08.やっぱ俺らはこれだよな
フロイデンの誕生日から数日が経ち、親衛隊詰所でのんびりと珈琲を飲んでいたシャルのもとへ、ラヴィーネがやってきた。彼女の顔からは幸せの空気が滲みだしている。
「あ、シャル! 聞いておくれよ」
「嫌だね、惚気なんざ聞きたくねえよ」
「そう言わずにさあ」
ラヴィーネはシャルの嫌な顔など無視して、彼女は室内に入ってくる。
「そんなこと言ったって、もうフロイデン中将からあらかた聞いてるよ。昨日ふたりで夕飯食べに行ったんだろ? よくまあ食事くらいでふたりともそこまで幸せになれるな」
「だって、フロイデンさんとふたりで出かけたのなんて初めてだったもの」
「……フロイデンさん?」
聞き慣れない響きにシャルが聞き返すと、ラヴィーネは嬉しそうに微笑んだ。
「名前で呼んでくれって言われたんだ」
「名前だったら、ハーレイじゃないのか」
「それがさ、ちょっと違ったらしくて」
ラヴィーネは説明する。
シャルやレオンハルトら大半のインフェルシア人の名は、名前が先で姓が後という構造をしている。これを西洋式、「ヴェスト式」と呼んでいる。対するフロイデンは、ヴェスト式とは逆で姓が先、名前が後という構造だ。これを東洋式、「オスト式」という。
つまりハーレイ・フロイデンは、今まで姓だと思っていたフロイデンこそ、実は名であったということである。
普通、姓と階級で呼ぶのが軍隊のしきたりだ。だというのに、フロイデンはそれを指摘してこなかった。面倒だったのか、気にしなかったのか。とにかく、これは大きな誤解である。
「つまりあの人はハーレイ中将だったわけか。……まあ面倒だから、もうフロイデン中将でいいよな」
シャルは髪の毛を掻き回した。文化圏が違うと、しばしばこういうこともある。それを痛感したところだった。
「それはともかく、あんたにはほんといろいろ助けてもらったから……遅くなったけど、これはお礼だよ」
ラヴィーネが差し出してきたのは、小さな袋に入ったお菓子らしきものだった。一応受け取ったシャルだったが、じっと袋を見て一言。
「まさか手作り?」
「失敬な! ちゃんと買ったやつを袋詰めにしたんだよ」
「そっか、なら安心だ。いやラヴィーネ、勘違いするなよ? あんたが作れるようになったのはオムライスだけだ、そこんところを自覚しとけよ」
「分かってるよ、もう! いいよ、これから地道に勉強していくから」
シャルはふっと笑い、頷いた。
「有難く受け取っておくよ」
するとラヴィーネも微笑み、大きく頷いたのだった。
★☆
「……ってなことがあったわけ」
「へえ、幸せそうでいいね、フロイデン中将もラヴィーネ先輩も。……シャル、そこ焼けてるよ」
「おっ、ほんとだ。っていうかお前、野菜も食えよ。焦げちまうだろ」
「野菜をわざわざ頼んだのは君でしょ? 僕は別に食べたくないんだけど」
「肉だけなんて、そんな偏った飯を食うな! ほらほら」
「わわっ、ちょっともう……まだ二十代もぎりぎり前半なんだし、健康とかは気にせずに美味しいものを食べたいんだけどなあ」
シャルが無理矢理押し付けてきた野菜がこんもりと積み重なっている皿を見て、レオンハルトが嘆息する。
あちこちで、肉の焼ける良い音と良い匂いがしている。暑い初夏だというのに、暑苦しくシャルとレオンハルトは焼き肉を楽しんでいる。昔からの行きつけの店で、五年ぶりに顔を出すと女将が「あんたたち、久しぶりだねえ」と歓迎してくれた。つまり、それくらいよく通ったということである。
シャルに押し付けられた野菜を次々と口に放り込みながら、レオンハルトは口を開く。
「にしても、よくフロイデン中将も告白を受け入れたね。中将って、ラヴィーネ先輩のことはあくまでも後輩で部下としか見ていないような気がしていたんだけど」
「ま、近くにいればいるほど本当の気持ちは見えないもんだと言うだろ。ラヴィーネの気持ちが中将は見えていなかったけど、そんな中将の気持ちも見えなかったってことさ。敏感なお前でも、な」
