04.そろそろ反撃しようか
シェーレイン大河を渡ってきたのは索敵兵だったため、レオンハルトの威嚇射撃で後退した。弓箭兵の援護を受けつつ、騎士隊は住民の収容を急いだ。おかげで一夜にしてラーディナ城塞に周辺住民をすべて収容することに成功したのだ。
「中将!」
ラヴィーネが、城塞に戻ってきたフロイデンのもとへ駆け寄る。フロイデンはにっこりと微笑む。
「ただいまラヴィーネ、みんなの様子はどうだ?」
「比較的秩序を保っています。さすがにこういう事態に慣れているようですね」
「だろうね……もう昔から、ここの住民は戦争の恐怖に晒されてきたんだから」
シェーレイン大河を取水源とする近隣の街の住民たちは、アジールの脅威と長年付き合ってきた。若い騎士より余程、年配の住民のほうが頼りになるということもある。勿論それは喜ばれることではない。
「幸いにも兵糧の蓄えは充分にある。王都から援軍が来れば反撃に移れるだろう。それまでは、苦しいが籠城に徹しよう」
「四日から五日、ですね。レオンに伝えてきます」
「ああ、頼む」
フロイデンの言葉を受けて、ラヴィーネは城壁に向かった。レオンハルトは弓を射る手を休め、周囲に警戒の目を配っていた。
「レオン、住民の避難は終わったよ。援護有難う」
声をかけると、レオンハルトは振り返って頷いた。
「いえ。敵も一時的に撤退したようです。このまま朝まで警戒を続けます」
レオンハルトはふと、視線を東へ向けた。とっぷり日の暮れた東の空は暗い。ラヴィーネもつられてそちらを見やったが、彼女の目には何も見えなかった。
「どうしたんだい、レオン?」
「……海が、ありますね」
「そうだね、ここは海に面しているから……」
レオンハルトはすっと目を細め、顎に手を当てた。しばらく何か考え込んでいた若き弓箭兵は、副官のヘルマンに指示を出した。
「ヘルマン、城壁の砲撃台を東に向けておいてくれるかな」
「はい!」
ヘルマンが駆けだす。陸軍の扱う投石台とは違い、砲弾を扱う砲撃台は移動が利かないが、砲撃の向きだけは自由に変えられる。海軍の軍船に搭載してある砲撃台と同じものである。このラーディナ城塞にも何基か備え付けられており、レオンハルトはそれをすべて東に向けろと指示したのだ。
「海……海軍かい?」
問いかけると、レオンハルトは風で乱れた金髪を搔きあげた。少々癖のある金色の髪は、夜の闇の中でも輝いている。
「アジール海軍か、ティグリア海軍か、あるいはそのどちらもか。分かりませんけれど、そこに海がある限り不可能なことではありません。事実、あの東の海から砲撃されたことはありましたしね。警戒するに越したことはありませんよ」
レオンハルトはそう言ってから、悪戯っぽく微笑んだ。
「さすがにあそこの海まで、矢は届きませんからね」
「なんだい、あんたの強弓なら届くと思ってたんだけど?」
「だから、僕をなんだと思っているんです先輩まで」
ラヴィーネはそうして笑うレオンハルトをまじまじと見つめた。レオンハルトも笑みを引っ込めて、首を傾げる。
「どうしました?」
「……いや、あんたってさ」
「はあ」
「シャルが一緒にいないと、普通の男だよね」
「なんですかそれ」
苦笑を漏らしたレオンハルトだったが、ラヴィーネは真剣であった。
「普通というか、むしろ人付き合い悪いよね。貴族の集いとかであんたが作り笑顔以外を浮かべているところ、見たことないよ」
ラヴィーネは、軍人ではないレオンハルトを知っている人間だ。貴族の輪に入っているレオンハルトの姿は、シャルですらよく知らないはずだ。
「……貴族を装うのは息苦しいんですよ」
