02.大丈夫だ、生きるから
レオンハルトの肩を借りながら、シャルは同じ賓客室の並びにある一室を訪れた。シュテーゲルもシャルと同じように賓客室を使って療養中なのだ。
室内には医療器具が並んでおり、医師がひとりいた。医師が入ってきたシャルに気付いて頭を下げたのを見て、ベッドに寝ていたシュテーゲルもようやく入室してきた者たちに気付いたらしい。
「じいさんッ……」
シャルが慌ててシュテーゲルのもとに駆け寄ろうとして、バランスを崩した。レオンハルトの支えがなければ歩けないということを、この一瞬で忘れ去ったらしい。
「シャル、無理しない」
「お、おう……」
レオンハルトに支えられ、ベッド脇の椅子にシャルは腰を下ろす。シュテーゲルはそんなシャルを見やり、にやりと笑って見せた。
「……無様な格好してやがるなあシャル」
「……あんたにだけは言われたくねぇよ」
両者とも包帯だらけで、とても陸軍元帥と英雄騎士であるなどとは思えない。シャルは疲れたように笑みを浮かべた。レオンハルトには、それが心からの安堵の笑みであるというのがすぐにわかる。
「具合はどうなんだよ、じいさん」
「身体中が痛くて痛くてなあ。さすがに十年前とは同じように動けん」
「当たり前だ、いつまで現役でいるつもりだよ。そのままぽっくり逝かなくて良かったな」
「ふん、素直に喜べばいいものを」
「柄じゃないだろ、俺もあんたも」
レオンハルトとアシュリー、シルヴィア、テューラは壁際に下がっている。ここからは師匠と弟子であり、義父と義息の話だった。
シュテーゲルは首を動かし、アシュリーの姿を確認する。
「殿下に怪我をさせてないだろうな……?」
「勿論」
「あの、アジール騎士は……」
「仕損じた」
その物言いに、シュテーゲルはシャルの決意を感じ取ったらしい。『仕損じた』など、普段のシャルが使う言葉ではない。
「じいさん、あの時言ったよな。奴を追うな、殺される、って。あの時のあんたは明らかに公私を取り違え、自国の王太子を見捨てるよう部下に促したんだ。……悪いが、従わないぜ。俺の上官なら、部下の成功を信じてくれ。どんな形であろうと、俺は奴を討つ」
「おい、シャル……!」
勢いでシュテーゲルが起き上がろうとするのを、シャルが押しとどめる。明らかに表情の変わったシュテーゲルに、笑みを向けた。
「大丈夫だよ。八年前のようにはならない。あの時とは違うから――」
「……俺はクライスの時のように、息子に先立たれる思いをしたくない」
「……知ってるよ」
「なら、どんな形でもなんて言うな。生きて帰ってこい。お前が死ぬかもしれない覚悟なんぞ……固めないからな」
クライスを失った時のシュテーゲルの背中と声は、今でもシャルの脳裏に焼き付いている。あんな思いをもう二度とさせてはいけない。シャルはその時そう思ったし、今でも思っている。
ふたりめの父親は強くて頑固で、ちょっと泣き虫な親父だ。生活能力皆無のシュテーゲルに、今更一人暮らしなんてさせられない。
「じいさん。兄さんの剣を借りたい」
急にシャルがそう切り出した。アシュリーが何の話か分からずに瞬きをする横で、レオンハルトがはっと息を呑む気配がする。シュテーゲルは溜息をついた。
「剣は斬れればなんでもいいんじゃなかったのか」
「自分の士気上げだよ。俺、形から入るタイプだから」
「……好きにすればいい。クライスも、剣一本で怒ったりしないだろう。ついでに……クライスにも顔を見せてこいよ」
「勿論」
頷いたシャルは、ベッドの手すりに縋って立ち上がった。すぐにレオンハルトが肩を貸してくれる。シャルはベッドに横たわるシュテーゲルを見下ろし、呟いた。
「ありがとな。じいさん」
「ふん、しおらしくなるな気持ち悪い」
「はいはい……」
苦笑いをしたシャルだったが、急に表情を歪めた。全体重が一気にレオンハルトへとかかり、よろめいたレオンハルトは慌ててシャルを支え起こす。
「シャル」
「わ、悪い……」
「君もとことん無茶するねぇ……とりあえず、クライスさんのところに行くのはもう少し良くなってからね」
そうしてシャルは、強制的にレオンハルトによって部屋へ連行されてしまった。アシュリーが慌てて追いかけようとして、シュテーゲルに呼び止められる。
「殿下」
「はい」
「あいつもとことん阿呆な奴ですが、私が育ててきた大事な息子だ。どうか、あいつを信じてやってほしい」
その真剣な眼差しにアシュリーは背筋を正し、しっかりと頷いた。
★☆
