第二章 銀髪の少女(1)
東に向かって落ち行く太陽は、水平線には未だ下弦を触れさせておらず、完全に没するにはまだ幾許かの猶予があるように見える。
だが、それでも‘いつも’と変わらずに、空はいっそグロテスクと呼べるほどに不気味な朱に染まっていた。
逆向きから訪れる夕焼けの反対側、つまり本来太陽が沈むべきである山の正式な名前は春風山という。標高が高いわけでも、珍しい形状をしているわけでもない、日本ならどこでも見られる取り立てて目だった特徴など無い山である。
そんな春風山の麓には夜桜公園という都市公園があり、そのアスレチック広場には、本来の利用目的通りに子供が集っていた。
人数は五名、男児三名女児二名の男女混合のグループは、如何にもクラスで割り当てられた班であるように思える。
そんな彼らが身につける紺色のブレザーを見れば、桜木市に住む者の大半は私立白嶺学園初等部の生徒であると判別がつくだろう。
小学生で制服を着用している学校はそこしか無いため、否が応にも目立つというものだ。
そんな白嶺学園の小さな生徒達は、
「――だから、ダメだって言ってるだろそんなの!」
「で、でも、私は――」
何やら言い争っているようであった。
中心にいるのは二人、片方は身長160センチに届こうかというほどに発育の良い少年、もう片方は140センチには満たないだろうと思える小柄な少女。
「ちょっと、やめなって翔太、それに小夜子も」
二人の様子に見かねたのか、別な少女が仲裁に入る。
彼女が言ったように、この大きい少年は翔太、小さい少女は小夜子という名前である。 傍から見れば、二人は一つか二つは歳の差があるようにも思えるが、どちらも同い年である。
それはこの二人だけでなく、この場にいる五人全員が白嶺学園の五年二組に在籍する同級生であった。
「止めんなよ麻耶、お前だって小夜子にさせちゃダメなのは分かるだろ!」
仲裁に入った少女、麻耶の言葉に全く怯まずに反論する翔太。
小学五年生にしては高い身長と、すでに男としての面構えのでき始めている彼が叫べば中々の威圧感がある。
その端正な顔立ちも相俟って、ただ吠え立てるだけでなく、理不尽な大人の都合を否定する真っ直ぐな少年が主張しているかのように様になっている。
「それは、そうだけど……」
対する麻耶の返答が曖昧になってしまったのは、翔太の語気に屈したわけではなく、単純に彼の言い分も理解できるためであろう。
麻耶も翔太ほどではないが、年齢平均を上回る発育ぶりを見せており、同年代よりもやや大人びた顔立ちをしている。
洒落たフレームレスの眼鏡をかけていることが、尚更彼女を年齢以上に理知的なイメージにさせている。
だが、小学生にしてクールな美貌と呼べそうな麻耶の顔は、解法の分からない算数の問題を前にしたように眉根を寄せてしまっている。
「大体、小夜子は変な事気にしすぎなんだよ、女なんだから、男の俺らに守られていればいいだろ」
男女平等を叫ばれる現代日本の風潮にあっては声高に非難されそうな内容の台詞を翔太が言うが、小学五年生にジェンダーフリーの概念を理解しろというのは酷な話である。
まして、真っ当に‘男らしく’育っている翔太からすれば、そういった価値観は自然に形成されてしかるべきだろう。
要するに、男の意地、というヤツをすでに持っているのだ。
「いいよ……もう、いいよっ!」
だが、それが殊更にこの小夜子という少女にとって、受け入れがたい意見であったようだ。それこそ、涙が流れてしまうほどに。
「あっ、おい、小夜子……」
その様子に呆然とした表情を浮かべる翔太。
いや、彼の後ろに立って発言を控えていた二人の少年も、同じような顔をしている。
それは女子を泣かせてしまったという過失よりも、涙を零す小夜子という少女があまりに美しく見えたからかもしれない。
大粒の涙を浮かべる瞳は晴れ渡る青空のように澄んだ水色。光る涙の粒よりも透き通って見えるクリスタルの瞳は、目を合わせたものを悉く魅了してしまいそうな輝きを秘めている。
日本人離れした色合いは目だけでは無く、髪もまた同じであった。
それそのものが光を放っているかに見えるほど艶やかな白銀の髪は、彼女を道端で見かけたなら真っ先に目に付く特徴であろう。