装うどころか彼は国内一の大貴族なのだが、レオンハルトは『軍人』であることを一番の誇りとしている。軍にいるときだけ本来の自分が出せる。だからこそ、貴族という肩書を『装っている』と表現したのだ。
「まあ、シャルがいないと調子が出ないって言うのは、確かですけどね」
レオンハルトはにっこりと微笑み、弓の弦を弾いた。
「それくらい、僕の中で彼の存在は大きくなりすぎた。……困ったものです、友人なんて興味なかったはずなんですけどね」
「十年以上前にそれを悟っていたくせに、今更何を言うんだか」
「まったく」
レオンハルトはそう呟き、ラヴィーネに頭を下げた。そうして彼は、見張りに戻ったのであった。
★☆
夜が明けた。
目の前にはシェーレイン大河が横たわっている。その向こう岸には、無数に黒々としたものが並んでいた。アジール軍である。
「すごい数を揃えましたね」
レオンハルトがそれを見ながら呟く。城壁の陰からちらりとそれを覗き見たフロイデンも、困ったように髪を搔きながら頷く。
「下からの矢の攻撃は受け流せそうだが、投石でも持ち出されたら少し厄介かもね」
「この城塞も古いですからね。一部防壁の破壊くらいは起こり得るでしょう」
対岸まで千メートル近くあるこの河を渡る。渡河の最中で攻撃を受ければ避けようもなく、剣を振るって矢を叩き落とすことはできるかもしれないが動きは鈍る。それでも渡河を強行する、前衛の兵を犠牲にしてでも。アジールは昔からそう言った気質の軍だった。
城塞は現時点で風下にある。矢を射かけるにはアジールに有利だが、高低差というものがある。その点では、上から攻めることができるインフェルシア側に有利である。
アジールの戦闘部隊が河に入り始めた。レオンハルトの横で、彼の部下たちが矢を番えて構える。
その時、豪速で何かが飛来してきた。いち早くそれに気づいたレオンハルトが右足を跳ね上げた。彼の足に蹴り飛ばされて城壁上に落ちたのは、太い矢だった。レオンハルトらが使っているものとは比べ物にならない太さだ。フロイデンが眉をしかめる。
「これは……」
「敵の弩ですね。機械式になっていて、数人で射かけるものです。威力も射程も、人の手で射る矢とは桁違いですよ」
つまり、河の向こうからでも届く――。
「アジールはこれがあるから嫌ですね。城壁兵殺しですよ」
レオンハルトは昔から、この太い矢にたくさんの仲間を殺されてきたのだ。城壁上の兵を倒して攻撃を減らさせ、城を攻略する。攻城戦ではよく取られる手段だ。
再び、空を切る音が響いた。レオンハルトの口から警告の声が飛び出す。
「伏せろッ!」
弓箭隊の兵たちは真っ先にその声に従った。フロイデンもラヴィーネを押し倒して伏せる。レオンハルトは城壁の陰に身を隠した。
羽虫の群れの羽ばたきのような轟音が響く。凄まじい数の矢の雨だった。レオンハルトは一瞬の隙を突いて陰から飛び出す。
「レオンハルトくん!」
フロイデンが叫ぶが、レオンハルトは思い切り城壁上に姿をさらした。矢を番え、一気にそれを放つ。河を渡ってきた先頭の敵を、見事にその矢は打ち倒す。二、三人を倒してから、レオンハルトはまた陰に引っ込んだ。
「無茶するねえ」
ラヴィーネが困ったように呟くと、レオンハルトは微笑んだ。
「やられっぱなしは嫌いなので。それに、攻撃の手を休めれば集中砲火に遭います」
それでも、渡河の阻止はほぼ不可能だろう。これだけの援護射撃があれば渡河をする者たちに、インフェルシア側はなかなか手が出せない。
「こっちは僕たちで何とかします。フロイデン中将、城門が破られないように防衛をお願いしますね」
「ああ、分かった」
フロイデンがラヴィーネとともに城壁から下りていく。レオンハルトは矢筒から新たな矢を抜き、呟く。
「援軍が来るまで……なんとか」