それから数日して、シャルの傷も回復に向かい始めた。レオンハルト曰く「シャルの怪我はすぐ治る」ということらしい。確かにこの治癒力の高さは桁違いだと医師も感嘆していた。
アシュリーが様子を見に部屋を訪れると、シャルはしっかりと自分の足で立っていた。寝着から平服のシャツへ着替えており、久々に軍の制服姿以外のシャルだ。
「シャル、出かけるんですか?」
「ああ、ちょっと兄さんのところにな……医者から許可はもらったから、心配しなくていいぞ」
「クライスさんのところ……」
ぽつりと呟いたアシュリーを見やり、シャルはふっと笑った。
「――そういえば、いつか行こうって言って結局行けてなかったな。どうだ、時間があるなら一緒に行くか?」
「行きます!」
「即答かよ。ほんとに大丈夫なんだろうな? あとでシルヴィア殿下にお小言喰らうのだけは勘弁だからな」
「はい、シルヴィアに伝えてきますね!」
アシュリーはぱっと表情を輝かせ、軽い足取りで部屋を出て行った。その後ろ姿を見ながらシャルは苦く笑う。そんなにクライスの墓参りに行きたかったのか、それとも――自分と出かけたかったのか。どちらにせよ、シャルにとってもそれは嬉しいことであった。
そうして、シャルとアシュリーは市街地に出た。船を乗り継いで庶民たちの居住区へと向かう道すがら、商店街や市場の様子を視察する。戦時中ということで少々大人しくはあったが、市街は平時と大差ない賑わいを見せていた。インフェルシア騎士への信頼と、彼ら自身の心の強さのためだろう。ヴァンドールが悪さをした様子もない。ひとまず民衆たちは大丈夫そうだな、とシャルは安心する。
シャルは途中の生花店で花を買い、別の店で酒を買ってから、住宅街の真っただ中にある古びた教会を訪れた。シャルの実家である薬舗から程近い場所だ。もう何十年も前からここに建つ教会で、この近辺の人間たちはみなこの教会の墓地に葬られるのだ。シャルの両親も、クライスも、例外なく。
扉を開けて中に入ると、教会内は清涼とした空気に包まれていた。本当にどこにでもある造りの教会で、一番奥には女神像が安置されている。この世界にはさまざまな宗教や神話があるが、最も多くの人々に信奉されているのがこの『女神教』であった。母なる女神が大地を創造し、ヒトを創造したと言われており、唯一神として女神を祀る宗教。女神教は古くから信仰されており、このインフェルシアの国教でもあった。
ところで女神教以外の宗派もある。フロイデンなどは『八百万の神』を細々と信じている人だ。それは彼の先祖の教えがあるからだろう。
どのみち、神を信じないシャルには関係のないことであったけれども。
教会内にはひとり男性がいた。神父服に身を包んだ、五十代くらいの穏やかな印象の人だ。神父はシャルを見ると、慈愛に満ちた優しい笑みを見せた。
「久しぶりですね、シャル」
シャルはむず痒そうに表情を歪めた。神父はアシュリーに深々と頭を下げた。
「王太子殿下、お目にかかることができて光栄に思います」
「いえ、こちらこそ……」
「っていうか、よくすぐ俺の名前出てきますね」
「忘れるわけがありませんよ。毎日顔を合わせていた悪ガキですからねぇ」
「シャルが悪ガキ……?」
アシュリーの呟きにシャルが舌打ちする。
「彼と、彼の兄のクライスは、毎日のようにこの教会に来ては遊んでいたんですよ。走り回ったり女神像によじ登ろうとしたり、まったく困ったものでしたよ」
「む、昔のことをいつまで覚えているんですか」
「おそらくこの身果てるまで。……まあ、その悪ガキを私がこの手で葬ることになるとは、思ってもみませんでしたが……」
その言葉にはシャルも口を噤んだ。神父はにっこりと微笑み、シャルの肩にそっと手を置いた。
「それで、急にどうしたのですか? まさか王太子殿下もご一緒とは……ご両親とクライスのお墓に?」
「それもある……けど、ひとつ頼みがあるんです」
「頼み?」
「兄さんが亡くなったとき教会に納めた剣。あれを引き取りたい」
神父は大きく目を見張り、しばらくの間シャルをまじまじと凝視していた。そして神妙な顔で小さく頷いた。
「分かりました。少し待っていてください」
そうして神父は教会の奥に引っ込んだ。椅子に座って待つことにしたシャルに、隣に座ったアシュリーが尋ねる。
「クライスさんの剣……教会に預けていたんですね」
「ああ。俺が受け継いで使えばいいって色んな奴に言われたけど、兄さんの『守る』剣を、俺が『殺す』剣に変えちまうのが嫌だったんだ。だから古馴染みのあの神父さんに預けたんだ」
