影の城
その城は一言で表すならば《古城》であった。
古めかしい彫刻の上に這う苔が、建築されてから幾星霜もの時間が経過していることを示しているものの、作りそのもの質実剛健。よほど堅固に築城されたのであろう。この城は既に人類が地上に誕生し、今日まで続く歴史をも超える時を刻んでいたが、尚その本質を失ってはいなかった。ところどころに落ちる深い闇の中から覗く異形の姿、それがこの城が安寧や平和とはほど遠い場所であることを教えてくれる。
そんな城の王の間に、一人の少女が座していた。
玉座に足を組み、肘掛で頬杖を着いていた。
十四歳前後だろう。長い黒髪と黒いワンピースに包まれた少女は、王の間という場所におよそ不釣り合いな存在。さらに奇妙なことに、そのワンピースの左胸に位置する場所に、まるでひっかき傷のような装飾が刻まれている。しかしこの場にあっては、まさに彼女の存在こそが自然であるかのように感じられた。
彼女を知るものは、その身を震わせて逃げるに充分な相手だと知っていた。そして大いなる畏れと共に、その背に広がる襤褸布の様にも見える、影でできた翼を見上げるだろう。
彼女こそはこの世界で魔神序列第三位に数えられる古き魔神
本来ならば彼女は周囲に横たわる影と同化し、未だまどろみの中にいるはずの存在であった。
黄金の眼が虚空に向けられ、重たげに口を開き呟く。
「何かが……来た」
部屋に奈落の大気ではない空気が流れ込んでいる。
つまりは、侵入者だ。魔神はそれに思い当たった。
しかし侵入者は信じられないほど脆弱な様で、このままでは此処まで辿り着くこともできないだろう。
それは、あまりにも詰まらない。
「こちらから、迎えるべき」
永き眠りより目覚めた影の魔神は、既に暇神だった。
闇が満る廊下を一人の男が進んでいた。
男は強力な魔力を宿した鎧を纏い、一目で通常の武具から逸脱しているであるとわかる剣を帯びていた。その歩みは隙がなく同時に気品を感じさせる。野獣の警戒心と、達人の洗練された所作が同居している。
しかし、その体は満身創痍だった。
独特の波紋を持つダマスカス鋼で作られた鎧は、無数の傷によって彩られていた。
鎧の隙間からこぼれる血が、下半身を緩やかに赤く染め始めており、多量の出血のせいか顔色も悪い。
すぐに手当が必要な状態であり、せめて止血だけでも行うべきなのは明らかである。
だが、彼にはその時間も余裕も残されてはいない。それを理解しているからこその前進なのだ。
彼……ヴァローはかつて英雄だった。その彼がこの《無限奈落》に聳え立つ影の城にたった一人でいるのか。答えは簡単なことだ。ヴァローは英雄として登り詰めた末に、とある玉座をめぐる政争に敗北し、政敵に始末されようとしているのである。魔神の領域に放り込まれたのだ。試練と称され、影の城の攻略を条件とされたが、そんなことはまず不可能。万が一伝説に語られる影の魔神の前に立てたとして、勝算などこれっぽっちも有はしない。それどころか、この城に蠢く魔物達にすらまともに戦えば、自らにとっての死神になることは確実であった。
侵入すら不可能とされていたこの領域が発見されたのが事の始まりだった。
世界を開いた神々と敵対し、かつてこの世界を支配していた殺戮者達《魔神》
その中でも、高位に位置する影の魔神の領域を神官が発見したのだ。
世界はその領域の発見に震撼し、同時に好奇心が旺盛な者たち……冒険者達は世紀の発見に瞠目した。
創世記戦争時の遺跡は、文字通りの神器や、とてつもなく高度な文明の利器が発見されたり、人間では作ることのできない金属なども発見されることが珍しくない。
神殿は直ちに魔神討伐のための勇者を募り、冒険者ギルドには未知の領域への探査依頼が殺到した。
そうして、挑戦した勇者たちは殆どの者が帰ってきた。その者たちを見て人類は震えあがった。
多くの人間(或は人間に協力する亜人たち)は影の城に侵入するどころか、道中の奈落すら超えることはできず、人ならざる者として帰ってきたのだ。辛うじて人のまま奈落より帰還してきた者は、暗闇をひどく恐れ、口をそろえて人では決してたどり着けない地だと呟いた。
やがて《無限奈落》の攻略及び調査はすべて断念された。
強大な力を持ち、殺戮を求める異形の帰還者達によって人類国家が甚大な損害を被ったのだ。
これ以上のアプローチはおろか、誰も立ち入らぬようにする必要性が危機感を持って受け入れられ、禁忌の領域とされた。奈落への入り口が開く島への航路は封鎖され、幾重にも封印も施されてはいるものの奈落側からの侵入を防ぐものではない。もはや人類にできることは繋がってしまった奈落から、伝説に語られる影の魔神が出てこないことを祈ることだけだった。
