03.腕が落ちたとでも思ったか
「くっ……速い……!」
アレックスは思わず呟いた。市街へ駆けていくシャルの背中は、少しずつ小さくなっていく。アレックスも全力で走っているのだが、それでもシャルには追いつけない。ここ数年まともな運動をしたような様子さえなかったのに。
――だが、置いていかれるわけにはいかない。【ローデルの英雄】の強さを、この目で見ることができるのだ。アレックスはそう己を奮い立たせ、地面を蹴る足に力を込めた。
このフォロッドは山間にある。山道を上ってそれなりに平坦な道に出ると、そこはもう住宅や畑が広がっている。地形的に街の中でも高低差が多く、シャルが住む小屋は比較的傾斜のきつい場所にある。そしてこの街で最も低地なのは、多くの人が集まる市場だ。ここには傾斜らしい傾斜がなく、きちんと整備された道らしい道が続いているのだ。
その市場は、いま虐殺の場と化していた。どういう訳かテオドーラの軍人たちが突如この村の存在に気づき、そして襲撃してきたのである。戦う術のない街の住民たちは逃げ惑い、何人かは斬撃を浴びて倒れる。まさに地獄絵図であった。テオドーラ人たちは無人になった家や店を物色し、食料を奪っていく。
幼い少年が大通りを逃げる途中で転んだ。母親がすぐさま駆け戻って息子を抱きかかえたが、既にその姿はテオドーラ騎士の目に留まっている。血濡れた剣を手に、舌なめずりでもしそうな下品な目つきで母子のもとへ歩み寄る。母親は息子を抱きしめたまま震え、一歩も動けない。
テオドーラ騎士が剣を振り下ろす。母親がぎゅっと目を瞑った瞬間、激しい金属音が響いた。
母子と騎士の間に割り込んでいたのはシャルだった。シャルは剣で相手の刃を受け止めつつ、背後にへたり込む親子に告げた。
「逃げな」
「しゃ、シャル……!」
「ほら、早く」
シャルの口元に、安心させるような笑みが浮かんだ。命拾いした母親は涙目で頷き、息子とともに駆け出した。
シャルと騎士の鍔迫り合いは続く。シャルは笑みを消した。
「どうした、動かねえのか」
騎士の顔には焦りと緊張がある。たった一合を撃ちかわしただけだが、シャルがただの剣士ではないということを彼は悟っていたのだ。このまま押し切ろうとすれば逆に競り負けるだろうし、剣を引けばその隙につけこんで袈裟斬りが入る。相手と同程度の力を加えて均衡を保つことしかできなくなっていたのである。
「判断の遅さは、戦場じゃ命取りだぜ。こんな風に、な」
シャルは自ら剣を引いた。思考に意識を集中させていた騎士はタイミングを逃し、追撃ができなくなった。そこをシャルは、容赦なく突く。下から振り上げた剣が、騎士をたった一撃で絶命させた。
倒れた騎士に目もくれず、シャルは堂々と大通りの真ん中に立っている。いつの間にか襲撃してきたテオドーラ騎士全員が、この大通りでシャルと相対していた。
「貴様、何者だ」
一人の騎士が誰何した。シャルは剣についた血を振り落す。
「ただの薬師だけどね。昔は剣をとって、戦場であんたたちと殺し合いを演じたこともある」
「元騎士……しかもその実力は士官クラス。まさかこんな山奥のちっぽけな街に……」
「ごちゃごちゃ言ってねえで、死にたい奴からかかってきな、兵卒ども。俺は今とんでもなく虫の居所が悪い」
シャルの声は低く低くなっていく。
『自分の生活が平穏なら、他のことに興味はない』。昨夜アレックスに言ったのはシャルの本心である。だからこそ、平穏を乱す人間を許さない。シャル・ハールディンはこのとき本気であった。フォロッドの住民たちは、行き場を求めて放浪していたシャルを受け入れてくれた恩人たちである。彼らを傷つける者は、等しくシャルの敵だ。
さすがに一対一では分が悪いと見たのか、テオドーラ騎士が三人同時に斬りこんでいた。ひとりは突き、ひとりは脳天割、ひとりは横薙ぎ。三方向からの攻撃を防ぐことは不可能――なはずだった。
一番最初にシャルの身体に攻撃が届くのは突きだった。シャルは身体を横にずらして突きを空ぶらせると、空いている左手で前方に向けて突きだしている騎士の腕を掴んだ。そしてそのまま思い切り手前に引っ張る。驚愕してよろめいたその騎士に、遅れて降りかかったふたつの斬撃。不幸な騎士は仲間二人の攻撃によって脳天を割られ、腹を裂かれた。
その光景に唖然としてしまった騎士二人を、こちらも容赦なくシャルが連続して斬り捨てる。