「殺す剣……」
「兄さんの騎士としての行動理念ってのはさ、人々を守ることだったんだ。守るために剣を振るっていた。でも兄さんは死んで、遺された俺はただ戦争を終わらせるためだけに戦う殺戮者になっちまった。信念も何もない、ただ兄さんが望んだから戦った……そんな俺が使っていい剣じゃない。受け継ぐにしても、兄さんと同じように『守る』ために戦える人間にならなきゃな――って」
鬼神と呼ばれた当時のシャルは、殺人になんの躊躇いも持たなかったゆえに強かった。クライスが死んでから三年間は、一人でも多くの敵を殺して戦争を終結させる、という意志のもと戦ってきたのだ。血に汚れた自分の手では、クライスの剣を握ることはできない。ずっとそう思っていた。
だがやっと――遠回りをしながらも自分は、兄と同じ道に立てたような気がする。
フォロッドで過ごした穏やかな日々も、アシュリーと出会って表舞台に戻ったことも、決して無駄ではなかった。
神父が布で包んだ長剣を手に戻ってきた。布を解いてシャルに渡すその剣は、特に華美でもなくいたって普通の長剣だ。だが騎士隊の支給品でもない。柄と鞘に刻まれた紋章を見て、アシュリーがあっと声をあげた。
「これ、インフェルシア王家の紋……!?」
「そうだ。兄さんの功績が讃えられて、国王陛下から賜った剣。王都でも有名な刀鍛冶が打った特注品なんだってさ」
だから尚更、シャルは使えなかったのだ。兄が国王から授けられた剣を、弟だからといって使う訳にはいかない。
シャルは鞘を払った。そこにあった美しい銀色の刀身を見てアシュリーは「すごい」と呟いたが、シャルは別の意味で驚愕していた。
「ちょ、なんでこんなきちんと研いであるんだ? 神父さん、あんた研いだんですか……?」
「貴方がその剣を私に預けてからすぐ、シュテーゲルさんに頼まれました。『いつかシャルがそれを取りに来るだろうから、いつでも使えるように管理してやってほしい』と」
「じいさんか……にしても、この研ぎ方は素人じゃできませんよ」
「まあ、私にも限界はあります。包丁を研ぐのとは訳が違いますからね……数日前に、アークリッジ中将がお見えになったのですよ」
レオンハルトの名が出て、シャルは唖然としている。
「中将が研いでくださったのです。私が必死に研いでいた八年間は一体なんだったのかと思うほど、綺麗に研がれていますよ」
「……ったく、人の知らないところで」
嬉しそうな溜息をつきつつ、剣を鞘に収める。――兄がいつも使っていた剣。別に、たいして特別なところがあるわけでもないけれど、それを自分が使うという事実が、自分を鼓舞することができる気がする。ヴァンドールに勝つために必要なのは技術だが、気持ちの強さもきっと重要だから。
布に包み直した長剣を持って、シャルとアシュリーは教会の裏口から外に出た。その先が墓地に繋がっており、整然と墓石が並んでいる。花が供えてあるもの、枯れかけているもの。古い墓石、新しい墓石。それらの間を縫うように進みつつ、シャルは横に三つ並んだ墓石の前で足を止めた。
等しく書かれている、「ハールディン」の文字――。
アシュリーは何も言わず、墓石を見つめた。シャルは買った花を三人分の墓石に供えながら、ぽつりと言う。
「……王城に、殉死者用の墓地があるだろ。兄さんもあそこに葬られるべきだったんだろうけど……軍に入りたての頃、兄さんがそれは嫌だって言ってたんだよな。ちゃんと両親の隣がいいってさ。……だから、こっちに埋葬したんだ」
クライスの墓の前には、たくさんの花が供えてあった。軍関係者が来てくれたのだろう。おそらく一番手前にあるまだ新しい花は、数日前に来たというレオンハルトのものだ。
「殉死者として城の墓地に葬られるのは名誉なことってイメージがあるから、『これだから下町の奴らは』みたいな目で見られたこともあったんだけどさ。兄さん、下町育ちであることを自慢するような人だったし、そういうの全然気にしなかったんだよな」
「強くて、とても優しい人なんですね」
「ああ、そうだな。誰よりも強くて優しかった……」
シャルは酒の瓶の蓋を開け、中身をクライスの墓へと振りかけた。透明な液体はそのまま地面へと滲みこんでいく。墓石を一つ飛ばして、父親の墓にも注いだ。
「兄さんさあ、酒強くって。これは親父の遺伝子思い切り継いだせいなんだよな。逆に俺は、酒を一滴も飲めない母さんの性質継いじまったんだけどさ」
「そういえば、前に飲んだ時にシャルが倒れたってレオンに聞きました」