そんな《無限奈落》に挑み、奈落の亡者達を切り伏せ、影の城まで辿り着いた彼は間違いなく英雄であった。すなわち、人類の中で最高峰の強者。しかし彼もまた、人知を超えた影の城においては鼠のように逃げ回ることを余儀なくされていた。まともに戦うことなく逃げに徹したからこそ、まだ彼は生存しているのだ。
影の城に蠢く魔物は、別格だった。
戦うということは死ぬということと直結していると理解できる。
共通の特徴として、すべてが漆黒。硬質でありながら柔軟な甲殻に全身を覆われ、物理的なダメージを吸収してしまうだけでなく、非常に高度な知性を有しており、高位の魔法を平然と用いてくる。
人間の領域を逸脱しつつあるヴァローすら未知の魔法もあり、未だに息があることは運以外の何物でもなかった。或は害意はあっても、殺意まではなかったのか。
その時、鈴の残響のような音が響き、顔上げたヴァローの目に移る景色がグニャリと歪んだ。
次の瞬間自分が先ほど歩いていた廊下ではなく、真っ暗な場所にいることに気が付く。
既に持ってきていたランタンは破壊され、ヴァローには明かりをつける術はなかった。
「転移の罠か……?参った。明かりがない」
そう呟いたとき、辺りに淡い光が灯った。
驚きながら周囲を見渡せば、そこはかなり大きな部屋で、周囲を見渡せば床には紅い絨毯が敷かれ、壁には精緻な彫刻が施されたの照明がいくつも設置されている。そして、ヴァローの位置から正面には、水晶で出来た玉座。その玉座に座している少女を見た瞬間。ヴァローはそれが何者か理解できた。
その背に広がる、襤褸布のような闇の翼。身に纏う黒のワンピースの左胸に刻まれた爪傷。そしてまるで夜空のように大きすぎて全体を見ることが不可能なほどの圧倒的な力の気配。
彼女こそかつて世界を支配していた魔神の一人。神話に名を連ねる、影の魔神ディス。
人を作った新しき神々ですら畏れ、その恐怖故に夜が作られたといわれる。
夜が作られたことに満足し、新しき神々の創世を受け入れたという経緯を持つ魔神。
闇をそのまま人間の形に凝縮させたような少女だった。雪花石膏の様に白い肌が、淡い照明器具の光を取り込んで薄っすらときらめいていた。影の魔神は特に敵対的な気配を発しているわけではない。しかし、空間を歪めるほどの圧力を感じた。己の命が目の前の存在の気まぐれに託されている事は確認するまでもない。どうせ遠からず死ぬ身だ。勇気ではなく、自暴自棄な心情が絶対者の前でヴァローの口を開かせた。
「《影の魔神》とお見受けする」
「そうよ」
玉座に座す、輝く闇のような少女が退屈そうに答えた。
黄金の眼がヴァローに向けられ、そうする事が自然だという様に自らの膝が折れる。頭が下がる。
この魔神は人知の及ぶ存在ではない。幾千もの修羅場を潜り抜けてきたヴァローには少女の形を持つ夜空として映った。どうせなら天に等しい魔物に挑んで死ぬか、という自棄に似た戦意すら、一睨みで消し飛んでしまった。無駄なのだ。人は夜空にできることなどない。ただ見上げるのみ。
しかし、魔神は少女の形を持って目の前に顕現し、また応答も行った。何かしらの意志があり、目的があってヴァローをわざわざ呼び寄せたとするなら、それは何なのか。跪き、思考する瀕死の英雄に向かって、魔神は口を開く。
「貴方は人間の様。よくそんな力でこの領域に入り込んだ。まぁ、楽にしていい」
呆れた様な声音で呟きながらも、魔神は会話を続ける姿勢を見せた。
同時に体の自由が戻るが、立ち上がれば血の足りない体が持たないのはわかっていた。
顔のみを上げたヴァローに、ディスは興味深そうな視線を向ける。
「何故《影の城》に来たの?」
戦いに来た。とは、これっぽっちも思っていないのが見て取れた。
とはいえ、相手は魔神なので表情が人間と同じ様な意味を持つとは限らないのだが。
そこまで考えて、この魔神を見た時に確信したことを思い出した。
人間の様な塵に等しいものが、自分に挑もうと考えるという事などあり得ないということか。
ならば
「《影の魔神》を倒すために」
「人間が、私を?」
目を白黒させて驚く伝説の魔神に、心中で苦笑しながら、表情引き締め、血で汚れたポーチから銀の指輪を取り出す。ちらと見えた絨毯には、元々の赤以外の色彩が足されていた。傷の痛みはもうなかった。
次に交わされる会話がヴァローという人間の最後の言葉になるだろう。
「気が向いたらで構わない。もし貴方がこの先、物質界に降臨する事があれば。この指輪を冒険者ギルドの誰かに届けてはくれまいか?」
「これは?」
「私がこの領域で死に、未帰還者となってもそれはそれで良かったのだが……死亡届の様な物だと思ってくれたら良い」
「……そう、人間。あなたは此処に死にに来たのね。分かった」
頷き、魔神が差し出された指輪を、触腕の様に伸ばした影の翼で受け取ったのを確認すると安堵の息が漏れた。そして、二度と息を吸い込むことはなかった。
死者となった英雄と、影の魔神だけが存在する空間に小さく声が響く。
「……冒険者、ギルドって。何?」