不敵な元騎士の、なんと圧倒的な速さ。的確かつ無駄のない攻撃。並の人間ではなかった。
残りの騎士たちが一斉に斬りかかってきた。シャルはそれを弾いてすぐさま反撃するが、いかんせん人数差がある。あっさりと背後に回り込まれ、騎士がシャルの背中めがけて剣を振り下ろす。勿論それを察知していたシャルは前方の騎士を斬り倒し、即座に反応しようとした。
が、それは不要のことだった。追いついたアレックスが、シャルの背中を狙うその騎士の、さらに背後から斬りつけたのだ。アレックスがシャルの隣に並んで剣を構えると、シャルはそれをちらりと見やっただけで無言を貫いた。それを了承と受け取ったアレックスは、新たに斬りかかってきた敵を一撃で打ち倒した。シャルほど洗練された太刀筋ではなかったが、まだまだ伸びしろのある剣技だった。シャルの背中を守り援護するには十分な力量だ。内心でシャルは感心する。内政にのみ秀でた国王の息子なのだから、同じように帯剣していても剣は飾りではないかと思っていたのだ。だがアレックスは実戦的な剣技を使う。多少見くびっていたかな、とシャルは反省するのだった。
合計で十七人ほどの騎士をすべて斬り捨て、アレックスが構えを解いたとき、市場の大通りは血で真っ赤に染め上げられていた。それすべて敵の鮮血ではあったが、見ていて気持ちのいいものではない。戦場で死を見慣れているアレックスでも、眉をしかめてしまうほどだ。
「っく……」
シャルが小さく呻いた。アレックス以上に豪胆なはずのシャルが、アレックスよりもこの光景に堪えている。長く戦いから離れていたからなのか、それとも別の理由があるのか――?
そうこうしているうちに、シャルはくるりとその地獄絵図から背を向けた。
「――アレックス。悪いが家までひとっ走りして、薬を持って来てくれねえか」
「え……あ、はい!」
初めて名を呼ばれたことに一瞬呆然としたアレックスだったが、すぐに身体が反応して身を翻す。シャルは自分の足元に剣を突き刺すと、同じく唖然とした様子でシャルによる虐殺劇を見守っていた住民たちに告げる。
「ここから先は立ち入り禁止! いますぐ怪我人を広場に集めて、家族が全員いるかを確かめてくれ」
それはいつもの面倒見の良い青年の言葉だった。住民たちは、慌ただしくシャルの言葉を行動に移したのだった。
アレックスが持ってきた薬と、仕立て屋からありったけもらった布を使い、シャルは手早く負傷者の手当てをする。怪我人はそれほど多くない。せいぜい転んで膝をすりむいたとか、打撲をしたとか、そのような程度だ。剣で斬られた者は、まず死んでしまっている。犠牲者は子供を含め十二人。決して住人の多くないこのフォロッドで十二人の犠牲は、かなり大きい。
医療の心得が多少あるアレックスに治療は任せ、シャルは斬り捨てたテオドーラ騎士、そして犠牲となった十二人を、急ぎ葬った。体力に自信のある数名の男に手伝ってもらい、死者たちを裏の山へ運んでいく。集合墓地があるので住民たちはそこに葬ったが、騎士たちを同じ場所に葬ることを住民たちは嫌がった。当然の心理であるが、「死体になればみんな一緒だ」というシャルの言葉で、彼らは言葉を噤んだ。そして墓地から離れた場所にある谷間に、騎士たちを埋めたのである。
市場に戻ったシャルは大通りの血をせっせと洗い流した。こういうことに関して、シャルは実に働き者だった。それも終えて広場に戻ると、治療を終えていたアレックスが、恐怖で涙と身体の震えが止まらない同年代の少女を落ち着かせようと話しかけていた。シャルが歩み寄ると、アレックスが立ち上がる。
「あ……ハールディン大佐」
「おいこら、人前で『大佐』はよせ」
「す、すみません」
恐縮するアレックスに困ったような視線を送りつつ、シャルは腕を組む。
「こっちの片づけは大体終わった。そっちは?」
「はい、私のほうも滞りなく……」
アレックスの表情が暗い。シャルはその理由が分かっている。
「……フォロッドが襲われたのは自分のせいだと思っているな?」
「……あの騎士たちは、戦場から離脱する私とオルミッド中尉に気付いて、後を追ってきたのではないのですか? 私にはそれ以外考えられません……」
「いや、それはない」
断言したシャルに、アレックスは目を見張る。
「なぜ? 貴方を巻き込むために、私はわざと敵に姿が見えるようにこの街へ来たのかもしれませんよ?」
