01.昇進とか、なんの冗談だ
インフェルシア王国の王都はレーヴェンという。国内では南部地方に位置し、巨大な河と一体化した街である。この河の名はダルメルティといい、北東アジールとの国境であるシェーレイン大河とともに、インフェルシアの二大大河と呼ばれている。王都周辺の多くの住民の生活水源であり、王都内部には幾重にも水路がひかれている。
レーヴェンでの移動手段は、馬車ではなくもっぱら船だ。同じ順路を定期的に廻る定期船。少々料金は弾むが、指定した場所どこへでも連れて行ってくれる小型貸切船。それらが日々水路を行きかっている。庶民の中には、自家製の船を持っている者もいる。庶民が暮らす平民層、俗にいう下町のほうが水路に整備が不十分で、かつ定期船の巡回も少ないため、移動するためには自分たちでなんとか川を渡らなければならないのである。
勿論、川がすぐ傍にあるのだから、大雨の時などは増水して氾濫することもある。そのために下町の人間は、子供のころ必ず泳ぎを習得させられる。
「俺も、泳ぎに関しては父さんと兄さんにしごかれたなあ……」
水のせせらぎの音に耳を澄ませながら、シャルは小さく呟いた。いま彼は、水路を左手に見ながらのんびりと路地を歩いている。下町の住宅街の一角である。彼は肩に少しばかりの荷物を担いでいる。そして反対側の肩には、鷹のヴェルメがとまっていた。
そのヴェルメが、一声鳴いた。シャルが微笑む。
「そうか、お前も懐かしいか。お前にとっても、生まれ故郷だもんな」
シャルが退役する少し前。この王都の下町で、翼に怪我をして動けなくなっているヴェルメを見つけたのはシャルとレオンハルトだった。ふたりでヴェルメに手当てをしてからは、どういうわけか懐いてしまったのである。そしてシャルが王都を去るときに、ヴェルメはシャルと共に行くことを選んだのだ。
それからは、シャルとレオンハルトを繋ぐ架け橋になってくれて、いつだって忠実に寄り添ってくれた相棒だ。
シャルは足を止めた。目の前にある古い家屋を見上げる。その視線の先には、屋根に取り付けられた看板がある。
『ハールディン薬舗』
シャルの実家である。だがもう人が住まなくなって久しく、家は風化してぼろぼろになっている。シャルは息を吐き出し、扉を開けて中に入る。途端に埃が舞い上がり、シャルは顔をしかめた。
机や椅子などは辛うじて原形をとどめているが、他の家具は何一つない。けれども室内の構造は昔のまま、シャルは何とも言えない懐かしさを覚えた。
ここに立つと、薬を調合している父の背中が見えた。母はいつもこのカウンターに立って、相談に来る患者たちの病状などを熱心に聞いていた。外からは兄の呼ぶ声がして――。
「やあシャル、今日もいい天気だね。ところで、遊びに行かないかい」
「……兄さんはそんなに軽い人じゃなかった!」
「ははは、何を言っているんだ? ついに暑さで頭がとち狂ったか?」
「残念ながらまだとち狂うほど暑くねえよ」
シャルはむっとして振り返り、戸口に佇む友人の姿を見やった。
「てめえ、なんでここにいやがる?」
「フォロッドから王都までの距離と、君の性格や移動速度を鑑みれば、到着がこのくらいの時間になるだろうなと思ってね」
その男、レオンハルト・E・アークリッジは、そう言ってにっこり微笑む。今日の彼は軍服ではなく平服姿だ。薄い青のシャツがなんとも涼しげである。大貴族であるはずの彼はなんとも質素な服装を好む。指輪やらネックレスやらという装飾品は滅多に身につけない。それなのに、この容姿完璧の青年が着ると、安物のシャツでもまるで絹でできているかのような優美さを見せるのだ。
「ったく、ちょっとは思い出に浸らせてくれよ」
「これでも僕は十分待っていたよ。放っておいたら、君は半日以上ここから出てこないと思うけどね」
「大袈裟な」
「そんなことはともかく、本当にどこか行こうよ、シャル。実はまだ何も食べていなくて、さすがに空腹なんだ」
