02.俺より先に死なせるわけないだろ
若い女性たちのように雑貨やら服やらを見て楽しむ趣味は、シャルにもレオンハルトにもなかった。かといって賭博などをして遊ぶ趣味もなく、ふたりの時間の潰し方といえば『食い倒れ』が多かった。気の赴くままに歩き、美味しそうなものを見つけたら買って食べる。どうしようもなく暇だったら、劇場に行って演劇でも見る。極めて無意味に時間を潰すのが、彼らの休日だ。勿論、幼いころからこうだったわけではない。昔は家の庭先で追いかけっこをしたりボールを蹴って遊んだり、夏場には川で泳いだり、色々したものである。
夕方を過ぎたあたりでふたりは別れた。レオンハルトはいま実家の豪邸ではなく、陸軍宿舎で生活している。曰はく、「移動がなくて楽でいいから」だそうだ。夜には仕事があるとかで、早めにお開きとなった。休暇中でも将官は忙しいのである。
シャルは、そのまま真っ直ぐ下町の実家に戻った――わけではない。あの実家は、手入れをしない限り住めないだろう。シャルが向かったのは中流階級の住宅街である。
中流階級は、貴族ではないがそれに次ぐ裕福な人々の住まう場所である。由緒ある騎士の一門だったり、成功した商人だったり、そういう人々だ。
定期船乗り場にいる男性に運賃を先払いし、シャルは三十人乗りほどの定期船に乗り込んだ。窓はなく、屋根があるだけだ。縁から手を下ろせばすぐ水に浸かる。吹き込む風も涼しく、きわめて快適な船旅である。といっても、せいぜい十分ほどだ。
後ろのほうの座席に座り、船が動き出すまでしばらく透明度の高い水を見つめていたシャルだったが、発船間際に乗ってきたひとりの青年が、シャルの姿を見つけて目を輝かせる。
「あっ、ハールディン大佐!」
「……うん?」
シャルがそちらを見やると、そこには部下のヴィッツ・シャステルがいた。その隣には、うら若い女性がいる。
「ああ、ヴィッツか。……そちらは?」
分かってはいたが、尋ねるのが礼儀というものである。ヴィッツが女性を振り返る。
「ええと……妻の、クローテルです」
妻の、と言う瞬間に頬を赤らめるあたり、ヴィッツもまだ慣れていないのだろう。だが妻のほうが堂々として、恥じ入ったりはしなかった。
「クローテルと申します。ハールディン大佐、お初にお目にかかります」
頭を下げたクローテルに、シャルも立ち上がって頭を下げた。
「シャル・ハールディンです。先の戦いでは、シャステル大佐の活躍に多く助けられました」
気持ちが悪いくらいに丁寧なシャルに、ヴィッツが怪訝そうな顔をする。
「……大佐って、女性には紳士ですよね」
「当たり前だろうが」
シャルはあっさり素に戻り、クローテルに座席を譲った。彼女は恐縮しつつ、そこに座る。そして奥にヴィッツを押し込み、長椅子の最も内側にシャルが座る。
ヴィッツもクローテルも中流階級、商人の家系の生まれである。というより、ふたりの父親たちが協力してインフェルシア国内の野菜の流通を扱っているのである。ヴィッツとクローテルが結婚したことによってその協力体制はより強固になったわけだが、本人たちは本人の意思で結ばれたのである。結婚申し込みもヴィッツが自分でしたし、それを受けたのもクローテルだ。両家は、両手を挙げて大喜びしたのだとか。
クローテルは清楚で美しい娘であった。ヴィッツには勿体ない、などと言うつもりはないが、素直に「いい人見つけたな」とは思う。
「大佐、どちらに行かれるんですか?」
ヴィッツがそう尋ねる。彼を含め、まだ誰もシャルの昇進のことは知らないので、まだ呼び名は『大佐』である。
「どこって、家に帰るんだけど」
「家? 大佐は確か下町の……」
「そっちじゃなくて、育ての親の家だよ」
そこまで言うと、ヴィッツも悟ったようだ。
実家には、両親が死んでシュテーゲルに助けてもらった後すぐに戻り、そこで兄と二人暮らしをしていた。だが兄が亡くなり、シャルはどうしてもあの家にひとりで暮らすことができなくなった。それからは、中流階級にあるシュテーゲル元帥の家で三年間暮らしていた。
シュテーゲルの家には、使用人などひとりもいない。家族もない。彼はここまでの地位につきながら、独身を貫き、食事や洗濯、掃除に困ることもなかったために使用人も雇っていなかった。そのくせ先祖から続いてきた大きな屋敷を持っているから、シャルをひとり住まわせるくらいは容易だった。
「今日はふたりで出かけてたのかい」
すっかり紳士然とした態度を捨て去ったシャルの言葉に、ヴィッツが頷く。
