79話 時空の神佐々倉啓 vs 破壊の神ヴェロニカ
三人称視点回です。
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白の世界で、一人の女性が佇んでいた。
感触を確かめるように手の平を握り締めては開くを繰り返す。
ふと、周囲を見回す。緋色のポニーテールが左右に振れる。
「……ふぅ、寂しいねぇ」
そう漏らして切れ長の目を細めると、池に小石を落としてできる波紋のように、魔力を全方位に拡散させていく。
同時に、彼女を中心にしてまるで世界が塗り替えられていくように、野花の咲く草原が姿を現していった。
ついにそれは見渡す限りに及ぶ。
なおも哀愁を漂わせる彼女は、魔力を四方八方へ向けて打ち出す。
まもなく、草原を微風が走り始めた。
彼女の横髪をさわさわと撫で、草花の青臭くも懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。
さらさらと草のこすれあう乾いた音が鼓膜を優しく震わせた。
「……なんだい、さらに寂しくなるじゃないか」
目を伏せ仮初めの空を仰ぎ、遠い過去に思いを馳せる彼女。
勝気そうな眉が、何かを忍ぶように歪んでいる。
「しょせん、こんなものは偽物だ」
おもむろにガーネットの瞳を開くと、彼女の周囲から遠方に向けて草原が蒸発し、初めからなかったように掻き消えた。
実体化を解いたのだ。
「いくら似せようと、あの風景は戻らない」
再び白の世界と化した空間で、女性の呟きがぽつりと落とされる。
「随分と長く待たせてしまったね、ヒュピ。待っていておくれ、今から終わらせにいくよ……。ロニー、すまないね。あと少しだけ、『ロニー』のままでいておくれ」
彼女の名は、ヴェロニカ。
異称、破壊の神。
ヒュピの姉にして、ロニーの双子の姉。
かつての長老会の一員である。
そして――。
「うん? ここは……そうか、佐々倉啓、アンタの異空間だね?」
――スイシアの前身。
別人格として封じられていたヴェロニカは、スイシアの経験を持ち合わせていた。
それゆえに、突如として一部屋ほどの異空間に転移させられた今、現状を正しく把握していた。
ヴェロニカは光を実体化させ、直方体の部屋の中を照らす。
しかし空間のない部屋の外は、相変わらず黒いままだ。
「佐々倉啓、聞いているかい? アタシは今から3秒後にこの異空間を『破壊』する。巻き込まれたくなくば、アンタは逃げておきな。いくよ。3……2……1……」
ギチチチチ、と空間が軋みを上げ、次の瞬間、白の世界に戻っていた。
「《神の視点》」
ヴェロニカはモニターを眼前に出現させ、佐々倉啓の姿を探す。
佐々倉啓は、彼女の目の前に立っていた。
ヴェロニカは感心したように口角を上げる。
「ほう? アタシの前に立つなんて根性あるねぇ。それとも、考えなしの馬鹿なのかい?」
佐々倉啓は緊張の面持ちで首を左右に振る。
「僕を問答無用で殺そうとする神様ではなさそうだったので」
「……そうさねぇ、アンタ、スイシアのおめかけだからねぇ。無闇に壊すのは遠慮したいんだよ」
「ちょっと、話をしませんか?」
「ん? おや、なんだい」
ヴェロニカは毒気を抜かれていた。
佐々倉啓がここへ現れたということ。
つまり、自分がスイシアに成り代わったことを知っているはず。
なればヴェロニカを異空間に閉じ込めようとするだろう。
一度異空間を破りはした。
だがその1回のやり取りで諦めるとも思えない。
……話、ねぇ。
よもや、このアタシを論破しようなどと考えてはいまいね?
……できるものなら、やってごらんよ。
ヴェロニカは微かな期待を込めて、皮肉げに口元を歪めた。
一方、佐々倉啓は確かめねばならなかった。
彼はほとんど何も知らない。
ヴェロニカとスイシアの関係。
ヴェロニカの行動原理。
ゆえに、話をしようと持ちかけた。
佐々倉啓は懸命に頭を働かせつつ、口を開く。
「あなたは、ヴェロニカさんで間違いないですね?」
「おっと、そこからかい」
苦笑するヴェロニカに、佐々倉啓はスイシアの面影を見た。
「アタシは間違いなくヴェロニカだよ。あぁ、アンタの質問に先回りして答えると、アタシはスイシアの中に眠っていた別人格で、今はもうスイシアじゃぁない。スイシアはいなくなった」
佐々倉啓は顔を歪める。
それをヴェロニカは無感情に見やる。
「それと、アタシはこれから世界を壊す」
「……え、今なんて」
「その力を得るまで1月も掛からないだろう。世界の終わるその日まで、悔いの残らないように過ごすといいさね」
「っ……」
ヴェロニカの軽い物言いに、佐々倉啓は憤った。
世界を壊す? 世界を壊すだって?
