04.堅苦しいのは今だけさ
翌日、シャルは特に体調不良であるような様子も見せずに王城へ出向いた。事実シャルは二日酔い独特の頭痛や吐き気に悩まされることはなかったのである。専門知識を持つ彼は酒の抜き方を熟知していたのである。水を大量に飲み、薬を飲み、そして寝る。これが最高の予防策なのであった。
王城は中流階級層よりもさらに上、というより王都で最も高い場所に位置している。これもまた船を乗り継ぎ、船に乗ったまま豪奢な城門をくぐる。水路の左右を色鮮やかな花々に囲まれつつ船は城内に進み、そこにまた豪華な船着き場があるのだ。これが城へ来る一般的なルートである。実をいうとシャルは色々と『抜け道』を知っていたりもするが、さすがに今日騎士の叙任を受ける身としては、あまり大それたことをするわけにはいかなかった。
群青色の制服の首元を緩めたくなる衝動を抑えつつ、シャルは城内を迷いなく進んでいく。通常騎士というのは、騎士叙任の時と仕事の時以外に城内に来ることがない。大体は同じ敷地内にある騎士団の詰所のほうにいるからだ。しかしシャルは、一般的な騎士とは比べ物にならないほど城内の構造に詳しい。というのも、シャルは国王から直々に呼び出されることが多かったからだ。
シャルが英雄と呼ばれるに至ったローデルでの一件のあと、国王はいたくシャルのことを気に入った。両親を早くに失い、兄とともにシュテーゲルの庇護下にあるというので、気にかけてくれたのであろう。そういうわけでシャルは定期的に国王と会い、近況を尋ねられたり雑談を交わしたりという栄誉を賜った。クライスが亡くなったときも、最大限の配慮をしてくれた。
だからこそ、国王の戦死はシャルにとっても衝撃的だった。戦場では淡々と事実を受け止めていたシャルも、心の中では動揺していたのだ。
シャルは謁見の前に足を踏み入れた。そこには多くの軍人が集まっていた。その殆どが見知った顔である。今日はシャルの再叙任というだけでなく、王太子護衛の親衛隊結成の儀式でもある。だからイルフェ、フォルケ、カイン、ヴィッツ、アンリ、そして副官に任じたリヒターをはじめとする騎士たちが勢ぞろいしていたのである。
遅ぇよ、とカインの口が動いた。静粛な場所なので勿論声はないが、唇の動きだけでシャルには伝わる。シャルは軽く肩をすくめて見せただけである。
程なくして王太子アレックスと呼ばれる少女、アシュリーが現れた。その背後に付き従うのはシュテーゲルと、もうひとりの男性だった。彼はキール・ハルブルグ大将といい、インフェルシア王国海軍総司令であった。つまり陸軍総司令のシュテーゲルとは対を成す存在である。先の戦いでは南方の軍港ナーメルにて諸外国からの干渉を牽制する役割を務めていたが、彼の率いる船隊が列国に名を轟かす強さを誇る。ハルブルグ大将が海軍総司令となって十年ほどになるが、いまだ海戦で負けなしだ。
シュテーゲルとハルブルグという王国軍の双璧を従えて、アレックスが玉座の前に立つ。国王の代理として、彼女が騎士の叙任を行うのだ。
真っ先にシャルの名が呼ばれた。滅多なことでは緊張しないシャルは、このときもごく自然に前に進み出た。むしろアレックスのほうが緊張で肩に力が入っており、表情も強張っている。それを見やったシャルは、他の者には悟られないように少しばかり不敵な笑みを浮かべた。アレックスはそれに気づき、いつもと変わらないシャルの様子にほっとしたように表情を緩めた。勿論シュテーゲルも気づいていたが、見て見ぬふりをしてくれた。
アレックスが立つ場所より一段低い場所で足を止めたシャルは、腰に佩いた剣を抜き放ち、アレックスに差し出した。きちんと両手で持って、下からだ。アレックスがそれを受け取ると、その目の前にシャルは跪く。彼の恭しさに多少のむず痒さを覚えつつも、アレックスはシャルから渡された剣の刃をシャルの肩に押し当てる。
「汝、シャル・ハールディン。騎士として命を捧げ、民を守る盾となることを誓うか?」
アレックスがそう問いかける。頭を垂れたまま、シャルはぴくりと反応した。誓いの文言が従来と違うのである。本来ならば『敵を刺し貫く刃となること』を騎士は誓う。実際、十年前にシャルが騎士になったときもそれを誓ったのだ。
