86話 爪痕を巡る者
??視点です。またもや主人公は出てきません。すみません。
****
二十年ほどの周期でルエの魔脈から半径10~20キロメートル圏内の生物が全滅するため、その一帯だけは各国から立ち入り禁止区域に指定され、どの国の領土にも属さない空白地帯となっていた。
各国は安全のため、ルエの魔脈から必ず50キロメートル以上の距離を空けて町を置いている。
50キロメートルというと、地球でいうところの水平線の彼方までが5キロメートルであるから、水平線まで進むのを10回繰り返した距離、といえば長いようにも聞こえるが、旅慣れた冒険者が軽装かつ平坦な道のりという条件下なら丸一日で踏破できることを考えるとそうでもない。
ただしきっかり50キロメートルの距離に町があるわけでもなく、そんなぎりぎりの位置に町を作ろうものなら危険の線引きのシビアな冒険者は立ち寄らず、開拓民も気味悪がって集まらず、栄えない町に商人は寄り付かず、結果的に100キロメートル以上離れたところにしか町はない。
その町においても魔脈に向けて誰一人として足を踏み入れようとしない。住民は、「そっちへ行ってはいけない」、と本能的に悟っていた。
そんな誰しもが心の片隅の恐怖を拭えないで過ごす日常で。
前触れもなく、のちに「大死の昼」と呼ばれるそれが訪れた。
その日、ヴェロニカとルエの壮絶な戦いにより、山が丸々消え、山より深い大穴が出現し、半径15キロメートル圏内が灰色の砂漠に豹変し、その外縁からさらに30キロメートル近くに渡ってありとあらゆる生き物が息絶え、微生物や細菌すら存在しない死の領域が広がった。
そこからさらに50キロメートルにわたっては、幸運が重ならないかぎり致命するエリアとなり、その外側にあった町は、かろうじて全壊は免れたものの、ことごとく半壊し、多くの死傷者を出した。
その数少ない生き残りの一人が、一週間後、遠く被害のない町の酒場で語る。
「あんときは……何が起きたか分からなかった。俺は今みたいに、そう、出口の近くで飲んでたんだ。そしたら、いきなり天井が降ってきた。……俺は運がよかった。ほとんどのやつが酒と一緒に生き埋めになったからな。俺だけは外に出られたんだ。
だが、外も酷かった。誰もが倒れてんだ。無傷じゃない。体の一部が千切れてるやつもいれば、魔物に生きたまま食われた仲間と同じ顔してあえいでるやつもいた。見ただけで、ほとんど助からねえと分かったよ。
俺はそん中からそこそこ強そうなのを数人連れて、町を出た。……嬢ちゃん相手だから見栄もなく言えるが、要するに俺は逃げたんだ。S級の魔物の群れとか、魔人の軍隊とか、神とか、とにかくそういう、埒外の連中の攻撃を受けたと思ったんだ。そうじゃなきゃあの惨状は説明できねえ。
経験上、危ないときこそ冷静になんなきゃいけねえって分かってたんだ。だけど、恐かった。恐怖だった。はは、おかしいだろ? Sランク冒険者が怯えて尻尾巻いて逃げたんだぜ。
――ひっ、……、……す、すまねえ、ちょっとぶり返しただけだ。……町の外も、嵐が通ったみたいに酷かった。とにかく俺たちは一心不乱に隣の町を目指した。あぁ、走ったよ。生き残った馬は恐怖で暴れて使い物にならなかったからな。
時間の感覚が狂ってたからよく分かんねえけど、日がいくらか動いてからだな、『死の土地』から、黒くて薄い雲が見渡す限りに横一列に並んで迫ってきたんだ。日が隠されて、暗くなって、あのときはもう、世界が終わったんだと思った。
俺は元々濃い茶髪だったんだけどな、この通り白くなっちまったよ。今こうして生きてるのが、夢みてえっていうか、正直生きてる心地がしねえ。まぁこう言ってもお前さんには分かんねえだろうが……いや、分かんねえほうがいいから気にするな。
あの町に行く怖さが少しはお前さんにも伝わったか? ……そのふくれ面を見るになんとなく伝わったみてえだな。
まぁこれは忠告だ。あの町に行くのはやめとけ。
結局あれっきり何の攻撃も受けてねえみたいだけど、いっそ全壊していたほうがよかったんじゃないかって思えるぜ、あの町。もうあれは捨てるべきだな。原因は『死の大地』の魔脈だろ? 死神様の気まぐれか何かは知らねえけど、触らぬ神に祟りなしってやつだ。さすがにお偉いさんもそう判断するだろうよ。
行くだけ無駄ってこった。おっと、長話につき合わせて悪かったな。老婆心というか爺心というか、お前さんみたいな可愛い嬢ちゃんが『死んだ』町に行くのを放っておけなくてな。ついつい話し込んじまった。
