嵐と魔神
嵐の中を船が進んでいた。
激しい風雨の中で、ずぶぬれになりながら、シャラは水夫達と舵をとっていた。
十五前後、動きやすさを重視した革鎧と典型的な少年の冒険者の姿であったが、その首に架けられた霊銀の認識タグが、彼が冒険者として優れた能力を持っていることを証明している。
とはいえ、この状況を切り抜けるには流石に荷が勝ちすぎている。嵐に対して、いかな実力があろうが人間一人にできることなどほとんどないのだから。
なんとか未だに暗い海に飲み込まれていないのは、船員全員の人力の賜物でもあるが、単純に運が良かったということも大きいだろう。しかし、このままではうねる海面に放り出される結末が待っている事は疑いようもない。
洋上で発生した寒冷前線の吹き込みで、沖合いは時化になっていた。
この近海に強い北西風が吹くと、北流する潮流とぶつかり会い、凄まじい三角波が沸き起こる。シャラ達が乗る船は、波頭を白く砕いて襲いかかる三角波に突き上げられて、夕闇せまる海で苦闘していた。
(乗る前に嫌な予感がしたんだよね……)
シャラは塩辛い唾を吐き飛ばした。だが今さら悔やんでもどうにもなることではない。黒い水のつらなりを視界の端にとらえた。突き上げて白く砕ける波頭と、うねりの下の黒い谷。
風波はさらに強まり、点灯した魔導灯の光源が激しく上下に揺れ、肩の上で切り揃えられた藍色の髪が踊る。彼の仲間は航海が始まってから、船酔いで船室から出てこれないのだが、むしろ幸せなことなのかもしれない。
船長の指示で水夫も乗客も区別なく、動ける全員を右舷に乗り出させて、錘として嵐の海を走っていく。砕けたうねりに突き上げられて、危うげに横揺れを続ける。
闇が濃くなったとき水夫の一人が叫んだ。
「なんだ、あれは――」
荒れ狂う海の闇の中に、漆黒の巨大な物体が進んでくる。
「わからないけれど、かなり大きいっ」
シャラは闇の中を進んでくる巨大な影に息を呑んだ。少なくともこちらの船の数十倍はある。何よりその巨大さよりも、海面を切り裂いて進んでくるその方向に問題があった。
「こっちに真っ直ぐに進んできてる……!?」
この嵐の海を自在に泳ぐ巨体を見て、脳裏に無数の海の伝説を思い起こすが、眼前の影に該当するものはない。どちらにせよ、シャラ達は船を転覆させないことで精いっぱいで、こちらに向かってくる影のような何かに干渉するすべはなかった。
「ぶつかるよっ!」
そう叫んだところでどうにもならないことを知りつつも、自身も衝撃に備える。
瞬間、視界が暗転し、すべての音が消えた。
「……どういうこと?」
いつのまにか激しく甲板を叩いていた雨や、船を突き上げていた三角波の衝撃が消えていた。それどころか、天空には月や星々が輝き、狂ったように吹いていた風が凪いでいる。
先ほどまでの嵐が悪い夢だったかのように静かな海が広がっていたのだ。
だが、夢ではない証拠に、軋む音を立てながら船はゆっくりと傾きを正常化し、今はまるで親に叱られた子供の様に大人しい海面を割って進んでいるのだった。
一体何が起こったのか理解できず、呆然とするシャラの視界に奇妙なものが映り込んだ。
手摺だ。それ自体は当然おかしなものではない。だが、そこに雪花石膏で作られたかのような細い手が海側からかけられているのが見えれば、それはもう異常でしかなかった。
続いてそのほっそりとした手が引き上げられ、闇が実体化したかのような長い黒髪と、夜の中で輝く黄金の眼が現れる。くるりと甲板に降り立つと、しっとりと濡れた髪を邪魔そうにかき上げて船を見まわした。先程の異常な体験と相まって。幻想から抜け出てきたかのような雰囲気を持つ美しい少女だった。
今の今まで海を漂っていました。と言わんばかりのずぶ濡れで、ブーツに膝下丈の靴下、そして左胸に奇妙なひっかき傷の様な文様のあるワンピース、その全てが漆黒。いうまでもなくとても海に出る格好でも、旅をする格好でもない。そもそも先ほどの大荒れの海の中を泳いで、この船にその細腕で這い登ってきたという事実を勘案すれば答えは一つだけだ。
「君は、人間じゃ無いね?」
自然な動作で、腰に下げたサーベルの柄に手を置き、そうシャラが問いかると、我に返った水夫たちも一斉に少女から距離をとる。海で怪物と遭遇することはそれほど珍しいことではない。しかし、珍しいことではなくとも容易い相手であるかどうかは別の問題だ。
たとえば海の死霊の類はどれも厄介な能力を持っており、さらには非実態の体は物理的な攻撃を受け付けにくい。もちろん水夫たちも戦えるが、現在乗員の中で海の死霊と戦える力があるのはシャラだけだ。
魔術師や聖職者といった、非実態の怪物にも有利な力を持つ仲間は船室に転がって、大変有様になっているだろうから。
警戒する船員達の様子を興味深げに眺めつつ、少女が口を開いた。
「ディス」
それが少女を指す言葉だと気が付くまで、数瞬の時間が必要だった。