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第一章 夢の世界(1)

 ドンっ、という鈍い音と痛みが脳天を突き抜けていく。

「痛って!」

 後頭部に感じる冷たく硬い感触と、上下反転した視界。頭上にはブラウンのフローリング、眼下には灯りの消えた蛍光灯、天地がひっくり返った六畳一間の光景から、今の状況を察するに、

「ベッドから落ちるとか、何やってんだ俺……」

 カーテン越しに柔らかな朝の日差しが差し込む自室にて、台詞通りの情けなさと、そんなに寝相悪かったっけという疑問が寝起きの頭の中で無い混ぜになったカオスな思考のまま、のっそりと起き上がる。

「七時か」

 落下の衝撃で痛めて無いかどうかちょっと不安な首をゴキゴキ鳴らしながら、枕元に置いてある目覚まし時計に目をやると、そんな時刻を示している。俺を覚醒させるガンガンとけたたましい音を鳴り響かせるには、あと十分ほど余裕はあったが、こんな物理的に衝撃の目覚めを経験してしまえば、今更あの夢の中の世界へ戻るのは不可能だ。

 ああ、そうだ、夢の中といえば、

「妙にリアルだったな、はっきり覚えてるし、死神スゲー怖かったし……」

 いや、あんな悪夢と呼べる部類の不吉な夢見を考えるのはやめよう。俺は今日から晴れて高校生なのだ、ならばもっと晴れやかな気分で一日を始めるべきだろう、晴れだけに。

 さて、くだらない冗談もホラーな夢も忘れて、今は記念すべき初登校の準備でも始めよう。

 桜木高校の男子制服は、古式ゆかしい学ランである。もっとも、中学の時もボタンのデザインが違うだけの同じものだったので、特に目新しさは感じられない。

 それでも新品の制服に身を包めば、仄かな期待を胸に抱く新入生気分にさせるのだから不思議なものである。

 手早く着替えを済ませた後は、洗顔、歯磨き、その他諸々のルーチンワークをこなすべく自室のドアを開く。

 そこには、未だ見慣れない家の廊下が伸びているだけでなく、一つの小さな人影がヨチヨチ歩いているのが見えた。兎をモチーフにしたファンシーなデザインのパジャマ姿のその娘は、どうやら俺の存在に気づいたらしく、その円らで大きな瞳をこっちに向ける。

 振り向き様にフワリと黒髪を舞わせる小さな頭、そして、そこにある顔は幼児特有の丸っこくて愛らしいという以上に、この娘が成長すれば一体どれほどの美人になるだろうかと思わせるほど、すでにして顔を構成するパーツは整っていた。人によっては、本物の妖精かと思うほどの幼く可愛らしいこの容貌こそ完全無欠の美であると言い切るかもしれない。

 そんな美幼女を前に、俺が口にすべきなのはその美しさを讃える言葉などではなく、日本人が朝に顔を合わせたら発する第一声である。

「おはよう、亜理紗ちゃん」

 できるだけ爽やかになるよう心がけた朝の挨拶はしかし、

「うぅ……」

 彼女の警戒心を解くには至らなかったようで、サラサラの長い黒髪を翻らせ、子猫のように俊敏な動作で廊下の向こうまでエスケープしていった。ここは兎のパジャマにあやかって、脱兎の如くと言うべきか。

「はぁ……やっぱり、怖がられてるよな、俺」

 明らかに俺を避けている小さな彼女の名前は黒乃くろの亜理紗(ありさ)。姓は俺と同じ黒乃ではあるが、妹では無い、勿論、実の方でも義理の方でも。二人の関係は言ってしまえばなんて事は無い、ただの親戚関係、従妹というヤツだ。

 しかしながら、俺がまだ小学生の頃に生まれたばかりの赤ん坊だった亜里沙ちゃんの姿を目にしただけで、面識という意味では完全に初対面に近い状態である。彼女からすれば、俺はいきなり家に現れたデカくて目つきの悪い恐ろしい男にしか見えないだろう。

 デカい、というのは彼女がまだ5歳の幼稚園児であるからという事を差し引いても、俺の身長は高いのだ。16歳になった今の俺の身長は実に182センチ、すでに日本の成人男性の平均身長を越えている。

