第二章 銀髪の少女(3)
「雪村小夜子と言います、昨日は助けてくれて、どうもありがとうございました」
小学生にしてはやけに丁寧な言葉遣いで頭を下げる銀髪少女、もとい、小夜子ちゃん。
天下の往来で、強面の男子高校生に向かって頭を垂れる麗しき女子小学生の図は少々、いや、かなりヤバい。
桜木高校で大流行の黒乃真希那ヤンキー説よりも、遥かに取り返しのつかない誤解を与えるほどに。下手すると警察沙汰だ。
俺は内心の動揺を抑えながら、努めて冷静に「立ち話もなんだから」という風を装って、彼女を近くの団地公園にある、一つきりのベンチへと導いた。
幸いにもと言うべきか、この小さな団地公園には錆の目立つ滑り台と鉄棒のみというバリエーションの少ない遊具で遊ぶ子供の姿は一つも無い。
面する通りには、ちらほらと人影が通り過ぎるだけで、あまり人に聞かれたくない非現実的な夢の話をするにあたって申し分の無い場所である。
「それで、君は昨晩に見た夢の中で出会った女の子に間違い無い、んだよね?」
夢の中で出会った、なんて真面目にいうヤツは平安時代にまで遡らなければいないだろう。
いざ口にするととんでもなく胡散臭く思えてくるから困ったものだ。
だが、ベンチで人一人分の距離を開けてちょこんと座る小夜子ちゃんは、そのどこか緊張した様子に反して、答えだけはしっかりと返してくれた。
「はい、間違いないです。あの夢は、他の人と繋がってるみたいですから」
他の人と繋がっている、とはそのままの意味だ。
今更問う必要も無い、これ以上ないという形で経験してしまっているのだから。
だが、気になるのはそうした事実というよりも、言い回しだ。その言い方ではまるで、
「ということは、俺と君の他にも、同じ夢をみている人がいるのか?」
「はい」
これもはっきりと、明確に肯定する。
どうやらこの娘は、俺よりもあの夢について多くを知っているようだ。
そうでなければ、小学生の女の子が犬のモンスターとエンカウントして、あそこまで冷静に対処できるはずがない。
「俺はつい先週この街に来たばかりで、あの夢を見たのは昨晩で三回目なんだ。良かったら、知っていることを詳しく教えてくれないか?」
「あ、はい、でも、私たちもあの夢を見始めたのはつい最近で、あまり詳しい事は分からないんですけど――」
と、前置いて小夜子ちゃんは少したどたどしくも、夢の世界について教えてくれた。
彼女が始めて夢を見たのは大体一ヶ月ほど前だという。
「気がついたら、春風神社にいました」
スタート地点は、俺と同じだった。何か法則性があるのだろうか。
ただ、決定的に俺の時と違ったのは、他の人物もその場に居合わせたという事だ。
「友達の麻耶と、あと、同じクラスの男子が三人、一緒にいました」
より正確に言うならば、私立白嶺学園初等部五年二組のクラスメイト、小夜子ちゃん合わせて五人の少年少女が、あの夢の世界に現れたということだ。
「この一ヶ月はずっと私たち五人だけでした、昨日始めて他の、えっと、黒乃さん、と会ったので、とても驚きました」
なるほど、それじゃあ俺は六人目というワケか。
もしかすれば、他にもあの夢の世界で存在する人はいるかもしれないが、少なくとも、そこそこの時間をあそこで過ごした小夜子ちゃんグループが誰も目撃していないとなると、可能性は低そうだ。
もしいたとしても、今はまだ極少人数だろう。
「あの夢は、今まで何回くらい見た?」
「えっと、多分、十回以上は見ていると思います。週に三回くらいは見ますし、それと、すぐ夢が醒める時もありました」
夢見のペースは、俺も同じくらいか。一週間で三回目。
だが、統計をとるには短期間すぎるので、今後どうなるか予測不明なのは相変わらずだ。
ただ、夢から醒める時は、やはりあの逆向きの夕陽が完全に沈むタイミングと同じだという。覚醒の条件は、これでほぼ確定と言っていいだろう。
同時に、夢の滞在時間も、陽の高さである程度割り出すこともできる。
「一番気になってるとこなんだけど、君達五人はこの一ヶ月、あの夢の世界でずっとモンスターと戦っていたのか? 君が槍を使っていたように」
