻り、新しい部下の手配を願い出るほどにだ。君はもしかしたらこういうことにあまり慣れていないのかもしれないが、上官と初めての顔合わせをするときは…」
少女はこちらをじっと見つめている。ちゃんと話は聞いているようだ。
「…いや、初めてでなくても平常の場合においてもそうだが、相手に失礼のないように細心の注意を払うべきだ。少なくとも、上官からのメッセージで顔合わせの場所はどこがいいか聞かれた時に『じゃあD区三十番十号の中華料理屋で!』とかは言わない。とりあえず『少佐のご都合の良いところで』と言うとか、自分で指定するにしても静かな喫茶店とかレストランとか…そんなところだ」
少女はさっきからこちらを見つめて固まったまま動かない。少し顔色が悪くなっている気もするが、構わず続ける。
「あとはイメージの問題だが、上官と初顔合わせ、しかも初めての任務とあれば、緊張でガチガチになっている者が大半だ。そんな中で君のような態度を取るものが居たら、舐められていると思われても不思議ではない。これは人としての常識とか軍人としての規範という面からも言えるが、自分の身のためにも重要だ。さっき言ったみたいに激怒して帰ってくれるなら良いが、そんな態度で居たらぶん殴られても文句は言えないな。痛い目に会いたくないんだったら、少し自分の行動を見直すべきだな。…まあ、そんなところだ」
話を終え、一つ溜息。茶に手を伸ばし、喉に流し込む。
こんな説教をしようが、相手がわざと失礼な態度を取っていたとしたら何の効果も無いだろう。適当に返されるか、嘲笑われて終わりだ。
それでも黒瀬がわざわざこんな面倒なことをしたのは、この少女が割と本気で「馬鹿」なのだと確信したからだ。
ん?そんなに馬鹿なら説教しても治らないんじゃないか?…まあいいか。
チラリと少女の方を確認すると、未だに固まったまま動けていない。
まさか、今の話ですら理解できなかったというオチではないだろうな。
「少尉、今の話について何か言いたいことは…少尉?」
黒瀬が少女に話しかけるのとほぼ同時に、少女がゆっくりと動き始めた。疑問に感じて会話を中断する。
少女は椅子を引いて立ち上がる。そして一歩一歩踏みしめるようにして、黒瀬の横にまで歩き、止まる。
…何をする気だ?
黒瀬が疑問に思いながら様子を伺ってっていると、少女の体が下に下がる。足を曲げ、屈んだのだ。
そのまま手を床につき、頭を下げ、足は正座。そう、それは正に日本古来から存在する、最早伝統芸能とも呼べる謝罪方法…
「申し訳ありませんでしたーーーーーーーーっ‼」
土下座をしたまま、少女は叫んだ。
「新世代計画」。話は聞いていた。
人類の更なるステップアップを目指す計画。
具体的には、遺伝子から何から色々と弄りまくった新人類を作り出し、それらと普通の人間、またはそれら同士で子供を作らせることで、人類の基礎能力を遺伝子レベルから向上させるというものだ。
気の遠くなるほど長い目で見なければならない上に、構想からして割とぶっ飛んでいる計画だ。学者様と軍の考えていることは分からない。黒瀬は、そんな程度の認識しか持っていなかった。要するに他人事だった。
だから、新しい任務の概要を聞かされた時は、耳を疑った。
自分の部下に、その「失敗作」が配属されると聞いた時は。
失敗作と言っても、計画の最重要項目である「繁殖能力」が認められない、というだけだ。遺伝子を弄くり回した結果、人間本来の能力が失われることは良くあることらしい。
しかし、軍務用に作られた体は伊達ではなく、普通の人間とは比較にならないほどの身体能力、思考能力、反射神経などを持っているらしい。…目の前の少女が思考能力を持っているかどうかはともかく。
せっかく作った戦闘要員を無駄にするのも勿体ない。ならば、純粋な戦闘能力の実験の意味も兼ねて、現在起きている問題に実戦配備してみることになった。
というのが、今回の顛末である。
そして、このような事態を招くことになった原因である。
「このような事態」とは、土下座を頑なに止めない少女を無理やり床から引っぺがし、椅子に座らせたはいいものの、未だにテーブルに額を押し付けて謝罪しているという事態である。
「すみませぇん…」
「…もういいから顔上げろ。何回目だこの会話は」
