表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/13

第五章 討伐(1)

 翌日。場所は小夜子ちゃんと初めてリアルで出会った時に訪れた、寂れた団地公園。

 時折聞こえてくる車の音がしなければ、夢の世界にいるのかと錯覚してしまうほど人気が無い。

 公園に一つだけ設置されているペンキの剥げかけたベンチに座る俺と小夜子ちゃんを包む雰囲気はどこまでも重苦しい。

「麻耶は、眠ったまま目覚めないって聞きました。きっと、羽山君たちも同じだと思います」

 そんな話を小夜子ちゃんから聞かされれば、暗くなるのは当然だろう。

 まぁ、泣き喚いてパニックになるよりかは遥かにマシだ。俺も彼女も、まだ少しは冷静に考える最低限の余裕は持てている。

 それでも全く恐怖がないわけではないのだろう。小夜子ちゃんはその身を寄せて、俺の肩へと小さな頭を預けてくる。

「あの悪魔の所為、ですよね……」

 否定したいところだが、原因はやはり、それしか考えられない。

 つい昨晩に見た夢の記憶が蘇る。突如として現れた山羊頭の悪魔(バフォメット)。捕えられた羽山。もし、小夜子ちゃんが助けに入ってくれなければ、俺もどうなっていたか分からない。

 いや、ここは彼女が言ったとおり、睡眠から目覚めない植物人間状態になっていたのだろう。

 白嶺学園五年二組では、クラスメイト四名が入院したのだと今朝、担任から伝えられたらしい。坂本が目覚めない、という情報を小夜子ちゃんが知っていたのは、友人として電話で聞いてみたからだ。

 状況が状況だけにあまり詳しく彼女の事情は聞けなかったが、それでも昨日から桜木中央病院に入院していること、眠りから醒めないこと、その原因はまだ不明なこと、その三つは教えてくれたようだ。

 羽山ら三人の元へは電話をかけていないが、急病で入院したという情報から鑑みれば、彼らも坂本同様、眠りから目覚めない症状なのは明らかだ。

 医者には彼ら四人の子供達が何故、目を覚まさないのか絶対に分からないだろう。そして、俺達が心当たりを話しても、信じるはずが無いし、対処のしようもない。

 状況から考えて、羽山ら四人は前々回の夢の時点で悪魔に襲われたのだろう。

 昨日の段階で、坂本麻耶、佐藤崇、山田弘樹の三人は学校を急病で欠席したと伝えられた。昨日の朝になって、初めて目が覚めない事が発覚したのだろう。

 そして昨日は羽山の様子がおかしかったと小夜子ちゃんは言っていた。これも今思えば当たり前の反応だ、羽山は彼ら三人が悪魔に捕えられるシーンを目の前で見せつけられたに違い無い。

 それこそ俺と同じように、運よく羽山だけが魔の手から逃れて生き残ったのだ。その時だけは、なんとか。

「たぶん、悪魔はまだ夢の世界にいるだろう」

 二回に渡って夢に登場したのだ、三回目で都合よくいなくなるはずが無い。

「それに羽山たち四人も、どこかに捕まっているだけで、生きていると思う」

 夢の世界で死ねば現実でも死ぬ。これはあくまで仮説でしかないが、それでもあの夢を経験したことで、何となく直感的に信じられる感覚だ。

 故に悪魔に捕えられているから意識が夢の世界にあるままで、現実で目が覚めないのだ。

 果たして、悪魔がどんな方法で彼らを捕らえているのかは全く不明だが、それでも、そんな気がしてならない。

「だから、悪魔を倒して助け出すことが出来れば、目が覚めるんじゃないかと思う」

「そうですね、私もそんな気がします。でも……」

 それは無理だ。あの悪魔はそこらの雑魚モンスターとは格が違いすぎる。

「けど、俺がやらないと、アイツらは絶対に助からない」

 それに今の状態がいつまでも続くとは思えない。

 一週間後、一ヵ月後、一年後、彼らが眠り続けたままというだけで済むのだろうか? いや、そう遠くない内に命を落とすと考える方が自然だ。もしかすれば、明日か明後日にでも心臓の鼓動は止まってしまうかもしれない。

