王妃の悩み
短編『王妃の伝言』のその後の小話です。
単体でもお楽しみいただけますが、先に『王妃の伝言』をお読みいただいた方がお楽しみいただけると思います。
「そうしてお姫様は王子様と結婚し、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」
最後の一文を読み上げて顔を上げると、さきほどまで「ご本読んで」とせがんでいた王女はすでに静かな寝息を立てている。
それを見てふっと頬を緩めた王妃は手に持った本をぱたりと閉じて、すっかり寝入ってしまった幼子の肩に柔らかな毛布を掛けてやった。
それから4つ並んだ小さなベッドひとつひとつを巡って子供たちの掛布を整え、額に優しいキスを落としてゆく。
そしてそっと立ち上がり、少し離れた場所に置かれたベビーベッドの中で眠る赤ん坊の様子を確認して、さきほどまで読み聞かせていた本を片手に本棚の前に立った。
ずらりと並べられたたくさんの革表紙の間にその本をそっと戻しながら、王妃は小さなため息をついた。
「やっぱり恋といったら、こうでなくちゃね」
革表紙をゆっくりと撫でる細い指には、豪奢な指輪が輝いている。
「余では不満か」
背後から低く静かな声が聞こえ、王妃は小さな笑みを漏らしてからゆっくりと振り返った。
「陛下、いつの間に?」
「さきほどからずっとここに立っていた。このところ連日のように愉快な伝言をもらうのでな。今日くらいはゆっくり眠らせてやらねば、明日もまたあれを聞かされる羽目になると思って」
年若き王は王妃に歩み寄りながらさも迷惑そうに言ってみせるが、その目は穏やかで、そこに映りこんだ女性を心底愛しているのが傍目にもわかる。女性もまたそのことをよくわかっているらしく、いたずらっぽい笑みを返した。
「して、何やら不満があるらしいな」
部屋の中央に置かれたソファに並んで腰掛け、王は王妃の肩を抱きよせながら言った。
「不満というわけでは。ただ、おとぎ話のようにはいかないものだと思っただけで」
王妃は安心しきった様子で王の肩に頭を預ける。
「余はそなたを妃とできてこの上なく幸せなのだがな。子宝にも恵まれ、国も穏やかだ」
「さればこそ、と申しましょうか」
王妃の言葉に王は眉根を寄せた。
「また妙なことを考えているのだろう。そなたは昔から、おかしなことばかり考えるのだから」
ふたりが出会ったのは、王がまだ王太子だった頃。王より6つ遅れて生まれた王妃はまだ11歳の年端もいかぬ少女だった。
世の少女たちと同じようにたくさんのおとぎ話を読んで育った夢見る少女は、年上の心優しい王子と出会ってすぐに恋に落ちた。王子もまた可憐な少女に心惹かれ、二人はゆっくりと互いの思いを育ててゆくのである。
そして周囲も、そんなふたりを温かく見守った。
もともと少女は有力貴族の家に生まれ王妃として申し分ない家柄であったし、15になって成人を迎えるころにはすでに国一番の美女としてその名を馳せていたから。
「余とそなたの話は絵本になって国中で読まれていると聞く。おとぎ話ではないか」
王の言葉に何やら考え込むような表情を見せた後、王妃はゆっくりと言った。
「足りないのでございます」
「なに、足りない? 何がだ。幸福か」
王はソファの背もたれからわずかに背を浮かせ、王妃の顔を覗き込んだ。
「いいえ。十分すぎるほど幸せでございます」
「それなら一体……」
「試練です」
「……試練?」
「ええ」
そう言ってから王妃はうっとりと窓の外を見つめた。
「たとえば、意地悪な継母」
王の目がまた尋常ならざる具合に見開かれた。
朝食の時にもこぼれ落ちはしまいかというくらいに見開かれていたが、今はそれ以上である。
こぼれるより先に乾いてしまいそうな気もするが。
「たとえば、魔女。それに、毒入りのりんご」
それに……
続けようとした王妃の口を、王のごつごつとした手がそっとふさぐ。
「つまりあれか、恋の障害が足りぬと」
王妃はこくりとうなずいた。
とどのつまり、王妃が欲しいのは物語にピリリと効いたスパイスらしい。
おとぎ話にはつきものの。
意地悪な継母や義理の姉にいじめられて灰にまみれてみたり、
鏡に日々話しかけて世界で一番美しい人を知りたがる頭のおかしい魔女が登場したり、
毒りんごを喉につまらせてみたり、
糸車に刺されて100年だかなんだかの強制的な眠りにつかされてみたり、
声を奪われてみたり、
井戸からつき落とされたり、
というあれである。
「ライバルの登場でもいいのです」
恋のライバルといえば、お決まりの。
謀をめぐらせて人を陥れてみたり色仕掛けで気持ちをぐらつかせたりという不埒な輩が登場したり、
はたまた魔女が美女に化けた姿で現れてみたりとか、
義理の姉が足先をちょんぎってまでガラスの靴に足をつめこんでみたりとかいう、あの。
王はくたびれた様子で椅子に座りこんだ。
出会ってから6年、穏やかに愛を育んだ後に盛大な結婚式を挙げたふたりには、たしかに障害という障害はなかった。
と、少なくとも王妃は思っているのである。
「まったく、そなたは何も知らないからそんなことが言えるのだ」
「何を、でございますか」
「いや、いい、いい」
そう言って疲れた様子で手をぶらぶらと振った王は、その後王妃が寝入ったのを確かめてからそっとその髪の毛に口づけを落とした。
「まったく。そなたを手に入れるためにどれほどの困難を乗り越えたか」
こんなことなら、試練とやらに負けてみるのだったな。
あの色仕掛けに乗ってみるのも悪くなかったかもしれないし、見え透いた罠にかかってみるのも良かったかもしれない。
それに、顔を合わせるたびに「末の娘を妃に」と口やかましく言ってくる隣国の王の話にも、耳を傾けるくらいはしてやればよかったか。破れかぶれの脅迫めいた手紙まで受け取って、一時は両国の未来に暗雲が立ち込めたのを何とか穏便におさめたというのに。
それに、陰でどれだけの男を牽制し、王太子という地位を使って黙らせたことか。権力を振りかざすのは決して好むところではないが、必死だったのだ。
あれで障害が足りぬなど。
ライバルがライバルたりうるのは相手を想う心に隙があるからだ。
試練が試練たりうるのは、それを与えられたものが苦しむからだ。
決して心揺らがぬ王の前にライバルなどいようはずもないし、おおよそすべての事柄を笑みひとつで乗り越えてしまう妃の前では、試練もただの通り道にすぎない。
「だが、これほど愛しく想う女性を手に入れることができたのだから」
妙な伝言くらいは毎日黙って聞かされてやることにするか。
王はゆるやかに微笑み、肩に乗った王妃の頭をそっと撫でた。
施政者としての未来にも、夫としての未来にも、父としての未来にも、いまのところ一点の曇りも見られない若き王。彼の心には穏やかな幸福だけが広がっている。