「……あいつ、余計なこと吹き込みやがって……」
くすりと笑ったアシュリーは、墓石の前にしゃがんだ。そして指を組み合わせ、目を閉じる。家族のために祈りを捧げてくれるアシュリーの横顔に束の間見惚れつつ、シャルも目を閉じた。
数分の間、二人の間に静寂が広がった。先に目を開けたのはシャルで、遅れてアシュリーも顔をあげる。シャルはしゃがんで墓石を見つめたまま、呟く。
「兄さんに、なんて?」
「色々……でも、一番は『ありがとう』です」
クライスがあの時守ってくれなかったら、きっとシャルもアシュリーも無事ではなかった。もしかしたらレオンハルトが傷ついていたかもしれない。命を救われた感謝だ。
クライスは昔からそうやって誰かを守ってきた。今でも、救われた人から感謝の手紙がシャルのもとへ届くくらい――。
「……奇遇だな。俺も『ありがとう』、それと『死なない』」
「シャル……」
「いつもみたいに『当たり前だろ馬鹿』って言ってるかな。でも……『そうだね』って笑ってる気も、するんだよな」
シャルは呟きつつ、クライスの剣を目の前に立てる。そっとその鞘に手を置いて、目を閉じた。クライスに何を思うのか、アシュリーには分からない。けれども、ここまで心穏やかなシャルを見たのは、初めてだった。
「……行こうぜ」
シャルはしばらくして立ち上がった。アシュリーは頷いた。
神父に「またいつでも来てください」と見送られながら、ふたりは教会を後にした。静かな住宅街を無言のままふたりは歩く。アシュリーはちらりと何度かシャルを見上げており、それに気づいたシャルが首を傾げた。
「アシュリー?」
「は、はい?」
「なんか言いたいことがあるみたいだけど、どうした?」
ばれていたことにアシュリーが赤面する。しかし腹を括ったのか、口を開いた。
「で、出かける前にシルヴィアに言われたんです。シャルは、何か信念のためなら自分の命を投げ出せる人だって。他人に対しては絶対生きろって言う人だけど、自分のことは全然大切にしないって」
「……また言いたい放題だね、あのお姫様は」
「でも、私もちょっとはそう思ってるんですよ」
「そりゃ心外だな」
「だから、シャルが無事に帰ってくるように、繋ぎとめておかなきゃ駄目だって……」
「……え?」
何やら妙な気配を感じ、シャルの足が止まる。アシュリーも立ち止まり、シャルと向き合うような形になる。
日が落ちてきた。夕日が西側から照り付け、酷く眩しい。俯くアシュリーが今どんな顔か、シャルには判別がつけにくい。
「私が女だって分かっても、態度を変えないでくれた。……私には、それがとても救いだったんです。シャルは、そんな当然のことって言うかもしれないけど……」
「……」
「シャルが好きです。いつからだったかは覚えてません。でも、気付いたら好きでした」
突然かつ焦らしも何もない告白は、かなりアシュリーらしい。そう思いつつ、シャルは小さな笑いをかみ殺す。
「……俺も好きだよ」
「それは友情として、ですよね」
「決めつけんなよ、誰がそんなこと言ったっての。俺だって……お前がそんな風に思ってくれてたなんて知らなかった」
――知らなかったのではなく、目を逸らしてきた。
「俺とお前は主従関係だから……そういうこと考えちゃいけないんだよ。それに俺は平民だしな」
「そんなの関係ないっていうの、いつもシャルじゃないですか」
「まあ……な。俺もお前も気にしなくても、気にする奴が大量にいるんだよ」
諭すようなシャルの言葉に、アシュリーは俯く。シャルは微笑み、アシュリーの髪の毛をそっと撫でた。
「でも、俺も本気だったから。どうしてだかお前のこと放っておけなくて、気にして。レオンにまで妬いたりね」
「……」
「いま、城の外だし……いいよな」
アシュリーが顔を上げかけた瞬間、彼女の身体はぐいっと前へのめった。「わっ」と声をあげると、アシュリーの小柄な身体はすっぽりとシャルの腕の中に収まってしまった。
「しゃ、シャル……!」
「……効いたよ、お前の言葉」
「え……?」
「さっき兄さんには『死なない』って言った。でも訂正。お前に誓う」
アシュリーを抱きしめたまま、シャルは呟く。
「『生きる』。帰るよ、お前の所に」
レオンハルトにも言われたことだ。『シャルが傷つけばアシュリーが不幸になる』と。分かったつもりでいたが、やはり本人の口から聞くのが一番効果的だった。
アシュリーは微笑み、そっとシャルの胸に顔をうずめた。
「……はい」
くぐもった声が、シャルの耳に届いていた。