ま、そういうわけだ。お前さんは来た道を戻りな。どのみちあの状況じゃ使いの目的は達成できないだろ?」
「お使いじゃないんだけどね」
「ん? どうした?」
「ううんっ、なんでもない! おじいちゃんありがとう! ジュースおいしかったよ! じゃあね!」
「あっ、おい……」
男は思わず手を伸ばすが、少女は身軽に椅子から身を翻し、走り去ってしまう。
男はしばし呆然として呟く。
「おじいちゃんか……。俺、まだ二十八なんだけどな……」
その二時間後。
Sランク冒険者の男と話をした町から、馬の足でも最低二日はかかる「壊れた町」を、その少女は空から見下ろしていた。
町というよりは瓦礫の山といった光景で、半分以上の建物が崩れたまま放置され、いまだ生き埋めとなったままの死体が残されている。
戦闘の影響で舞い上がり太陽を覆い隠していた灰色の粉塵は遠い彼方へと流れ去ったが、人気のない町は薄暗い。
いや、実際に人がいない。
生き残った人々は町を捨てたのだ。
町に未練のある者がいなかったわけではない。しかしルエの根源的な「死」の一端に触れてなお、その恐怖に打ち勝てる者はほとんどいない。
生存本能をおしのけて愛を選択する者も中にはいた。だが捨てられた町で、流通もなく、生き物もなく、瓦礫に埋もれて食べ物もなく、寝る場所もなく、未来のない土地に未練に縛られて留まろうとする者に、生きる気力があろうはずもない。その者は愛する者の亡骸を抱いて静かに後を追った。
町の通りには人骨が野ざらしになっている。
死体は魔力によって魔物化することがあり、火葬して回った殊勝な魔法使いがいたからだった。
死んだ町。
そんなところに好んで行くとしたら、それは死の神ルエぐらいのものであろう。
少女は、艶のある黒髪を風に弄ばれながら、それには頓着せずにしかし不機嫌そうに頬を膨らませ、眼下をちらちらと窺い、空中をあっちへ行ったりこっちへ来たりしていた。
「もー! わたしいやだよ! こんなの見たくないよ! わたしのまみゃく半分こにしてあげるからひとりで行ってよ!」
少女は傍に誰もいないにもかかわらず、抗議の声を上げる。
「わたしは生きてるほうがいいの! ……えっ、好きにしたらいいって……んもーっ、そうじゃないんだってば! 一生に一度のお願いはかなえてあげたいし……でもわたしはこんなの見たくないし……」
少女はまるで自分の中に誰かがいるように話す。
「えーっと、えーっと、だから、一人で行ったらいいんだってば! もー、そりゃわたしといっしょにいるほうが居心地いいかもしれないけど……え? ちがうの?」
少女は早とちりで赤く染まった頬をぺたぺたと触る。直後、動きが止まる。
「……えっ。長老会……? えー! 見つかりたくないから!? それでわたしに!? ……全部計算してたんだ……なんかふくざつな気分……」
少女はまた、むっと不機嫌な顔をする。
「……なんでこんなの見たいかなぁ。いや、それは前も聞いたけど! わたしはこれ見て『落ち着く』感じしないの! これ見て『落ち着く』のはルエちゃんだけだと思うなぁっ、もー!」
少女はその幼い顔に葛藤という小難しい表情を浮かべるが、子供らしいことにものすごく似合っておらず、しかしそれを指摘するものも愛でる者もいない。
「行きたくない……でもルエちゃんのお願いだし……でも行きたくない……そうだ! 目を閉じればいいんだ!」
少女の顔がぱあっと明るくなる。が、すぐに暗くなる。
「え? それじゃ見えないって言われても……まぁそうなんだけど……」
少女はとてつもなく嫌そうに顔をしわくちゃにして、段々と高度を下げていく。
「……全部見終わったら、今度はわたしの番だからね! 絶対にルエちゃんを動物さんたちの仲間に入れてあげるんだから! あっ、もちろん死なせちゃだめだから! ……そんなこと言ってもだめ! わたしもつらい思いするんだからお互いさまでしょ!」
黒髪の少女は壊れた町に降り立つと、渋々といった体で巡り歩いていく。
こぎれいな町服に可愛い靴を身につける彼女は、活力を振りまくように廃墟の中をずんずん進む。
生き生きとした少女と、死んだ町。その似つかわしくない構図は、それゆえに一枚の絵のようでもあった。
彼女の容姿が整いすぎているのもそれに寄与しているだろう。
その少女は死の神ルエを鏡に映したような容姿をしていた。
ルエの心情をもうちょっと書きたかったんですが……うまくいきませんでした。無念。