空の湯呑を片手で弄りながら、黒瀬は言葉を返す。
混雑していない時間帯で良かった。軍人がいじけてテーブルを占拠しているなど、みっともないにもほどがある。
少女はテーブルに伏した顔を少し上げ、目線だけこちらに向けて来る。
「とにかく明るく振舞っておけば大丈夫だって…話しかけやすいような雰囲気を醸し出すんだって…そうするのが一番だって、同期が言ってたんです…」
「それはスパイ任務か男を引っ掛ける時だけにしておけ」
「うぅ…分かりました…」
そう言うと、再び顔を伏せた。
とにもかくにも、こいつは常識というものを知らない。
幼い頃から戦闘に役立つ知識ばかり詰め込まれて、社会常識などは二の次だったのだろう。しょうがないといえばしょうがない。
しかし彼女らの教育を行う教官には絶対服従だったはずなので、目上の者へ取るべき態度は心得ているはずだろう。だとしたら、その変なことを吹き込んだ同期を恨むべきか。社会への知識を持たぬ彼女ならば、教えられたことを素直に受け止めてしまっても不思議ではない。
あるいは、彼女の教育だけ軽視されていたか。「失敗作」の彼女には、戦闘技術だけ吹き込んでおけばいいということになっていたのだろうか。
どんなことが原因であるにせよ、自分に特定できることではない。する意味もない。
黒瀬は頭を切り替えることにした。
「君の態度についてこれ以上言うことはない。今後、自分なりに気を付けてくれればいい。だが、戦闘能力については…期待してもいいのか?」
「っ!っはい!それはもちろん!」
それまで沈んでいた少女が突然立ち上がり、身を乗り出して主張した。少しビビった。
「…虚勢じゃないだろうな」
「ホントに、ホントに大丈夫です!それだけには自信があります!むしろ、それ以外には全く自信が無いくらいです!」
「そうか。最後の一文が致命的だが、そこについては信頼しておこう」
「任せてください!」
両手を胸の前で握りしめ、少女は笑顔で応える。あの落ち込み様は何だったのだろうか。
実際、戦闘においては活躍してもらわないと困る。
今まで、基本的な「反乱分子」相手の任務ならば三人、「外敵駆除」ならば四人の部下が配属されていた。人手不足や簡単な任務では二人の時も稀にあった。しかし、今回は彼女一人である。
それだけ、戦闘面における上層部からの信頼度が高いということだろう。その分、期待外れだった時のリスクが高い。
そんなことを考えていると、目の前にあるキラキラとした笑顔が目に映った。
…心配だ。
気を紛らわすように、ポケットから折りたたんである紙を取り出した。任務の詳細が書いてある書類だ。
「あと、君に聞きたいことがもう一つあるんだが」
「はい、何でしょう?」
きょとんとする少女に向けて書類を差し出し、その中の項目の一つを指さした。
「これ、何だ?」
「私の名前ですね」
「ああ、そうか」
黒瀬は再び書類を手元に引き寄せ、その項目を凝視する。
『実験体A 8号』
「……」
名前、か。
目線を再び少女に戻す。
「もうちょっと、名前らしいのは無いのか?」
「うーん、ずっとそれで呼ばれてたので」
「仲間内での愛称とかは?」
「無いですねぇ」
「そうか」
当たり前か。
元々、真っ当な人間になるために育てられたわけではない。
「あ、でも」
少女が思い出したように切り出す。
「また同期から聞いた話になっちゃうんですけど」
「出だしからすこぶる不安なんだが」
「こ、今度のはちゃんとしてます!…多分」
少女は顔を真っ赤にしてそう言い張る。本当に表情豊かだ。
「とにかく!その名前じゃ呼びにくいし可愛くないから、その子は自分であだ名を考えて、その名前で呼んでもらうことにするって言ってました」
「そうか」
そんなことを打診したら、呆れられるか聞き流されるかだと思うのだが。
「可愛さが欲しかったなら、仲間内で愛称を作っても良かったんじゃないか?」
「変な呼び方してたら、教官に怒られちゃうんで」
「…そうか」
その辺はちゃんと言われてるのか。上官に言っても普通に怒られると思うんだが。
「というか、仲間と普通の話もするんだな」
「普通の話って、どういうことですか?」
少女…いや、実験体A8号?が首を傾げる。我ながら変な言葉だった。
