04.仕方がない、一肌脱ぐか
ティリー母子を家に帰したシャルは、沈鬱な空気に包まれているリビングに戻った。そして話を再開する。ティリーを帰らせたのは、あまりに物騒な話は聞かせたくなかったからだ。
「……レオンや老将軍が死ぬなんて、私には信じられません」
アレックスがぽつりと呟くと、シャルが腕を組んだ。
「俺だって、あいつらが死ぬなんて思ってねえよ」
「でも、インフェルシアは負けたと……」
「負けイコール死にはならねえだろ。俺が思うに、インフェルシア軍はテオドーラの勢いに耐えかねて少しばかり後退したんだ。そうだな……南のファルサアイル湿原くらいかな。そこまで最終防衛ラインを下げたってことさ」
インフェルシア北部は隣国テオドーラと、もう一か国アジールとの国境地帯になっている。陸続きの隣国は北のテオドーラとアジールだけで、東、南、西は海に面しているのだ。この広い広い大陸の中で、インフェルシアだけ妙に突き出て半島の態をなしているのである。沖合で海流がぶつかっているために当然のこと漁業は盛んで、領海も広い。操船技術の発達も大陸一で、海上貿易が主な貿易方法である。内陸部の気候は温暖で、北部にフォロッド周辺の山脈があるだけで平地が多く、自然が豊かだ。牧畜や農耕も可能で、食料自給率は百パーセントを越える。鉄鉱山などもあり、資源に困ることもない。
そんな豊かな国だからこそ、辺境の小国に過ぎないインフェルシアの領土を狙う戦争は絶えないのだ。北のテオドーラがそうだし、アジールがそうだし、海を挟んだ反対側の国、他にも多くの国がインフェルシアを狙っている。インフェルシアはとにかく海軍が強力だが、ここ数十年はシュテーゲル元帥のもと、陸軍の軍備増強にも力を入れてきた。おかげで列国と渡り合えるほどの力をつけたのだ。でなければ、ここまで生き残って来られなかっただろう。
国境のエレアドールの野から見れば南東、フォロッドから見れば真南にあるファルサアイル湿原。数ある平原・湿原の中で、国内最大規模の湿原だ。普段は野生の鳥たちの憩いの場として、それを見に来る観光客も多い場所でもある。ファルサアイル湿原のさらに南には王都レーヴェンがある。確かにファルサアイル湿原を死守すれば、王都は守られる。そこに陣を張り直すほかに、選択の余地はなかったのだ。
「そうか! ならレオンたちは無事なんですね……!」
アレックスはそう目を輝かせたが、逆にシャルは眼光を鋭くする。
「インフェルシア軍はエレアドールを放棄して防衛ラインを下げた。エレアドールの近辺には、フォロッドを含め幾つもの街があるっていうのにな」
「!」
「インフェルシア軍はそれらの街を見捨てたんだ」
言葉を返せなくなったアレックスに代わり、リヒターがおずおずと口を開く。
「しかし、そうする他に手はなかったのではありませんか? エレアドールに固執してしまえば、あのまま軍は敗れ国家が滅んでいたかもしれません」
「分かっているさ。奴らがしたことは正しい。でも俺はそんなの嫌だし、……レオンも相当反対したはずだ」
その決定が下された時、どれだけレオンハルトがそれに反発したか。シャルには手に取るように情景が目に浮かんだ。シャルとレオンハルトは根底の考え方が同じなのだ。「弱い者を守る。国の民を見捨てない」。それこそが騎士の本来の姿であるはずだ、と。
「インフェルシア軍の方針を非難するつもりはない。だが現実はそういうことなんだってことを、あんたたちには知っておいてほしかったんだよ。誰かが生き延びれば、どこかで誰かが死んでいるのさ」
哲学者のようなことを口にしたシャルを見て、アレックスは思う。今まで表だってシャルが行動を起こさず、自分の生活範囲のみを守るようにしてきたのは、ひとえにそのためだったのではないのかと。自分のせいで誰も傷つかないように。そう思ってシャルは、戦いを拒絶してきたのではないだろうか。
実際のことを言うと、シャルはそこまで自分が人格者だとは思っていない。だが当たらずも遠からずといったところだ。目立つのは面倒臭い。その気持ちも確かにあったが、誰も殺したくない、という意思は強いのだ。傷つけたくない、なんてことは、シャルにとっては口が裂けても言えない。自分がこの場に存在しているというだけで、無意識のうちに誰かに迷惑をかけ、悲しませることがあると知っているからだ。だからせめて、この手で人の命を奪わないように。あんな光景は、もう見たくない――と。
けれど、やってしまったのだ。五年ぶりに剣を握り、人を殺した。
――ここらが潮時だろう。
「おいアレックス、何をしょぼくれている。レオンたちと合流するぞ」
「でも……私がここで合流しても、どうしようも……」
「阿呆。さっきのテオドーラ騎士の行動を思い出せ。奴らは食料を大量に集めていただろう?」
アレックスは無言でうなずく。
