01.ただの薬師に何の用だ
相手の鼻先で扉を閉めてやりたい衝動に駆られたが、シャルは何とかそれをこらえる。戸口に立っていては室内が濡れるので、とりあえずシャルはふたりを家の中に入れた。そして扉を閉めたシャルは、その扉を背にして立ち、腕を組む。彼らが逃げないようにするためだ。
「こんな夜中に、騎士さんふたりが何の用?」
外套のフードを被っていた小柄な騎士は、そのフードを払いのけた。そこにあったのは金色の髪の少年の顔だった。金髪はこの国の貴族の証だ。シャルのように平民で茶髪の人間とは真逆にある。
少年は、そこらの少女よりもずっと整って美しい顔立ちをしていた。白磁のように透明感のある頬が、寒さの影響か少し赤みを帯びている。眉目も秀麗で、こんな騎士の制服よりもきちんとした格好をさせたらさぞモテるだろうになあ、とシャルは別方向のことを束の間考えてしまう。
「……貴方がシャル・ハールディン大佐、ですね?」
その少年の口から飛び出した声も、少年というには高い。
「質問に質問で返すのは一番やっちゃいけないことだな。先に答えな、何の用があってここに来た?」
「ハールディン大佐に、助力を求めるために来ました」
シャルは眉をしかめた。
「……へえ。退役軍人に階級名をつけて呼ぶ人間、初めて見たぜ」
「やはり、貴方が?」
「分かっていて聞くんじゃねえよ、その通りに決まってるだろ」
扉の前から離れたシャルは、棚の上に置いてあったランプに火をつけた。ぼんやりと明かりが灯る。
「で、あんたらは何者?」
尋ねながら、この少年の顔を「どっかで見たことあるぞ」とおぼろげにシャルは思い出していた。だがそこまで深く関わったことはなさそうなので、言葉を交わしたことはないと思う。
少年は姿勢を正した。
「私はアレックス・L・インフェルシアと申します」
「……ああ、王太子殿下ね。そりゃ道理で、見たことあるはずだ」
王太子と知っても、シャルの態度は全く変わらなかった。
――勿論、己の内側にある動揺は、決して表面には出さない。これでも十分驚いているのだ。
と、後ろで沈黙を守っていた騎士がいい加減頭に来たのか口を開いた。
「王太子殿下と知って尚、態度を改めるつもりはないのか」
「……別に? 俺はこの王子さまの臣下じゃねえし、この家の主は俺だぜ? 招かれざる客を、なんだって俺がもてなさなきゃならねえんだよ」
「貴様っ……」
いきり立った騎士を、アレックスが制止する。シャルは棚を開き、そこから取り出したタオルを二枚投げて寄越す。
「そのままにしていると、風邪ひくよ」
素っ気ないこの元騎士の口から出た、思いの外優しい言葉。アレックスは瞬きをしたが、あえて何も言わないでタオルを受け取った。
「有難う。部下の非礼は許してください」
「この程度でむかつくほど、心は狭くないつもりだぜ。あんたの部下の考えは妥当さ」
「……そうか、成程。そうやって突き放して追い返すつもりなのですね」
あっさりと見抜かれたシャルだったが、無言でスルーした。
「にしてもあんたら、よく俺がここに住んでいるって分かったなあ」
シャルは台所へ向かってもうひとつランプをつけ、何か作業を始めた。
「ああ、それは……」
「――今度会ったらレオンの奴、ぶん殴ってやる。勝手に俺の情報を伝えやがって……!」
どうやらアレックスが話すまでもなく、シャルにはお見通しだったようだ。声だけが聞こえてくる台所に向け、アレックスは訴えた。
「そのレオンが、いま窮地にあるのです。私は彼に、貴方に助力を求めろと言われました」
「助力、ね。一体あんたたちは、俺に何をしてほしいの?」
「かつて最強の剣士と呼ばれた、その武勇を……我がインフェルシア王国のために貸していただきたいのです」
「……誰がそんな風に言っているのかは知らないが、今の俺は一介の薬師でね。残念ながら二度と剣は手に取るつもりがない」
「え? 薬師……?」
アレックスは茫然とした。シャルが台所から戻ってきた。その手には、湯気が立ち上るマグカップがふたつあった。それを、ソファの前のテーブルに置く。
「立っていないで、座ったらどうだ。話は長くなるんだから」
「え、ああ……そうですね、そうさせてもらいます。ところで、これは?」
「薬湯。身体が冷えているときはこれが一番だ。……こういうことすんのが、今の俺の仕事」