 高身長だけならば男の魅力としては十分にプラスだといえる、だが、如何せん俺の顔は人相があまりよろしくなかった。どうにも黒乃の血を引く男は切れ長の鋭い目つきが優性遺伝の形質となっているらしい。上手くいけばクールな美形になれたのかもしれないが、実際は誰からも不良認定されるほど威圧的な眼光を宿してしまっている。

 そんな容姿をしていれば、実は中学三年間文芸部に所属していたライトオタクの文系男子という中身とは関係なく、ほぼ初対面の幼稚園女児からは大いに恐れられてしまうのも、致し方ないことだろう。

 これから亜里沙ちゃんと仲良く打ち解けることが、いや、そうでなくとも、俺に対する恐怖心が無くなる程度には中を深めないといけない。

最悪の場合、幼い彼女の人格形成にも影響を及ぼしてしまうこともありうる。そうなれば、高校通学のために俺を受け入れてくれた叔父夫婦に申し訳が立たない。

 なんとか良好な関係を築きたいのは山々だが、俺にはイマドキの五歳児の心を掴む方法など全く見当がつかないので、新生活の最初の難問として立ちはだかっているのだ。

 考えたところで今すぐ解決策が思い浮かばないが、それでも考えずにはいられないこの問題に取り組みつつ、亜里沙ちゃんが走り抜けていったのと同じルートを辿りリビングへ向かった。

「おはようございます」

「おはよう、真希那くん」

 そこで、俺に挨拶の見本のような素敵な声音で返してくれたのは、亜麻色の髪が特徴的な美人の百合子さんである。一見すると、亜里沙ちゃんと歳の離れた姉に思えるが、実はこの人が母親だったりする、つまり、俺の叔母である。

 一児の母とは思えない若さと美貌の百合子さんに優しくファーストネームで呼ばれると、女性に対して免疫が無い俺には少しばかり気恥かしい思いを抱かせる。

「真希那くん、制服とっても似合ってるわよ」

 おまけに、サラっとこんなことを言ってくるのだから尚更である。

だが、いくら彼女いない歴=年齢の俺ではあるが、変な勘違いをしてしまうほど思春期全開ではないつもりだ。というのも、

「若い頃の真央くんにそっくり、うふふ、格好いい」

 結婚生活十年を超えても、未だ夫にゾッコンなのだ。しかも、甥っ子の前でも隠す素振りすらみせない惚気ぶりである、百合子さん、今完全に目がハートマークになってますよ。

流石にこんなのを見せ付けられては、どれだけ鈍いヤツでも勘違いする余地は無い。

ちなみに、彼女が恥かしげも無くくん付けで呼んだ真央という人が、俺の母の弟にあたる叔父さんだ。今は仕事の都合で海外出張しているらしく、ここには黒乃の系譜を体現する巨躯は無い。

 このほとんど新築の広い家には、百合子さんと亜理紗ちゃんの母娘と従兄の俺という三人しか住んでいないのだ。

「さぁ、朝ごはんの用意は出来ているから、いつでも席について」

「はい、ありがとうございます」

 キッチンから漂う魅惑的な朝餉の香りに思わず鳴き出しそうな腹の虫を抱えたまま、俺は洗面台へと急いだ。

この家の習慣なのか、テレビから流れる国営放送のニュース番組をBGMに、手早く用意を済ませる。五分とかからずに食卓へ戻ってくると、そこにはエプロン姿で配膳する百合子さんと、パジャマ姿の亜理紗ちゃんがいる。