前にモンスターと出会ったことがある、というのは、昨日の彼女の様子から見れば間違いないだろう。
問題なのは、本当に小学生があんなモンスターと戦い続けてきたのかということだ。
恐らく、その答えは是なのだろうが、だとすると、その‘戦う力’が何なのかというのが気になってくる。
だがこの問いかけをすると、ここまで明確な解答を示しくれた小夜子ちゃんの様子が一転、どこか言いにくそうに、小さな口を開いた。
「私はほとんど戦ったこと、無いんです……私のエクストラは、弱いから」
それは、彼女が明らかに自分の‘能力’に対してコンプレックスを感じているのだと察するに足る雰囲気であった。
今はそのプライバシーに関わりそうな内容よりも、
「エクストラって何? あの槍のこと?」
「あっ、エクストラっていうのは、私たちが勝手につけた、夢の中で使える能力のことです。私は槍しか出せないんですけど、他のみんなは、黒乃さんと同じように変身できるんです」
なるほど、ああいう能力を持っているのは俺だけじゃないのか。
小夜子ちゃんは槍だけと言うが、普通の人間ではありえない超常的な能力を発現させているのは同じ。
あの夢の世界では、必ず何かしらの特殊能力を得られるということなのか。それとも、能力の素質を秘めた者だけが夢を見ることが出来るとか?
いや、これは今考えてもどうにもならない、どれも仮説どころか妄想止まりだ。
何にしろ、夢の世界ならではの特殊能力を持っているならば、モンスターが出現するとはいえ、そこまで危険は無いのかもしれない。事実、小学生の女の子でも、ああして戦えていたのだから。
「ところで、何でエクストラって言うの?」
Extraという英単語を辞書で引けば、余分の、追加の、特別の、という意味を持つ形容詞だと書かれているはず。
何故わざわざこの単語をチョイスしたんだろうか、もっと単純に魔法じゃダメなのか?
「あの『エレメントマスター』っていうアニメ、知ってますか?」
「ああ、知って――そうか、なるほど、アレからとったのか」
『エレメントマスター』は、今年で放送三年目になる、夕方の人気テレビアニメだ。小学生、特に男子ならほとんど視聴しているのではないだろうか。
そのアニメでは『エクストラ』という魔法を使って主人公達が毎週激しいバトルをするのだ。まぁ、アニメのエクストラには色々な能力があるし、夢で使えるのと似てない事も無い。
「変、ですか?」
「いや、呼び名は無いと不便だし、好きに呼んでいいんじゃないか。そもそも、アレの正しい名前なんて、誰にも分からないんだし」
誰にも分からない、そう、これが一番の問題点だろう。
この現代日本社会において、一体誰が夢の謎について教えてくれるというのだろうか。
少なくとも、今の俺たちのような境遇にある人物の存在など、噂話でも聞いた事は無い。
あったとしてもオカルトの類、俺だって実際に経験していなければ、少々の好奇心を覚えるだけで、本気で信じることはないだろう。
「夢の事って、誰か、親とかに話したことってある?」
「いえ、私は無いです。他の四人は話したけど、やっぱり、信じてもらえなかったって言ってました」
そりゃそうだ、どこまでもいっても所詮は夢の話。現実には何ら影響しない。
この夢を見たことの無い大人に信じてもらうのは難しいだろう、まして相手が小学生なら尚更だ。
そもそも信じてもらったとして、解決策など誰にも示せるはずも無い。
「エクストラ能力もモンスターも、全部夢の中の話だからな。言ったところでどうにもならないよな」
「はい、私もあんまりパパとママに心配かけたくないです」
「ああ、そうだな」
しかし、小学生にしてもう両親に心配をかけたくない、なんて配慮が出来るとは、そうとう大人びているな。話し方も確りしているし。女の子の方が成長早いってのは真実だ。
「とりあえず、夢については当事者同士の問題だ。そういえば、他の四人はどうなんだ、というか、えーと、仲は良いのか?」
マヤ、と呼ぶ少女については、友人であるようだが、男子三人組については、少しばかり余所余所しい感じがする。
