02.当たるのは嫌な予感ばかりだぜ
ハルブルグ大将が率いるインフェルシア海軍は、ナーメルの軍港から出港した。ちなみに、同じ総帥でも陸軍総帥がシュテーゲル『元帥』で海軍総帥がハルブルグ『大将』なのは、本来の規定ならばその役職は『大将』が就くものであったが、シュテーゲルは過去の戦績を高く評価され、最高位の『元帥』に昇格したという理由である。
そして北方に向かったのは、フロイデンが直々に率いる騎士隊の数部隊、そしてレオンハルトが率いる弓箭兵の精鋭だった。レオンハルトはヴェルメを連れて、急ぎ国境の砦へ向かっている。
これで、王都に残ったのは剣・槍の両歩兵隊、弓箭隊の一部、投石隊、そしてアシュリー護衛の親衛隊である。アシュリー、シュテーゲル、シュトライフェン、シャル、アーデル、モース、エルドレッドら主だった軍幹部は、軍議室に集まり戦況報告を受け取っていた。北向きの窓は開け放たれている。いつでもヴェルメが飛び込んで来られるようにだ。
「インフェルシア海軍がティグリア海軍と衝突しました」
連絡員の報告を受け、シュテーゲルは頷く。
「ついに始まったな……海軍のことは、ハルブルグに任せて大丈夫だろうな」
「ええ。万一の備えは整えてありますが、ハルブルグ大将に限っては本当に万に一つもないでしょうね」
シュトライフェンも、海軍の実力には高い評価をつけていた。余程のことがない限り、ハルブルグは大丈夫だろう。
窓際で腕を組んで立っているシャルに、ふと思い出したように槍歩兵隊隊長アーデル・キーファーが尋ねた。
「そういえばシャル、あのメディオってティグリア人たちはどうしている?」
「今はじいさんの家にいますよ。あの無駄に広い家も、今回ばかりは役に立ちましてね。二十人くらいを泊めるのは何のこともないです」
シュテーゲル邸はいまティグリア人たちの下宿と化している。ちょくちょくリヒターやイルフェに頼んで様子を見に行ってもらっているが、心配するまでもなく大人しくしているようだ。本当に彼らはインフェルシアに何の確執もなく、陰謀のことについても一切知らされていなかったのだろう。
「無駄に広いとはなんだ」
「二人暮らしの規模じゃねえだろ、ありゃあ」
シュテーゲルのむっとした言葉も、シャルは平然と受け流した。シュテーゲルの家族の遺産。それがあの家と、騎士の名家という肩書のふたつだけだ。シュテーゲルはそれを大事に守ってきたのである。勿論シャルもそれは分かっている。いまだにあの家を『俺の家』と呼べないのは、シュテーゲルに対する遠慮だ。
軍議室が無人になることは一秒たりともなかった。基本的にシャルは北向きの窓の傍で待機しており、部屋から出ることはまずない。そんなシャルのもとに、シュトライフェンが歩み寄ってきた。
「……ハールディン准将」
控えめな呼びかけに、シャルは顔を上げた。
「なんです、軍師殿?」
「君には、随分と知恵を貸してもらった」
思わぬ言葉にシャルは瞬きをした。図々しく策を練ったり考えを述べたりするシャルを、このシュトライフェンは毛嫌いしていたはずだ。小言を食らいこそすれ、感謝されるなど思ってもみなかった。シャルのしていたことは、軍師というシュトライフェンから戦術を練るという最大の仕事を横取りしていたようなものなのだ。
「いや、俺は好き勝手にやっていただけで」
「それでもだ、私には気付けなかったことを君は気付けた。……とりあえず、感謝している。また何かあれば、君の意見を聞かせてもらう」
シュトライフェンはそれだけ言うとすぐさま踵を返してしまった。どうやら、照れ屋な人らしい。シャルはにやりと笑い、その後ろ姿を見送った。
海戦は始まった。騎士隊が国境のラーディナ城塞に到着するまでは、まだまだ時間がかかる。
★☆
インフェルシア海軍がこれまで無敗を誇ってきたのは、圧倒的な蒸気機関技術を持っているためだ。海上での移動もさることながら、水雷等の精度も高い。火薬技術も同様で、火砲の威力は群を抜いている。精密な機械の進歩は他国に遅れをとっているが、インフェルシアは海と深い関わりがあることから、海上での技術は昔から発展してきていた。船そのものも然り、機関も然り、貿易も然り、そして戦術も然り。
