M29 頼れる隣人、谷山志信
いつもは志信よりも先に来ていた小町の姿がない。
珍しいこともあるもんだ、とのんびり構えていると、ぺたん、ぺたん、という音を鳴らして小町が歩いてきた。椅子を引き、机に座る。
妙な足音の正体はすぐにわかった、小町は来客用のスリッパを履いているのだ。
「おはよ。どした?靴」
朝の挨拶のついでに何気なく聞いてみる。顔だけを志信の方に向けた小町は、今日も眼帯をしている。
「あー……、昨日、洗おうと思って持って帰ったら、忘れちゃって」
そう言うと小町は笑ったが、表情はいまいち冴えない。嫌な予感がよぎる。
今日、平日だぞ?持って帰って洗うって、そんなにすぐ乾くか?普通は土日とかなんじゃねぇの?
小町がそう言うのなら、深追いするのも、という気持ちはある。でも……。
俺『が』半分引き受けてやるから。
そう言ったんじゃないのか?俺は。
机の下で右手をぎゅっと握る。
「なぁ……。何か困ったことあったら、言えよ」
「えっ……」
「……前に言ったろ?半分引き受けるってさ」
「うん……。でも、それって『面倒な事』じゃなかったっけ?」
「そうだっけ?よく覚えてんな……」
「言われた方は覚えてるんだよ。特に、嬉しかったことは……。あの、実はね……」
「谷山くーん、おっはよー!」
小町の言葉を遮るように睦が二人の間に割って入ってくる。この登場の仕方は睦の定番だ。
「睦ちゃん、おはよう……」
この雰囲気に圧倒されてか、小町の声はか細い。どうやら睦には届いていないようだ。
「ねぇ、谷山君、あたしもとうとう買っちゃったー。ORANGEのアルバム~」
睦は鞄の中から新品のCDを取り出す。以前貸したものとは違うCDアルバムだ。
「お、買ったのか。言えば貸すのに」
「うーん、それも良いんだけど、なんかあたしもハマっちゃってぇ。そしたらやっぱり欲しくなるじゃん?」
「まぁ、そうだな。しかし、何作もある中でそれをチョイスするとはな……」
「えっ、なに?やばかった?」
「もー。マジやばいよ、そのアルバム。俺、割れるほど聞いたし」
「割れるほどって!ウケるんだけど!ねぇ、谷山君の一押しの曲はどれ?」
睦はジャケットをひっくり返し、曲目を志信に見やすいように向きを変えた。
志信は何度も眺めたその曲目をちらりと見て、5曲目を指差した。
「そうだな……。これ、激しい感じで好きなんだけど。ちょっと……歌詞が……」
「歌詞が?」
「……あんまり女子にはお勧めできないっていうか……」
このヴォーカルの書く歌詞にはそこかしこに刺激的なワードがちりばめられている。
おそらくもう少し大人になれば、ハイハイ、と聞き流せるのだろうが、多感なお年頃の志信にはどストライクだった。
言葉を濁した志信を見て、睦も察したらしい。ニヤリと笑って「了解」と言った。
「でも何か意外かも。谷山君って、もっとそういうの平気かと思った」
「そういうわけじゃないけど……。女子にそんなん言ったらセクハラになるだろ」
取り繕うように言ってみたが、たぶん、ばれてはいるだろう。
「あたしは大丈夫だよ~。じゃ、今日は谷山君のこと考えながら、この曲聞いちゃおーっと」
睦は笑顔でアルバムを軽く振ると、颯爽と自分の席に向かった。志信は睦の一言で顔が上気しているのを感じる。
何なんだよ、アイツ……。
志信は経験したことのない異性とのやり取りに胸が高鳴っている。
もしかして、これって『ときめき』ってやつだったり?いやいや、そんなの俺簡単すぎだろ!
「志信君、ときめいちゃった?睦ちゃんに……」
急に聞こえてきた小町の声にどきりとする。
おそるおそる隣を見ると、小町は眼帯をしたままこちらを見ている。
「小町……、眼帯してても……か……?」
熱くなっていた顔がすーっと冷めていくのを感じる。
「何でかな……。読めちゃった……」
そう言う小町の顔は寂しげだ。
マジかよ……。眼帯してても読めちゃうのか……。って、こうやって考えてることも読まれちゃうんだろ?無心!無心で!
……って無理だよ!何も考えないなんてさ!
「無理しなくていいよ……。谷山君のこと読まないようにするから。ごめんね」
それだけ言うと、小町は鞄の中から文庫本を取り出し、読み始めた。
何て返したらよいかわからず、志信も目を逸らす。目をこするような動作をしているのが視界の隅に入る。ゴミでも入ったか、かゆいのか、あるいは……泣いているのか。
俺のせいだよな。小町が泣いてるんだとしたら、俺のせいだ。
でも、どうしたらよかった?だって、何も考えないで接するのなんて無理だ。
ふてくされるように机に突っ伏した。
ずしり。
何か固いものが頭に当たる感触があったかと思ったら、それは徐々に重さを増していく。
これは……、この挨拶の仕方は……。
「賢太だろ……?」
頭をずらし、重さから脱出する。読み通り、賢太の鞄だ。
「さわやかな1日の始まりに寝てんじゃねぇよ。おはようさん。小町もおはよっ。今日は文学少女か」
鞄を持ちあげると、そのままの勢いで自分の机の上にどさっと置いた。
「おはよう、最上君」
「あらら、やっぱり今日も眼帯なのか。まだ調子悪いの?」
「あと3日くらいは駄目だって、お医者さんから……」
「そっかぁ。でも片目だと不便だよなぁ。ノートも取りづらいだろ?でも大丈夫!」
そこまで言うと、賢太は右手で志信の右肩をぐい、とつかんで引き寄せる。
「そういう時は、頼れる隣人『谷山志信』に甘えちゃいなさーい!」
「お前じゃないのかよ!流れ的に『俺に任せろ』だったろ!完全に!」
「え~?俺に任せたら、小町も俺も共倒れだよ。第一、俺も志信のノートが頼りなんだからさ。てことは最初から志信を頼った方が合理的じゃね?」
「ノートはいま佐々木とか橋田に見せてもらってるんだから、心配ないだろ」
志信はしっかりとつかまれた賢太の手を、面倒くさそうに剥がした。
「そうなの?最初は志信のノートだったじゃん」
「女子の方が見やすいだろ」
「……でも、成績は志信の方がいいんだぞ~」
声を少し落として、小町に告げ口する。
「おっま……。そういうこと言うなよ」
「だって、事実だもの~。ま、あの2人のノートで心配な時は頼りなよ」
賢太は口角を上げて笑い、志信に剥がされた右手でピースサインを作った。小町はそれを見て笑いながらピースサインで返す。