ニィのいるこの大切な世界を?
煮えたぎるマグマのようなそれを、しかし佐々倉啓は飲み込んだ。
その様子をつぶさに観察していたヴェロニカは、スイシアが彼を人がよすぎると評価していたことを思い出した。
「……理由を、聞かせてもらえますか?」
「世界を壊す理由かい?」
「はい、そうです」
「理不尽だからさ。この世界が」
「……あなたがしようとしていることも、理不尽だって理解してますか?」
「あぁ、してるよ」
「それならっ!」
「まぁ、アンタにアタシを理解してもらえるなんて考えちゃいないさ。アンタにはアンタの守るべきものがあるだろうしねぇ。安い言葉だけど、正義はそれぞれにある」
「……それには同意します」
佐々倉啓は、ヴェロニカと話せると感じた。
少なくとも、ケイニーよりはましだった。
気を抜けばたやすく熱しそうな頭を冷やし、佐々倉啓は言葉を続ける。
「壊すのではなく、理不尽な世界を変えるという手段は取れないんですか? 何も壊す必要はないんじゃないですか? 理不尽のはびこらない世界を作っていけばいいんじゃないですか?」
「あー、誤解させちまったようだけど、理由はヒュピさね」
「ヒュピ、ちゃん?」
思わぬ名前に目を丸くする佐々倉啓。
ヴェロニカは意外そうに眉を動かす。
「おや? 知らなかったかい? あの子はアタシの妹さ。ついでに言っておくと、ロニーはアタシの双子の妹になるね」
「えっと、ちょっと待ってください。つまり……」
佐々倉啓の頭の中で、ピースがかみ合っていく。
ヴェロニカが世界を壊す理由。理不尽な世界。何かに怯えるようだったヒュピ。眠れる神。姉妹という関係性。
「もしかして、世界の理不尽さにヒュピちゃんは自分の世界に閉じこもった? それを憂えて、ヴェロニカさんは世界を壊そうとしている?」
「ほう、想像力はあるようだね」
「……ヒュピちゃんが目を覚ませば?」
「アタシが世界を壊す理由はなくなる」
佐々倉啓は思考を進める。
もしニィが眠りから覚めなくなったら?
その原因が明確に存在していたとしたら?
僕はその原因を潰そうとするだろう。
ヒュピちゃんの場合、何が原因だったのか。
「ヒュピちゃんが目を覚まさなくなった原因はなんですか?」
「一言で言えば、心無い神たちの身勝手かね」
「それなら……えっと……神様を縛るルールを、あっ」
「そう、それが掟に当たるね。まぁ、比較的最近の制度ではあるんだけど」
「どうしてもっと早くに作れなかったんですか?」
「抑止力がなかったからさ」
「抑止力?」
「そう、抑止力さ。掟を守らせるには、掟を破ることに対する抑止力が必要だった。その力が今の長老会だ。長老会は神の上位で占められている。だからこそ、掟を守らせることができる。だが昔は神同士の力に多少の差はあれど、絶対的な差はなかった。秩序もなく、戦いの日々が続いた」
それは言うなれば戦乱の時代。
神が神を倒し、力を蓄えた、神話よりも古き時代。
一通り説明すると、ヴェロニカは肩を竦める。
「ヒュピを傷つけた奴らに、アタシは報復した。ヒュピが閉じこもってからずっと、アタシはあの子の周りから害悪を取り除いてきた。だけどね、ヒュピは目を覚まさなかった。あの子を目覚めさせることはできなかったのさ」
「だからって、何もかもを壊すっていうんですか? ヒュピちゃんを目覚めさせる方法はまだ残っているんじゃないですか?」
「アタシがあの子を目覚めさせるために何年を費やしたと思う? 1000年さ。これを長いと見るか短いと見るかはそれぞれだろう。少なくともアタシたちはどうしようもないほど消耗した」
佐々倉啓は、それを長いと考えた。
神の感性なら異なるのだろうか。
だが事実、それを語るヴェロニカの表情はどこか疲れていた。
「これは自慢じゃないが、アタシはあの子のために一度アタシを壊した。アタシには『壊す』ことしかできなかったからね、願わくば『癒す』力を得られるようにと、アタシはアタシという存在を一度壊し、再起を図った」
「……そんな」
ヴェロニカの告白に、佐々倉啓は困惑した。
自分を壊すなど、自殺と変わらない。