今この場で、アレックスが誓いの文言を変えたのだろうか? 顔をあげられない以上は判別できないが、しかし刃になるより盾になるほうが、ずっと有意義だ。気に入った。
「――騎士の名にかけて、お誓い申し上げます」
答えると、シャルの肩から剣の重みが消えた。
「我、汝を騎士に任ず。如何なるときも、その誓い破るべからず」
顔を上げると、アレックスが優しく微笑んだ。シャルは一度目を閉じ、そしてもう一度頭を下げた。シャル・ハールディンはこのとき再び騎士の誓いを立て、晴れて騎士の位を得たのだった。
そのあとはシュテーゲルの口から、昇進者が告げられた。知らされていた通りシャルは大佐から准将へ、シャルの部隊の中ではまだ中佐位だったイルフェ、カイン、アンリの三人が大佐に昇進し、既に大佐だったフォルケとヴィッツを加えて全員の階級がまた並んだ。リヒターも大尉に昇進、そのままシャルの副官を務める。その上で、シャルの率いる親衛隊が発足したのである。
平時に際してはアレックスの護衛を務め、有事に際してはアレックスの安全を第一にしながら、しかし王太子の判断で戦線に参加する。まさに臨機応変さが要求される特殊な部隊だ。もう既に、シャルの口からアレックスが女性であることは告げてある。シャルたちが守らねばならないのは、勿論アレックスの安全であるが、彼女の秘密をも守る対象なのだ。
平民であるシャルがそんな大役に就くことを快く思わない者は多いだろう。それでもシャルは、任された仕事は全うするつもりだ。それが社会の責任ってもんだろう、というと大笑いしそうな人間が幾人か思い当たるが、無視である。
騎士叙任式は終わった。堅苦しいのは終わった。
――わけではなかった。
★☆
シャルは眩しいくらいに白く輝いている廊下を、無言のまま歩いている。そのたびにこつこつと靴音が反響するが、聞こえる足音はもう一人分ある。半歩ほど遅れ、フォルケ・セルマンティが付き従っていた。
城内の外れにある離宮。ありていに言えば王族の住まい。もっと言えば今の王族は全員女性のため、姫君の巣窟である。
ふたりは好き好んでこの場所に足を踏み入れたわけではない。しかし、王太子の護衛となったからには、彼女の妹姫たちと面識がないというわけにもいかない。これから何度も顔を合わせるだろうから、その前に挨拶をしなければならないのである。
同行者がフォルケなのにはいくつか理由がある。第一印象の話であるが、副官であっても位の低いリヒターはあまり良い目で見られない。小柄なイルフェや温和すぎるヴィッツでは、真実はどうあれ若く頼りなく見えてしまう。逆に大柄なカインでは無骨すぎるし、知識人のアンリは騎士に見えない。真実はどうあれ、である。さらに彼らはこの高貴な場所に立ち入るにあたって、挙動不審になるのが目に見えていたのだ。それでは恰好がつかない。
そういう理由で、冷静沈着でポーカーフェイスのフォルケが同行者として選ばれたわけである。シャルの思惑通り忠実に無言のままついてくるフォルケだったが、さすがに沈黙は耐え難かったようで、ぽつりと呟いた。
「……まさか、王太子殿下が女性だったとは思いませんでした」
「そいつは俺も驚いたがね。これはこれで面白いじゃないか、スリルがあって」
「スリルで済めばいいのですが……」
フォルケが苦い表情をしたところで、シャルが足を止めた。目の前に大きな扉。ここが第一王女――要するにアレックスことアシュリーの妹姫シルヴィアの部屋だ。
前もって来訪することは告げていたから、室内にいるはずだ。いなければおかしい。シャルが扉をノックすると、沈黙が返ってきた。完全防音、壁は厚い。室内の音など聞こえないのが当たり前だ。
と思ったら、ばたばたと走るような足音が聞こえた。走れるほど広い部屋に、シャルはいっそ呆れるくらいだ。フォルケが怪訝そうな顔をする。
凄まじい勢いで扉が開いた。姫君の部屋には似つかわしくないような悲鳴を上げ、扉が開け放たれる。
「おっ、お待たせしましたっ……って、きゃあっ!?」