海軍総帥ハルブルグ大将は、日頃から海軍の者たちに剣や槍といった武芸を徹底的に教え込んでいた。時にはフロイデンやキーファーが指南役として駆り出されるほどである。そこまで個人の武勇を重んじたのはなぜか。
答えは簡単、敵船に乗り込んで白兵戦をするためだ。
火砲による撃ち合いが主となった近代の海戦だ。しかしハルブルグはそれより以前の海戦の基本、軍船に取りつけられる衝角と呼ばれる部品を使う、体当たり攻撃を用いる。衝角は前方に向けて突き出る角のような形をしており、体当たりすることによって敵船の機動力を奪ったり、時には沈没させたりすることもできるものだ。
体当たり攻撃を仕掛け、敵船に乗り込み、乗組員を倒す。それがもっとも古代から使われてきた戦術だ。ここまで原始的なことを、最新鋭の技術を用いて行う。これにはみなひとたまりもない。
そして砲撃の基本は、一点集中攻撃。
「撃てぇ――ッ!」
ハルブルグの豪喝が轟き、それと同時に横一列に整列した軍船に積まれた火砲が一斉に火を噴いた。相手の砲火が止んだその一瞬の隙を突き、守勢と攻勢が逆転する。砲弾は敵船に着弾、着弾しなかったものは海面に高い水しぶきをあげて沈んだ。それでも波が荒くなり、船が大きく揺れている。
インフェルシアの弾幕は途切れることを知らなかった。微妙な時間差を置いてそれぞれの船が砲撃をし、相手に反撃の隙を与えない。なすすべもなく前衛の軍船は軍人を乗せたまま海中に沈み、時に爆発四散する。
同時に、水雷が放たれた。周辺諸国で随一の精度を誇るその水雷は、確実に敵船を撃破する。
ところで、船に乗って海上に出ていると気分が高揚する海の男がいる。ハルブルグなどはまさにその典型で、旗艦の船首に仁王立ちし、部下をひやひやさせていた。
「ふんっ、機械技術がなんだ。潮風にあたれば、そんなものはすぐ駄目になる。『れーざー』だか『びーむ』だか知らないが、あんな繊細なものは海には似合わないな!」
ハルブルグの手には弩が握られていた。弓に比べて飛距離や貫通力に長ける、引き金タイプの昔ながらの武器だ。弓よりも扱いが簡単なため、ハルブルグは昔から海上ではこれを自ら扱っていた。弓と違って真っ直ぐしか飛ばず、連射もできないものではあるが、ただでさえ威力の高い弩を、怪力自慢のハルブルグが使う。これはかなりの脅威だ。
砲撃に混じって、ハルブルグを中心に大量の矢が発射される。敵乗組員たちを倒し、船の無力化を図るためだ。
敵艦隊は崩壊しつつあった。戦端が開かれて、まだ数時間しか経っていない。
「なんだぁ、これでは得意の体当たり攻撃を仕掛けるまでもないではないか」
ハルブルグが腕を組んで唸る。副官として傍に控えていた海軍の男が、小さく頷いた。
「いささか手ごたえがなさすぎますね。いくら海戦ではこちらに分があるといっても、この展開の速さは異常です」
「こいつは、我々が相手にしているのは囮かもしれんなぁ」
そう呟いたハルブルグのもとに、別の部下が駆け寄ってきた。
「大将、哨戒部隊から報告です。戦場海域を大きく迂回して、ティグリア海軍の一部が東の海を北上しています!」
「北上? ……ふん、成程、やはり標的はラーディナ城塞に詰めている騎士隊か。シャルの言うことは面白いくらいにあたる」
ラーディナ城塞は、北東アジールとの国境であるシェーレイン大河の傍に建てられた城塞だ。数十キロ東へ行くと、シェーレイン大河の河口に辿りつき、戦場となり得る平野は東部に海がある。そこにティグリアは艦隊を進め、インフェルシア陸軍を海から攻撃するつもりだろう。となれば、やはり北から協力者のアジールが攻めてくるのは疑いようもない。
「今すぐ艦隊を北へ向けて叩きのめしたいところだが、目の前の囮部隊も放ってはおけん。この場を我々が離れれば、王都が木端微塵だ。軟弱な艦隊でも、奴ら数だけは揃えているからな」
「では、どういたしますか」
「知れたこと、まずは目の前の敵を掃除するのさ。ティグリア別働隊との追いかけっこはしばらく置いておく。……なぁに、城塞にはフロイデンとアークリッジが向かったんだ。我々が駆け付けるまでくらい、持ちこたえるだろうよ」