「もちろんそれは賭けだった。魔脈が健在である限り神は再生できるとはいえ、意図的に自分を壊して生まれ変われる保証はどこにもなかった。そのまま存在が消滅することさえ容易にありえたよ」
「……」
「消えるなら、それでいいとも思っていたさ。妹一人救えない姉なんて、存在したってしょうがない」
「そ、そんなことは」
「ないってかい? それは当事者でないから言えるんだよ」
ヴェロニカはしかし自虐的に笑う。
「もちろん分かっていたさ、一番まずいのはあの子を置いていくことだってね。だけどね、可能性が一縷でもあるのならすがりたかった。そのためには、アタシを壊すことにも躊躇いはなかった。でも……ははは」
心底おかしそうにヴェロニカは乾いた笑いを漏らす。
「まさか『転生』の能力を得るとは……なんて順当なんだろうねぇ? 冷静に考えれば当たり前だった。生まれ変わるには、そういう能力が必要なことくらい。結局アタシは『転生の神スイシア』として生まれ変わることができた。でも、それじゃあヒュピを救うことはできないんだ。アタシはどこまでいってもあの子を救うことができなかったんだよ」
「……」
佐々倉啓は返すべき言葉を見つけられなかった。
ヴェロニカは自分すら対価にしてヒュピを救おうとしていた。
しかしそれでもなお、ヒュピを救う手立ては得られなかったのだ。
彼女にはもう何もやれることは残されていなかった。
ただ一つ、世界を壊すこと以外には。
「アタシが世界を壊す理由は今話した通りさ。もう他に話すこともないだろう。さて、アンタはどうするね? アタシを止めようと頑張ってみるかい?」
「……僕は」
「言っておくけどそれはお勧めしないよ。邪魔をするってんならアタシも容赦はしない。スイシアのよしみがあるからアンタをできれば壊したくないんだ。だから、世界が壊れるそのときまで、アンタの仲間とアンタの恋人と、納得のいく日々を過ごしておくれよ」
「……僕は」
ヴェロニカを見据える佐々倉啓の黒い瞳には、揺るぎない決意の光が灯っていた。
それを見て取ったヴェロニカは威嚇として殺気を放つ。
体を貫くような底冷えの視線に、だが、佐々倉啓は揺るがない。
「……僕は、ニィのいるこの世界を守ります。ヴェロニカさん、あなたの事情は分かりました。もちろんあなたの全てを理解したなどとは言いません。第三者には分からないことも多々あるでしょう。だけど、僕にも譲れないものはある。ニィがいるこの世界を絶対に壊させはしない! あなたが世界を壊すというのなら――僕はあなたを阻止しますッ!」
ヴェロニカは殺気を収めた。
戦意喪失したのか? 佐々倉啓の言葉に心を入れ替えたのか?
答えは否。
人がアリを踏み潰すのに殺気を必要としないように。
ヴェロニカが人を殺すのに殺気は不要。
ただ無造作に能力を行使するだけで。
人という儚き存在は容易く壊れてしまうのだから。
佐々倉啓とヴェロニカ。
黒き瞳と朱の瞳。
合図も何もないが、2人は互いに戦闘開始の機微を読み取った。
ヴェロニカの濃密な魔力が一帯を覆う。
常人であればそこにいるだけで昏倒する魔力密度。
しかし佐々倉啓の圧縮された魔力障壁がそれを跳ね返す。
――《加速空間》、重ねがけ10回。
佐々倉啓の空間が加速し、反対に世界が減速する。
世界から取り残されたように、薄暗くなる視界。
そしてヴェロニカの動きが停止した。
佐々倉啓の方針は変わっていなかった。
ヴェロニカを異空間に閉じ込めること。
しかし同じことをすればまた異空間を破壊される。
ならばどうするか。
ヴェロニカの空間だけを減速させればいい。
その名は《減速空間》。《加速空間》の効果を反転させた空間魔法。
任意の空間を減速させる。
これまで登場の機会はなかったものの、《加速空間》と同時期に開発された魔法である。
ヴェロニカを《減速空間》により擬似コールドスリープ状態に置き、その上で異空間に閉じ込める。
これならヴェロニカが異空間を破壊するまで時間を稼ぐことができる。
佐々倉啓はヴェロニカに圧縮した魔力を飛ばした。
佐々倉啓は成功を予感した。
そのとき、摂理が無理に歪められて軋むような音が彼の耳を突いた。
同時に、世界に光が戻る。
「……え?」
咄嗟に佐々倉啓は《加速空間》を再発動させる。
光が失われる。