「早く助けないと、きっと手遅れになる、だから――」

「いいんです、黒乃さん」

 台詞は途中で遮られた。小夜子ちゃんの日本人離れした青く澄んだ瞳が、真っ直ぐ俺を見つめている。

 口には出さない、出せない、本心を見透かすように。

「助けになんて、行かなくていいんです。一緒に悪魔から逃げましょう」

 友達を見捨てるのか、なんて、言えるはずが無い。

 小夜子ちゃんは幼いながらも慈愛すら感じられる微笑を浮かべて言い放った。保身の為なんかじゃない、ただ、俺に気を遣ってくれているだけなのだ。

 羽山達を助ける、と口では簡単に言える。だが、命を賭けて悪魔と戦うことを、俺は本当に覚悟できているのだろうか?

 答えは否だ、だからこそ彼女の言葉をすぐに否定できなかった。そして結局のところ、それが俺の本心なのだ。

「あの悪魔はきっと、みんなのエクストラを相手にしても勝ったんです。倒すのは絶対に無理ですよ」

 分かっている、勝算なんてまるで無い。全力で殴ってもビクともしなかった、あんなヤツを倒せる気がしない。

「でも、逃げるだけなら何とかなりますよ。霧の所為で遠くまでは行けないですけど、それでも私、黒乃さんと一緒なら耐えられます」

 そうだ、霧に閉ざされた夢の世界は正しく檻と呼べる。悪魔の放り込まれた、逃げ場の無い牢獄。

 もし俺が勇んで悪魔に挑み、あっけなく敗北すれば、小夜子ちゃんはそんな場所で一人きりになってしまう。

 たった一人で悪魔から逃げ続ける。そんな状況、小学生の女の子じゃなくても耐えられるはずが無い。

「だから黒乃さん、無茶なことはしないで、ずっと、私と一緒にいてください」

 俺は一体、どこまで小夜子ちゃんに気を遣わせればいいのだろう。

 もっと子供らしく、高校生の俺に無茶を言ってもいいはずだ。友達を助けろ、悪魔を倒せ、泣いて、喚いて、叫んで、全ての責任を押し付けるべき。

 けれど、無茶を言っているのは俺の方だった。悪魔なんて倒せるはずがない、勝機も無い。なのに、見知った子供を見捨てたくない、という半端な正義感と罪悪感の為に、助けに行くべきだ、なんて口にしている。

 それを、そんな情けない事しか言えない俺を、彼女は体良く逃げ道を作ってくれたのだ。悪魔から逃げよう、彼らは見捨てよう、そんな台詞を俺から口にしなくとも済むように。

 小夜子ちゃんの慈しむ様な微笑みを、もう俺は直視していられなかった。

「分かった……一緒に逃げよう、小夜子ちゃん」

 代わりに出てきたのは、悪魔に対する事実上の敗北宣言だった。




「お兄ちゃん、朝ぁー、起きてぇ」

 とろけるような甘い声音と共に、ほどよく体を揺さぶられる。

 半ば覚醒しかかっていた意識は、その刺激をきっかけとして一気に現実の目覚めへと導かれた。

「おはよう、亜理紗ちゃん」

 いつの間にやら、この可愛らしいモーニングコールが、実家から持参してきた目覚まし時計の仕事を奪い去っていた。ガンガンと喧しいだけの機械音よりも、目覚め心地は圧倒的にこちらの方が良い。

 しかし、たまに人間の幼児一人分の体重を腹で受け止めねばならない朝もあるというのが玉に瑕である。

 今回は当たりのようで、健やかな朝が俺に訪れてくれていた。

「お兄ちゃん、おはよっ!」

 と、元気の良い挨拶を残して走り去っていくパジャマ姿の亜理紗ちゃんを見送った俺は、そそくさと着替えを始める。

「……今日は助かったな」

 幸いにも、昨晩は例の夢を見なかった。

 前回の夢は二日連続だったので、周期性を鑑みれば三日連続というのはありえない。少なくとも、今までは一度も無い。

 だが、それも絶対に信用できるものではない、所詮はただの経験則に過ぎないのだから。もしかしたら、これからは毎日あの夢を見るなんてこともあるかもしれない、

 どうであれ、昨日は夢を見ずに済んだこと、それと、今日か明日にでも夢を見るだろうことは確かだ。その時は、果たして本当に悪魔から逃げおおせるのかどうか、大いに不安が残る。