頭の後ろで一つにまとめるポニーテールは、腰元に届くほどの長さを誇り、通常よりもかなり大きく見える。
長大な髪の束はその煌く白銀の美麗さから、馬の尻尾というよりも、ユニコーンの尾、とでも言った方が適切に思えるだろう。彼女の髪は、それほど絶大な美のインパクトを持って脳裏に焼きつく。
白さで言うなら、髪だけでなく肌も同様。染み一つない真っ白な肌は、彼女が未だ子供という若さのアドバンテージを差し引いても、同年代より抜きん出て美しさと瑞々しさを持っていると呼べる。
西洋人的なカラーしか持ち合わせていない彼女だが、その顔立ちは日本人であると一見して分かる造りであった。
眉尻の下がった円らな瞳、小さな鼻、ふっくらした桜色の唇、どれをとっても幼い少女としてパーフェクトな完成度。
人形のようですらある白皙の美貌は、どこまでも彼女を幻想的に仕立て上げている。
そんな彼女が涙を流して悲しみを露わにしているのだから、その触れれば壊れてしまいそうな儚い雰囲気もより一層引き立つというものだ。
だが、どれほど浮世離れした容姿を持っていても、彼女は正真正銘ただの小学五年生である、そのメンタリティは普通の子供と何ら変わりは無い。
故に、彼女が何もかも忘れようとその場からリアルに逃避してしまったのも、致し方ないことだろう。
「ちょっと小夜子、待っ――」
半ば見蕩れる男子を差し置いて、静止の声を発するのは麻耶だった。
しかし、その華奢な外見に反して意外な健脚を発揮する小夜子は、輝くユニコーンテールを翻し、あっという間に広場を抜けて姿を消してしまう。
思わず呆然と見送ることしか出来なかった四人だが、最初に我を取り戻したのは翔太であった。
「お、おい、小夜子を一人にしちゃまずいだろ! 早く探しに行かねぇと!」
その一声に、三人は頷き即座に理解を示した。
彼らは、みなまで言われずとも分かっているのだ、この‘場’において単独行動することの危険性を。
「翔太、後でちゃんと小夜子に謝んなさいよね」
「うるせぇな、そんなことより、早く行くぞ」
そうして、残された四人は飛び出していった小夜子を探すべく、バタバタと慌しく公園を後にするのだった。
春風神社の境内、三度目の夢見だと認識した直後にとった行動は警戒だ。
ざっと見渡してみても、周囲にはあのスライムが大挙して押し寄せてくる様子は無い。
とりあえず、今すぐ奇襲は無さそうだが、スライムはほとんど音も無く現れたのであまり油断するべきではないだろう。
「やっぱり、ただの夢じゃないってことだよな……」
注意を払いつつ考える。
今回は最初にこの夢を見た時と違って、眠りについた直前の記憶をはっきり思い出すことが出来る。
今日は『フェアリープリンセス・リリィ』のお陰で亜理紗ちゃんと仲良くなれた記念すべき日曜日、その幸せな気分のままベッドに入ったのを俺は間違いなく覚えている。
そして、気づけばまたここに立っていた、確固とした現実の記憶を持ちながら。
「とりあえず、移動してみるか」
思えば、俺は二度ともこの春風神社から外へ出たことが無い。
一度目はすぐに目覚めたし、二度目はスライムに襲われたり、とてもそんな余裕は無かったのだが、今回はなんとか自由行動できそうだ。
この夢が醒める条件が、あの逆向きの太陽が完全に没するまでという時間制限制であれば、今回はそれなりに猶予があるように思える。
それは前回での経験則だ。
スライムとの戦いに疲れて、死神と一緒に座り込みながらボーっと水平線に沈み行く太陽を眺め続けていた。
そして完全な日没と同時に、一瞬で真夜中に切り替わったように深い闇に包まれ、何も見えなくなって以降、記憶はぷっつり途絶えている。
次に目覚めたら、朝のベッドの上だったというワケだ。
もし、俺の予測通りであるならば、今ここから見える太陽は未だ海の向こうの水平線に被っていないので、この夢の世界から強制送還されるまでには数時間の余裕があるとみえる。
しょっぱなからスライムとのエンカウントも無かったことだし、今こそこの夢の謎を解明するべく色々と試してみるべきだろう。
そんな事を考えている内に、俺は春風神社の鳥居を潜り、その先に続く石段を下り終えていた。
「特に変なところは無い、か」
目の前に広がるのは何の変哲もない住宅街。