しかし彼は身の危険を感じ、ヴェロニカを魔力で捉えるのではなく、自分の周囲の空間に《固定》を施した。
瞬間、ギギィと不快な音が鳴り、《加速空間》が壊される。
佐々倉啓の背を冷や汗が伝う。
佐々倉啓は悟った。
臨戦態勢に入ったヴェロニカが自動で『破壊』を発動できること。
そして『破壊』の対象が魔法の類にまで及ぶこと。
すなわち《加速空間》も《減速空間》もほんの一瞬の時間稼ぎにしかならない。
そうしてその一瞬ではヴェロニカを魔力で捉えることもままならないのだ。
ヴェロニカは動かない。
いや、動く必要すらない。
次の瞬間、佐々倉啓を覆う空間の《固定》が破壊された。
「ッ!」
佐々倉啓は自身の体表から薄皮1枚を剥離させるように圧縮魔力の層を形成しつつ、順に《固定》をかけていく。
それは多重結界の様相を呈する。
だが、外側の《固定》から順に次々と破壊が及んでいく。
対抗して、マイクロメートル内側に《固定》を追加していく佐々倉啓。
追撃して、《固定》を次々と破壊していくヴェロニカ。
実体化の発動速度に優劣はほとんどない。
2人の攻防は拮抗した。
「へぇ、やるじゃないか。さすが、人の身にして神と名乗ることを許されただけはあるねぇ」
感心するヴェロニカに対し、それに応える余裕が佐々倉啓にはない。
経験が違う。
余裕を残して追撃するヴェロニカに対して、その猛追を捌くだけで佐々倉啓は意識の全てを持っていかれている。
やばい、やばいやばいやばい。
佐々倉啓は焦燥に駆られていた。
ヴェロニカの《破壊》が佐々倉啓に至ったとき、彼の肉体、あるいは存在などというあやふやなものでさえ、壊されてしまうのではないかと危惧していた。
その危惧は的を射ている。
ヴェロニカの攻撃を一度でも受けるとき。
佐々倉啓の死が確定するのだから。
佐々倉啓の焦燥はそれだけではなかった。
残余魔力量。
《固定》を連続で発動させなければならない今、彼の残余魔力量は既に半分を割り込んでいた。
……だが、佐々倉啓の手札は全て切られていない。
ヴェロニカの《破壊》は彼女の意志なくとも自動発動する。
じゃあ、彼女の《破壊》はどこまで及ぶ?
――《空間転移》。
佐々倉啓は異空間へと転移した。
直後、彼のいた空間を《破壊》の波動が駆け抜けていった。
「ん? ……これは……」
ポニーテールを振り回して辺りをきょろきょろと窺うヴェロニカ。
佐々倉啓の圧縮した魔力は補足できるが、肝心の彼の姿はどこにも見当たらない。
「……逃げたなら、それでいいんだけどねぇ」
その場に残っている彼の魔力を、ヴェロニカは自分の魔力をぶつけて削り取っていく。
次の瞬間、佐々倉啓の魔力が唐突に逃走を始めた。
「!? まさか!」
逃走するとはいえ、辺り一帯はヴェロニカの魔力が充満している。
彼の魔力に意識を向けるだけで魔力を削り切れる、はずだった。
ヴェロニカは彼の魔力を見失った。
削り切ったのではなく、見失った。
ヴェロニカはすかさず魔力感知に集中する。
……かすかに、刹那に、異物がちらつくのを感知した。
「これは……加速した!? まずい!」
ヴェロニカは魔力を追うのをやめ、全方位へ《破壊》を展開した。
異空間にて《加速空間》を使い操作を加速されていた佐々倉啓の魔力だったが、それらはついに残らず消え去った。
「これでどうだい……? 転移するマーカーはもうない。お互い決め手に欠けて、引き分けといったところかい?」
ヴェロニカは再度魔力感知に集中し、ついで《神の視点》で周囲を見て、佐々倉啓の痕跡がないことを確認した。
眉をひそめて呟く。
「まったく、スイシアもとんでもない置き土産をしてくれたものだね。だけどこれで、この空間にいる限りは彼と会うこともない。あとは他の魔脈に直接アクセスすれば……ん?」
ヴェロニカは自分の台詞に引っかかりを覚えた。
「……佐々倉啓はどうやってこの空間に入ってきた? 予めマーカーとなる魔力を置いていた? そんな痕跡があったかねぇ? もしなかったとしたら……!?」
ヴェロニカは慌てて臨戦態勢に入る。
瞬間、ヴェロニカは全身に衝撃を受けた。
ヴェロニカの魔力は全て消失し、ヴェロニカの魔力体は霧散した。
力尽きました……。