「亜理紗、お兄ちゃんに挨拶した?」

「……おはよぅ」

 百合子さんから見れば、今のタイミングが二人の顔合わせに思えるのだろう、さり気無く俺への挨拶を促せば、亜里沙ちゃんは渋々といった様子だが小さな口を開いてくれた。

「おはよう、亜里沙ちゃん」

 本日二度目の挨拶は、さっきよりも爽やかに、かつ優しく言えただろうか。

 速攻で視線を逸らされたことを思えば、残念ながら大した進歩は無かったようだ。

「ごめんなさいね、真希那くん。まだちょっと緊張しているみたい」

 小声でフォローを入れてくれる百合子さんに、苦笑しながら返答。

「いえ、俺みたいなのが相手じゃ仕方ないですよ」

「そう? 真希那くんみたいな子なら、亜理紗もすぐ好きになると思ったのだけれど」

 それは百合子さんが真央叔父さんみたいな強面の男がタイプだからでしょう。思いはするが、口にはしない。

「難しいですけど、何とか仲良くなれるよう頑張ります」

「うふふ、そんなに緊張しなくても大丈夫、きっとすぐに仲良くなれるわよ」

 太陽のような笑顔で励まされると、どんなことでも出来そうな気になってくるから不思議だ、美人って凄いな。

 果たして、本当に俺が亜理紗ちゃんに母親譲りの素敵な笑顔を向けられることがあるのかどうか、大いに不安になるところではあるが、とりあえず今は、

「いただきます」

 目の前に用意された朝食を全て平らげることに集中しよう。



 緊張感など最初だけで後半は退屈な入学式を滞りなく済ませた後、教室で自己紹介やら授業ガイダンスやらを経て、昼頃には帰宅となった。

 これから一年間、もしかすれば二年目三年目と同じ教室で顔を合わせることになるかもしれないクラスメイト達との初顔合わせは、特に何事も無く普通に――いや、嘘を吐くのはやめよう、正直に言えば、あまり良いものではなかった。

 理由は単純明快、俺の顔である。みんな口にこそ出さないが、あからさまに怖がられた、男女問わず。

 早くも俺にはヤクザの息子だとか、ナントカいう有名な不良中学の出身だとか、この辺で見かけなかったのは少年院に今まで入っていたからだとか、根も葉もない噂が教室で飛び交っていたようだ。せめて、友人同士の勝手な談笑の一つにとどめておいてくれれば良いのだが、変に噂が広まってしまう可能性は大いにありうる。

 せめて、一人でも同じ地元出身の生徒がいてくれれば良かったのだが、この桜木高校に進学したのは残念ながら俺だけ、援護は期待出来そうに無い。

 平和で充実した高校生活に早くも少しばかり危機感を覚えた俺は、早く誤解が解けるよう積極的に席の近くにいる男子生徒に話しかけたりしたのだが、まぁ、カツアゲと勘違いされて速攻エスケープされたりした。

 そんな悲しい誤解から生まれたすれ違いを今日だけで三度ほど経験した俺は、表向きは平静を装ってはいるが、内心かなりのショックを覚えながら一人寂しく帰宅。

 そして、黒乃家ではライオンと同じ檻に閉じ込められた兎のように警戒心を露わにする亜理紗ちゃんの様子に、さらなるショックを重ね、女々しくも枕を涙で濡らしてしまいそうな心情でベッドインしたはずである。

「また、この夢か……」

 気がつけば、俺は再び夕暮れ時の神社に立っていた。

 上を見上げれば、血塗れたように不気味な色合いの夕焼け空、辺りを見渡せば、風にそよぐ緑の木々と、まだ見慣れぬ桜木の街、そしてその向こう側、遠くの水平線に向かって沈み行く太陽が目に入る。

 やはり同じ、場所も、太陽の向きが逆であるということも。

「そうだ、死神はっ!?」

 ならば、いきなり背後に現れ襲い掛かってきた鬼の髑髏をした死神もまたいるのではないかと慌てて振り向いてみるが、幸運にも、そこにはあの恐ろしい黒い影はいなかった。

 良かった、ホっと一息吐くが、よくよく目をこらしてみると、俺の視界には神社の小さな本殿の他に、何か、妙なモノが映りこんでいるように思える。

「お、おい、死神の次は――」

 ソレは一瞬、大きな水溜りのようにも思えたのだが、どうやら50センチほどの高さをもつ立体であることに気がついた。ゼリーのように半透明な所為で認識するのが一瞬遅れたが、一度分かってしまえば見失うことは無い程度には目に映る。

 なにより、たわんだ球状のゼリー質な塊の中央に、くすんだ赤い輝きを放つ結晶のようなものが埋まっており、ソイツの存在をより一層主張している。

 これを目にすれば、RPGの一本でもクリアした経験のある人は、みな口を揃えてこう言うだろう。

「――スライムかよ」

 勇者が魔王を倒しに行く古典的なロールプレイングゲームで登場する、雑魚モンスターの代名詞。

 そのスライムであるとしか、俺には目の前にいるゼリーの塊を表現できない。突然変異の巨大なアメーバが誕生したと考えるよりも、『スライムがあらわれた!』の一文がどうしても先に来てしまうのだから仕方が無い。