「はい。と言っても、ただ食料品の買い出しに行っただけですけど」
「そういう日常は、大事にしろ」
「はっ、はい!」
ヴィッツはかしこまってうなずいた。なかなか染みついた上下関係は抜けないものである。シャルとクローテルは苦笑を浮かべる。
クローテルは覚悟しているのだろう。騎士である以上、戦争になれば夫が戦死する可能性があることを。軍人の妻がそれを覚悟するのは、当然のことである。シャルもヴィッツも、死の覚悟は毎回固めている。だがそれでも、シャルは多くの部下を生かして帰したいと心の底から思っている。
降りる駅は、シャルもヴィッツ夫妻も同じであった。先に降りたシャルは、最後尾のヴィッツが下りてくるまでの間にクローテルに告げた。
「いずれまたヴィッツの力を借りることがあるだろう。だが、こんなことを言ったらヴィッツは怒って反論するだろうが……どんな危機的状況に陥ろうと、俺より若い者、妻子を持つ者は最優先で戦場を離脱させる。だから安心して待ってやっていてほしい」
「ハールディン大佐……有難う御座います」
クローテルが深々と頭を下げた。
ヴィッツのことだから、それほど危険な状況に陥ったら『殿を務めます』とでも言いかねない。だがシャルはそれを許すつもりはなかった。怒鳴りつけてでも逃げさせるだろう。そして殿は自分が務める。これが指揮官たる者の務めだ。
「けれど、もしそれで大佐が命を落としたら、あの人は自分を責めて苦しんでしまいます。どうか皆さん揃って、生きてお帰りになってください」
クローテルの言葉にシャルは目を見張り、そしてほろ苦く笑みを浮かべた。そこへ遅れていたヴィッツがやっと降りてきた。
「ふたりで何を話しているんですか?」
ヴィッツの声に少しばかりむっとした感があるのに気付いたシャルは、軽く両手を上げた。他人の妻と少々長話をしすぎたようである。温和で気弱なヴィッツでも嫉妬したりはするんだなあ、とシャルは感心すらしてしまった。
「お前がいかに頼り甲斐があって強い男かってことを、ちょっと教えて差し上げただけさ」
「嘘だ、絶対何か変なことを吹き込みましたよね……」
「心外だな。俺が今日初めて会ったお前の奥方に『ヴィッツは臆病でいつも半泣きで戦っている』なんて言えるわけがないだろ」
「いま言ったじゃないですかー!」
情けない声を上げるヴィッツの頭にシャルは軽く拳骨を落とし、ヴィッツが頭を押さえて呻く。それを見てクローテルが笑った。
賑やかなヴィッツ夫妻と別れ、シャルは彼らと逆の方向に歩いていく。こちらも見慣れた景色だ。子供のころは、まさか自分が中流階級の住宅街を歩くことになるとは思っていなかったが――。
ようやく目的地に到着した。門を開け、その敷地内に入る。まず真っ先に思うのは、広い庭のくせに手入れがされていないということ。雑草だらけで、見るに堪えない。家の豪華さはその次に目に入る。豪華というよりは一昔前の洋館という印象だ。人によっては不気味にすら思うかもしれない。
いったい誰が、この家が陸軍元帥の住む屋敷だと思うだろうか。
今は没落してしまったとはいえ、数代前までは騎士隊長を幾人も輩出した騎士の名門だ。そもそも、その没落の理由はシュテーゲルの一族が不慮の事故で大勢亡くなってしまったことなのである。存命であるなら、今だって栄光を放っていただろう。
鍵はかかっていなかった。無言で扉を開け、シャルは室内に入る。一応室内は清潔に保たれていた。本人に自覚はないが、レオンハルトやシュテーゲルに言わせれば「潔癖症」らしいので、そういうところは気になってしまう。と、横合いからシャルの耳元に向けて怒声が放たれた。
「誰だ、ただいまも言わずに上り込むのは!」
「っ!?」
シャルは反射的に飛びのき、壁に背を当てた。そして目の前に立つシュテーゲルを見て、落胆の溜息をもらす。
「な、なんだよ……気配殺してまで待ち構えてんじゃねえよ。心臓に悪い……」
「ふん、若いくせに度胸が据わってないからそうなるんだ」
シャルは改めてシュテーゲルを見やる。長身のシャルがさらに見上げなければならないほどの巨躯。肩幅も広く、まさに筋骨隆々。――そんな男が似合わなさすぎる青のエプロン、しかもやたら少女趣味の刺繍があるそれを着用している姿は、あまりに滑稽だ。