「夢を見始めてからは、学校の方でも、いつも一緒だったんですけど、今は……」
「喧嘩でもしたのか?」
「……はい」
参ったな、小学生の喧嘩に高校生の俺が首を突っ込むべきではないとは思うが、
「もしかして、夢に関係することで?」
コクン、小さな頷きで肯定を示される。
如何せん、夢の事を思えば単なる喧嘩と放置するわけにもいかないだろう。多少プライベートな問題でも、聞くだけは聞いておいたほうが良さそうだ。
「良かったら、聞かせてくれないか? 無理にとは言わない、けど、仲直りしたいと思っているなら、力になるよ。俺は高校生だし、アドバイスの一つくらいは出来ると思う」
すぐに応えは返ってこなかった。彼女なりに、深く悩んでいるだろうことが傍か見ていても窺える。
それから少しの間、沈黙の空気が流れる。
寂れた公園の様子もあって、どこか無情を感じさせる。
やはり、ほぼ初対面の俺が聞くべきものでは無かったと思い、何か別の話題を振ろうとしたその時、彼女の小さな口が開いた。
「私、戦わせてもらえないんです、エクストラが弱いから」
「そうなのか?」
思わず、素でそう返してしまった。
彼女が自分の能力をどう思っているかは別として、実際に昨日の戦闘においては大活躍であった。
助けに入ったつもりが、逆に助けを請うような状況、俺一人では犬とスライムの波状攻撃を凌げたとは思えない。
俺が小夜子ちゃんに「背中を預けた」と頼り、彼女がそれに応えてくれなければ、死ぬまでいかずとも、もっと痛い目にあっていただろう。
「え、だって私、あの槍しか出せないんですよ」
「でも、達人みたいな槍さばきだったじゃないか、アレが出来るのも能力の内なんだろ?」
はい、と小さな声で肯定される。
やはり、槍を振るう技もエクストラがもたらす効果だったのだ。
だとするならば、戦いの技術面においては俺の死神は大きく遅れをとっている。
俺はあの死神を出したからといって、徒手空拳のスーパー格闘技が使えるようになるわけではないし、謎のエネルギーのビームを撃てるわけでもない。
攻撃するときは、ただ力任せに殴る蹴るしかないのだから。
「あ、ごめん、話逸らしちゃったな、それで、仲間内では弱い者扱いで戦わせてくれない、それが不満の原因?」
「はい……私、もう嫌なんです、自分だけ守られて、特別扱いされて、何の役にも立たないことが……何もしないで黙って見ているだけなんて、私、自分で自分を許せません」
なんだか、偉く自立心の強い子なんだな。
最近の小学生って、こんな立派な志を持っているものなんだろうか。
いや、恐らく彼女は特別、というより、そういう意思を抱くだけの何か経験があるのだろう。
それが良いものなのか悪いものなのかは別として、今彼女が口にした主張は素直に賞賛できるものだ。
「だから、一人で戦おうと思ったのか?」
しかしながら、それは危険に過ぎたとことは否めない。
「はい、どうしても、私も皆と一緒に戦えるということを証明したかったんです。でも、ダメでしたね、私、結局は黒乃さんに、助けられただけでした……」
その大きな青い瞳から、今にも涙が零れてしまいそうに見えた。
「いいや、ダメじゃない、昨日の君は、確かに俺と一緒に戦ってくれたじゃないか。少なくとも、俺はそれで助かった、君が背中を守ってくれたからだ」
反射的に、そんなことを言っていた。
まぁ、口から出任せの慰めではなく、本心であることには違い無い。
「ああ、そういえば、昨日はちゃんと礼が言えなかったな、ありがとう小夜子ちゃん、君のお陰で、俺は助かったよ」
「え、あ、そんな、私――」
よほど俺の言葉が意外だったのか、驚きに目が開く小夜子ちゃんだったが、
「はい、黒乃さん、どう、いたしまして……」
と、白い頬をかすかに朱に染め、はにかみながら、小夜子ちゃんはそう返してくれた。
うん、感謝が伝わったようで、何よりである。
「あ、あの、私、誰かに力を貸して欲しいなんて頼まれたの、黒乃さんが初めてです」
「そうか、でも勇んで助けに入ったのにあれじゃあカッコ悪いよな、ごめん、俺もそこまで強くはなかったみたいだ」