「ああ、いや、何でもない」
戦闘用の教育しか受けていないなら、訓練と勉強の時以外は監視され、殆ど何もない個室で独り過ごすのかと想像していた。
しかし仲の良い同期と談笑する事もあったようだし、女子っぽく「可愛さ」を求める感情を持っている子もいるようだ。人並みの扱いは受けているということだろうか。
「それで、君は何か考えてきたのか?」
「あだ名ですか?」
「ああ」
「うーん…自分は別にそういうのに頓着しないんで、考えてないですねぇ」
まあ、「実験体A 8号」を何の躊躇も無く自分の名前と言ったので、そうだとは思っていたが。
初対面の態度からして、全く可愛さは求めていなかったしな。
「あ、でも」
少女が手を合わせ、何か思いついたような仕草をする。こちらは不安しか湧いてこないが。
「やっぱり、今の話をしてたら欲しくなってきちゃいました!」
「……そうか」
こいつ、考えたことをそのまま口から出しているんだろうな。脳にキャッシュが溜まらなくて大変効率的なことだ。
そんな事を考えている黒瀬に対し、少女は満面の笑みで両手を差し出してきた。
「だから、自分に名前を付けてください!」
「断る」
黒瀬は少女の両手をバシンとはたき落とした。
「え、ちょっと、早すぎじゃないですか⁉もうちょっと悩んでくれてもいいんじゃないですか?」
少女ははたき落とされた両手でテーブルをバンバンと叩きながら抗議する。
「欲しがっているのは君だろうが。何で俺が考えなきゃいけない」
「愛する部下の為だと思って!」
「まだ出会って二時間と経ってない部下をどう愛せと」
「これから愛する為に必要でしょう⁉」
「必要ない。愛する必要もない」
淡々と述べる黒瀬に対し、少女は悔しそうに拳を握りしめる。
「ぐぅ…それだけじゃないです、このままの名前だと呼びにくいじゃないですか。少佐殿もさっき言ってましたよね!このまま『君』だけで通すつもりですか⁉」
まくし立てる少女に対し、黒瀬は一瞥すらくれずに、腕時計を見やる。もう食事を終えて大分時間が経ってきている。早く店を出た方がいいだろう。
鞄と伝票を手に取り、立ち上がった。
「さあ、顔合わせ兼食事会はもう終わりだ。明日から任務に入るからさっさと帰るぞ、少尉」
黒瀬は平然と言い放つと、会計へと向かった。
置いて行かれた少女は呆然としていたが、離れていく上官の後ろ姿を見ながら、ハッと我に返った。
「うう…ズルいーーーっ!」
少女は暫く席で意味もなく悶えた後、急いで黒瀬に付いていった。
店を出て暫く歩くと、階層間エレベーターに乗って地区を移動する。
普通のエレベーターの比ではないほどの大きさで、学校の校庭くらいの広さはある。一度に運ぶ人の多さを鑑みれば当然だが。
幸いにもラッシュの時間帯は避けられていたので、スペースには余裕がある。上昇していくエレベーターの中、黒瀬は眼下に広がる街を眺めていた。
この世界は、都市を丸ごと地中に埋めたような構造をしている。
地底都市、通称「コロニー」。その内部は横方向に広がりすぎないよう何層にも分けられ、その間を行き来しながら人々は暮らしている。
それぞれの階層は個々に特徴を持っている。先ほどまで食事をしていたのはD地区。民衆向けの百貨店や娯楽施設などが多く立ち並ぶ階層である。買い物客目当ての食事処も多く、有名店も多々存在する。
これから向かうのはC地区。有名な貿易企業や、機械部品の製造会社などが立ち並ぶ、ビジネス街が特徴の階層だ。
暫くすると、街の景色は暗闇に取って代わられた。階層の天頂を越え、上の階層の下部へと向かっているのだ。そしてまた少しの時間の後、エレベーターは上昇を止め、案内板が「C地区 三十番」と表示した。
黒瀬が出入り口に向かう。少女もその後に続いた。
機械音声が注意を促した後、巨大な扉が開く。扉の外はまだエレベーター用の改札内なので、外の様子は伺えない。
扉から無機質な金属の通路へ出ると、エレベーターの出入り口の左右に、一体ずつ黒い機械が置かれている。
人間よりも一回り大きい機械人形。それはこの社会においては見慣れた物で、コロニー内の至る所で利用されている。色によって役割を分けられており、今ここにいる青いロボットの名前は「アパタイト」。警備用ロボットだ。
