9話 三者三様の認識
森の匂い、とでも言うのだろうか。
腐葉土となった地面や植物が行う蒸散などが、独特の湿気と匂いを醸し出している。
風が吹けばシャラシャラと枝葉が擦れ、時折鳥の鳴き声が聞こえてくる。
そんなありふれた森の中、僕の目の前には2人がいる。
一人は少女。
赤い髪に赤い瞳。
10代前半の幼さ残る顔つきは、じっとしていれば整いすぎているため鋭さをともなうが、今は慈母のような柔らかさを湛えている。
身長は140センチほどで、真っ白の裸体の上にはぶかぶかのTシャツが一枚だけ。
もう一人は妖精であるフマ。
緑の髪に緑の瞳。
妖精のため年齢はよく分からないが、こちらも10代前半といった顔立ちで、おっとりとした愛らしい表情は、困惑に染まっている。
現在進行形で頭を撫で回され、今しばらくは困惑が解けることはなさそうだ。
身長は30センチほどで、いつの間にやら少女の片手に乗せられている。
裸シャツ少女が困惑する妖精を可愛がるシーンがしばらく続いた後。
幾分か思考を取り戻したフマが、状況把握に努め始める。
「オマエ、なんでそんなぶかぶかな服1枚だけなのさ!」
ああ、そこからなのね。
確かに気にはなるだろうけど。
「ふふっ、これはねぇ、あの人にもらったの!」
あまりにも嬉しそうにはにかむものだから、僕は見惚れてしまった。
フマも呆気に取られている。
「…………あ、あの人って誰さ!」
「あの人は、旅人。私を狭くて窮屈で息が詰まりそうな鳥かごの中から救い出してくれた人」
少女の赤い瞳がフマではない遠いどこかを見つめる。
これがいわゆる夢見る乙女というやつなのかもしれない。
「……オマエを助けたやつは、今どこにいるのさ?」
「あなたを助けに……」
少女ははっと何かを悟ったように目を見開くと、悲痛の面持ちを浮かべて声を震わせる。
「ま……まさか……。うそ……。あなたっ、あの人はどこ!? あなたを助けた後どこに行ったの!?」
「え? え?」
少女は食ってかかるようにフマに詰め寄り、フマは訳が分からず言葉を詰まらせる。
「あの人は!? ねえ! あの人はあなたを助けたんでしょ!? その後どこに行ったの!?」
「し、知らないさ! そもそもあの人って誰さ!? オレは誰にも助けられてない! 気がついたらここにいたさ!」
「じゃあっ、じゃあっ、ここに来る直前はどういう状況だった!? 詳しく聞かせて! お願い!」
「オ、オレは魔人に見つかって、戦っていたさ! そしたら急に、ここにいたさ!」
「そんな! じゃああの人は、その魔人と代わりに戦って……!?」
少女はなにやら勘違いを始めたようだ。僕が魔人と戦っていると思っているらしい。
というかさっきから、僕をいないものとして話が進んでいないか?
なんでだろう? 僕はさっきからずっと目の前にいるのに。
……ああ、そうか、【存在希薄】のせいだった。
僕はようやく自分の状況に思い至り、収拾がつかなくなりそうな二人(主に一人)に声をかける。
「やあ、二人ともお待たせ」
「そ、そんなっ。あの人の魔力はとても少なかった。隠密行動専門のはずっ。なのに魔人と戦うなんてっ……!」
「えーと、聞こえてるー? あっ、そうだった。直接触らないと駄目なんだった」
「どうしたらいいの!? 城に戻るにも、ここがどこか分からないし、それに今から戻っても間に合ひゅわぁ!?」
「ひぅ!?」
僕が二人の肩に手を置くと、少女とフマは同時に変な声を上げた。
「や、やあ、二人ともお待たせ」
「ああっ!」
ひしっ。
「良かったぁ……! 生きててくれて本当に良かったぁ……!」
目にも留まらぬ速さで腰に抱きついてきたかと思うと、少女は体を小刻みに震わせた。
も、もしかして泣かせてしまった!?
「ご、ごめんっ。声をかけるのが遅くなって。本当はさっきからいたんだけど、すっかり忘れてて」
「いいの……。それはいいの……。ただ、あなたが戻ってきてくれた、それだけで十分」
顔をうずめたままの少女に、僕はどうしたらいいか分からず、助けを求めるようにフマのほうを窺う。
するとフマは、なぜだか犯罪者でも見るような目つきで僕を見ていた。
おっとりした可愛い顔でそれをするものだから、僕の背筋がぶるりと震える。
ち、違う! 僕に被虐趣味はない!