 勇者の生まれ故郷の村周辺に出没して最初のレベルアップの礎となってくれるはずのキングオブ雑魚ではあるが、いざ、こうして現実に、いや、これは夢だ、だとしてもリアルな五感を伴う世界で目にすれば、

「お、襲ってきたりしないよな?」

 腰が引けてビビってしまうのも仕方ないだろう。

 ひょっとしたら、ただのオブジェだったり、新種の玩具だったり、なんてもっと現実的な考えが浮かんでしかるべきであるが、俺がスライムを認識できた瞬間からコイツは皿にあけたカップゼリーをスプーンでつついたようにプルプルしているのだ。あの死神と同じように、こうして動かれてしまっては作り物であると否定しようが無い。少なくとも、自立稼動するギミックとは思えないほど滑らかで自然な動きをしている。

 夢の中であれば、自然な動作を実現するオーバーテクノロジーなロボット技術というよりも、そのファンタジー生命体がリアルに存在している方がしっくりくる。

 そして、夢の中だから、と言うべきか、ソイツは俺の予想、しかも悪い方向にだ、それに違わず確実にこっちの方へにじり寄ってきたのだ。

「え、おい、ちょっと、待てって」

 ブルブルとゼリーの肉体を震わせて、俺の方へ接近する速度は少しずつ上がっている。その動きは獲物を前に喜んでいる的なモーションじゃあないよな?

 果たして、俺の制止の呼びかけなど当たり前のように無視して、ずんずんと威圧感すら伴って近づいてくるスライムは、半液体状の肉体が沸騰でもしているかのようにいよいよ激しく蠢いた。

 これは、ヤバい。

 そう直感し、反射的に後退したのと同じタイミングだった。

 スライムの表面、そのゼリー状の肉が蠢動しひねり出るように飛び出してきた。勢いよくホースから水が飛び出るような感じで、その細い――触手、と呼ぶべき形状と動きでもって、俺へ襲い掛かってきた。

「うおっ!?」

 俺のバックステップはギリギリのところで回避が間に合い、目の前でスライムが振るった触手は空振りに終わる。

 だが、そこから先が続かなかった。

俺は格闘技をやっているワケでも、喧嘩に慣れているワケでも、まして緊急事態に際して的確な行動がとれる胆力など持ち合わせていない。つまるところ、最初のワンアクションで避けられたのは、偶然以外の何ものでもなかったのだ。

スライムの触手は一本だけじゃないんだぜと嘲笑うかのように、瞬く間に二本、三本と新たに形成し、連続的に繰り出されれば、あっさりと俺の手足は拘束されてしまった。

「くそっ、離せっ!」

無論、離せといって離してくれる相手ではない、そもそもコイツに言葉が通じるワケがない、ひょっとしたら音さえ聞こえていないかもしれない。

 向こうに離す気がないのなら、こっちが力ずくで振り解くより他は無い。幸いにも、触手が絡み付いている手首と足首に痛みは感じない。

 今更気づいた事ではあるが、俺の格好は何故か桜木高校の制服である学ランだ。厚手の生地が、直接素肌に触手が触れることを防いでくれている。

 しかし、直後にジュウウという不吉な音とかすかな煙が接触面からあがったことに、背筋が凍りつく。

「マジかよ、溶けてんのかコレっ!?」

 スライムの体って強酸性なのか、聞いてないぞそんな設定。雑魚モンスターのクセに人を殺傷するに余りある性能を秘めているなんて勘弁してくれよ。

 そんな現実逃避気味な思考をしつつも、どうやら体の方はこの危機的状況を理性的に把握してくれているようで、すぐにあらん限りの筋力を振り絞って触手の拘束を外すべくもがき始める。

 見た目こそ直径3センチそこそこの細長いゼリーだが、少しばかり手足をバタつかせた程度では引き千切ることは出来ない。

「ち、ちくしょっ――」

 しっかり手で握って触手を千切る、そのアクションは現状を打破する最善手ではあるが、躊躇する。当然だろう、コイツの肉体は見た目通りの水色ゼリーなだけではなく、布に触れるとブスブス音を立てて煙が噴出すような反応が起こる強い酸性を持っているのだ。触れればただで済むはずがない。