瓦屋根の大きな平屋、妙に寂れた二階建てのアパート、薄汚れたコンクリートのブロック塀、迷い犬の張り紙がある電信柱、などなど。
ついこの間、春風神社に足を運んだ際に見た景色と変わりは無い。
いや、景色こそ変化も異常も無いが、ここには明確な差異が一つだけある。
「人がいない……」
そう、どこにも人の気配を感じられないのだ。
ここが閑静な住宅街だと思えば、通行人の一人ともすれ違わないのはそう珍しいことではない。
だが、見える範囲ではどの家にも明りが灯っていないのだ。
もしこの世界が太陽の運行以外は現実と全く同じに再現されているのであれば、夕暮れ時の時間帯、部屋の窓から明りが漏れているのがそこそこに見えるはず。
果たして、この世界では電気が通っていないのか、それとも、単にスイッチがオフになっているだけなのか。
俺は通学路を辿るように歩いてみるが、どの家、建物にも明りがついているところは一つとしてない。
そして、やはり通行人も皆無、当然、道路を走る車も無い。
「まるでゴーストタウンだな」
いや、正確にはモンスタータウンと呼ぶべきか。少なくともスライムは群れをなして現れるのだから。
この桜木市にやって来てまだ一週間そこそこしか経過していないが、少しは見慣れた街並みがこうして箱庭のような世界になってしまったことに、薄ら寒い感覚を覚える。
ここが自分の夢の中だとしても、異常な様子と言わざるを得ない。
これまで見てきた夢の中では、現実的かどうかはさておいて、他人が登場することは多々あった。
夢だから他の人がいない、という理屈にはならない。
「どうなってんだ、この夢は」
俺が通学するのに利用している市バスが走る表の大きな通りにまで出ると、いよいよ街の異常さは際立ってきた。
桜木市はそこそこの人口を誇る地方都市、俺の故郷である田舎とはワケが違う。
夕方の時間帯ならそれなり以上に人々が行き交う表通りが、閑散なんてレベルじゃないほどの無人ぶりを見せ付けられると、どうにも現実感が湧いてこない。
無論、これは夢の中だ、というのは分かっていてもだ。
ここまではっきり意識と五感を感じられれば、もう夢と現の区別など人間にはつかない。
いや、まて、まだ全ての五感を試してみたというワケでもないか。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、は特別に試さずとも意識すれば分かる。だが、味覚は何か食べてみなければ強く認識することはない。
そうだ、折角だから何か食べてみよう。
思い立ったが吉日とばかりに、俺は目に付いた青と白のカラーリングが特徴的なコンビニエンスストアへ入った。
ドアは開いている、だが、店内に電気がついていない。
勿論、入店しても「いらっしゃいませ」の声もあがらない。
蛍光灯の白い光が消えている店内は薄暗いが、夕焼けの斜光に照らされて行動するのに不自由は無い。
「なんか略奪してる気分になるな」
もしも予期せぬ災害が起こって、食料を求めて店員のいないコンビニに突撃する、みたいなシチュエーションが脳裏に思い浮かぶ。
いや、俺は躊躇無く略奪を実行するほど自己中心的でも破滅的でもない、と思う。
夢の中だと思えば、何をしようが俺の勝手だろう。内心の自由というやつだ。
とりあえず、特に空腹を感じているワケではないので、駄菓子コーナーから一本十円で販売している美味い棒状のお菓子を一つだけ拝借する。
くそ、チーズ味しか置いてないのかよ。
「……うん、普通に味は感じるみたいだな」
サクサクとした歯ごたえに、記憶にある通りのチーズ風味が口中に広がる。
どうやら、味覚も正常に機能しているようだ。
俺は他に試せることが無いか、と考えた時、雑誌コーナーが目に入る。そうだ、まずは日付の確認をしておこう。
「日曜日か」
手に取ったスポーツ新聞には、俺が今日過ごしたのと同じ日付が記されていた。
ということは、この夢の世界は俺が現実にいるのと同じ日時で進行しているのか。
いや、単純にリアル日付がもっとも印象が強くて、それが自動的に反映されているだけなのかもしれない。
いや、待て、この夢の世界が全て俺の脳内情報で形成されたモノではないと証明するには、俺の知らない情報を確認すればいいんじゃないだろうか?