元々そのエプロンは無地で、シャルとクライスがシュテーゲルの誕生日にと贈ったものである。そもそもここから冗談と面白半分だったのだが、レオンハルトがそのエプロンに刺繍を縫い付けてしまったのだ。何でもできる器用な男は、刺繍だってお手のものなのである。おかげでよく分からなくなったエプロンをプレゼントされたシュテーゲルは、自分の息子同然の三人からの贈り物に感激してしまった。エプロンの柄が変だとか、そもそもなぜエプロンなのかということには一切触れなかった。で、あれから数年してもまだそれを身につけているとは――。
「ぷっ……くくく」
「なんだ、何を笑っとる? さっさと手を洗って部屋に荷物を置いてこい、飯の用意はもうできとるぞ」
――とりあえず、そのエプロンは気に入っているらしい。
シャルは階段を上がって二階へ行き、上がってすぐの部屋の扉を開けた。この家で生活する際に使わせてもらっていた部屋である。室内には重厚そうな木でできた机とベッドが置かれていた。シャルが五年前にこの部屋を出たときと、家具の配置は何も変わっていない。しかしシーツやカーテンは取り換えられ、掃除もされているようだ。
じいさんも、レオンみたいに俺が来る時間を計算していたのか。それとも、いつ帰ってきてもいいように定期的に部屋を整えていたのか――。
とりあえず荷物をベッドの上に置いたシャルは、一階へ戻り食堂に入った。既に食卓には料理が並べられている。豪華ではないが、温かみがあるという点でシャルは嬉しい。先程まで散々レオンハルトと飲み食いしていたことは、この際置いておく。
席に着くと、向かい側にシュテーゲルがどっかり腰を下ろした。息を吐き出したシュテーゲルは言う。
「やっとお前とゆっくり話ができるな」
「……悪かったよ、じいさん」
シャルはぽつりと謝罪の言葉を口にした。五年前、騎士という鎖から逃れて自由に暮らせと送り出してくれたのはシュテーゲルである。それに甘えてシャルは王都を出たが、結局五年間も育ての父と音信不通になった。今更ながらに後悔しているのだ。
「お前が謝ることじゃねえ。本当のことを言うと、俺のほうからお前に干渉するつもりはなかった。お前がここに戻って来るか、そのまま行方をくらますか、どちらを選んでも俺は引き止める気はなかったんだ。だから、まさかあそこでレオンがシャルを引っ張り出すとは思わなかった」
シャルは葡萄酒の栓を開け、シュテーゲルのグラスにそれを注いだ。
「レオンは、俺が田舎で世捨て生活しているのを見ているのが嫌なんだってよ。同じようなことをフロイデン中将にも言われたけど」
「ふたり、というか特にレオンは、お前にクライスの死と向き合ってほしいと思っているからな」
シャルは沈黙した。確かにシャルは逃げたのだ。クライスの死で騎士から逃げ、彼が眠るこの王都から逃げた。それに言い訳はできない。
「……大丈夫だ、ちゃんと向き合う。兄さんが言った『戦争が終わったら』っていうのは、五年前のアジールとの戦争が終わったときじゃなかったんだ。インフェルシアが、もう他国と戦争しなくてもよくなるようにして初めて、兄さんの願いを叶えたことになる。俺は……俺とレオンは、兄さんの願いを未来に繋いでいかなきゃいけない。それが責任だ」
シャルは自分に言い聞かせるように言った。いや、実際に言い聞かせているのだ。言葉は重い。自分の言葉には責任を持つ。それがシャルの信条である。
インフェルシアの武力放棄。それはいつ実現するだろう。少なくとも、五年十年の単位では無理だ。インフェルシアを狙う国は、周囲にたくさんある。北のテオドーラとアジール、南の海をまたいだ国々。それらと友好的な協定を結ぶことができなければ、願いは実現しない。けれど、シャルの意思を継ぐ者が現れれば、願いは未来に託される。シャルはそれを願っているのだ。そして、きっとレオンも。
「……決意は固いな。よし、シャル、その責任は俺も負うぞ」
「……ありがとな、じいさん」
シュテーゲルの言葉にシャルも頷いた。そして気を取り直したようにシュテーゲルは声の調子を上げた。
「さてほら、重苦しい話は後にしようや。せっかく作った料理が冷めちまう」
「ああ、そうだったな」
シャルも我に返り、フォークを手に取った。そして手近にあった海老の揚げ物を口に放り込む。それをシュテーゲルはじっと見つめ、そして尋ねる。
「ど、どうだ? シャル」
「――なんかじゃりじゃりする。じいさん、殻はちゃんと取ろうぜ……」
あからさまに落胆するシュテーゲルにシャルは呆れる。彼の料理は、味も整っていて食べれなくはないが色々手間を省きすぎなのである。
どうやらまたシャルは、この家で食事の用意を任されることになりそうだった。