長い通路を抜け、改札を抜ければ、そこにあるのはやはり街。先ほどまでとは違い、いかにも企業エリアといった雰囲気だ。高い建物と、整備された道路が目を引く。
思っていたよりも時間が経っていたらしく、街は夕焼け色に染まっていた。ホログラムで映し出された夕日が眩しい。
黒瀬は軍用宿舎への地図を頭の中に思い浮かべ、歩き出す。
「はち…実験体えー…はち…エイト…」
後ろからぶつぶつと呟く声が聞こえてくる。店を出てからずっとこの調子だ。
どうやら、何としてでもあだ名が欲しくなったらしい。自分が頑なに断ったので、意地になっている部分もあるのだろう。黒瀬は溜息をついた。
「エイト…エー…ふむ…英語を組み合わせて…」
何より、この呟きの内容からして、ロクな名前が出来上がりそうにないのが不安である。
取りあえず無視しておくことにする。変な名前が来たらまた拒否するだけのことだ。
黒瀬はそんな風に思いつつ、夕暮れのビジネス街をずんずん歩いて行ったすが
やがて、日が殆ど沈んだくらいになって、宿舎へと到着した。ビジネス街から少し離れ、住宅や公園などが密集している地区の中、大きな黒塗りの建物が良く目立つ。
入り口で帝国軍手帳を見せると、受付で指定されている部屋の鍵を受け取る。部屋は三階にあるので階段へ向かおうとするが、背後の気配が無くなったことに気が付き、振り返る。
少女はこの手の事が初めてだったのだろう。慌ただしく鞄の中の手帳を探したり、部屋に関しての説明を受けたりしている。やがて手続きを終え、鍵を受け取ると、それをまじまじと見つめ、黒瀬の方へ駆け寄ってきた。
「お待たせしました!」
「ああ、全くだな」
嫌味ったらしく言ったつもりだが、少女は笑顔をピクリとも崩さない。多分何も理解できていない。
「私も、専用の部屋って貰えるんですね」
少女は嬉しそうに言う。
「そりゃ…貰えるだろう。任務中野宿でもするつもりか?」
「いえ、少佐殿と相部屋なのかと思ってました」
「……は?」
少女があんまりにも平然とそう言ったので、黒瀬は返す言葉が一瞬無くなった。
「そんなわけ無いだろ」
「そういうものですかね?」
少女はきょとんとして黒瀬を見つめる。
常識が無いというか何というか。そもそも、常識の概念がまるごと全部ずれているのかもしれない。
黒瀬は相手をするのにも疲れてきたので、少女に背を向け、さっさと部屋へと向かうことにした。
宿舎の部屋の内装は、階級によって当然異なる。少女の部屋は、黒瀬より一ランク下の二階にあるものだ。
しかし、少女は宿舎に来るのも初めてらしいので、部屋までは案内することにした。
部屋の前に着くと、とりあえず中に入り、荷物を置かせる。いきなりベッドにダイブしたり、引き出しという引き出しを開けまくったりしていたので、ベッドに腰掛けさせて落ち着かせる。
そのまま部屋の使い方や鍵の管理などを事細かに説明し、明日の予定もついでに言っておいた。
「…だから、六時半には部屋を出られるように準備しておけ。何か質問は?」
「無いです!」
「そうか」
そういう風に言い切られると、すこぶる不安になってくるが。まあ、これ以上何を言ってもこいつは変わらないだろう。
「…それで」
黒瀬は予定表に目を落としたまま、尋ねる。
「決まったのか?名前」
「あっ、えーと…」
少女は少し答えに詰まった後、俯き、頭を掻きながら困ったように言う。
「…全然、思いつかないんですよねぇ。あんまり考えたことも無かったんで」
「そうか」
黒瀬は、目線を変えずに答える。
そして、辺りは静寂に包まれる。
黒瀬は説明を終えたが自分の部屋に行かない。少女も、上官の話が終わったのかそうでないのか分からず、自分の足元に視線を泳がせるだけである。
しばらくそんな状態が続いたが、唐突に黒瀬が口を開いた。
「アカネ」
「え?」
声に出されたのは、その一単語。少女は顔を上げ、黒瀬の方を見上げる。相変わらず、目線は予定表に向いたままだ。
「アカネ。名前だ。…別に気に入らなかったら使わんでもいい」
黒瀬はそう言うと、目線をそっと少女の方へ向けた。
目の前では、輝くほどの笑顔がこちらを見つめていた。
「はい!気に入りました!すっごく気に入りました!少佐殿が考えてくれてたなんて、感激です!今日から私は、アカネです!」