 だが、このまま黙って拘束されたままで居た方が、もっと拙いことになる。

 スライムの本体は、ゆっくりだが確実に俺への距離を詰めてきている。このままあと何十秒もしない内に、スライムとの距離はゼロになる。そうなれば恐らく、あの50立方センチメートル分の酸性ゼリーが俺の全身を飲み込むことになるだろう。

 死の危険性をこれ以上ないほど認識した俺は、己の手のひらを犠牲にしてでも逃れることを選択。

 右手の平で、左手首に巻きつく触手を握る。その瞬間、火傷を負ったような鋭い痛みが走った。

「――ぐあっ、痛って!」

 手のひらだけでこの痛さ、もしこの酸性ゼリーを全身に被れば、もう痛いと叫ぶだけでは済まない事態になる。その苦しみを思えば、今の痛みを堪えることくらい、どうにかなる。

「だあああっ!」

 苦痛を忘れるように叫びながら、一気に力を篭める。ひょっとしたら、火事場の馬鹿力でも発揮されたのかもしれない、俺の目論見どおり。ブチブチと音を立てて触手は引き千切れた。

 勢いのまま、右手首に巻きつく触手も千切り、ついに両手に自由が戻る。

 後は両足だけ、こっちは下手に手を使わなくてもなんとかなる。

 片方の足で触手を踏みつけ、もう片方はゴールを目前にしたエースストライカーのように気合を入れて思い切り振る。流石は腕の三倍は力があるという足、こちらは割りとあっさり触手の拘束を脱するのに成功する。

 完全に四肢の自由を取り戻した俺は、目の前のスライムが再び触手を繰り出すより前に、この場を退くべく即座に反転。

 数メートル先にある鳥居を潜り、石段を駆け下り全力疾走で逃走を図るプランはしかし、振り向いた一歩目から破綻することとなった。

「ここで仲間を呼ぶのは無しだろ」

 そこには、新たに出現した二体のスライムが俺の行く手を阻むように立ち塞がっていた。最初の一体をスライムAとすれば、差し詰め『スライムBとスライムCがあらわれた!』といったところか。

 いや、個体を識別するアルファベットに最早意味などないだろう。

 そもそもコレは夢の中ではあるものの、プログラムに従って動いているゲームの世界では無いのだ。相手が同時に出現する数に制限などない。

 どうやら『仲間を呼ぶ』という発想そのものが間違いで、コイツらは始めから、‘群れ’でいたらしい。

「くそ、ふざけんな、そりゃあ無いだろ」

 気がつけば、周囲の林からゾロゾロとスライムが湧き出てくる。

 チラリと背後を振り返ってみれば、新たに五体が蠢いており、もうどれが最初に現れたスライムAであるか全く判別がつかない。

 俺が悪態を一つつき終わった頃には、周囲は水色ゼリーで溢れかえっている、要するに、完全に囲まれたというヤツだ。

「頼む、夢なら、早く醒めてくれよ……」

 この状況は、俺を諦めさせるには十分過ぎる。もう俺に出来る事など、言葉どおりこの夢が終わってくれることを祈るだけ。

 ああ、夢って、どうやれば醒めるんだっけ。

瞼を閉じてみても、期待する変化は訪れない。寧ろ、周囲で蠢くスライムの気配と、酸で焼かれた両手の痛みが殊更に意識されるだけで、今ここがどこまでも現実的であることを思い知るのみ。

もしかしたら、コレは夢なんかじゃなくて、本当は現実の出来事なんじゃないのか? もし夢であったとしても、ここで死ねば、俺の体は本当に死を迎えてしまうのでは無いだろうか?

 少なくとも、確実に痛覚は存在しているのだ。このまま、あのスライムの津波に飲み込まれれば、全身をゆっくりと溶かされていく地獄の苦しみをリアルに体験することになるに違い無い。

「や、やめろ……」

 再び目を開く。視界に広がるのは、境内を埋め尽くさんばかりに現れ続けるスライムの軍団。

 夢は醒めない、悪夢は続く。

 ダメなのか、俺はここで、死ぬしかないのか?