レオンハルトはふっと微笑む。きっと、シャルが来るだろう。親衛隊といえども彼の持つ戦力、イルフェ、フォルケらの技術は卓越している。おそらくアシュリーなりシュテーゲルなりが出撃を指示するはず。
それに、ヴェルメの知らせを受けてから出立の用意をするほどシャルが愚鈍なわけがない。予定より早い到着になるだろう。
★☆
敵の渡河は果たされ、アジール軍は河の手前、城塞を半包囲する形で布陣した。この距離だと、城壁までアジール軍の矢も届く。より一層、弓箭隊の危険は増した。
籠城して三日。兵たちは交代で防衛にあたったが、隊長のレオンハルトはまったくの不眠不休であった。矢の補給、水分とちょっとした食料の補給以外には決して城壁を離れず、部下たちの指揮を続けた。
「中将、さすがにお休みください。指揮は私が引き継ぎますから」
そう申し出たのは、弓箭隊の副隊長であるブラント少将だ。だがレオンハルトはひらひらと手を振った。彼は今、城壁に背をあてて座り込んでいるところである。
「ああ、まだ大丈夫だよ。でも、矢が少なくなってきたな……」
レオンハルトは呟きながら立ち上がった。その瞬間、腹部に鋭い痛みが奔る。思わず顔をしかめて身体をかがめたレオンハルトを、慌ててブラントが支えた。
矢の飛来する音。地上から天高く放たれた矢が、放物線を描いて雨のように降り注ぐ。レオンハルトがはっとしてブラントを押しのけた。彼を矢の雨に晒さないために。
「中将ッ」
ブラントが叫んだ瞬間、その真横を何者かが駆け抜けた。
抜剣の一閃が、降り注いだ矢をすべて斬り払った。その人物の姿を見て、レオンハルトが破顔する。
「なんだ、お早い到着だね」
「余裕ぶってるんじゃねえよ、阿呆」
シャル・ハールディンは呆れたように肩をすくめた。シャルの後を追って、カインが肩に矢が大量に入った籠を担いで現れた。
「俺たちは先発隊だ、食料や矢などの物資を持ってきた。とりあえず、五百騎到着だ」
シャルはレオンハルトが落とした弓を拾い上げ、カインが床に置いた籠から矢を一本抜き取る。
「にしてもお前、痛み止めの薬の効果が切れてるな? 朝晩二回、食後に飲めって言っただろ」
「そんなこと言ってもねえ……」
レオンハルトは苦笑しながら、腹部に手を当てた。トレーネに刺された傷は今でも激痛を発することがあり、彼はそれをシャルが作った鎮痛薬で抑えていたのである。が、ここ数日の戦いで、レオンハルトはすっかり薬を飲めていない。
シャルはレオンハルトより大胆に城壁上に立つ。そしておもむろに矢を番え、地上に向けて弦を弾いた。
その矢は、敵軍の中にあって騎乗している者たちが整列している場所へ飛んだ。一頭の馬の肢元に、矢が突き刺さる。それに驚いた馬が大きく嘶き、騎乗者を振り落した。と同時に、周囲の馬も暴れはじめる。一瞬でその騎士集団は混乱に陥った。
「外したの? それともわざと?」
弓箭隊の者たちが驚く中、レオンハルトが尋ねた。シャルは不敵に笑って見せる。
「さあ、どっちかな」
騎士隊でありながら、シャルはレオンハルトにも劣らぬ弓の腕前を見せた。おそらく意図的に、馬は射抜かぬようにすれすれの場所を狙ったのだ。『武芸に長けた英雄』という名が、嫌でも彼らの脳裏をよぎった。
「流石ですね、ハールディン准将……僕たち形無しです」
ヘルマン大尉が唖然として呟いた。レオンハルトともシャルとも付き合いの長いブラントは、小さく首を振った。
「世の中にはああいう才能の持ち主もいる。比べれば虚しくなるだけだ」
「は、はい……」
シャルは弓をレオンハルトに返し、声を張り上げた。
「あと一日だ! 明日には援軍が到着する! それまでもうひと踏ん張りしようぜ!」