「ということは、だ。テオドーラはインフェルシアを打ち負かしたが、もう既に糧食も尽きてやばい状況だってことさ。対してインフェルシアは軍を後退させたことによって、王都から支援物資も容易に届く状況になった。今奴らを叩けば、押し返せるかもしれないぞ」
シャルの自信にあふれた言葉に、アレックスとリヒターは顔を見合わせた。軍を動かす際に最もしてはいけないことは、兵を飢えさせることだ。テオドーラはインフェルシア軍を逃走に追い込んだまではいいが、故郷を離れて長い時間が経っている。そんな中さらにインフェルシア内陸部まで追撃すれば、各地の街から食料を奪わなければ生きていけないのだ。
アレックスは意志の強い瞳をシャルに向けた。そして言う。
「ハールディン大佐……改めてお願いします。貴方の力を、インフェルシアにお貸しください。貴方の武勇が、音に聞こえた昔のままであること、私がこの目で確認しました。どうか、私と共に……!」
彼はシャルに頭を下げた。王太子に頭まで下げさせたシャルは、嫌そうに顔をしかめ、口を開いた。
「その呼び名をなんとかしてくれないと駄目だ」
「え……えっと、ハールディン殿」
「長い」
「じゃ、じゃあシャルさん」
「『さん』なんていらねえ」
「シャル……?」
「ああ、それでいい」
王太子としてよりも陸軍騎士として生活することのほうが多かったアレックスは、人の名前を階級なしで呼ぶことに抵抗があるようだ。だが、そこではたと気づく。
「――シャルとお呼びすれば、協力していただけるのですか!?」
「ここまでやっちまったんだから、今更知らぬ存ぜぬを決め込むつもりはねえよ。不本意だが、レオンの策略にのってやる」
シャルは昔、己に誓ったことがある。『もう二度と剣に触れない』。永遠に守れる誓いではないと分かっていても、できれば永遠に守りたかった。しかしシャルはそれを自らの意思で破った。こうなったからには、一度破ろうが二度破ろうが同じなのだ。
アレックスがぱっと笑みを浮かべた。
「有難う御座いますっ! やっぱり、シャルは優しい人ですねっ」
シャルは無言でアレックスの頭を小突いた。「痛い」とアレックスは頭を押さえる。そんなやり取りを微笑ましい気持ちで眺めていたリヒターだったが、はっと我に返ってみると、王太子の頭を小突くなんてとんでもないことである。リヒターも立派にシャルに感化されていたのだった。
「そういう訳だが、リヒター。お前はここに残ってもらうぞ」
背中から不意打ちを食らったような衝撃をリヒターは感じる。目を丸くしてシャルを見やると、シャルは呆れたように肩をすくめた。
「なんでそんな『信じられません』みたいな顔をしているんだ。その足じゃ、立てないだろうが」
「ぐっ……」
リヒターは自分の足を見下ろす。命に関わるような傷ではないが、確かにこれでは立つことすらできない。戦えない者を連れていけるほど、シャルもアレックスも余裕はないはずだ。だがそれでもリヒターは食い下がった。
「しかし、私はアークリッジ中将から、何があろうと殿下を護衛しろと命じられています!」
「馬鹿野郎。命より重い命令なんてあるわけねぇだろうが」
厳しい口調で窘められ、リヒターは言葉をなくした。
「王太子の護衛はこれから俺が引き継ぐ。というか、元々その指示はレオンが越権してまで出したもんであって、騎士隊のお前には効力を伴わねえ。だからレオンがしたのは個人的な『お願い』だ。これであいつが文句を言うようならぶん殴ったる」
「大佐……」
「お前のことは、さっきのティリーの親子に任せていくつもりだ。傷が完全に癒えるまではこの小屋から出さねえつもりだから、覚悟しておけよ」
反論することもできずにリヒターは頷き、それから僅かな期待を込めて提案する。
「では、傷が癒えたら軍に合流しても?」
「却下」
「……そ、それはあんまりです!」
「山を下りたら、俺はフォロッドに通じる道を隠して封鎖する。だが万一ってこともあるし、ここに残って街を守ってほしいんだよ。で、インフェルシア軍が勝って勝ってテオドーラを押し返して、戦場がエレアドールにまで戻ってきたら、その時は好きにすればいい」
渋い顔をしていたリヒターだったが、覚悟を決めたようである。そしてアレックスに向きなおる。
「王太子殿下、どうか私の直属の上官として、命じてくださいませんか」
「……分かりました」
アレックスは頷き、リヒターの傍に歩み寄る。
「リヒター・オルミッド中尉。陸軍騎士隊百騎隊長、アレックス・L・インフェルシア中佐の名において、このフォロッドの街の防衛を任じます」
「――拝命いたします」
リヒターが右手で敬礼する。するとシャルは意外そうに目を丸くしていた。
「中佐?」
「はい。私はまだまだ未熟ですし、百騎の部下とともに中佐に任じられるだけの実力も、本当のところはないんです。ただ、王族としてこの階級を与えられただけであって……」
王子たちが陸軍に所属するのは、この国ではなんら珍しいことではない。現国王が異質だっただけで、先代の国王は確か王太子時代に中将として騎士隊を率いていたはずだ。