「だから、それは昨日言ったろ。お前にそんな度胸はねえ。仮にそんなことをすれば確かに俺を巻き込めるが、同時に民衆も巻き込む。お前はそんなことしない」
シャルがそう断言してくれたことが、アレックスは嬉しかった。少し微笑むと、シャルは気まずそうに視線を外す。
「……話は家に戻ってからにしようぜ。リヒターを除け者にするのは可哀相だろう」
「そうですね……」
シャルが身を翻そうとすると、一人の男性が駆け寄ってきた。
「シャル! お前、一体何者なんだ……?」
ただの薬師だと思っていた青年が、あれだけ卓越した剣技を披露したのだから、この質問は当然だろう。アレックスには『大佐』と呼ばれてしまってもいる。さすがに情報に疎いこのフォロッドでも、大佐というのがかなり高位の肩書であることは分かるのだ。
シャルは微笑んであっさり明かした。
「俺、元々この国の陸軍に所属していたんだ。今は退役して、ご存じのとおり薬の調合をしているけどな」
「り、陸軍……?」
「そ。黙っていて悪かったよ。でも別に騙そうと思っていたわけじゃない。言う必要がないと思っていただけだ。それだけは信じてくれ」
シャルはそう言って、足早にその場を立ち去った。アレックスも小走りにそれを追いかけ、隣に肩を並べる。
「……大佐は、聞かれたことにはなんでも答えるのですね。私が誰何したときも、敵の問いかけにさえ」
「なんでも、じゃないけどな。でも嘘はつかないようにしている」
シャルは呟くように続ける。
「だって、元騎士だったことに嘘を吐けば、陸軍時代の俺を否定することになる。名前や年齢を偽れば、俺という人間そのものが生きてきた時間を否定することになる。それだけは嫌なんだ」
「貴方は、自分が通ってきた道を後悔していないのですね」
「勿論。自分で決めてきたんだから」
そう宣言するシャルは、いつになく堂々としていた。そう、後悔していないからこそシャルは堂々としている。隠すことなどひとつもない。元騎士だったのも、薬師をしているのも、すべて自分なのだから。
小屋に戻ると、リビングのソファにリヒターが横たわっていた。眠っているのか、目を閉じて微動だにしないが、顔色は少しは良くなっているようだ。その傍にはティリー、そしてティリーの母親が付き添っていた。息子がここにいることをシャルから聞いた彼女は、すぐに駆け付けたのである。
「あっ、シャル!」
「ティリー、悪いな、置いてけぼりにして。ったく、ティリーのことを頼んだのにあっさりぶっ倒れやがって」
シャルはリヒターに向けて心にもないことを言ったが、勿論本心ではない。シャルは薬やら包帯やらを持ってくると、リヒターの足元に膝をついた。そして止血用の包帯をとり、本格的に治療を始める。
「ねえシャル。この人たちは?」
そう尋ねたのはティリーの母だ。シャルは消毒液にガーゼを浸しながら答える。
「騎士さま、さ」
「え、騎士!?」
ティリーが目を見張った。だがシャルが消毒液をリヒターの太腿の傷にあてがった瞬間、リヒターが悲鳴を上げた。
「いっ……い、痛いっ! 痛い痛い……っ」
「だろうなあ」
呑気に相槌を打つと、リヒターがはっとして目を覚ました。悪夢でも見たかのように冷や汗が滴っていた。
「え、あ、ハールディン大佐……」
「どいつもこいつも、そんな風に呼ぶなっつーのに。もういっちょ滲みるぞ、歯ぁ食いしばれ」
「っ……!?」
シャルは舌打ちしながら、容赦なくリヒターの傷を消毒していく。そしてアレックスに声をかけた。
「いいかアレックス。さっきも言ったが、奴らが襲ってきたのはお前らのせいじゃねえ。もしそうだとしたら、お前が姿を現した瞬間にお前を標的にするはずだからな」
「それは、そうですが……」
「奴らは偶然、この山を登ってみようと思った。そして偶然、この街を見つけた。結論はそうなるのさ」
「どうしてそんな偶然が? だって、この街はエレアドールより東方向にあります。西のテオドーラがここに来るためには、戦場を突破しなければ……」
そこまで言って、アレックスは悟った。そして瞬く間に彼の顔色が悪くなる。リヒターも束の間痛みを忘れて目を見張った。
「ま、まさか……」
リヒターの震える声に、アレックスが応じる。
「……インフェルシア軍は、既に敗北した……?」
シャルは答えない。だがそれこそ、彼の「是」を意味していたのだった。