もし、この夢の世界が現実世界を完全に再現した特殊なモノであるならば、俺が今ここで何かの情報を得て、それを現実でも確認できたなら、ここは俺の脳内にある情報だけで創られた仮想世界でないことの証明になるはずだ。
それを証明することはきっと、いよいよこの夢が‘普通じゃない’ことが確定する、もうどうしようもなく言い訳できない、非現実の存在を認める一つの証拠足りえるだろう。
そう思えば、若干の躊躇を覚えるほどにはビビってしまう。
だが、今更これを確認しないなんてことは、出来そうも無い。
「試して、みるか……」
俺が選んだのは、日本で一番の売上を誇る週間少年漫画雑誌『チャンプ』だ。
毎週購読しているワケではないので、当然、今週発売のヤツも中身を熟読した事は無い。
これを読んで、目が覚めた後に内容が同じかどうか確かめてみれば良い。それで答えは出るはずだ。
手にした今週の『チャンプ』には、ちょうど新連載の漫画が載っていた。
ソレが一番覚えやすいだろうと思い、ざっと眼を通してみる。
「うわ、この新連載面白くねぇ……」
内容は、転校生の主人公が寝坊して登校初日から遅刻しそうなことに焦って走っていると、曲がり角で食パンを加えた女子高生にぶつかって――まぁ、これ以上は語るまい。
古典文学か、と言うほどに使い古されたネタの連続で、目新しさなど何一つ無い、いや、逆にソレが新しいのか? とにかくそんな内容で、とりあえずこれなら明日の朝目覚めても忘れる事はあるまい。
ひょっとして、あの新連載は俺の脳内が勝手に作り上げたストーリーなんじゃないだろうか。
そう思えるほどだったが、まぁいい、後で確認すれば済む話だ。
俺は明日の朝に目覚めるのが待ち遠しくもあり、やや怖くもあり、という二律背反な感情を抱きつつ、コンビニを後にした。
さて、この後はどうしようか、と自分のノープランぶりに辟易しそうになった瞬間、
オォオーーンっ!
そんな、犬の遠吠えとしか形容のできない鳴き声を聞いた。
「犬、のモンスターと考えた方がいいのか」
この夢の世界で跳梁跋扈しているのがスライムだ、ならば、他にもモンスターがいても不思議ではない。
鳴き声はかなり近くから聞こえてきた、しかも複数。
続けてギャンギャンと吠え立てているのが分かる。
スライムの時はとり憑いた死神のお陰でなんとかなったが、また都合よく出現してくれるかどうかは分からない。
少なくとも、今は現れる気配というか、兆候というか、そういったものは感じられない。
逃げよう、そう判断を下す。
当然だろう、君子危うきに近寄らずとはよく言ったもの――
「――きゃっ!」
待て、待てよ、今、犬の鳴き声に混じって、確かに悲鳴が聞こえたぞ。
しかも、甲高い声の、恐らく小さい女の子のものだと思えるような。
踵を返しかけた足が、凍りついたように止まる。
どうする、助けに行くのか? この夢の世界で? 俺の妄想が作り出した女の子かもしれないんだぞ。
しかも、この夢の世界は普通に痛覚を感じる。
死神が出てきてくれないまま、犬なんぞに噛まれたら痛いじゃ済まない傷を負うだろう。
妄想の女の子、か。
そうだ、小さい子に限定するなら、それは亜理紗ちゃんの姿をしている可能性もある。
なら、それが幻影だと分かっていても、俺は見逃すことが出来るのか?