その言葉に、弓箭隊の隊員が歓声を上げた。レオンハルトは安堵の息を吐き出す。その肩を、シャルが軽く叩いた。
「お疲れさん。もう部下たちに任せて平気だと思うぜ」
「……そうだね」
アジールとの戦い、城塞での戦いは五年ぶりのインフェルシア軍だ。敵の意図が分からない今、不安も増している。だからレオンハルトは、一度もこの場を退かなかったのだ。隊長である彼が立っていれば、部下たちは揺らがないから。しかしこうして日数が経って部下たちも戦いに身体が慣れ、援軍到着の報告によって士気も上がった。もう大丈夫であろう。
先発したシャルたちに一日遅れて、援軍の全部隊がラーディナ城塞に到着した。軍議室に将官が集まり、策が練られた。とは言ったものの、いまインフェルシア側が取る道はたった一つ。出撃し、アジールを追い払うだけだ。
「ティグリア海軍が近づいてきている。おそらくアジール海軍も南下しているだろう。ハルブルグ大将が追いかけてくれているだろうが、海からの砲撃は覚悟しておいた方がいい」
槍歩兵隊隊長アーデル・キーファーの言葉に、エルドレッドが頷いた。
「海の方は、投石隊が対処します」
「では我らがすることはたったひとつですね」
モースの呟きに、フロイデンが微笑んだ。
「ああ、アジール軍を叩くだけだね」
諸々の打ち合わせが終了し、一同解散となった。レオンハルトは城壁に戻り、フロイデンらも出撃の準備を進めている。
キーファーが部屋を出ると、そこにシャルがいた。シャルは軍議の間、見張りと言って廊下で待機していたのである。今更階級を気にするなと誰もが突っ込みたいところであったが、それもシャルという人間の性格である。
「シャル」
呼びかけると、壁にもたれて立っていたシャルは首を傾げた。
「なんです、キーファー中将」
「お前、大丈夫か?」
「何が?」
「シュテーゲル元帥がお前を心配していた。このままじゃ怪我じゃ済まないかもしれないぞってな」
シャルは少しばかり沈黙し、それからふっと目を閉じる。
「俺は退役してから、『二度と剣は手にしない』と誓ったんです。誓ったはず、でした」
「おう」
「なのにたった五年でその誓いを俺は破った。最近は戦いに身体が慣れてきたせいか、最初はあれだけ躊躇っていたのに、今はもう剣を抜くことが自然にできてしまう。……これは、誓いを破った自分へのけじめなんですよ」
人の命を奪わずとも戦いを避けられるなら、それが良い。それが軍人としての役割からの逃げであると言われても、シャルはそう決意をしているのである。
「大丈夫ですよ。そんな簡単に死にませんから」
「……当たり前だ。俺もお前の武芸の稽古をしてきたんだ。簡単に死なれてたまるか」
キーファーがシャルの頭に手を置いてぐしゃぐしゃに髪の毛を掻き回す。「痛い痛い」と言いながらもシャルも笑っていた。
「だがな、シャル。斬るべき相手は斬れ、自分が生き残るために。クライスもそうやってお前に教えただろう」
「……はい」
反論したいことはあったかもしれないが、シャルは素直に頷いた。ここにいるシャルは『アシュリーの護衛』ではない。ひとりの、部隊を率いる将である。将であるからには、自軍の勝利に貢献しなければならない。つまりは、敵を斬る。
「さあ、行こうぜ」
キーファーに背中を叩かれ、シャルも顔を上げる。キーファーはそのまま廊下を歩み去った。ひとりになったシャルは腰に佩いた剣の柄を握り、息を吐き出す。
「――ここで逃げたら、兄さんにどやされる」
クライス・ハールディンは、責務に背を向けることを何より許さなかった。
「逃げない。俺は、俺なりに……」
シャルは決意を言葉にし、キーファーの後を追って歩み出した。