 暗い思考を振り払うように、俺は努めていつも通りに朝の準備を着々とこなしていく。用を済ませ、顔を洗い、歯を磨く。

 そして、そこそこに空腹感を覚えながら、すでに朝食の配膳されている食卓へと着く。

 ここまでは、いつも通りだった。

「次のニュースです、桜木市内で小学生の児童が相次いで意識不明になる――」

 テレビに映るニュース番組から流れたキャスターの一言が、箸に伸ばしかけた俺の手を止めた。

 弾かれたように画面に目を向けると、そこには坂本が入院しているという桜木中央病院の白い外観が映し出され、事の詳細が語られていた。

 俺にとっては事情を聞くというよりも、確認の意味合いの方が強い。

「原因不明ですって、なんだか怖いわね」

 亜理紗ちゃんの横で席に着いた百合子さんが呟いた。俺には「そうですね」と言うより他は無い。

 ニュースで語られたのは、四人の小学生が突如として朝目覚めなくなってしまったこと、原因が不明なこと、今も意識は戻らず入院していること、おおよそこれら三点だった。

 考えるまでも無く、この小学生四人とは羽山たちのことだ。

 いざ、こうして地方ニュースとして放送されると、事の重大性を実感する。もしかしたら、明日にはこのニュースに俺も名を連ねることになるのかと思えば、尚更である。

「真希那くん、なんだか顔色が悪いわよ。もしかして体調が優れない?」

「お兄ちゃん、お腹痛いのー?」

 どうやら俺は、傍から見ても明らかなほどに顔を青ざめさせていたらしい。こんな体たらくで「助けに行く」だなんて言っていたのか、とんだお笑い種だ。

「いえ、大丈夫です」

「そう? さっきのニュースもあるし、変な病気が流行ってなければいいけど」

 もし、俺が悪魔に捕まって目覚めなくなったら――いや、やめよう。

 何気ない日常の一コマに紛れ込んだ悪夢の残滓は、俺に保身のみを考えさせるだけの脅威があった。

 俺は死なない、死にたくない。どこまでだって、逃げてやるさ。




 予想通りと言うべきか、俺はその日の晩に、夢の世界へと誘われていた。

「悪魔は――いないか」

 傍らに寄り添うように立つ小夜子ちゃんが小さく頷きを返す。

 前回、彼女に抱えられて遁走した結果、春風山の麓に広がる住宅地の一角に俺達は紛れ込んでいた。 前後に伸びる路地と小さな十字路が連続する碁盤の目上に整備された住宅街は、あまり見通しが良いとは言え無いものの、流石に二メートル超の悪魔が現れればすぐに発見できる。 