あはは、と迷う事無く女子小学生に助けを求めたことに一抹の情けなさを感じつつも、半ば冗談のように笑い飛ばす。
「いえ、そんな、あの時は本当に私も助かりましたし、それに、私の力を頼ってくれて、ちょっと、嬉しかったんです」
そう言って微笑む小夜子ちゃんを見て、俺はようやく彼女が歳相応の子供らしいと思えた。
「黒乃さん、また、私と一緒に戦ってくれませんか? そしたらきっと、強くなれると思うんです、みんなが認めてくれるくらいに」
「そうだな、自分が納得できるまで戦ってみればいいんじゃないか。俺で良ければ力を貸すよ」
彼女の申し出を快諾する、断る理由はどこにもない。
「それに、俺も君の力を借りるよ、またモンスターが襲って来たら、一緒に頑張ろう」
すでに小夜子ちゃんとは背中を預けて戦った仲である、小学生の女の子といえども、あの夢の世界では対等に戦える仲間だと言えるだろう。
そしてなにより、エクストラがあるといってもなんだかんだであの世界は危険である。
俺も小夜子ちゃんも、単独でどこまでモンスターと戦えるのか不明だ。
身を守るという意味でも、出来る限りエクストラを使って戦うことに慣れておいた方がいいだろう。
今回の協力は、ゲーム的に言うならパーティを組んだ、という感じだな。
なら、これで正式に仲間になったということで、俺は彼女に右手を差し出し握手を求める。
「はい、よろしくお願いしますっ!」
そして、小夜子ちゃんも紅葉のような小さな手のひらで、俺の手を握り返してくれた。
雪村小夜子という小さな仲間と出会ってから、まさか、その日の内に再び顔を見ることになるとは思わなかった。
「なるほど、この夢は最後に居た場所からスタートできるんだな」
「あ、はい、そうですね」
頭上には鮮血をぶちまけたような不気味な夕焼け空。東を向けば、水平線の向こうに沈み行く逆転の太陽が輝いている。
そう俺は、いや、俺たちは二日連続で、この夢の世界にやってきたというわけだ。
「とりあえず、犬はいないようだな」
注意深く辺りを見渡してみるが、今俺たちがいる何の変哲も無いアパートやらマンションやらが立ち並ぶ通りには、昨日の夢ではあれほど湧き出てきた犬もスライムも姿を見せない。
ついでに、散々ブッ飛ばして路面にKOしてやった犬の体も、砕けたスライムの残骸も綺麗サッパリ消え去っている。
ただ、ヤツらは正にゲームのランダムエンカウントの如くいきなり登場するので、油断は大敵だ。
「いつも夢が始まる時は、すぐにモンスターは現れないですよ。戦っている途中で夢が醒めたこともありましたけど、もう一度ここに来たときには、モンスターはいませんでした」
「そうなのか、モンスターには夢から醒めた俺たちがいきなり消えたように見えるのかもしれないな」
そもそも、モンスターの正体も謎のままである。
ヤツらは俺たちが夢を見ていない間も、この不思議な世界を徘徊しているのだろうか。
それとも、俺たちが夢を見るのと同じように、この時間だけ出現するのだろうか、それこそ、RPGをプレイするように。
ダメだな、この夢が何なのか、あまりに情報が無さ過ぎる。
結局はどれも予測と言う名の想像に過ぎず、確たる証拠は手に入るはずも無い。大体、何があれば証拠だと呼べるのだろうか。
ここで知りえる事は精々、前に俺が確認したように、ひたすら現実世界と比較するより他は無い。
いや、それと小夜子ちゃんが言うように、この夢で過ごした経験か。
「さっきはあまり深く聞かなかったけど、小夜子ちゃんはこの夢が何なのか分かる?」
「え? 何、と言っても、夢、じゃあないんですか?」
銀に輝く大きなポニーテールを揺らし、可愛らしく小首をかしげる小夜子ちゃんはどこまで神秘的に美しいな。
いや、そうじゃなくて、
「夢なのは間違いないんだけど、これって、どう考えても普通の夢じゃないだろう。ここで起こった事ははっきり記憶に残っているし、夢は毎回続きから始まっているわけだし。何より、この夢の世界は現実世界と完全にリンクしている」
「え? あの、どういうことですか?」