「ケイ……なんで裸なのさ? ケイの服を、なんでその子が着てるのさ?」
「え、えっと? これは別に全然やましいことなんかなくてね? たまたま風呂場でこの子と出会ったから、苦肉の策で僕の上着を貸しただけなんだ」
「へぇ~? たまたま風呂場で? ケイは記憶喪失だから、たまたま女湯に入ったってことか? それとも変態って言葉すら忘れたのか?」
「ちょ、ちょっと待ってっ、誤解だって! 転移したら風呂場だったんだ! 僕だって女湯に入ったらいけないことぐらい分かるって!」
「転移? え、転移って、空間転移? そんな高度な魔法を……いや、ケイならあり得るか……」
フマは軽蔑から一転、感心して難しい顔をする。
が、それも束の間。
「で、転移は行き先を自分で決められるはずだけど、女湯に転移したのはどういうことさ?」
フマは再び僕を凍える視線で射抜いてくる。
「だ、だから違うんだって! マーカーをフマにつけておいたんだ! フマは露天風呂の上を通ったね? そのときにたまたま転移してしまったんだ!」
「え? マーカー? オレに? ……まさか。オレのどこにマーカーなんて……」
「体の中だよ! フマがキーグリッドに連れ去られる直前にフマの体内に魔力を滑り込ませてたんだ! それでっ、フマを助けようと思って、僕も追いかけて転移したんだ!」
「え? 体の中に? そんなの……オレの魔力を超えないと、そんなこと……ああ、魔力圧縮か。いやでも、オレが転移する直前って、キーグリッドのやつと戦っていたときは、ケイはいなかったはず……」
「ああ……実は近くで見てたんだ。もちろん巻き込まれない距離で、だけど」
「……! なんでついてきたさ!? 逃げろってオレは伝えたさ!」
あ、余計なことまで喋ったかも。
「えーっと、ほら、僕たち仲間じゃん? フマがピンチのときに、助けられると思ったし……いや、もちろん向こう見ずな勇気ってわけじゃないよ? 無茶をする気は全くないからね。でもさ……ほら、実際に助けられたじゃん? だから、勘弁。ごめんって」
「……つまり、魔王城からここに転移させたのは、ケイなんだな? まあ、それは助かった。……でも、やっぱりキーグリッドと戦ってるときは、はっきり言うと、ケイじゃ足手まといになる。だからこんなことは――」
「えーっと、ね。その、実はさ。キーグリッドを殺そうとしたのも、僕なんだ。ほら、フマが捕まった後、キーグリッドが苦しんでたでしょ? あれ、僕がやったんだ」
「……は?」
「本当は一発で殺せるかと思ってたんだけど、当たり所が悪かったみたいでね。今度からはちゃんと一発で仕留めるよ。今回みたいに逃げられるのはもうさせない」
「まてまてまて。あれ、オマエか? オマエがやったのか?」
「ん? そうだけど?」
「…………」
フマは難しそうな顔で虚空を睨む。
あれ、おかしいな? そんなに変なこと言ったかな?
キーグリッドを倒したって言っただけなのに。
僕としては魔王を倒したわけでもないんだから、そんなに難しく考えなくてもいいと思うんだけど。
「……ケイ、知らないみたいだから教えるが、あのキーグリッドって魔人、高位四家の、それも当主だぜ。分かってるか?」
「えーと、キーグリッドが、高位四家の当主ってことはフマとキーグリッドの会話で知ったけど、それの意味はよく知らないね」
「高位四家ってのは、魔人の中でも上位の連中さ。高位四家じゃない魔人は、高位四家の魔人には勝てないぐらいさ。魔王にしたって、高位四家の中から選ばれる。そして、その当主ともなれば、高位四家の中でも指折りの実力者。魔王の次に強いといってもいいぐらいさ。分かるか?」
なるほど。つまり。
魔王は高位四家の中から選ばれる。
当主は高位四家のトップ。
魔王は、当主より強い。
「うん。当主は魔王より弱いってことだね?」
「何を聞いてたさ!? そうだけど! 確かにそうだけど! オレが言いたいのは当主が魔王の次に強いってことさ! 魔王より弱いってことじゃないさ!」
フマは小さい腕をぶんぶん振り回しながら、顔を真っ赤にして叫ぶ。
そ、そんなに怒らなくても。
「で、でも、フマだってキーグリッドといい勝負してたじゃない? 妖精と当主が同じくらいの強さなら、僕が勝ったってそんなに不思議じゃ……」
「待って! 待って! ケイ! 二つ勘違いしてるさ!」
え? 勘違い? 二つも?