シャルはそう言いながら、アレックスらの向かい側の椅子に腰を下ろす。アレックスはソファに座ったが、護衛の騎士は立ったままだ。それも騎士の務めなので、シャルは何も言わない。代わりに薬湯だけは手渡す。
一口飲んだアレックスが、驚いたように目を見張る。
「……美味しい」
「そうかい」
「薬湯というから、どんなに不味いかと覚悟していたけれど……飲みやすくて良いですね」
「そりゃ、飲みやすいように工夫してあるからな。薬師の家に転がり込んできた人間に風邪でも引かれちゃ、俺の評判に関わる」
シャルはそんなことを言いながら、視線を天井のほうへ向けた。うっすらと雨で天井に染みができている。アレックスはカップを机の上に置いた。
「話が逸れましたが、ハールディン大佐。貴方は私の助力要請に応じてはくれないのですか?」
「ああ」
「それはなぜ? この国が敗北すれば、インフェルシアはテオドーラの侵略を受けることになるというのに。この国を守ろうとは思えませんか?」
テオドーラ、それがインフェルシア王国にとっての敵国。北西の砂漠地帯に形成された国で、歴史的な敵国だ。今回のように大規模な戦争になったのは、実に十年ぶりである。
「この国のすべてを背負って戦おうと思えるほど、俺の背中は大きくない。そんな重荷は、俺には無理だ」
シャルは静かに答える。彼はいつの間にか脳裏に世界地図を描き、それらを鑑みながら話を進めていた。それは現役時代によくやった、誰かを説得させる時の口調である。
「敵が侵略してくる意味を考えてみな。砂漠地帯に住んでいるテオドーラの民は、インフェルシアの豊かな自然や豊富な鉄鉱山が欲しいのさ。欲しいけど、奴らは作物の育て方も知らなければ、採掘の仕方も知らない。それをやるには、地元の人間を使うしかない。分かるか?」
アレックスは素直に頷いた。シャルが続ける。
「つまりテオドーラの軍人さんたちは、インフェルシアの軍人は殺すけど民衆は殺せない。生かしておいて、作業させなきゃいけないからだ。民を死なせたら国が滅ぶからな。そういうわけで、国同士の抗争なんて、田舎暮らしの人間にとってすればたいした話題じゃないのさ。国家元首が変わるだけで、やることはいつもと一緒。せっせと畑仕事をして収穫した野菜を出荷し、金をもらう。それだけだ」
「……でも!」
「薄情だと思ったか? 悪いが、人間なんてそんなものだぜ。自分の生きる空間がいつもと変わらないなら、進んで行動を起こそうなんて気にはならない。かくいう俺も、な」
シャルは椅子の背もたれに身体を預けた。
「俺は今の生活が気に入っている。誰かがそれを壊そうと乱入してこない限り、何もするつもりはねえよ。もう俺にとっては、この国の行く末なんて興味ない」
「……乱入して来たら、動くのですね?」
「この街に敵さんを誘導でもする? あんたにそんな度胸はないと思うけど」
アレックスは小さく呻き、しばらく何か言おうとしていたが、断念した。
「……そうですか」
少し失望の色が浮かぶ表情で、アレックスは頷いた。どうやら説得は無理そうだ、と判断したのだ。
「貴方の考えは分かりました、でも帰るわけにはいきません。私はレオンに、貴方を連れて戻ってくると約束したのです。貴方がその気になってくれるまで、戦場には戻りません」
「粘れば俺が折れる、とでもレオンに言われたか?」
図星を刺され、アレックスが沈黙する。シャルは溜息をついた。
「俺の考えを言わせてもらえば、レオンの意図は別にあると思うんだけどね」
「別……?」
「気付いてねえなら、いい。まあ好きにすればいいさ。さすがに王太子殿下を放り出すほど、俺は人でなしじゃないからな。今日は一晩休んでくれていいし、本当に粘る気なら何日でもいて構わん。ここにいる間の世話はする、だがそれ以降のことは引き受けられない。それだけは覚えておけよ」
隣に空き部屋がひとつあるし、家の中は自由に使っていい。シャルはそう言い残して、自室に引っ込んだ。
扉を閉めて、シャルは小さく舌打ちした。俺一人が戦線に復帰して戦況が劇的に変わるわけでもないのに、レオンの奴は何を考えている。そんな具合に見えざる友人に罵詈雑言を投げつけたが、実はレオンハルトの意図は見抜いている。
レオンハルトがシャルに望んでいること、それは王太子アレックスの保護。戦争がなんらかの形で終結するまで、彼を匿うことだ。
だがそれは『とりあえず』の措置であって、いずれはシャルも戦場に引き出すつもりだろう。
