M36 アンナとアーサー
小町と別れた日の夜、櫻井家での夕食中に小町からメールが届いていた。
件名:こんばんは
本文:谷山君、まだお隣さんのお家にいるかな?
さっきの話、私の両親にしてもらいたいんだけど、今夜行っても大丈夫か聞いてもらえる?
そのメールを信吾に見せて了承を得ると、すぐに返信した。
バレー家は、千鶴が海雪を風呂に入れ、寝かしつけると言って寝室に引き上げた頃、櫻井家にやって来た。
リビングには信吾と、志信、そしてバレー家の5人が集った。祥太朗は珍しく外出している。
「あの……、早速ですが、小町の目のことで……」
急な訪問を丁重に詫びた上で、持参した茶菓子を渡しながら、小町の父、アーサー・オリバー・バレーは話し始めた。小町よりも薄い緑色の瞳で、流暢な日本語を話す。
「彼女からお聞きになりませんでしたか?彼女は『メドゥーサ』なんかではありません。貴方たちの村で呼ばれている『カルロ』という病は『突発性失明』といって、世界中で症例が確認されています。そして、彼女の『エメラルド・カルロ』という瞳の緑化を伴う重症型は『突発性失明虹彩緑化症』と言います。これもまた、数100万人に1人の割合で、発症する病です」
アーサーの瞳を見つめながら、すらすらとそう話す信吾はまるで学者のようだった。
眉間にしわを寄せ苦しそうな表情で信吾の話を聞いていた母、真志穂は、おずおずと問いかける。
「世界中に症例があるということは……、治るのでしょうか、この目は……」
信吾は真志穂の視線を正面からしっかりと受け止めた。
「目の色を変えること自体は可能なようですが、あなたがおっしゃる『治る』というのは違う意味ですよね?」
「そう……です。この子の目は……、人の心を……」
「それについても、お話したと思ったのですが……」
そう言って、信吾はちらりと小町を見た。真志穂は慌てて首を振った。
「違うんです、娘からは聞いています。ですが……、やはり、その……」
信吾は一度ゆっくりと目を閉じ、小さく頷いてからまたゆっくりと目を開いた。
「マグノリア、おいで」
急に自分の名を呼ばれ、小町は腰を浮かせかけたが、ソファの影から黒猫がすたすたと歩いてきたのを見て、そういえばこの家には自分と同じ名前の猫がいるのだと思い出し、座り直した。
マグノリアは、信吾の前で一度立ち止まると、いつものようにひょいとその膝に飛び乗った。
「マグノリア、どうだろう。君の力を貸してもらえないだろうか」
アーサーも真志穂も、その様子を不思議そうに眺めている。何の脈絡もなく、いきなり飼い猫を呼んだかと思うと、今度は何やら話しかけている。黒猫の方でも、信吾の言葉を理解しているかのようににゃおんにゃおんと鳴いている。
「あの……、すみませんが……」
耐え切れずアーサーが声をかけると、信吾は「ああ、失礼しました」と言って、膝の上からマグノリアを降ろした。
「アーサーさんとおっしゃいましたか。覚えていらっしゃいませんか、この猫」
「はい……?」
突然の質問にアーサーはきょとんとした顔をした。
「彼女は覚えているはずだと言ってきかないんですが……。マグノリア、本当にその姿であっているのかい?」
信吾の言動に慣れているはずの志信でさえも訳がわからなかった。
「あの……」
アーサーが口を開きかけた時、床の上で背中をピンと伸ばしていた黒猫がにゃおんと鳴き、ふわりと発光したかと思うと、黒髪の少女の姿になった。
一体何が起こったのかと信吾以外の人間は絶句していたが、やがて、アーサーは目を丸くして「アンナ……?」とつぶやいた。
アンナと呼ばれた少女はアーサーに向かってにこりと笑いかけると、「お久し振りね、アーサー」と笑った。
一向に事情を呑み込めない面々にアーサーはぽつりぽつりと話し始めた。
小さい頃、僕は黒猫を飼っていたんだ。
名前はアンナといって、とても可愛がっていた。
でも、僕が17歳になる頃、さすがにアンナは年を取ってしまって、日に日に弱っていった。
ある日、僕が学校から帰ってきたら、すっかり弱りきったアンナがまるでついて来いとでも言うように、僕の袖を引っ張るんだ。
どこへ連れてくのだろうって思いながら前を歩くアンナについて行くと、家の裏庭だった。
そこで彼女はゆっくりと振り向いて、いまみたいににゃおんと鳴いたかと思うと、少女の姿になった。
「いままで一緒にいてくれて、ありがとう。猫のままでは言葉を伝えられないから、人の姿になったの」
そう言って、彼女はもう一緒にはいられないと言って、僕の頬にキスをすると、また猫の姿になってあっという間に消えてしまった。
僕は、アンナが死ぬ前に最後の力を振り絞って、お別れをしてくれたのだと思ったんだ。
アーサーはアンナから目を離さずにゆっくりと話した。まるで当時を思い出しているかのように。
「悲しい思いをさせて、ごめんなさいね」
アンナは悲しそうな顔で目を伏せた。
「アーサーさん、彼女は……、猫ではないのです」
次に口を開いたのは信吾だった。
「彼女は、魔法使いです。イギリスの方なら、存在はご存知ですよね?」
「ええ、もちろん……。ですが……」
魔法使い……?マグノリアが……?それじゃ、信吾さんと同じってことなのだろうか。
「彼女は猫の姿を気に入り、その姿でいる時にあなたと出会った。魔法使いの寿命は、猫や、人間とは比べ物にならないくらいに長い。飼い猫となってしまった以上、年も取らずに生き続けるなんてことは出来ない。だから、頃合いを見計らって、あなたに別れを告げたのですよ」
「そんな……。アンナが……?」
「ごめんなさい、アーサー。ずっと一緒にいたかったけれど、死なない猫だなんて気味が悪いでしょう?あなたに嫌われたくなかったのよ……」
アンナはぽろりと涙を零し、俯いた。
「でも、彼女はずっとあなたのことを見ていたみたいですよ。さすがに同じ猫の姿ではいなかったようですが」
「そう……なのかい?」
恐る恐る問いかけると、アンナはゆっくりを顔を上げ、頷いた。
「風になったり、雨になったりして、あなたのそばにいたわ。あなたが日本に行くと知って、私もついてきたの。そしたら、まさか、『仲間』に会えるなんてね……」
そう言って、アンナは信吾の方を振り向いた。
「仲間って……?もしかして、あなたも……」
アーサーは目を見開いて信吾を見つめた。小町も真志穂も恐ろしいものでも見るかのような目で信吾を見つめる。
「まいったな……。僕のことは内緒にしておいて欲しかったんだけど……」
信吾が困った顔をすると、アンナはびっくりしたような顔をして「あら、ごめんなさい」と言った。
「仕方ない。いいんだよ。僕も魔法使いです。ですが、出来れば、まだまだここに住んでいたいものですから、内緒にしていただけると、助かります」
困った顔をしながらも、声はちっともそのようには聞こえない。この人が動揺するのは、愛する妻に関する時だけなのだろうか。
「あ、あのっ、魔法使いなんでしたら、小町の目を……!」
治してもらえないか、という言葉こそ発さなかったが、真志穂の目はそれを訴えていた。
「治すことは出来ません」
信吾は首を振って、きっぱりと言った。真志穂の目に絶望の色が浮かぶ。
「ですが、新しく作ることならできます」
信吾の声は、しんと静まり返ったリビングに響いた。