 悪魔の影が見えないことに安堵の息を吐きつつ、これからのことを考える。

「良かった、とりあえずエクストラは戻ってるみたいだ」

 感覚的に、死神が未だに俺の体に宿っていることが理解できる。

 もしかしたら、ああやって消えてしまったら二度とエクストラが発動できなかったかもしれないと思ったが、どうやら杞憂で済んだようだ。

「黒乃さん、どこかに隠れた方がいいんじゃないですか?」

 小夜子ちゃんの進言はもっともだ。相手が一人であるならば、下手にウロつくよりも、どこかに隠れていたほうが目を逃れやすい。

 霧で囲まれているとは言っても、その面積は数キロ平方メートルもある。まして数多の建築物が建ち並んでいれば、死角は無数に生まれる。

 だがしかし、である。

「いや、一箇所に隠れるよりも、移動を続けた方がいいと思う」

「そうですか、じゃあそうしましょう」

 晴れて仲間とのコンセンサスがとれて、いざ行動開始――とは、いかない。というか、いけない。

「えーと、理由とか聞かないの?」

「黒乃さんの言う事、信じてますから」

 えらく真っ直ぐな答えが返ってきたものだ。小夜子ちゃんの真摯な視線を正面から見つめれば、彼女が冗談で言っているのでは無いと分かる。

「それじゃあ、歩きながら聞かせてください、立ち止まっているのは危ないんですよね?」

 やはり、この子は頭がいい。

 隠れるよりも移動を選択する理由が分からずとも、俺がソレを選んだというだけで、一箇所に留まる危険性が有るのだと理解してみせたのだから。

 ひょっとしたら、俺は小夜子ちゃんに試されているんじゃないだろうか、なんて邪推を思わずしてしまう。

 たまに子供らしい無邪気な笑みを見せてくれるものの、彼女はやはり相当に小学生離れしたところがあるのに違いは無い。

 そんな感想は胸の奥に仕舞いこみながら、小夜子ちゃんの言うとおり、ひとまずは移動を始めると共に、隠れる案を否定するに足る理由も語る。

「あの悪魔が夢に現れたのは恐らく前々回、そこでまず坂本たち三人を捕らえた」

 これは前に予測した通り、小夜子ちゃんも小さく頷いて肯定を示す。

「それで、前回には羽山を捕まえた。悪魔が二回連続で獲物を捕らえることが出来たのは偶然じゃない。恐らく、アイツは俺達がどこにいるか探知する能力を持っている」

 それが犬の鼻のような動物的なものなのか、勘のような直感的なものなのか、はたまた衛星から監視するような科学的なものなのか、具体的な原理は不明だが。

「なるほど、それじゃあ隠れていても無駄なんですね」

「ああ、どうせこっちの居場所が特定されるならなら、適当に移動していた方が時間を稼げるだろう」

 そもそも悪魔がそんな能力を持っておらず、二回の遭遇は偶然だった可能性もある。

 だが、それを信じるよりも、探知能力有りと想定して行動するほうが、相対的に危険度は下げられるはず。

 ついでに、俺達が最後に居た場所から次も現れるという、夢の‘再スタート’のことを知っている、つまり待ち伏せしているだけという可能性もあったが、今、目の前に悪魔がいなかった時点でこれは否定される。この辺は悪魔も他のモンスターと同じなのだろう。

「けど、これでどれくらい時間稼ぎになるかは分からないけど」

 やらないよりはマシだろう、というくらいなものだ。

「とりあえず、いつ襲撃されてもいいように警戒しながら進もう。それと、どうせ向こうが俺達の居場所が分かるなら、堂々と表通りを歩こうか」

 下手に入り組んだ路地よりも、見通しの良い広い通りの方が悪魔の接近を早く察知できる。無論、向こうも見つけやすいだろうが、探知能力があると思えばそれほどデメリットにはならない。