この反応はもしかして、俺のようにリアルとの接点を確認したわけでは無いのかな。
相手は小学生ではあるが、あまりに理知的な受け答えをする小夜子ちゃんのことだから、てっきり俺が考え付くくらいのことは、もう試しているのかと思ったが。
まぁいい、仲間同士での情報共有は大切なことである。
俺は小夜子ちゃんに昨日、今日かもしれないが、確かめたチャンプ漫画の一件を説明した。
「そ、そうだったんですか、凄いです黒乃さん! 私たち、全然そんなこと思いつかなかったです!」
ここまで素直に尊敬の眼差しを向けられるとは、何だか面映い。ここは高校生の面目躍如ということで。
だが、いつまでも女子小学生に褒められて照れているわけにはいかない、ここは少し真面目に話を戻す。
「この夢はまるでリアルなゲーム世界のようにも思えるけど――」
襲い掛かってくるモンスターに、都合よく、それを撃退するだけの力を持っていることが、特にそう感じさせる。
「ここは、遊ぶ為に創られたゲームなんかじゃない。身の安全は保障されているわけじゃないし、最悪、この夢の世界から目が覚めないかもしれない」
「え、そんな!?」
「あくまでも可能性の話だ、けど、それが否定できるほど、俺はこの夢の世界について知らない。だから、出来る限りこの夢が何なのか調べようと思っている」
小夜子ちゃんの目的が、友達に認められるくらい強くなるのだとすれば、俺の目的はコレである。
「良かったら、手伝ってくれないか?」
「あっ、はい、勿論です黒乃さん!」
俺と小夜子ちゃんのツーショットは、下手すると通報されかねないものであるが、この夢の中では誰の目も憚ることは無い。
俺たちは車の通行は皆無だが、律儀に表通りの歩道を並んで歩いている。
こうして歩き始めて五分ほど経過したのだが、不意に俺は足を止めた。
「どうしたんですか黒乃さん?」
道に迷った、というわけではない。
そもそも明確な目的地があって歩いていたわけではないのだ。単純に街の散策、といったところ。
「いや、このまま歩くより、自転車にでも乗った方が速いんじゃないかと思って」
と、俺が小夜子ちゃんの方では無く、車道を挟んで向かい側にある建物の看板に視線を向けながら言った。
その看板には『サイクルショップ桜木』と大きく描かれている。
「なるほど、そうですね」
「じゃ、ちょっととってくる」
「え、とってくるって――」
ちょっと唖然としたような小夜子ちゃんの声を背中越しに聞きながら、俺は交通安全教室でダメ出しされること確実な勢いで車道に飛び出した。
「おっ、ちゃんと開いてるな」
悲惨な交通事故など起こるはずも無い。
首尾よく自転車店の前までやってきた俺を、ガラス張りの扉はすんなり受け入れた。
「あ、あの、黒乃さん、これって、その、泥棒なんじゃ……」
気がつけば、きちんと後をついてきた小夜子ちゃんが、店員が見れば万引きを疑われるほどの勢いでキョロキョロしている。
「どうせ夢の中だし、ここで自転車を持っていっても、現実世界に変化は無いよ」
実際には、まだ夢の中で起こった現象が、現実世界に反映されるかどうかの実験はしていないのだが、まぁ、恐らく大丈夫だろう。
「で、でも、何だかいけない事をしているみたいです」
「確かに、夢と現実をごっちゃにするようなヤツはやっちゃいけないな」
流石に俺はまだ正気を失っていないと思う。
まぁ、狂人と呼ばれる人物はみな、自分が狂っているとは思っていないだろうが。
「けど、折角色々とあるんだ、ありがたく使わせてもらおうじゃないか」
と、俺は店内で所狭しと並べられている自転車の中から、ママチャリとは桁の違う値段のついたクロスバイクのハンドルに手をかける。
小夜子ちゃんの髪と同じ白銀の輝きを放つボディに、スタイリッシュなデザイン、一介の高校生では手が出ない値段のお高い代物。
だが、夢の中くらいでは乗り回したってバチは当たらないだろう。
「それじゃあ小夜子ちゃん、後ろ乗ってく?」
意外にも、
「はい、私、二人乗りしてみたいです!」
と色よい返事をしてくれた小夜子ちゃんを後ろの荷台に乗せて、俺は無人の街をクロスバイクで走り始めた。