あの小さな体に、愛らしい顔に、獰猛な爪と牙で引き裂かれるシーンが再現されようとしているのを、見過ごすのか?
「出来るわけ、ねぇよな」
そうだ、彼女は俺を「お兄ちゃん」と呼んでくれたのだ。
お兄ちゃんなら、助けにいかなきゃいけないだろ。
「頼む死神、俺に、力を貸してくれ――」
そう祈るように呟いてから、犬の吠え立てる声が木霊してくる方向へ向かって、全力全開で駆け出した。
路地裏で小夜子を囲んでいるのは、赤色の犬だった。
赤、橙、黄と正しく燃える炎のようなグラデーションの毛色を持つ犬など、テレビの中でもお目にかかれない不思議なカラーリングだが、その色にさえ目を瞑れば、後は犬としか呼べない姿をしている。
番犬のドーベルマンのように引き締まった体躯は、ペットとして甘やかされた犬では決して持ち得ない野性味を感じさせてならない。
そんな野犬の群れに囲まれて、いや、より正確に言うならば、襲われている小夜子はしかし、まだその幼い体に傷一つも許してはいなかった。
「わ、私だって……できる」
恐怖を勇気でねじ伏せ、どうにか目の前の犬と相対する小夜子の手には、一本の槍が握られている。
長さは彼女の身長を越えるが、2メートルには満たない、分類でいえば短槍と呼ぶべきだろうか。
刃の形状は十文字槍に似ているが、本物と比べれば刃は大きく、長く、そしてなにより、精緻な装飾が施されていた。
だが、その鋭い鋼の光沢は、これが玩具ではないことを証明している。
柄の部分は、まだ子供である小夜子が握りやすいほどに細くなっており、これにもまた刃と似た、アルファベットと蔦を組み合わせたような装飾が石突までしっかりと刻み込まれている。
しかし、この槍を目にした際に、最初に抱く印象はその形状でも装飾でもなく、彼女の髪と同じ煌く白銀の色彩だろう。
武器というよりも一種の宝物、美術品といった風格。
殺傷力よりも美しさだけを追求したように思えてならない、それほどの美を体現していた。
そしてそんな美しい槍を、半ば震えながらといえども両の手でしっかりと握り構える小夜子の姿は、さながら戦乙女と呼べるほどに凛々しく可憐だ。
もっとも、そうした印象を抱くのは人間の感性があればこそ、彼女を囲む犬にとっては、純粋に自身を傷つける脅威と成りうる槍の刃のみを警戒しているだろう。
少なくとも、人間の子供一人を相手に、十を越える頭数を揃える大型犬が今のような膠着状態に陥るほどには、強い警戒感を露わにしている。
犬たちはすでに知っているのだ、この槍がそれほどの‘力’を秘めていることに。
だが、よほど焦れたのか、一頭の犬が牙を向いて動き出した。
発達した筋肉のついた後ろ足を繰り、槍の射程外からも一足飛びで小夜子の体まで届くほどの跳躍を見せた犬はしかし、
「やっ!」
一閃。
中空に描かれた白銀の軌跡は飛び掛る犬を正確に捉え、次の瞬間には首元から血飛沫をあげて地面に叩き付けられていた。
とても小学生女児の細腕から繰り出されたとは思えないほど、速く、鋭い一撃であった。
いや、恐らくは大人、それも達人と呼べる技量を持っていたとしても、実現できるかどうかというほどだ。
それはつまり、人間としての才能を超えた、何か別な要因がもたらす力を小夜子が行使していたことに他ならない。
だが、彼女が人間の能力を超えた力を扱う存在であったとしても、犬にとっては自分たちの餌にするプランに些かの変更も無かったようだ。
