塔の魔神
漆黒の空間に浮かび上がるそれは、無数の魔法陣によって構成された塔であった。幾重にも重なる魔法陣から漏れる、色とりどりの燐光がその領域を幻想的な色彩で染め上げている。魔法陣で構成された通路には砕けた魔法の欠片が時折舞い、柔らかな色彩を足していた。
影の魔神にとってさえ、途方もないエネルギーで構成された場所でありながら、静寂が満ちており、完璧な調和を持って安定した領域。それはこの領域の創造者と同じ、どこか優しく、そして哀しい場所だった。
かつては混乱の塔と呼ばれた破滅の象徴。そして今は魔陣の塔と呼ばれ、三千世界を貫く通路でもある。影の魔神はこの魔陣の塔に架かる、巨大な黒い魔法陣で構成された橋の上に立っており、端から見下ろすと、基部は虚空に霞んでみる事が出来ない。序列第二位《塔の魔神》の許可なしにこの場所に立ち入ることはできないが、この橋はディスの為に作られた通路。
虚空から滲むように出現したのは少女だ。十四歳前後であろうか。しかし人間ではありえない事は、一目で理解できる。
どこか野暮ったい長袖のトレーナーに、地味なスカート。膝上まである紺靴下がつくる、ほっそりとしたラインに異常なところは無い。
しかし、その背に非実態の八翼。合計十六枚もの蒼白い羽を展開させていた。一見天使のようにも見えるが、その気配は寒気がするほどの濃密な破局の予感を孕んでおり、まるで今にも崩れそうな建物の内部に居るかのような感覚を見る者に与える。
ディスが闇を凝縮したかのような少女であるとするなら、彼女は静謐な滅びが実体化したかのような姿だ。
三つ編みとなった黒髪を揺らし、ふわりと宙空に留まって緋色の眼を開け、ほんの少し眼を細めて微笑む姿は美しい。ディス程に完成された美は無いが、清潔な印象を与える少女だった。
魔神序列第二位。限りなく全能に近い《塔の魔神》。彼女は全能に近しいが、同時にその力は、常に破局の定めを示す。冷酷で容赦のない性格として知られ、魔女の中には彼女を崇拝する者が居るが、彼女が授ける加護はどれも途轍もない代償を求めるものばかりだ。
しかしこの魔神は、全ての魔神の中で最も慈悲深いとされている。新しき神々に創世を囁き、人類を創る事を約束させた二番目の要求もあり、人類にとって神敵でありながら、同時に敬意を払われる存在であった。
「珍しいですね。夢を通じてとはいえ、貴女が私を召喚するとは。何か問題でも起こりましたか?」
気遣う様に口を開く塔の魔神の言には、明らかな温度があった。
虚無的な冷たさを感じさせた雰囲気が変わる。
「ううん、違う。聞きたいことがあった」
「聞きたい事ですか」
「今、私は人間と魔女と旅をしてる。とても楽しいのだけれど、私は何かを忘れてる気がする」
そっと左胸の傷跡に手を置き、ディスは黄金の眼でまっすぐに塔の魔神を見据えた。
「ねぇ、《塔の魔神》。貴方の名前を教えてほしい」
影の魔神の言葉に、《塔の魔神》僅かに驚きの表情を浮かべる。
彼女とは永い付き合いになるが、ディスは《塔の魔神》の驚く姿を始めてみたな、と思い同時に、何故か見たことが無いはずなのに、既視感を感じて首を傾げる。
《塔の魔神》は理知的で冷静な魔神だった。残骸世界ができる前、三千世界での永い長い戦いの中であっても、常に彼女は静謐のイメージを纏っていた。だというのに、ディスの中には彼女が意外に激情家であったという記憶が、浮かび上がってくる気がしたのだ。
「私の、名前を?」
「そう。とても大切な事だった気がするの」
「大切な……ですか。私は、魔神序列第二位、《塔の魔神》オオノエです」
名乗りながら、オオノエは静かに微笑んだ。
「貴女は、あなたを取り戻しつつあるのですね。ですが、いったい何故……いえ、悪い事ではないのです。私にとっては」
常にディスの疑問に、明快な答えを行ってきた彼女にしては含みのある言い方だった。確かオオノエは、いつもディスに特別な配慮を持って接してくれていた気がする。
ほんの少し会話しただけで、多くの忘れていたことに気が付き、呆然とする影の魔神を見つめ、オオノエは囁くように続けた。
「私に激しい喜びは必要ありません。けれど、深い絶望もない……そんな、ただ緩やかな日々を送りたいだけ。魔神となってからは、そう願い続けてきましたが」
オオノエはいったん言葉を切り、何かを思い出すかのように眼を瞑る。
次に開かれた眼には、強い光があった。
「もう一度、あなたと飛んでみるのも悪くはないと」
「新月の夜に」
出航の日。一行は、それまで集めた《肝喰い》ズズド海賊団についての情報をまとめつつ、プルートー達と別れ再び海に。
彼らは人食い巨人で構成された海賊団。水夫は全て奴隷で、水夫と食糧などを求めて海賊行為を働く。一応通貨での買い物もできる。おつむが残念なのは理解しており、奴隷の亜人種を副官において、難しいことは全部任せている(もちろんうまくいかなかったらその場で《おやつ》にされる)
ズズドの獲物は二刀の片手用バトルアックスと牙。魔物にしては珍しく、ちゃんと鞣した革で作られた鎧なども装備しているとのこと。
どうやら以前はよくいる魔物の海賊だったが、副官として奴隷の亜人を置くようになって以来、勢力を伸ばしてきたという経緯を持つとわかった。
戦闘は避けられないと考えながらも、それまでは戦闘員である魔女の主従と乗客の魔神は暇である。
旅をする人類に共通の教訓として、もっとも消化しにくいものは時間というものがあるが、旅慣れたものはそういったものの処理も余裕があれば考えておくものである。
という訳で、甲板で作業をする水夫の邪魔にならない様に、一角を占拠して釣りを敢行。
一人と一体と一柱の竿には、何故か気持ち悪い位に食用に適した魚が釣れるが、魔女の竿にかかるのは蛸とクラゲと烏賊だけである。
魔物が釣れても困るので、自分が釣ったものは自分で処理の鉄の掟にのっとり、無言で触手と格闘しながら針を外す魔女を横目に、影の魔神は闇の翼で海鮮物の処理を行いながら、釣りを続行するという器用な事をしていた。
用意していたバケツが、それぞれの獲物で溢れ返る頃、魔神が奇妙なものを感知。
ディスが指さす先、雲の切れ間にふよふよと空に浮かぶ、巨大な魔物を発見。
遠距離戦闘の準備を始める一行だったが、魔物の正体が分かると戦闘状態を解除。
「何かと思ったけど、あれはイタギャだったかイタグァだったかいう魔物だね。見た目は空飛ぶでっかい骸骨に触手がぬるっとついてる感じだけど、害のない魔物だよ」
「へー、じゃあ、ちょっと手を振ってみていい?」
「どーぞご自由に」
「おーい!おーい!」
潮風と歩む魔物に無邪気に手を振る影の魔神。応えるように触手を揺らす骸骨キモ生物。なんとも平和な風景である。
散々蛸やイカに絡まれた魔女が、その横でぬるぬるする両手を魔法で生み出した真水を使い、ひたすら洗っていた。シャラは潮風に藍色の髪を揺らしながら
「嵐がくるかな」
と呟いた。