飛び出してきた何者かは、どういう訳か自分の足に躓いて大きく前につんのめった。それをシャルはひらりと身体を捌いて回避した。上官のまさかの行動に驚いたフォルケが、慌てて両手を差し伸べて転ぶ寸前の人間を掬い上げる。
「……だ、大丈夫か」
「あ、有難う御座います……」
それは侍女であった。まだ十代であろう。大きな緑色の瞳が、助けてくれたフォルケを見て見開かれる。
「こりゃまた、そそっかしい侍女さんもいたもんだね」
シャルは肩をすくめてそう呟いたが、そのシャルに向けて称賛の声がかけられた。
「テューラの突進をいとも簡単に避けるとは……さすが、英雄と呼ばれる騎士殿ですわね」
室内はやはり白を基調とした家具で統一され、なんとも統一感のある部屋だった。そんな部屋の中、白いソファの前に立つのは美しい赤のドレスを身にまとった少女。貴族の証とも言える金の髪に青い瞳。顔の造作はアレックスに通じるものがある。今はまだ「美少女」であるが、あと二年もすればさぞ素敵な「美女」になるだろうことは容易に想像できる。
シャルはにっこりと営業的な笑みを浮かべた。
「……シルヴィア王女殿下、でいらっしゃいますね?」
「はい。ようこそ、お待ちしておりました。ハールディン准将」
シルヴィア・L・インフェルシア第一王女。世が世であるならば彼女は第二王女であるが、長女アシュリーが男性を装っているため、必然的にそういうことになってしまう。
「わたくしの侍女が失礼いたしました。本当に見事な回避技でしたわよ」
「お褒めに預かり恐縮です。何分身体が反応してしまうもので。その分のフォローは部下がしましたので、お許しください」
シルヴィアに促された侍女の少女がぴんと起立し、そして直角に身体を折り曲げた。
「シルヴィアさま付きの侍女、テューラと申します!」
「見ての通りそそっかしい子ですけれど、良い子ですのよ」
「元気があるのはいいことです」
と、どこまでもシャルの言動は軽い。シルヴィアは室内を示した。
「どうぞお入りになって? 美味しい紅茶がありますの」
「いえ、今日は挨拶に伺っただけですのでお構いなく」
「まあ、わたくしは貴方とゆっくりお話したいですわ。それとも、このあと何か急ぎのご用事が?」
王族特有の強引さである。シャルはぴくりと頬筋を引きつらせたが、笑みは崩さずに完璧を保つ。
「……分かりました。王女殿下を立たせておくわけには参りませんね」
「ふふ、有難う。さあ、どうぞ」
シルヴィアの部屋に招き入れられたシャルとフォルケはソファに座り、テーブルを挟んだ向かい側に座るシルヴィアと改めて挨拶を交わした。それが済んだ頃には、テューラが紅茶とお茶菓子を持ってテーブルに並べ始めた。
「――准将。貴方のことは、戦いが終わって帰ってきてからお姉さまがお話してくれました。むしろ、シャルという名を聞かなかった日はありませんでしたわ」
唐突にシルヴィアは話しはじめる。アレックスのことを「お姉さま」と呼んだからには、いま室内にいる人間を信頼してくれているということだ。シャルたちにとってテューラは情報を共有できる相手ということになる。そういう存在がひとりでもいると、実に心強い。
「貴方のことを話すお姉さまは、本当に嬉しそうで……自分が背負ってきた重荷を貴方に打ち明けられたとことで、お姉さまは少しだけ楽になったのでしょう。表情が晴々としていますから」
シャルは沈黙で答えた。開けられた窓からは心地よい風が吹き込み、シャルの茶色の髪をさらっていく。シルヴィアは紅茶のカップを持ち上げ、さりげなく呟いた。
「本当に准将は、昔からお姉さまを助けて下さる」
「……それは、八年前の殿下誘拐未遂の時のことをおっしゃられているのですか?」
シャルがやっと尋ねた。シルヴィアは頷く。八年前、アジールの手の者に連れ去られそうになったアシュリーを助け出したシャルとレオンハルト。そんな二人を守り、シャルの兄は死んだ――。
「アシュリー殿下は、その時のことを?」
「おぼろげには覚えていらっしゃるようですわ。ただし、自分を助け出したのが貴方とレオン様であること、それによって亡くなったのが貴方の兄のクライス将軍であることは、知りません。父がお教えになりませんでしたから」
