05.運命なんて、誰が決めた
――確か、あの日も雨が降っていた。
いい加減身体に馴染んだ騎士隊の制服も、雨のせいでぐっしょりと濡れている。まるで頭から滝の中に突っ込んだかのように酷い様相だ。それでもシャルは走ることを止めなかった。並走するのは今や友人のレオンハルトのみになっていたが、構うことはない。
『おいレオン、急げ!』
『急いでるって!』
シャルの言葉にレオンハルトが返事を返す。とはいうものの、レオンハルトの武器は弓なので、シャルより前に出ることは不可能であった。
二人は街の裏路地を駆け抜ける。そうして曲がり角に到達した際、急に横合いから人間が飛び出してきた。シャルはすぐさま抜剣して、相手の抜きざまの攻撃を防ぐ。相手は4人。レオンハルトが弓に矢を番えようとしたとき、その傍を一迅の風が駆け抜けた。レオンハルトが目を見張って弓を下ろす。
その人影はシャルに斬りかかろうとした敵を、一撃で葬り去った。シャルも驚き、次いで目を輝かせた。
『兄さん!』
『ここは引き受ける、先に行け!』
『分かった……!』
歳の離れたシャルの兄は、圧倒的な強さで敵と斬り結んだ。シャルはレオンハルトに合図を送り、ふたりはその場を突破した。
再び走り始めた二人だったが、幾ばくも進まないまま、またもや敵に行く手を阻まれてしまった。シャルは苛立ち気味に剣を構える。
『くそっ、どけ……!』
するとその場に、敵を片付けたシャルの兄が駆けつけた。彼は緊迫から逆に呆れたような表情を浮かべた。
『お前たちは本当に、世話が焼けるな……!』
『あ、はは……』
シャルとレオンハルトは気の抜けた笑みを漏らし、そしてもう一度その場は兄に任せ、ふたりは先に進んだ。
シャルとレオンハルトが追いかける人物は、ついに行き止まりの路地に追い込まれた。黒づくめの男は、左腕に子供を抱きかかえていた。レオンハルトが矢を引き絞る。
『さあ、もうおしまいだよ。その方を離せ』
シャルも剣を男に突きつけ、ゆっくりと間合いを詰める。男はじりじりと後退し、壁に背が当たった瞬間に、彼は抱きかかえていた子供を思い切り投げた。シャルは慌てて、弧を描いて飛んできた子供を抱き留める。その時には、レオンハルトが矢を放っていた。真っ直ぐに飛んだ矢は、逃げようとした男の胸を射抜いた。こうして襲撃者は断罪されたのである。
シャルは投げ飛ばされた子供を抱き起し、地面に膝をついた。襲撃者に誘拐された子供がただ気を失っているだけであると気付いたシャルは、ほっと溜息をついた。先程兄から、この子供の誘拐を知らされたときはどれだけ驚いたことか。護衛任務でこの街に来たシャルとレオンハルトにとっては、とんでもない失態であった。
『シャル、アレックス殿下はご無事か?』
『ああ、気を失っているだけだぜ』
『そうか、良かった……』
レオンハルトも安堵したようである。
『ったくもう、簡単に誘拐されるなよなあ』
『なんてことを言うんだ君は。まだ殿下は十歳だよ』
『んなこと言われても、もうちょい身分相応に危機感はもってもらわねえと……』
『しかしまさか、アジールの工作員が国内に潜入して、王太子殿下を誘拐するとはね。大方、殿下の身柄を盾にインフェルシアから利権を取り上げるつもりだろうけど……これは宣戦布告なのかな』
『上等だ、ぶっ潰してやる』
『いつになく血の気が多いね、シャル』
そこへ、シャルの兄が到着する。彼は若々しい顔に苦笑を浮かべる。
『ふたりとも、それくらいにして殿下を安全なところへ。雨に打たれたままで風邪でも引かれたらどうするんだ』
『そ、そうですね』
レオンハルトが慌ただしく、自分が着ていたローブを脱ぎ、アレックスと言う名の少年に巻き付けた。シャルが少年を抱き上げようとすると、はっとシャルの兄が息を呑んだ。
『―――シャル、レオンっ! 伏せろ!』
兄に押しのけられ、シャルとレオンハルトは地面に伏せた。アレックスを守るように自分の背中を盾にしたシャルだったが、頬にぽたっと水滴がついたことに気付く。雨ではない。そっと手を当ててみると、それは真っ赤な液体だった。
はっとして顔を上げる。シャルとレオンハルトを庇うように立っていた兄の背中が、ぐらりとこちらへ倒れてきた。シャルが兄を支える。
『兄さ――っ!?』
兄の胸元には矢が突き立っていた。戦時中なら軽鎧を身につけていたのだが、こんな街中では騎士隊の制服だけしか着ていない。そのせいで、矢をまともに受けてしまったのだろう。しかも彼は、弟とその友人を守って――。