シャルにとっては兄の友人で、レオンハルトにとっても兄に等しい存在だった。いつも一緒にいたから、逆に分からないこともあるのだ。レオンハルトは水を口に含みつつ微笑んだ。
「恋って面倒だね……」
「まったくだ。最近、フロイデン中将がラヴィーネの分の弁当を作ってるんだけどさ。ラヴィーネの奴、昼になるたび幸せそうな顔でその弁当見つめてるんだよ。あれ見てると、こう身体中がむず痒くなってくるんだよな。勘弁してほしいぜ」
世の恋人たちの大半は、彼女が作った弁当を彼氏がお昼に食べるのだろう。だがラヴィーネとフロイデンに限っては逆であった。ラヴィーネの料理の技術を鑑みれば当然のことであるが、フロイデンも料理が趣味なので仕方がない。
レオンハルトは相変わらず穏やかに微笑んでいる。
「お似合いだからいいじゃないの」
「……そうだよな。お似合いで、幸せそうなんだよな……」
シャルは不意に沈黙した。
脳裏をよぎるのは、数日前のパーティーでのアシュリーの言葉。
『レオンは、トレーネには渡せない』
あれは、どういう意味だったのだろう。
いや、考えるまでもないことだ。あの言葉はそのままの意味で、つまりアシュリーはレオンハルトが好きだということだろう。
「……なあ」
無意識に声が口から洩れていた。レオンハルトは首を傾げた。
「なんだい?」
「例えば、何かの拍子でアシュリーが女だってばれたとするだろ」
「また突拍子もない話をするね。で、それで?」
「やっぱりこの国は男児優先の国なわけで、今の世論じゃひっくり返りそうもない。国王が女なのはまずいんじゃないかって話になる」
「なるね」
「じゃあいっそのこと、アシュリーを誰かと結婚させて、その結婚相手を国王にしてしまえとなったとする」
「ふむ」
「そうなったとき、真っ先に花婿候補になるのは……レオン、だよな?」
半ば上の空でそう呟くと、レオンハルトはぎょっとしたように目を見開いた。
「っ!? ……けほけほっ、な、何を言い出すかと思えば!」
「おい、水を吹き出すなよ」
シャルはむっとしてタオルを放る。レオンハルトは噎せて咳を繰り返しつつ、なんとか呼吸を落ち着かせる。
「ええと……どうしてそういう話を、いまこのとき思いついたんだい?」
そう尋ねられて、初めてシャルは、あの日レオンハルトがパーティー会場から離脱したあとに起こったことを語った。聞き終えたレオンハルトは苦々しい表情で呟く。
「エルファーデン公爵とトレーネ嬢か……僕、昔からあの一家が苦手でね」
「そうなのか? でもトレーネとかいう子は、お前のことをレオン様って呼んでいたけど」
「そんなことを許した覚えはないよ。僕は彼女に『レオン』として接したことはない。それは彼女が勝手に呼んでいるだけだ」
レオンハルトの口調は酷く乾いていた。シャルは無言で、鉄板の上に新しい肉を広げて焼きはじめる。
『レオン』として接するだの接しないだのと言うが、別にレオンハルトが二重人格というわけではない。だが感覚的には似たようなものである。彼が『レオンハルト』であるとき、彼は根っからの貴公子で、容姿も頭脳も完璧な超人である。世の女性がレオンハルトに惹かれるのはこのときで、非常に紳士なのだ。
しかし『レオン』の時はと言うと――今までシャルが見てきたとおりである。やたら人をからかい、おちょくり、茶化す。自信家で楽天的、大らか。これこそレオンハルトの素の人格だ。
これをはっきりと区別できているのは、シャルやシュテーゲル、フロイデン、ラヴィーネ、キーファーなど数名である。――要するに、レオンハルトが相手に対し心を開いているのか、いないのか、という話である。
トレーネに『レオン』として接したことはない――つまりレオンハルトは彼女に本性を見せていないということだ。それは彼女との間に明確な壁を作っているということだが、トレーネのほうはそんなことを知らずに、レオンハルトのことを『レオン』と呼ぶ。信頼できる人、それ以外の人、というのをはっきり分けているレオンハルトにしてみれば、不本意なことだろう。