「やめろぉおおおおおおおっ!」

 無数、と呼べるほどの触手が四方から襲い掛かってきた、その瞬間だった。

 俺は最後の抵抗とばかりに、真正面から迫り来る触手に対して叩き落とすよう右腕を振るった。

「っ!?」

 すると、どうしたことか、眼前の触手は悉く弾け飛んだ。その細いゼリーの内側に爆竹でも仕込んでいたのかと言うくらい、派手に散った。

「な、なんだ……?」

 思わず口から零れた疑問は、二つの事象に対して向けられている。

 一つは、何故スライムの触手はこんなにあっさりぶっ飛んだのか。

 そしてもう一つは、

「俺の腕、どうなってんだ?」

 ヤケクソ気味に振るっただけの右腕は、ただ長袖の学ランに包まれているだけでなく、揺らめく陽炎のような黒い靄と、指先に鋭い爪を持った、大きな骨の手のひらが浮かび上がっていた。

 腕に纏わりつく黒い靄はまだ良い、だが、この骨の手はなんだ? 勿論、これは俺の手の皮と肉が弾け飛んで、自前の骨格が露出しているわけじゃない。SF映画に登場する精巧なホログラムのように、半透明な立体として浮かび上がっているのだ。

 しかも、俺が指を動かせばそれに連動して骨の鋭い指先もまた稼動する。全くもって原理は不明だが、それでも、この幻のように浮かび上がる骨の手と、俺の手がダイレクトに感覚が繋がっていることだけは理解できた。

 そして、その一体感は右腕だけでなく、全身に広がっているのもまた、この瞬間に気がつくことが出来た。

 少しばかり自身の体を観察すれば、変化はすぐに分かる。どうやら、俺の全身は右腕と同じように、黒い靄で外套の如く覆われ、左手と両足も、鋭利な爪を備えた骨格が出現している。

 なにより、俺のすぐ頭上に現れた、この骨格の頭部と呼べる部位を目にした瞬間、傍から見たコイツがどういう姿をしているのか、ようやく把握できた。

「……死神」

 ねじれた二本角と二本牙を持つ、鬼の髑髏は正しく、前回の夢で俺に襲い掛かってきた死神である。

 何故コイツの姿が俺の体から浮かび上がっているのか、ひょっとして、とり憑かれたってヤツなんだろうか?

 だが、何にしろ、今の俺にとってこの死神は救世主だ。

 なぜなら、俺がこうしてのんびり自分の変化を観察できているのは、この死神がとっくの昔に放たれ全身に絡み付いているスライム触手のダメージを完全にゼロにしてくれているからだ。

 一見するとホログラムにしか見えない死神だが、どうやら物理的な実体を持っているらしく、スライムの触手は直接俺の体では無く、その上に浮かび上がっている黒衣と骨の体に巻きついている。

 ジュウっというあの溶解音も聞こえてこない、どうやらこの死神にはスライムが持つ酸性などリトマス試験紙をギリギリで赤に変色させるレベルの弱さしか感じていないようだ。

「行ける、コイツなら――」

 俺の意思で動く死神、そして、相手の攻撃を完全に無効化する強靭な肉体と、腕の一振りで触手を端から吹き飛ばすほどのパワー。

 そうだ、今の俺は、

「スライムを倒せるっ!」

 戦う、というコマンドを選べるほどの‘力’を得たのだ。

 理由も原理も原因も、今はどうでもいい。ただ、目の前に現れた敵を倒すのに、俺は全力を注ぐ。考えるのは全部、後回しだ。

「はああっ!」

 我武者羅に体を躍動させると、束となって全身に絡みつく触手はあっさりと千切れ飛んでいった。

 俺の突然のパワーアップに、そもそも感情を司る器官など存在しないのか、スライムは淡々と新たな触手を形成しつつ包囲網を狭めるよう動くのみ。

 圧倒的な数の差はしかし、今の俺にとってはさほど脅威に感じられない。それはそうだろう、一体誰がただの動くゼリーに囲まれたくらいでビビるというのだろうか。

「おらっ!」

 一歩踏み込み、正面にいるスライムに向けて拳を叩き込む。狙いは中心で輝く赤色の結晶、恐らく核と思われる部位。

 死神の拳はその大きさも相俟って、バレーボール大の鉄球のような威圧感を放ちながら、寸分違わず核にぶち当たった。ゼリー状の肉体は拳の威力を相殺する役にはほとんどたたず、ただ派手に撒き散らされるだけ。