先走った一頭が瞬殺されても、戦意は衰えるどころか、いよいよ強く吠え立ててしきりに威嚇する。
「うっ、うぅ……」
いかに超人的な攻撃を繰り出した小夜子といえども、その精神面はやはり見た目通りの子供でしかない。
殺意を向き出しにする獰猛な獣に囲まれ四方から吼えられるというのは、幼い少女にとっては耐え難い恐怖とプレッシャーを与えるはずだ。
例え、犬の群れを撃退するに足る力を持っていたとしても、そんな精神状態で十全に発揮できるかどうかは分からない。
勝負は純粋な力だけでなく精神面で変動する事もある。
犬はそれを本能的に理解しているのだろう、恐れを見せる相手に容赦はしない。
事実、小夜子が握る槍のきっさきは僅かだが震え始め、今にも泣き出してしまいそうに眉根を八の字に寄せている。
その明らかな怯えの様子は、犬たちに勝利の確信を与えた。
ギャン! と、一頭の犬が鋭く吼えたのを合図に、群れは一斉に動き出した。
「きゃっ――」
幾度もリハーサルを繰り返したダンサーのような連携で繰り出される同時攻撃を前に、小夜子の口から思わず小さな悲鳴が漏れる。
だが、幸いにも体は攻撃に反応してくれた。
先と同じように白銀の一閃が迫り来る赤い獣を迎え討つ。
十字の刃は易々と毛皮と筋肉を切り裂き致命傷を与える。
その上、飛びかかるところを正確に命中させる精度と速度を誇っている。
瞬く間に一頭、二頭と屠られていく。
しかし、犬も犠牲を覚悟で仕掛けたのだろう、同胞が刃に倒れても怯む事無く攻撃を続行する。
結果、槍の穂先を潜りぬけ、刃の届かぬ近距離にまで迫った。その数は三頭。
「あっ!?」
と、小夜子が声をあげるが、再び槍を引き戻して迎撃をするほどの時間はもう残っていなかった。
当然といえば当然の結果であるかもしれない、そもそも一本の槍だけで十を越える数の敵を同時に捌こうというのだ。
まして、相手は人間よりも脚力に優れた犬である。その牙が己の体に届くまでの時間はあまりに短い。
その一瞬と呼ぶべき間に半分以上を貫き、穿ち、切り裂いてみせた小夜子の攻撃こそが異常、すでに人間業を越えている。
だが間に合わない、飛び掛る全ての犬を撃退するには、僅かばかり速さが、あるいは威力が足りなかった。
小夜子の透き通ったブルーの瞳には、鋭い牙の並ぶ犬の獰猛な口腔が映りこむ。
それが、次の瞬間には己の肉体に突きたてられるのだと、どうしようもなく認識できた。
そして、その認識に恐怖が追いつこうとしたその時だった。
「はぁあああああああっ!」
腹の底から震え上がるような雄叫びと共に、黒い旋風が目の前を通り過ぎた。
フワリと銀色の髪が揺れる。
「……え?」
気がつけば、目の前は真っ暗に、否、大きな黒い何かが立ち塞がっていた。
槍を掻い潜り、自分に飛び掛ってきた三頭の犬が何処に行ったのか分からない。
しかし、恐らくこの黒い何かに弾き飛ばされたのだろうと予想できた。車道に飛び出した野良犬がトラックに轢かれるように。
「君、大丈夫か?」
呆然としていると、頭上から声がかかった。
ハッとする様に顔を上げると、視界に映るのはやはり黒い何か――では無く、二本の角を生やした、髑髏であった。
暗い深淵の眼窩に灯る、不気味な真紅の光が瞳のように見える。
そして、その赤い目は真っ直ぐに自分を見つめている。つまり、目があったのだ。
「きゃあああああああああああっ!」
小夜子は絶叫した。
死神がいきなり目の前に現れた小学生女児の反応としては、至極、当然のものであった。