レオンハルトが片膝を立て、矢を放った。その先、数十メートル離れた家屋の屋根の上にいた敵狙撃手が、レオンハルトの矢で倒れた。敵が届いた距離なら、レオンハルトも届くのである。彼は風下にいたのだが、後に【遠弓のレオン】と呼ばれるレオンハルトには関係ない。
シャルはアレックスをレオンハルトに渡し、兄を支えて屋根の下へ移動した。そこで矢を引き抜き、止血をする。薬師の息子であるシャルは、応急処置などにも詳しかった。だから手並みは見事だったが、射られた場所が悪かったのか、出血が止まらない。
『嫌だ……っ、兄さん、兄さん! 何か言ってくれ、頼むから……っ!』
『クライスさん……っ』
レオンハルトもシャルを手伝いながら、名前を呼び続ける。レオンハルトにとってもシャルの兄、クライス・ハールディンは、憧れであり兄貴分でもあった。
クライスが薄目を開けた。そして手を伸ばし、自分を覗き込んでいる弟の髪の毛をくしゃくしゃにする。クライスは微笑んだ。
『シャル……』
『兄さん、駄目だ、しっかりしてくれ! なんで、こんなっ……』
シャルの視界が曇る。雨の滴が目に入ったのか、それとも涙なのか。もうシャルには判別が不可能であった。
『お前も、レオンも……ほんっとにそそっかしいから……見ていて危なっかしかったんだけど』
『ああ、そうだよ、俺もレオンもまだまだ餓鬼なんだよ! だから兄さんに、教えてもらわなきゃいけないことが、たくさん……!』
その必死で縋り付くような弟の様子に、クライスは小さく首を振る。
『もう、自力で生きていける……俺が保証するから』
『そんな保証いらない!』
『そう言わないでくれ……ごめんな、シャル……昔から、苦労ばっかりさせて……』
雨と失血とで、クライスの身体はどんどん冷えていく。シャルは兄の手を握りしめた。
『戦争が終わったら……自由に……』
クライスの声が消える。シャルははっとして身を乗り出した。
『兄さん……っ!? 兄さんっ!』
レオンハルトは茫然と傍で沈黙していた。そしてクライスの沈黙の意味を悟り、その眼から涙があふれる。シャルのむせび泣く声がその場に響いた。
アレックス王太子は無事だった。だがその代わりに、シャルはかけがえのないものを失ったのだった。
★☆
「――っ! う、ぐ」
シャルははっとして目を開けた。見慣れた小屋の天井。見慣れた風景。フォロッドの家の自室だった。
既に日は昇っており、窓から光が差し込んでいる。シャルはベッドの上に身体を起こし、乱れた呼吸を整え、額に浮かんだ冷や汗を拭う。
昔の夢、兄が死んだ時の夢を見るのは久々だった。昔は毎夜のように兄の死を夢で見、そのたびに跳ね起きていたものだが。最近はその記憶さえ薄れつつあるのか、夢に見なくなった。
兄が死んでから、シャルは王太子を奪還した功績を讃えられ、レオンハルトとともに昇進した。王太子を誘拐されるという失態は帳消しにされたようである。だがシャルにもレオンハルトにも、なんら嬉しくない昇進だった。特にシャルは、騎士として剣に賭けていた情熱を失い、ただがむしゃら兄が願った「戦争を終わらせる」という一事にのみ打ち込むようになった。
そして三年が経ち、見事インフェルシアは敵国アジールに勝利した。と同時にシャルは役目を終え、退役したのである。それが今から五年前のこと――。
アレックスは本当に何も覚えていないらしい。誘拐されたことも、それをシャルとレオンハルトが助けたことも、クライスが死んだことも。いや、誘拐されたこと自体は覚えていても、誰が助けてくれたのかは聞かされていないのだろうか。
少年が名乗り、王太子アレックスという名を聞いた瞬間に、シャルは兄を思い出した。シャルを守って死んだあの背中が。クライスを失った代わりに守られたアレックスの命。別にアレックスを恨むつもりはない。あれはすべて、自分の油断が招いたことなのだ。
けれど、アレックスの顔を見るたびに蘇る、死に際の兄の顔。幼少時に両親を失ったシャルは、クライスだけを頼りに生きてきた。だからこそ、その兄の死はシャルの心に深い傷を残したのだ。もう誰も死んでほしくない。殺したくない。剣さえ手放せば、戦いはついて回らない。そう思って、剣を捨てたのに――。
「……なんて皮肉だよ。神さまも、酷いことしやがる……」
神を信じているわけではないが、本当にいるとしたら、恨めしく思う仕儀だ。
あの坊やが悪いわけじゃない。憎んじゃいけない。八つ当たりしちゃいけない。そういう区別がつけられるくらいには、シャルも大人になっていた。一度自分の頬を叩いて気を取り直したシャルは、ベッドから降りた。