 恐らく俺の腕力の何倍もの威力を持つだろう打撃を受けたスライムの核は、ガラス細工を床に叩き付けた時と同じような音と様で、木っ端微塵に砕け散った。

 弱い、脆い。この死神の力を前にすれば、スライムは多くのゲーマーが思い描くイメージ通りの雑魚に成り下がる。

 すでに、生殺与奪の権利は俺にある。

 そして、同胞の一体が殴り殺されても、全く引く様子を見せないのだから、後はもう、全て叩き潰すしかないだろう。

「やってやるぜっ、うぉおおおお!」

 猛然とスライム軍団に突撃を敢行する。作戦も何も必要ない、真正面からひたすらに蹴散らせばそれで事足りる。

 手の届く範囲のヤツは殴りつけるか、そのまま腕を薙ぎ払うだけでもスライムの肉体は面白いように弾け飛ぶ。

 前方に集中していれば、当然背後から攻撃は受ける。断続的に飛来する触手は胴や手足に絡みつき、時には本体ごと体当たりしてくるヤツもいる。

 だが、その程度の攻撃では全く死神の体は揺らがない。動きを拘束するはずの触手は蜘蛛の巣が絡みつくより気にならないし、体当たりにしても子供とドッジボールした方がまだ衝撃を感じる程度。

 効きもしない攻撃をものともせず、俺は片っ端からスライムを叩き潰していく。

 核を殴る、体ごと蹴飛ばす、触手を掴んでぶん投げる。格闘の技も何もない、ただ力まかせの攻撃はしかし、この脆いゼリー共を駆逐するには十分な威力があった。

「はぁ……はぁ……流石に、疲れたな……」

 どれだけの時間、この狭い境内で暴れまわっていただろうか。気がつけばスライムの群れは半分以上が砕けた核と飛び散ったゼリーへと姿を変えた。

 そこまで一方的に蹂躙され、ようやく己の不利を悟ったのか、ちらほらと生き残ったスライムは林の向こう側へと引いていった。

 後には、カップゼリーを満載した運送トラックが横転事故を起こしたかというほど派手にぶちまけられたスライムの残骸と、息のあがった俺だけが残され、神社には再び静寂が戻ってくる。

「や、やった、助かった」

 脅威が去ったことで、一気に緊張感が抜け、へたり込むようにその場で座り込んだ。

 直接地面に座るのはどうか、スライムの死骸って汚くないか、だとかは一切気にしない。気にするほどの余裕は無いというべきか。とにかく今は安堵感で胸が一杯で、このまま生の素晴らしさを賛美する歌でも口ずさんでしまいそうな気分だ。

「けど、コイツはいつまでこのままなんだ?」

 助かったのは良いが、次なる問題は俺が纏っている死神である。

 スライムを追い払う大活躍を俺と一緒にしてくれたワケだが、結局コレが何であるのかは、この死闘を通しても特に明らかになるものでもなかった。未だもって、コイツは正体不明の死神でしかない。

「なぁ、お前は一体、なんなんだ?」

 とりあえず、俺の思い通りに動いてくれたこと、こうして出現していても体に異変など感じないことから、初対面? の頃より俺の警戒心は薄れている。

 思わずフレンドリーに話しかけてしまったが、うん、やはり答えは返ってこな――

「ん?」

 今の今まで俺の腕と神経が直接繋がっているかと言わんばかりの様子だったのだが、その腕が何と勝手に動き出してしまった。

「おいおい、いきなり、どうした?」

 俺の問いかけなどお構い無しに、死神ハンドは足元に転がっている半分に砕けたスライムの核をヒョイと拾い上げた。

 次の瞬間には、大口を開けた髑髏の口腔へ放り込まれる。半透明の体からいって、そのまま通り抜けて俺の頭の上に核の残骸が落っこちてくるんじゃないかと思ったが、ボリボリと咀嚼する音が聞こえてくるだけで、ここからでは見えない胃袋に治まってしまったようだ。

 そして、手の届く範囲にある核の赤い破片を拾っては、次々と食べていく。

「なんだ、お前、腹へってたのか?」

 予想の斜め上をいく死神の行動に、俺はそんな台詞しか出なかった。

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