自転車とはいえ、車道のど真ん中を爆走するのは中々に気持ちが良い、俺は今、初めてこの夢を楽しんでいるように思える。
「黒乃さん、私、重くないですか?」
背中越しに如何にも女の子らしいことを聞かれた。答えは勿論、
「全然、あと二人乗せても走れる」
中学の頃は男友達を後ろに乗せて田舎道を走ったもんだ、小柄な小学生なんて大した重荷になるわけない。
「けど、自転車を拝借するのは抵抗あっても、二人乗りはいいんだな」
「あっ、その……前にドラマで見て、一度やってみたかったな、なんて……」
想像以上に可愛らしい答えが返ってきたもんだ。
男の俺とは動機が違うな、そもそも女の子なんだから当たり前か。
あるいは、こうやって男というのは女性に対してより幻想を抱いていくのでは無いだろうか、いや、邪推だな。
「それで、二人乗りの感想はどう?」
「はい、思っていた通り、とっても素敵です!」
こちらこそ、こんなに可愛いレディを乗せているのだ、男としても素敵と言えるシチュエーションだろう。
楽しげな彼女の声にテンションの上がった俺は、より一層の力をペダルに篭めて、無人の車道を駆け抜けて行った。
だが、思わぬところで楽しい夢のサイクリングは終了となった。
「なんだ、凄い霧が出てきたな……」
目の前には、一寸先も見えないほど濃密な白い霧が立ち込めている。
まるで行く手を阻む壁の如き威圧感さえ覚える霧を前に、思わず自転車を止めた。
「この霧って、桜木市じゃ普通に出るものなの?」
「いえ、こんな凄い霧は見たこと無いです」
ということは、この夢の世界限定の異常な現象と考えるべきか。
すでにこの得体の知れない不気味な霧に不安を感じたのか、心なしか小夜子ちゃんも俺に寄り添うように立っている。
「黒乃さん、もしかして、この霧の中に入るんですか?」
「そうだな、確かめるくらいはしておきたい。けど、小夜子ちゃんはここで待っててくれ」
心配そうな声が背中に届くが、意を決して俺は足を一歩前に踏み出した。
ここは、桜木市の中央を横断するように流れる桃瀬川にかかる橋の一つ。
シンクレア大橋とかいう、確か、どこぞの外国と姉妹都市になっていて、その友好を記念して云々という由来を持っている大きな鉄橋だ。
霧は川から湯気でも立ち上っているようにかかっており、シンクレア大橋を中ほどから向こう側を完全に覆い隠してしまっている。
「命綱とか用意した方が良かったかな」
橋へ踏み込んだ辺りでそんな事を呟くが、ここで引き返すのも小夜子ちゃんの手前、少々かっこ悪いだろう。
もしかすれば、これは本当にただの霧で、何事も無く反対側へ出られるかもしれないのだ。
すでにして、俺は霧の中に身を投じているが、路面のアスファルトの感触はあるし、問題なく前へ進んでいるように思える。
人間は何も目印が無いと真っ直ぐ進めないというが、流石に数百メートルの橋を渡ることは出来るだろう。
そもそも、進路がズレたとしても橋の手すりにぶつかるだけだ。
しかし、その橋の手すりも俺の歩く車道からは全く見えない。
それどころか、いよいよ霧は濃さを増して、もう地面を歩く自分の足先すら満足に見えないほど。
「やっぱり、何かヤバそうだな……そろそろ引き返すべきか」
橋の長さを考えると、もう渡りきっても良いような時間を歩いた気がするが、全く先が見えないのでなんとも判別がつき難い。
いや、ひょっとしたら、俺はもうとっくに橋を渡りきっていて、その向こう側までこの濛々と立ちこめる深い霧に閉ざされているのかもしれない。
だとすれば、この橋から先の探索は不可能だろう。
やはり、もう引き返そう、そう思った瞬間、ふいに視界が晴れた。
完全に霧が消えさったワケではないが、それでも橋が向こう側の道路へ届いているのが確認できた。
なんだよ驚かせやがって、と安堵感を覚えつつ、一気に駆け出す。
そして、橋の上にかかる霧から完全に抜け出ると、
「あっ黒乃さん! 戻ってきたんですね!」
そこには、小夜子ちゃんがホッとした表情で俺を迎えてくれた。
あれ、俺、確かに真っ直ぐ歩いていたはずだよな?