シルヴィアは言いながら紅茶を口に含む。成程、確かに良い紅茶らしい。たいして詳しくないシャルでも、香りが違うということに気付けるほどだ。
「それでも、資料を探せばすぐに分かることです。事実わたくしは自分で調べました。お姉さまがそうしようとしなかったのは、……ある意味では逃げなのでしょうけれど」
「あの時のことを知れば、きっと殿下は自分を責め、私に償おうと考えるでしょう。それはおかしいことです。知らずにいるのが正しいことですよ」
「きっと、そうでしょうね」
シルヴィアは僅かに身を乗り出した。彼女の瞳は真剣だった。王女シルヴィアはアシュリーとは年子であるから、今年十七歳だろう。それでいてこの聡明さ。気高くはあるが、傲慢ではない。
「ハールディン准将。お姉さまを助けていただけませんか」
「助けるとは、一体何から?」
「助けるというより、支えてあげてほしいのです。このまま男性のふりを続けていたら、きっとお姉さまは耐え切れなくなってしまいますもの」
「……」
「貴方を信頼していますわ。姉を思うがゆえの妹の我が儘、聞いていただけますか?」
シャルは苦く笑みを浮かべた。
「出会って十分ほどしか経っていませんが、それでも私のことを信頼していただけるのですか」
「というより、信じるしかありませんもの。お姉さまが完全に心を許し、傍にいることを誓ってくれた貴方にしか、わたくしは頼れませんから」
「……よく出来た妹さんでいらっしゃる」
つい素で呟いたシャルだったが、その声を掻き消すように扉がノックされた。壁際に控えていたテューラがまた飛んでいき、今度は転ぶことなく扉を開けた。そして、当のアシュリーの来訪を告げたのだった。
「シルヴィア……って、シャル?」
アシュリーは室内にいるシャルとフォルケを見て目を丸くした。シャルはすっと立ち上がると、シルヴィアに一礼した。
「では、私たちはこれで」
「引き止めてごめんなさいね。……次お会いするときは、是非本来の貴方とお話したいですわ。今の慇懃も素敵ですけど、ね」
完璧に見抜かれていたことを悟ったシャルはふっと微笑み、フォルケを促してその場を去った。アシュリーの横を通り過ぎる際にはしっかりと礼を施す。ぽかんとしているアシュリーをよそに、シャルとフォルケはシルヴィア姫の部屋を辞したのだ。
「え、ちょっと! シャル!」
アシュリーは途端に身を翻し、部屋を出て行ったシャルの後を追いかけた。その様子を見て「あらあら」とシルヴィアが微笑む。
「一途ですわねぇ、お姉さまは。まあハールディン准将は大人な男性ですし、免疫のないお姉さまが一目で惹かれてしまうのは仕方ないかもしれませんけれど。……そういえばテューラ? 貴方、准将に従っていらした騎士殿のお名前はちゃんと聞いていた?」
急に話を振られた侍女のテューラは、持っていた盆で顔の下半分を覆った。赤くなった顔を隠すためであろう。
「は、はい……セルマンティ大佐、ですよね」
「事前に調べておいたけれど、彼、独身だそうよ?」
「そ、そうですかぁ……」
こちらも面白くなりそうだ。シルヴィアはそう思いひとり微笑んだ。
ひとつめの角を曲がったところで、シャルとフォルケはアシュリーに追いつかれた。呼び止められて振り返ったシャルに、アシュリーは困惑顔で尋ねる。
「シャルっ、さっきのはなんなんですか?」
「さっきの、とは?」
「その喋り方です! 気持ちが悪くて背筋が凍りました」
ずけずけと言うアシュリーに、シャルは舌打ちした。
「ったく、なんだよ。あのお姫様の手前、大過なくやりすごしてやろうと思っていたのに。仮にもお姫様が、人の名前を叫びながら廊下を走るんじゃねえ」
「だ、だって……! シャルがあまりにおかしいから、熱でもあるんじゃないかって。ああ、レオンの気持ちがやっと分かった気がします……」
「どいつもこいつも失礼なことを言いやがって。なあ、フォルケ、そう思うだろ?」
フォルケは静かに答えた。
「私も、丁寧口調の准将にはまだ慣れません」
「……てめえ」
周囲からの評価を思い知ったシャルなのであった。