敵艦隊の完全撃破、もしくは撤退。ティグリア軍がどちらかの道を辿るまで、ハルブルグはここで粘る。
どちらにせよ時間の問題であった。
「よぉし、全艦、前進――ッ!」
ハルブルグの豪喝が、再び響いた。
★☆
王都レーヴェンから国境のラーディナ城塞までは、乗馬して全力で駆けて三日かかる。しかし、一度も休息を取らずにというのは人間も馬も無理である。なので普通に移動する場合は四日ほどの時間を考えるのが一般的だが、ことは一刻を争っていた。馬を取り換えつつ急ぎ、それでも三日目の夜中に城塞に到着したのは、ひとえにフロイデンの絶妙な行軍指示のおかげだろう。
普段は乗馬しない弓箭兵であるが、勿論馬に乗れる者という前提でレオンハルトは精鋭を組んで同行していた。おかげで、ひとりの脱落もなく城塞に辿りつくことが出来た。
「……しかしまあ、君の乗馬はなんとも優雅だね。騎士の乗り方とはやはり違う」
「いやいや、何の話ですか?」
などという緊張感皆無の会話を、フロイデンとレオンハルトは交わしていた。この二人も、シャルと同じく先輩後輩の間柄であり、レオンハルトにとってはクライスと同じくフロイデンは「兄」として慕う存在だ。なかなか気楽な間柄でもあり、フロイデンの性格もあり、このような会話が交わされてしまうのだ。
ラーディナ城塞は、戦場となり得る周辺の街の住民数万人をすべて収容できるほど巨大な規模を誇る。アジールとの戦争が激化していた十年前は、この城塞に多くの民を収容したまま長いこと戦いを続けていたのである。休戦状態となった今でも、万が一に備えて騎士隊の部隊が駐留していた。
城塞の様子を見るに、まだ敵は到達していないらしい。夜ということもあり、酷く静まり返っていた。勿論駐留している軍人たちはアジールが攻めてくるかもしれないなどということは知らず、唐突に現れた騎士隊隊長のフロイデン、弓箭隊隊長のレオンハルトと、彼らが率いている大量の軍勢に仰天するばかりだった。
インフェルシア側の城門に到着すると、城塞の中から数名の騎士が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「ちゅ、中将……!? いったい何事ですか」
そう尋ねたのは、フロイデン旗下の万騎隊長グリーク少将である。彼が、この城塞の駐留部隊の総司令官だ。フロイデンはにっこりと微笑む。場違いな笑みである。
「こんばんは、グリーク少将。緊急事態だ、すまないが近隣の街の住民をすべて城塞に収容してくれ」
「今から、ですか?」
「ああ、今から。そんな吃驚する時間でもないよ、まだ子供でも起きている時間だ」
「そ、そういう話ではないのですが」
天然をかますフロイデンに代わり、鷹のヴェルメを肩にとまらせているレオンハルトが口を開いた。
「北からアジールが攻めてくる可能性があります。詳しい事情はまたあとで。杞憂ならば良いのですが、本当にそうなった場合は取り返しがつきません。急ぎ、収容をお願いします」
「アジール……っ!? 分かりました、すぐに!」
グリーク少将は急いでその場から駆け出した。レオンハルトはそれを見送りつつ、呟く。
「本当に、シャルの杞憂であれば良いのですがね」
「シャルの言葉が外れたことは、そうそうないからな……それに、十分ありそうな話だ。アジールが最後にちょっかいを出してきたのは八年も前。さっきの様子からして、アジールが攻めてくるという危機感は薄れているようだし」
「監視の目も、おざなりになっている可能性がありますね。危険ではありますが、夜中のうちに渡河するということもあり得ます。例えば、河の上流」
フロイデンは頷いた。そしてレオンハルトに向きなおる。
「レオンハルトくん、城壁から確認を頼めるかい? ……と、夜はきついかな?」
「人を鳥目みたいに言わないでください。大丈夫ですよ」
レオンハルトは苦笑し、率いてきた弓箭隊の者を連れてその場を駆け出す。フロイデンは、黒々とそびえたつラーディナ城塞を見上げた。