シャルの積年の思いを「そんなこと」と流すか。いつものことなのでもう突っ込みはしない。しかし時刻はもう朝の九時過ぎだというのに、何も食べていないとは。シャルより余程懐は賑やかで、王都に暮らす限り『空腹で倒れそう』なんてことにはならないはずの文明の街で、一体この男は何をしていたのだ。
――おそらくシャルの到着を待っていてくれたのだろう。
はいはい、と返事をしつつ、シャルは生まれ育った実家に別れを告げたのである。
★☆
エレアドールでの戦いが終結した後、王都に帰還する軍からシャルは一時離脱した。別に逃げたわけではない。フォロッドに立ち寄り、荷物をまとめて後から王都に向かうことを約束し、隊列を抜けたのだ。
帰ってきたシャルを住民たちは温かく迎えてくれた。彼らに戦争が終わったことを告げると、みなほっとしていた。そんな中でシャルは自分の騎士としての経緯を改めて告白し、「軍属に戻らなければならない」と言って街を出てきた。
「医者のことなら心配するな。薬はあらかた置いていくし、近いうちに医者を派遣するように頼んでおいた。だから大丈夫だ」
そう告げたシャルに猛抗議したのは、ティリー少年だった。
「薬師としてのシャルじゃなくて、僕は友達としてのシャルがいないと寂しいよ!」
「ティリー……絶対また会いに来るから」
ティリーの言葉にシャルが苦笑すると、この街のまとめ役の男性が口を開いた。
「お前さんにも色々事情があるのは分かった。止めるつもりはない。だが、お前の家は残しておくから……いつでも帰ってきなさい」
「……ありがとな。都会での生活に疲れたら……またここに戻ってくるよ」
五年前、シャルに手を差し伸べてくれたフォロッドの住民たち。その温かな心に感謝して、シャルは第二の故郷を去った。
そして数日間馬を走らせ、シャルは王都レーヴェンに戻ってきた。市場の店などは入れ替わりがあるが、活気ある雰囲気に変わりはない。のんびりとそれらを見ながら、シャルはレオンハルトと共に市街を歩く。
「で、何を食うつもり? 俺としては朝飯というか昼飯の気分なんだけど」
「口に入ればなんでも……」
「……そんなに腹減ってるのかよ」
呆れつつ、シャルは適当な店を選んで入った。朝早くから営業している朝食専門の店で、手軽さと安さが売りだ。ぎりぎり間に合って朝食メニューを注文すると、数種類のパンやらサラダやらハムやらが出され、珈琲と果物までつくという豪華さであった。
やっとレオンハルトも人心地がついたらしい。まさかアークリッジ公爵家の長男が、こんな往来のど真ん中で飢え死に寸前だったなどと、誰が想像できようか。シャルは皿に盛られた柑橘系の果実を口に放り込む。
「王都に来たはいいが、俺は一体これから何をすりゃいいんだ?」
テーブルを挟んで向かい側に座るレオンハルトは、優雅に食後の珈琲を啜ってから答える。
「休暇期間が終わったら正式に辞令が下るが、君には王太子殿下の護衛を務めてもらう」
現在、テオドーラとの戦争に参加して生還した兵士たちには休暇が与えられている。長さは部隊などによってまちまちだが、およそ十日前後である。これを機に故郷へ帰る者もいるだろうが、大半の者は宿舎などでのんびりするか、街で遊ぶかのどちらかである。
「それって……要するに騎士隊配属じゃないってことか?」
「いやいや、そうじゃない。騎士隊の中に新たに『親衛隊』って部署が作られる。で、これを率いる初代隊長が、騎士隊所属のハールディン准将だ。人員の引き抜きは、君が好きなように行ってくれて構わないよ」
「は?」
シャルが目を見開いた。いまレオンハルトの口から、とんでもない単語が聞こえたような気がしたのだが。
「騎士隊所属の……なんだって?」
「ハールディン准将。おめでとう、一階級昇進だ」
途端にシャルは渋い顔をした。それを見てレオンハルトが苦笑する。
「喜びこそすれ、昇進を嫌がる人間はそうそういないと思うけどね」
「言っておくが、戦争中の俺は復役していたわけじゃない」
「うん、何度も聞いたよ」
「それでなんでいきなり昇進だ?」
「王太子殿下を守り、インフェルシア王国軍を勝利に導いた――それは理由にはならないかい?」