陸軍騎士隊は、百騎隊長、千騎隊長、万騎隊長、騎士隊隊長と役職がある。騎士隊長はもちろん騎士隊のトップであるからひとり。その下に万騎隊長が十人。さらにひとりの万騎隊長の下に十人の千騎隊長、さらにその下に十人の百騎隊長。そのようにして騎士隊は成り立っており、合計で十万騎を有している。百騎隊長ともなればそこそこの実力を認められた者だが、上を目指す者にはいささか物足りなさはある。百騎隊長から順に、中佐、大佐、少将、中将が務めていくので、幹部としては最下級なのである。ちなみに現役時代のシャルは大佐として千騎の部下を従えていた。大佐と少将の間の階級である「准将」位の者は、騎士隊長の副官を務めることが習わしである。
「俺には、百騎隊長として十分な力量があると見たけどな」
ぽつりと呟いたシャルに驚いたアレックスだったが、シャルはさっさと出かける支度を整え始めた。さりげなく褒められたアレックスは嬉しそうに微笑み、彼も準備を始めた。
「出発は明日にしよう。今日はとにかく、色々後始末だ」
シャルはそう言うと、一度小屋から出て行った。そしてすぐ戻ってくる。その手には長剣が握られていた。アレックスやリヒターが持つものより刀身が長く、そして片刃だった。彼が騎士時代に愛用していた剣だろう。シャルはその剣の刃を研ぎ始める。何年も使っていなかったが、錆びついてはいない。余程の名匠が打った刀なのだ。柄の留め具も打ち直し、その手つきはいやに慣れている。
それが終わって、シャルは出かけた。ティリー親子に、リヒターのことを頼むためだ。そして街の住民に現状をかいつまんで説明し、明日になったら山を封鎖すること、街から出ないことを言い聞かせる。唐突なシャルの説明にも、みな納得して頷いた。やはり街の者はシャルを頼りにしているのだ。シャルが明日から当分街を空けると知って、引き留めようとしたほどだ。
シャルが戻ってきたのは夕方だった。色々と保存食になりそうなものを買い込んでおり、何もかも任せてしまったアレックスが恐縮して礼を言う。
すると、小屋の窓の外に何か黒い物体が止まった。傍にいたアレックスがぎょっとして飛びのくと、シャルが「おっ」と声を上げて窓のほうへ歩み寄った。
「な、何なのですか?」
「そう警戒するなよ。俺の友達さ」
「は?」
シャルは窓を開けた。その黒い物体は勢いよく室内に飛び込んできた。部屋を一周し、そしてシャルが差し伸べた腕に止まる。それは一羽の鷹だった。
「鷹……?」
「ヴェルメっていうのさ」
どうやらヴェルメという名の鷹らしい。しかし、親友であるはずのレオンハルトを断固として「友」と呼ばないシャルが、この鷹は呆気なく「友達」と言った。なんだか腑に落ちない。
「……シャルってもしかして、レオンのほかに友達いなかったりします?」
「くだらないこと聞いてんじゃねえ」
シャルはにべもなく一蹴し、ヴェルメの足に結ばれていた紙をとった。伝書鳩ならぬ伝書鷹だ。
「誰からの手紙ですか?」
リヒターがソファに座ったまま問いかけると、シャルはヴェルメの頭を撫で、部屋の中にある宿り木に移してやる。アレックスとリヒターが密かに昨日から「この木の棒はいったいなんだろう」と思っていた代物である。
「レオンだよ」
「え、レオンと?」
「昔から月に一回か二回、ヴェルメを通じて近況報告をしていたんだよ。さてさて、何を言ってきたのやら……?」
シャルは折りたたまれた紙を開いていく。そしてそこに書かれた文章を見て、シャルは沈黙する。
『そろそろ腹は括ったかい。悪いけど、巻き込まれてもらうよ』――。
昔から変わらず几帳面な文字がそこに並んでいた。
「……あの野郎、確信犯か」
シャルは憎々しげにつぶやく。レオンハルトは確かに軍の撤退に反対しただろう。だが彼が最終的に納得したのは、「こうすればシャルが動く」と予測していたからだったようだ。でなければ、いくらこのヴェルメが有能だからって、これだけ早くシャルの元にこんな内容の手紙が届くはずがない。
「なんて書いてあったのですか?」
アレックスが興味津々で尋ねるが、シャルは手紙をくしゃくしゃに丸めた。
「心の底からむかつくことだよ」
シャルはそう言って丸めた手紙を投じた。綺麗な弧を描き、紙は部屋の隅にあったくずかごの中に収まった。
★☆
――五年前。アジールとの戦争が終わって、俺は軍を退役した。アジールとの戦役が終わっただけで、世界は平和になったわけじゃなかったのに。テオドーラも軍事力は高めているし、何年かすればアジールだって国力を取り戻す。それでも俺は、束の間の平穏に逃げたのだ。
それから、思った通りテオドーラとの戦争が再開されても、俺は目を背けた。
……そんな風に弱腰の俺を見て、誰よりも平和を願っていたあんたは、失望するだろうか?
「もう一度、戦うべきなんだよな? 兄さん……」