部屋から出てリビングに向かうと、既にアレックスとリヒターは起きだしていた。アレックスが微笑む。
「大佐……じゃなくて、シャル。おはようございます」
「おはよ。早起きだな」
「なんだか落ち着かなくて」
相槌を打ちつつ、シャルはじっとアレックスの顔を見つめる。その視線に気づいたアレックスが、首を傾げた。
「あの、どうしたのですか?」
「……いや、お前さ」
「はい」
「昔ちらっと見た時より、随分綺麗になったよな」
「え!?」
「は……?」
アレックスとリヒターが同時に声を上げた。シャルは瞬きをする。
「ん? 何か変なこと言ったか?」
「男性に対して『綺麗』と評するのは、あまり聞いたことがありませんが……」
リヒターが戸惑いがちに言うと、シャルは腕を組んだ。
「そうか? じゃあお前、あの貴公子然としたレオンの顔はなんだ?」
「え……っと」
「勇ましさはねえし、綺麗に整っているって思わないか?」
「そ、それは確かに……」
当のアレックスは、不自然に沈黙していた。その様子に「おや?」と思いつつも、シャルは話しかける。
「そういえば、レオンとは親戚なんだよな?」
「……は、はい。はとこにあたります……」
「ならレオンに似て顔立ちが綺麗でもおかしくないか」
綺麗、と言われてからアレックスは明らかに動揺している。シャルは頭を掻き、アレックスの頭をぽんぽんと叩いた。
「気に障ったなら謝る。悪かった」
「あ……い、いえ、違うんです! シャルは何も悪く……」
「まあいいから」
シャルはそう笑い、台所へ入っていった。内心で、中世的な顔立ちがコンプレックスなのだろうか、とでも思いながら。
朝食を終え、すぐにシャルとアレックスは出発の準備を整えた。その時間になるとティリー親子が小屋に来てくれた。これからこの親子には、リヒターの補助をしてもらうことになる。足を怪我して立てないこと以外は至極健康であるリヒターは、何度も恐縮してティリーの母親に頭を下げていた。シャルは壁に立てかけてあった剣を手に取った。
「んじゃ、リヒターのこと頼むわ」
「任せなさい」
ティリーの母が頼もしく頷く。ティリーがシャルの前に歩み出た。
「シャル、また帰ってくるよね!?」
「ああ、絶対帰ってくるよ。だから待ってろ」
「怪我しないでね!」
「なるべく気を付けるよ」
軍人は怪我を恐れて戦っていけない。しかし怪我しないに越したことはないので、シャルとしては「なるべく」としか言いようがなかった。
シャルの肩に、鷹のヴェルメが飛び移った。シャルは頭を撫でる。
「なんだ、お前も行くのか?」
その問いかけに「当たり前でしょ」とでも言うかのように、ヴェルメが一声鳴いた。そうかそうか、とシャルはヴェルメの同行を許可する。
「じゃあリヒター、留守番よろしく」
なんともあっさりとしたシャルの挨拶に、リヒターは寂しそうに微笑む。
「お供できないのは本当に残念ですが、ご武運をお祈りします」
「有難う、オルミッド中尉。今は怪我の治療に専念してください」
アレックスの優しい言葉に、リヒターは頭を下げた。リヒター、そしてティリー親子に見送られ、シャルとアレックスは小屋を出た。フォロッドに来るまでにアレックスとリヒターが乗ってきた馬を使い、今度は南へ。しかし真っ直ぐ南下してもテオドーラ軍がうようよしているだろうから、迂回する必要がある。さてどこをどう通ろうか、と国内の地形図を思い浮かべたシャルだったが、敵軍の様子が分からなければどうしようもないのであっさり思考を放棄した。
街の入り口を出て少し山道を下ったところで、シャルは一度馬を下りた。そして草や木の葉を運んできて街への道を塞ぎ、数年前に街の住人総出で整えた山道も、勿体ないがすべて壊した。この山に人の手が入っていることを悟られなくしなくてはいけない。
山を下り切って、シャルはもう一度道を塞ぐ。本当に念入りな人だなあ、とアレックスは感心してしまった。作業を終えて騎乗したシャルは息をつき、アレックスを見やった。
「ま、短い旅でもなさそうだし、これからよろしくな」
シャルが右手を差し出してくる。アレックスはシャルを見つめ、それから握手に応じた。
「……はい! こちらこそ、よろしくお願いします」
シャルは少し微笑み、手綱を握り直した。さすが元騎士、馬の扱いは慣れている。
「よし、行くぞ」
シャルは馬首を巡らし、街道を南へ進み始めた。少し遅れてアレックスが続く。いま味方はどこにいて、何をしているのか。アレックスには想像もつかないが、きっとシャルはいろいろ考えている。人生経験の豊富なシャルに、ついていこう。アレックスはそう決めていた。