「理由にはなってるかもしれないが、納得がいかない」
「成程」
レオンハルトは珈琲カップを受け皿に戻した。
「では順番に説明するけれど……まず、アレックス殿下はこれから国王代理として、王太子時代と比べものにならないほど仕事が増えるだろう」
「だろうな」
この国では、国王が崩御して後継者が即位するのに次の年の一月一日を待つ必要がある。現在は五月。あと半年以上を、アレックスことアシュリーは「国王代理」として仕事をしていくことになる。来年の一月になって、ようやく彼女は「女王」となる。
「今まで殿下の性別がばれなかったのは、意図して殿下があまり衆目の前に姿を晒さなかったからだ。だがこれからはそうもいかない」
「ああ」
「そこで、いざという時にフォローができる人が欲しい。その人の条件としては……大前提、殿下の正体を知っている者」
「……」
「護衛であるからには腕が立つというのも条件に入る。口が堅いこと。信頼できること。よし、じゃあ君に頼もう、ということだ」
「はあ」
「殿下の傍に控えているからには、佐官であるというのは少し格好が悪い。なので准将に昇進だ。納得したかい?」
シャルは溜息をついた。
「納得しましたよ」
「それは何より」
レオンハルトは角砂糖を珈琲に放り込んだ。そう言えばこの男の珈琲の飲み方は、最初はブラックで次に甘くするという、気分次第のよく分からないものだったと思い出す。
「勿論有事に際しては君にも戦線に出てもらうが、あくまでも殿下の護衛についてもらう。まあその時の状況次第では、遊撃に回ってもらうこともあるかもしれないけどね」
「平時は何をしていればいいんだ」
「殿下の公務の付き添い」
「それは仕事のうちだろ。それ以外は?」
少しばかり沈黙して考えてこんでいたレオンハルトは、顔を上げて首を捻った。
「……まあ、騎士隊に交じって訓練でもしていてよ。騎士隊の中には君から剣の教えを賜りたいと願っている若手もいることだし、新人育成に努めてもらえたら助かるな」
「要するに何もすることがねえってことだな……」
数十分前に親友と会ってから、一体何度目の呆れだろう。弓箭隊の彼に騎士隊のことが詳しく分かろうはずもないが、それにしても適当過ぎる。
「ああ、それと。人員引き抜きは自由にやっていいと言ったけれど、当然のこと殿下の事情について説明しても信頼できる人間だけにしておいてくれよ? まあ、君の隊員たちなら大丈夫だろうけどね」
「人数指定は?」
「できるだけ少数精鋭で」
「……分かった。イルフェ、フォルケ、カイン、ヴィッツ、アンリが率いる五百騎を引き抜く」
すると今度はレオンハルトが呆れる番だった。
「シャル、話聞いてたかい? 少数精鋭って言っただろう」
「でも、有事の時にはある程度兵力が揃っていた方がいいだろ? 王太子の直接警護は、俺たち六人で行う。もしもの時は五百騎で動く。それじゃ駄目か?」
「……折角戻って来てくれた君に、『人事が気に入らない』という理由でまた出て行かれたら困るからね。妥協しようじゃないか」
「だからてめぇ、俺をなんだと……しかも妥協って、それを決めるのはフロイデン中将とシュテーゲルのじいさんだろうが」
まったくである。本来弓箭隊のレオンハルトに、騎士隊の人事に口を挟む権利はない。しかしレオンハルトはそんなことどこ吹く風だ。
「おや、いいのかな? 元帥たちが難色を示したら僕が全面的に口添えしてあげようと思っているのに」
「……分かったよ、任せる」
シャルは溜息をついてこれ以上の問答を放棄した。くすくすと笑いながら、レオンハルトは腰をあげる。そしてテーブルに置かれていた伝票を、シャルが手を伸ばすより早く取り上げた。
「まあそのあたりは、追々話していこう。今はとりあえず、王都での休暇を楽しもうじゃないか」
「あ、おい勘定……」
「君の帰参祝いだ。ここは奢らせてもらうよ。大体、これは僕の朝食だったしね」
――食事に連れ出すと、なんとも気前のいい親友である。