「ケイは妖精が弱いって思ってるだろ!? 違うさ! 妖精は魔力から生まれるっ。魔力から生まれた妖精は、魔力の大きさも、魔力の扱いも、普通の生き物より優れてる。だから魔法を使えれば、妖精はそこらの人間より断然強いんだ!」
僕は驚く。
妖精とは小さくて可愛らしいものだけど、そのじつ人間より強いことに。
しかし僕の勘違いはこれだけじゃないらしい。
それじゃあもう一つは?
「あと、これは言ってなかったけど、オレは普通の妖精じゃない。……妖精女王の娘さ」
「え? 妖精女王の娘? ……女王の加護を持ってる、みたいな話?」
「……いや、そういうことじゃない。オレは妖精女王に作られた女王の直系で、妖精女王の継承権持ちさ。ああ、ついでに、普通の妖精は妖精女王から作られなくて、自然の中でひとりでに生まれる。だから普通の妖精と妖精女王の娘は同じ種族であって、違う妖精さ。
魔力量も、普通の妖精とは桁違いだし、魔法に関しても、女王の直系でないと使えない妖精魔法というものがある。だからオレは、この世界でも強いほうだ」
フマが説明を続けてくれていたけど、僕はあまり耳に入っていなかった。
僕はあることが気になっていた。
フマは、妖精女王の娘だという。
娘だ。
そう、娘だ。
息子じゃない。
娘だ。
……え?
「ちょっと、いいかな? フマ。君は……女の子なのかな?」
「なにさ今さら。妖精に男も女もないさ。まあ、体の構造的には女だが」
「ぅわぁあああ!? ごめん! 遅ればせながらごめん! 勝負でフマを捕まえたとき、いろいろと触ってごめん! 悪気はなかった! というか男だと思ってた!」
「なにさ。別に戦いの最中にそこまで気にする必要はないさ。気持ち悪い下心があったわけでもないってんだし。というか、記憶喪失だから仕方ないとしても、オレの体を男と間違えるってのはあまりいい気分じゃないさ」
「いや、だって、一人称『オレ』だし。女の子にしては言葉遣い荒いし」
「自衛のためさ。一人旅してると、いろんなやつと会うからな。ちょっとでも可愛く見えると、すぐに襲われるからな」
「そうだったんだ……。うん、ホントごめん」
「別にいいさ。……なんだっけ。ああ、強さの話だ。だからまとめると、妖精はただでさえ強くて、その中でもオレは妖精女王の直系で、もっと強いってことさ。だからオレを強さの基準にするのはよくないぜ。分かったか?」
「うん、分かった」
とにかくフマは女の子ってことだよね。
いや冗談だけど。
強さで言えば、人間よりも強い妖精よりも強い女王の直系と同格な高位四家の当主ってところかね?
「ケイは、オレとキーグリッドがいい勝負をしてたって言ったな? あれも違う。キーグリッドは明らかに手を抜いてた。オレとの戦いを楽しむために、わざとぎりぎりの戦いをしてたんだ。だからキーグリッドが全力だったら、オレは生きていられなかったかもしれない。……妖精魔法の《不変の風》があったから絶対とはいえないけど。でも少なくとも、魔力量はあっちが断然上だったからな」
「え、そうなんだ」
ということは、人間よりも強い妖精よりも強い女王の直系よりも強い高位四家の当主ってところか。
うん、分かるようで分かりにくい。
「で、ケイはそのキーグリッドを殺す一歩直前まで追い込んだんだ。それがどれだけすごいことか、分かったか?」
「うん、分かったよ。とにかく僕は強いんだね」
全然実感湧かないけどね。
だって一方的に魔法打ち込んだだけだし?
堂々と近寄って目の前で《転送》しただけだし?