そんなはっきり区別しなくとも、とシャルは思わないでもないが、これも貴族として生きるレオンハルトの一種のの自衛手段なのである。
「エルファーデン公爵の狙いは、まさに君が推測した通りだろうね。あの人は昔からアークリッジ家に対して大きな劣等感を抱いていた。それを払拭できるなら、トレーネ嬢を殿下に嫁がせるくらいやりかねない」
「そんな阿呆みたなこと、させてたまるかよ。たった一度の人生を、もうアシュリーは何度も捻じ曲げられてるって言うのに」
「まったくだ。だけどね、人道には反するけれど有用な手でもあるんだよ。インフェルシア王家を存続させるにはね」
シャルがむっとした気配を感じ、レオンハルトは肩をすくめた。
「……君が言いたいことは分かるけど、まあ落ち着いて。ほら、この辺のお肉は全部君にあげるから」
「それで機嫌を取っているつもりなのか?」
レオンハルトは肉をひっくり返し、裏面を焼きはじめる。
「それはさておき、その話がどうして殿下と僕の結婚話になるんだい?」
「それは……だってアシュリーは、お前のことが好きなんじゃないのか?」
「いや、どうしてそう思うの?」
シャルの言葉に、レオンハルトは苦く笑う。シャルは眉をひそめた。
「どう考えてもそうとしか思えないぜ。アシュリーは、お前をトレーネには渡したくないと言ったんだぞ? それって自分が好きだからってことだろう?」
「うーん……」
微妙な表情で、レオンハルトは肉をひっくり返す作業を続ける。
「それはさぁ……ちょっと意味合いが違うんだよねぇ」
「意味合いが違うって、どういう?」
「殿下は僕のことを恋愛対象と見てそう言ったわけじゃないよ。そもそも、僕と殿下は兄妹のような関係だからね。お互い、家族のようにしか思っていないよ」
「あくまでもそれはお前の考えだろ。アシュリーがどう思っているかは……」
「ねえ、シャル」
レオンハルトが強引に話に割って入った。シャルが呆気にとられて沈黙する。貴族の友人は、焼けた肉をシャルの皿に盛っていく。
「僕と殿下が結婚したとしてね。……君はそれが嫌なのかい?」
「え……」
意表を突かれたかのように、シャルは硬直した。数秒間沈黙したその場には、鉄板から立ち上る煙と音で満たされる。
喉を湿らせるように水を飲みこんだシャルは、ぽつりと呟く。
「嫌……とかじゃなくて。なんか、納得できない」
「ぷっ」
「え、ちょ、なんだよ。なんで笑った!?」
レオンハルトは笑いをこらえながら言う。
「君さぁ、近すぎるほど本当の気持ちは見えない、とか言っていたけど。それ、僕から君に言ってあげるよ」
「なんでそうなるんだよ」
「君自身と、君に近しい人の気持ちが、シャルは全く分かってない」
断言したレオンハルトは、シャルに人差し指を突きつける。
「自分の気持ちがはっきり分かってから、そういうことは口にしなよ」
「だから、何の話……」
「ああまったく、おかしくてやってられないよ。お姉さん、葡萄酒一杯くれる?」
「お前っ、昼間っから酒を飲む気か!?」
「それ言うなら、昼間から焼き肉をしている時点で突っ込むべきだよ」
「お前が食いに行きたいって言ったんだろっ……」
お姉さんなどと呼ばれた中年の女将は、嬉しそうに店の奥へ引っ込んでいった。シャルは肩をすくめ、食べることに専念する。
(違うよシャル、アシュリーが僕を守ろうとしてくれたのは、僕のためだ。彼女が本当に想っているのは、君なのにね……)
運ばれてきた葡萄酒のグラスを傾けながら、レオンハルトはくすくすと微笑む。
(人のことはすぐ気が付くくせに、自分のことには鈍感なんだから……)
アシュリーからの好意に気付かないばかりでなく、自分の気持ちも彼は知らないのだろう。存在していることが分かっても、それが何なのかまでは気付かない。
いや――正確には両者とも、まだそこまでお互いを思っていないのだろう。だがレオンハルトには、いつかふたりが互いを想うようになるというのがはっきりと見えている。
(ま、僕は余計なことはせずに見守らせてもらおうかな)