【ローデルの英雄】と呼ばれるシャルが騎士に戻れば、士気があがって敵を押し戻す原動力にはなるかもしれない。さらにはシャル自身の武勇に加え、彼は部隊の指揮能力も高い。シャルもかつては千騎の騎士をまとめる千騎隊長の役割を任されていたのだ。
レオンハルトの狙いは、『シャルが騎士に戻ること』自体にある。
五年前、ある事件がきっかけで退役したシャル。その事件はシャルの心に深い傷を残し、レオンハルトもその事情を誰よりも詳しく知っている。なのに彼は、シャルの現役復帰を執拗に求める。こっちの気持ちも考えてくれよ、と言いたいところだが、見目に反してやけに繊細で物事を引きずりやすいシャルを、レオンハルトは歯がゆく思っているのかもしれない。
『まだ引きずっているのかい』
『もう一度僕と肩を並べて戦わないか』
『この国には君の力が必要なんだ』
時折やり取りしていたレオンハルトからの手紙には、決まってそんなようなことが毎回綴られていた。
五年前、僅か二十歳で表舞台から姿を消すことを選んだ友人を、レオンハルトなりに励まそうとしているのだろう。その気遣いはシャルにも伝わっている。けれど、まだトラウマは残っている。
「……レオン。重いんだよ……俺には」
呟いたシャルは、ふとアレックスの顔を思い出す。
彼と初めて会ったのは、国王のローデル視察の護衛に選出され、敵工作員から国王を守り抜き、その謝礼をもらった時だった。初めて入った王城の玉座の間で、国王の隣にちょこんとアレックスがいたのを覚えている。多分その時、彼は七歳か八歳ほどだっただろう。
そのあとも、数年して一度会った。アレックスがその時のことを覚えていないようなのは、シャルにとって幸運なことである。もしそれを持ち出されて説得でもされたら、意地を張り続ける自信が少し失われてしまうのだった。
あれから、もう八年。あのころの面影を残したまま、凛々しく青年として成長したアレックスだが――。
「……なんというか、レオンといい、あの王太子殿下といい、貴族っていうのはなんであんなに美男子なんだろうね」
シャルの知る貴族はこのふたりだけなので、統計上はそうなってしまうのが当たり前であった。やはりどちらも、そこいらの女より余程美人だと思う。
何を考えているんだ俺は、と己を叱ったシャルは、ベッドに身を投げ出したのだった。
★☆
シャル・ハールディンという男について、何も知らなかったのだということを、アレックスは思い知った。
アレックスが知っていたシャルの情報など、たかが知れている。【ローデルの英雄】と呼ばれていること、五年前に突如退役して行方をくらませたこと、類稀なる剣の達人であること、弓箭隊の隊長であるレオンハルトとは、どういう訳か友人であること。しかも、どれもこれも人から伝え聞いたことばかりなのだ。
どうやったら彼の心を揺さぶれるのだろう?
「殿下……もう夜も遅いですから、お休みになられては? 馬を走らせ続けてお疲れでしょう」
護衛の騎士がそう促す。だが答えるかわりに、アレックスは質問を投げかけていた。
「貴方は、ハールディン大佐のことについて何か知っていますか?」
「え……いえ、その。私もあまり詳しくは存じ上げません」
「そうか……でも、彼があそこまで頑なに戦いを拒絶するのには、理由があると思う……」
考え込むアレックスに、ふと何かを思い出した騎士が口を開く。
「そう言えば、ハールディン大佐には兄君がいらっしゃったはずです」
「兄君……?」
「はい。階級は少将、大佐と同じく陸軍騎士隊の所属の万騎隊長だったと。確か七,八年近く前にお亡くなりになりましたが」
「七,八年前……大佐の退役は、兄君の死がきっかけだったのかな……」
万騎隊長はその名の通り、「一万騎の騎士を統率する者」という意味だ。
また思考の海に沈みそうになったアレックスに、騎士は先ほどと同じように休息を呼びかけた。アレックスは素直に頷いたが、部屋はひとつだけだと言っていた。さてどうするのだろう。
「貴方はどうするつもりですか?」
「私はここのソファを借ります。どうぞ殿下が部屋をお使いください」
「……すみません。有難う」
アレックスは少し申し訳なさそうに微笑み、踵を返してその部屋に向かった。護衛騎士はソファに腰をおろし、息を吐き出す。
雨はさらに激しくなり、雷光も止まることを知らない。
夜は、まだ長いようだった――。