また一つ、夢についての理解が深まった。
どうやらあの夢の世界は、春風神社や桜木高校のある周辺までしか行動できず、そこから先、例えばシンクレア大橋を越えるなど一定の範囲を超えると、深い霧によって逆戻りにされてしまうのだ。
あの霧が空間そのものを歪ませているのか、方向感覚を狂わせているだけなのか、詳しい効果は分からないが、どちらにせよ、霧の向こう側に出る事は不可能である。
あの後、俺も何度か試したし、小夜子ちゃんがチャレンジしても結果は同じだった。
ならば、俺だけが特別におかしくなったというワケではないだろう。恐らく、誰が挑戦しても結果は変わらないはず。
「行動範囲は、もう少しちゃんと確定させておいた方が良いかな」
俺はそんなことを呟きながら、赤ペン片手に黒乃家リビングのテーブル上に広げられた桜木市の地図に向かっている。
ちなみにこの地図、今日の学校の帰りに自腹を切って購入したものだ。断じてクラスメイトから巻き上げた物では無い。
昨日の夢で確かめた霧の出る範囲はシンクレア大橋を始め、市街地の方まで及んでいる。
霧は単純に桃瀬川から発生しているわけではなく、まるで俺たちを特定の範囲に閉じ込めるように展開されていた。
無論、昨日の夢だけで四方全てを確認できたわけではないが、あの様子を思えば、アリの這い出る隙間も無くぐるりと囲われているように思えてならない。
とりあえず、今は昨日確認してきた分の範囲を地図に書き込んで、他のところは次の機会に見に行こう。
「お兄ちゃんなにしてるのー?」
真剣な表情で地図に向かう俺の隣から、亜理紗ちゃんが覗き込むように現れる。
彼女は俺と同じくテーブルにつき、落書き帳にお絵かきをしていたりする。無論、筆記用具は幼稚園児らしくクレヨンだ。
「お兄ちゃんは地図を見て桜木市の勉強中なんだ、それで、亜理紗ちゃんは何を描いたのかな?」
「リリィ!」
と、元気の良い返事と共に、自信満々に突き出される落書き帳の一ページ。
そこには、青い波間に浮かぶ大きな赤いグルグルで描かれた太陽を背景に、光の羽を広げた妖精が踊っている。
ふむ、一目見て何を描いているか分かるほどの出来栄えとは、
「亜理紗ちゃん、凄い上手だね」
お世辞抜きで、そう褒められる。
「えへへー、亜理紗ね、リリィなの!」
やけに自信満々にリリィ宣言をする亜理紗ちゃん。
よくよく見れば、絵に描かれているリリィはオリジナルの金髪に緑の瞳ではなく、黒髪黒目である。
なるほど、子供の‘ごっこ遊び’でもちゃんと絵に反映させるとは立派なものだ。
俺が幼稚園児だった頃は、見えない敵と戦っていただけだっただろうし。
「そうか、亜理紗ちゃんはリリィなのか、凄いね!」
「むふふぅ!」
なんて、はにかむ亜理紗ちゃんが可愛くて、自然に頭を撫で撫でしてしまっていた。ヤバい、何か凄い和むんですけど。
「よーし、それじゃあ俺も一緒にお絵かきしようかな」
「ほんとぉ!」
はい、と勢いよく差し出されたのは、落書き帳の一ページを破りとった白紙。
素早いフォローをありがとう亜理紗ちゃん、なんて気か利く良い娘なんだろうか。
「ふっふっふ、俺はこう見えて、絵心には少しばかり自信があるんだ」
何を隠そう、俺は中学の文芸部員時代、自分の小説に自分で挿絵を入れていたのだ。まぁ、ぶっちゃけ描いてくれる人がいなかっただけなんだけど。
そんな悲しい事実はさておいて、俺が落書き以上に真剣に絵を描く経験を積んだというのは事実である。そして、その腕前がどれほどのものかは、ここにいる亜理紗ちゃんに確かめてもらおうじゃないか。
「どうだっ!」
そして、一筆入魂の『フェアリープリンセス・リリィ』を描きあげる。
「わぁ、お兄ちゃん凄い! リリィだぁ!」
亜理紗ちゃんの尊敬の眼差しが心地よい。もしこれをお世辞で言っているのだとしたら、彼女は五歳にしてとんでもない魔性の女であると言えよう。
「よーし、それじゃあお兄ちゃん次は魔女フィオナも描いちゃうぞー」
「亜理紗も描くー」
そうして、俺達は百合子さんが夕飯を用意してくれるまで楽しくお絵かきに興じていた。
しかしアレだな、高校生活が始まってから俺には亜理紗ちゃんと遊んだ記憶しかないが、果たしてこれは健全と言えるんだろうか……何だか、自分の先行きがちょっと不安になってきた。