と、そんな僕の心が表情に表れでもしたのか、フマは胡乱な眼差しを向けてくる。
「……まあいいさ。強さの話は一旦区切ろう。
それで、今の状況の説明。オレがキーグリッドに連れて行かれて、ケイはそれを追ってきた。で、オレが逃げ出して……そうか、ここの話はしてなかったな。
オレとキーグリッドが魔王城に転移した後、キーグリッドが倒れたんだ。ケイの攻撃の傷が深かったんだろうさ。オレはその隙に体を魔力化して逃げ出した。転移部屋から廊下に出て、窓から外に脱出して、隠れるように湯気の中を通って逃げていたんだが……ケイが転移してきたのはそのときだろうな」
「うん、そうだね。僕は転移して、温泉の中に落ちた。そこにいたのが、この子。魔王城に捕まってるってことだったから、助けがいるか確認して、連れ出してあげたんだ。他に仲間はいないって言ってたから、連れてきたのはこの子一人だけ。で、服を取りに戻ることもできなかったから、僕が上着を貸したってわけ」
ふう、これでやっとフマの誤解も解けたかな。
僕は邪な考えなんて何も持っちゃいない! 今だって、持たないようにしてるんだ!
なんなら褒めてくれてもいい!
「……今の状況が分かったような気がするぜ。でもな? ずっとケイに抱きついているその子の行動はどう説明するんだ? 責任を取らなきゃいけないようなことをしでかしたんじゃないのか?」
「ちょっ、ちょっと! なんでそんなに疑心暗鬼なんだよ!? 僕がそういう行動をしていないってたった今説明したばっかりだろう!?」
「ケイの説明だけじゃ、その子の言動の説明がつかないと思うんだが?」
「そ、それは、助けたからじゃないの? それ以外は……特に思いつかないし」
裸を見ちゃったのは不可抗力でしょ!
それにそれだけで抱きついて離れなくなるとは思えない!
というかなんでこの子が抱きついて離れないのか僕が説明してほしい!
「こうなったら、本人に聞くしかないね」
僕は腰に密着している少女に顔を向け、華奢な肩をぽんぽんと叩きながら声をかける。
「ねえ、君。ちょっといいかな?」
少女は抱きついたままゆっくりと顔を上げ……ちょっとちょっと!? なんか目がとろんと蕩けてるんだけど!?
白い頬はいまだ上気したままで、なんというかとても……えろい。綺麗で美しくて可愛くてえろい。
こりゃいかんと、僕は少女の赤い双眸の上に右手を持っていき、蟲惑的なそれを覆い隠す。
長い睫が手の平を撫でてくすぐったい。
すると今度は、健康的で柔らかそうな小さな口をくいっと僕に差し出してくる。
……いやいやいや、キスするんじゃないからね?
僕は残っている左手でそっと唇を覆い隠す。唇に直接触れてしまうと僕のほうが抑える自信がないので、あくまでも浮かして、お椀状に口の周辺だけに触れる。
さわ、さわ。
「ひぃ!?」
なんと今度は僕の腰に回していた両手で、大気に晒されている僕の背中を何かを求めるように這い出した。
ちょっと! なんなの! なんなのこの子!
僕は少女の美貌を覆っていた手を、少女の両肩に移し、力を込めてぐいっと僕から離れさせる。
「はぁ、はぁ、えっとね、とりあえず離れようか。そして落ち着こうか」
何をしたわけでもないのに、僕は精神的に酷く疲弊していた。
少女は離れるとき「あ」と小さく切なげに漏らしたが、そんなのは無視だ。気にしたら負ける。
そして僕は、傍にいたフマの背中をそっと押し出すようにこちらに誘導すると、僕と少女の間に持っていき、代わりとばかりに少女に差し出した。
「え?」
フマは僕にされるがまま、そうして最後に間抜けな声を漏らすと、すぐさま少女の両手に捕らえられ、僕の身代わりとなって少女の未発達の胸元に抱きしめられる。
「うげ」
潰されたような声。
もちろん本当に潰されたわけではないけど、しかし実りの少ない胸とたわわな胸とでは、どちらのほうが苦しみが少ないのか。
大きいとそれだけ沈み込み、呼吸の隙間がなくなると思う。
だからといって小さいと、吸収材が少ない分痛いような気もする。
ただ、これだけは言える。
「ご愁傷様です」
僕は緊張を強いられる美少女の抱擁から開放されて、ようやく一息つくのだった。