ぴょんぴょんと跳ねながら少女…いやアカネは喜ぶ。本当に幼子のような少女だ。あんまりこういうはしゃぎ方を、軍施設の中でして欲しくは無いが。
…。
喜んでもらえたなら、良いか。
口には出さないが、黒瀬はそんな事を思った。
単に髪が朱いからアカネ。その適当な由来も、口には出さないことにした。
「じゃあ、もう特に用は無いな?俺は自分の部屋に戻る。明日の朝まで、何もするなとは言わんが、興味本位で出歩いたりするなよ」
何となく気恥ずかしいので、さっさと退散することにする。黒瀬は、アカネに背を向けてドアに向かおうとした。
「えっ?」
のだが、後ろから声が返ってくる。
「何だ?どこか行きたい場所でもあるのか?」
アカネの方に向き直り、面倒臭そうに問う。
「ああいえ、そういう訳じゃないんですけど…えと、もう終わりですか?」
何か得心していない様子のアカネ。
黒瀬も、アカネが何を聞きたいのか分からない。
「…何か他にやることが?」
「やることっていうか、何ていうか」
段々とアカネの顔が俯き加減になり、耳は朱く染まってくる。
しばらくもにょもにょと何か口籠った後、納得したように言った。
「あっ、そうですよね!一回部屋に帰らないと準備とかありますもんね!」
嫌な予感しかしてこない。とりあえず話だけでも最後まで聞く。
「準備って何だ。そもそも何の準備だ」
「お、お風呂とか…服装とか…ですかね?な、何の準備ってそりゃー…そのー…」
アカネはまた暫く、訳の分からないことを口の中で言う。そして、目線を逸らして、しかしこちらの方もチラチラと見ながら、言った。
「少佐殿の…よ、夜の…お手伝い?」
思い切り左頬をつねった。
「いだいいだいいいいいい‼痛いです少佐!」
「あ、すまん。つい」
手を離してやる。アカネは左頬を押さえながら、恨めしそうな目でこちらを見つめて来る。
「何でいきなりこんなこと…はっ…ま、まさか少佐殿、そちら方面の趣味をお持ちで…?」
「次は右側か?」
「ひぃっ!」
アカネに向かって手を伸ばすと、両頬を押さえてベッドに転がった。
あ、いかん。本当に変な事をしている風になっている。
「…どこでそんな話を聞いた?」
「へっ?少佐殿の趣味に関して…」
「夜の手伝い、の方だ!」
黒瀬はアカネの言葉を遮って言う。このまま変なイメージを定着させられるのは少々、いや多々きつい。
夜の手伝い。そんな下劣にもほどがある考えがアカネ本人から出て来るとは思えない。誰かから吹き込まれたものだろう。…そしてその人物も、おそらくは。
アカネは黒瀬の言葉に対し、目を泳がせながら答える。
「ど、同期からですかね?」
黒瀬は頭を抱え、溜息をついた。やはりか。
「もう、その同期の言うことは信じなくていい」
「え?…ええ⁉もしかして、その話嘘なんですか⁉」
「当たり前だ!」
「ええ~~~⁉結構覚悟決めて来たのに…」
アカネは肩を落とし、ベッドに手をつく。黒瀬は何とも言えない気分でその姿を見ていた。
…そうか、「相部屋じゃないんですか?」ってのは、こういうことか。
その後もよく分からない文句をグダグダと言ってきたので、黒瀬は半ば強引に部屋を出た。
もう、今日は奴の相手をしたくない。
部屋に戻り、一人になった黒瀬は、今日の出来事を思い返していた。
珍しい。自分でそう思う。
今まで、初対面の部下とこんなに話したことは無かった。
中華料理屋での顔合わせの時も、いつもだったら怒鳴って帰るところだったが…まあ、あの時はタイミングが悪かっただけだ。
しかしその後も、慣れない説教をして、部屋にまで行って説明をしてやり…名前まで付けやった。
一体どうしてそんな事をしたのか、自分でもよく分からなかった。
(…しかし)
黒瀬はアカネの顔を思い浮かべた。これ以上は無いほどの、満点の笑顔。
あんな笑顔を向けられたのは、いつ振りだろうか。
(…フ)
いや、そんなことは。
どうでもいいことだ。
恐らく今回の任務が終われば、彼女の実験は終了し、また別の実験を課せられるだろう。
そんな短い付き合いの相手のことなど、どうでもいいことだ。
…そう。どうでもいい…。
様々な思いが、頭の中を巡っていく。
黒瀬の意識は、ベッドの上で、次第に微睡みの中に溶けていった。