――あまり、フロイデンはこの城塞が好きではなかった。嫌な思い出ばかりなのだ。アジールと言えば親友のクライスの死を思い出し、辛い思いをしたシャルを思い出してしまう。このラーディナ城塞は、あの辛かった時代の象徴ですらあったから。フロイデンもクライスもシャルもレオンハルトも、長いことこの城塞に詰めてアジールと戦ったことがある。思い出が、染みつきすぎている。
クライスが死んだとき、シャルは自由にしてあげるべきだったのだ。でも、それはできなかった。シャル自身が、兄の最期の言葉である『戦争の終わり』を望んでいたから。それ以上に、苦しかったあの時代は絶対的な『英雄』を欲していたから。例えシャルが軍から抜けたいと言っても、上層部は了承しなかった。若くして国王の命を守った【ローデルの英雄】の存在は、インフェルシアで大きくなりすぎたのだ。
仮初の平和。シャルはその五年間、薬師として人々の命を守る仕事をしてきた。そして、軍に留まってはくれたものの、やはり今でもあの生活に戻りたがっているのはフロイデンにも分かっている。分かっていても、シャルの手を借りなければどうしようもできない。
山奥で薬師なんて世捨てはやめろ。フロイデンは、シャルと再会したときそう言った。でもあれは、五年間シャルの消息が不明だったことを心配していたからで。できればその武勇を、人々を守るために使ってほしかったから。警邏のように、街の人を武勇を持って守り、時に薬師としても活動する。そんな風になってほしかった。
――だというのに、また戦争が始まった。シャルの武勇を、人を殺すために借りなければならない。
(すまない、シャル。もう少しだけ、力を貸してくれ。……クライス、君の弟をこき使ってごめんよ。けれど、絶対に……死なせない)
フロイデンはそう心の中でシャルに謝しながら、城塞の中へ入っていく。感傷は、捨て置いた。今は周辺の住民の安全確保が第一だ。感傷に浸るのも、後悔するのも、いつだってできる。
城壁に上がったレオンハルトは、驚いている見張り兵に手短に事情を説明し、真っ先に西側を見た。西側、シェーレイン大河の上流。堂々と目の前を渡ってくる敵などいない。流れのきつい上流、しかも夜という悪条件であっても、今夜中に渡河をしてくる危険性はゼロではなかった。
黒々としたシェーレイン大河。昼間ならば、大陸一透明度が高いと評される美しい姿を見せてくれたが、夜になればそれも分からない。光源は、城壁から地上を照らす索敵用の大型機械から発せられる明かりのみ。地上には複数の小規模な街もあり、そこの光源も頼りだ。
「……あの機材の角度的に、光が当たらない死角があるな」
レオンハルトはぽつりと呟く。城壁に設置された光源は、真横を向かないのだ。
じっと暗闇を凝視する。そして彼は、そこに動くものを発見したのだ。
「アジール軍だ。人数が少ないから、斥候のようだね」
呟き程度の声だったが、控えていた副官のヘルマンはごくりと唾を飲み込む。総じて視力のいい弓箭隊でも、レオンハルトには敵わない。ヘルマンには、レオンハルトに見えたものが見えない。しかし、レオンハルトがそこに「いる」といったら、絶対にいるのだ。
レオンハルトは矢を矢筒から一本引き抜いた。
「狙撃する」
「いいのですか、アークリッジ中将……」
「構わない、どうせ戦うために来たんだ。……それに、何としても渡河を阻止しないと。まだ近隣住民の収容が完了していない」
住民の避難が完了するまで、戦闘を開始してはいけない。そんなことすれば、住民を巻き込んでしまう。そうさせないために、なんとか牽制しなければいけなかった。
「ヴェルメ。すっかり夜も暗くなったのにごめんよ。頼む、シャルのところへ」
肩に留まっているヴェルメに呼び掛けると、ヴェルメは一声鳴いて空へ飛び立った。鳥目と言っても、多少の視力はある。それにヴェルメは賢い。なんとか、無事にシャルの元までたどり着いてくれるだろう。
ヴェルメの姿が見えなくなってから、レオンハルトは矢を弓に番えた。
「私が狙うところを、同じ軌道で射るんだ」
「はい!」
ヘルマンをはじめとした弓箭兵たちが、一斉に同じく矢を番えた。
住民を避難させる時間を稼ぐために始まった【遠弓のレオン】の神業を、アジール軍の斥候は身を以って知ることとなった。