「あの、黒乃さん……」

「どうした、何か不明な点でも?」

 モジモジと少しばかり言いづらそうな素振りの小夜子ちゃん。もしかしたら、俺の策にとんでもない穴でもあったかのか。

 女子小学生にダメ出しされる高校生の作戦って……と思うが、相手が小夜子ちゃんなら仕方ないだろう。

 俺はどんな批判が来ても真摯に受け止める覚悟を決めて、彼女の言葉を待った。

「手を、繋いでも……いいですか?」

 思わず、立ち止まってしまいそうになった。予想の遥か斜め上を行く申し出に少々、いや、かなり驚いた。

「あっ、すみません、嫌ならいいんですっ!」

 即答でOKしなかったのがまずかった、小夜子ちゃんはオーバーに手を振って自分の要望をキャンセルしようとしている。

 驚きはしたものの、俺の答えなんて決まっている。

「嫌じゃないよ、ほら、手を繋ごうか」

 彼女が大人びている、と思ったばかりではあるが、だからと言って小夜子ちゃんがまだ小学生だという事実を忘れるのはいけない。

 表立って感情を露わにはしないものの、彼女だってこの悪夢に大きな恐怖を覚えているに違い無い。

 俺なんかが手を握ることで、少しでもその不安を抑えることができるならば、それでいい。

「は、はい、ありがとうございます!」

 不安ではあるが、それでも多少の恥かしさはあるのだろう。小夜子ちゃんの白い頬には仄かに朱が差している。

 それでも、彼女は俺の差し出した手を、しっかりと握り返した。

 骨ばった男の手に、白魚のような指が絡んでくる。温かくて、柔らかい、そんな当たり前の感想しか湧き出てこなかった。

 恋人繋ぎ、なんて呼ばれる互いの五指を絡ませる握り方だと一拍遅れて気がつく。

 勿論、本来の意味どおりでは無いのだろう。小学生の間ではこれがスタンダードだとか。それはそれで、随分とマセているのかもしれないが。

 なんであれ、小夜子ちゃんが嬉しそうに微笑んでくれているので全てよしとしよう。




 果たして、悪魔は現れなかった。

「無事生還、か」

 すでに見慣れた白い天井と、カーテン越しに差し込む柔らかい春の日差しに照らされる自室を目にして、俺は大きく安堵の息を吐いた。

 自然な朝の目覚めを体感した所為か、寝覚めは良く、頭もスッキリしている。

 どうやら今日は、亜理紗ちゃんのモーニグコールのお世話になる必要は無さそうだ。そう考えると、ちょっと損した気分になる。

 それよりも、気になるのはついさっきまで見ていた夢の内容だ。あれほど恐れていた悪魔が影も形も見せなかったことは、少々拍子抜けするところ。

 しかし、これで問題解決と短絡的に喜ぶことも出来ないだろう。悪魔はまだ夢の世界を闊歩しているに違い無い。今回遭遇しなかったのは単なる偶然か、それとも別の要因か。

 どちらにせよ、あの悪魔について分かっていることはその姿形くらいなもので、本質的なところは何一つ明らかになっていない。

 もしかしたら、俺の懸念した探知能力も、本当に持っていないのかもしれない。分からないことだらけで、今回の事も何か裏があるんじゃないかとかえって不気味に思えるほどだ。

 とりあえず、何時までもベッドの上で考え込んでいても仕方が無い。現実には現実の生活があるのだから。

 寝巻き代わりのスウェットを脱ぎ捨て、現実でも夢でも着ている学生服に袖を通しさっさと着替えを済ませる。準備完了。

 枕元にある目覚まし時計を見れば、すでにいつもの起床時間を僅かに過ぎる時刻を示している。

 そういえば、今朝はまだ亜理紗ちゃんが起こしに来ないな、なんて思った時だった。

「――亜理紗っ!」

 ドアの向こう側から、そんな百合子さんの声が聞こえてきた。

 普通に考えれば、今朝に限って寝起きの悪い愛娘を起こそうとしているのだと思えるが、その声音にはどこか焦燥を感じさせた。

 亜理紗ちゃんに‘何か’あったのか。直感的に嫌な予感が脳裏に過ぎる。

 次の瞬間には、弾かれるように自室を飛び出し、百合子さんの声が聞こえる寝室に真っ直ぐ向かった。

「百合子さん、亜理紗ちゃん、どうかしたんですか?」

 寝室のドアは開かれたまま、ノックする手間が省けたとばかりにそのまま踏み込んで、俺はダブルベッドの脇に立つエプロン姿の背中に声をかけた。

「あっ、真希那くん……」

 振り返った百合子さんの表情は、一目見てわかるほど不安と動揺を露わにしていた。

 これまで優しく微笑んできた姿しか見てない俺としては、その悲哀の表情に少しばかり胸が締め付けられる思いだ。

「亜理紗が――」

 一方、ベッドに仰向けで寝転ぶ亜理紗ちゃんは、すぅすぅと小さな寝息を立てて、安らかに眠っている。

 母親が傍で呼びかけ、その両手で体を揺すっていても。

 ゾクリと、冷たいものが背筋に走る。

 何か、自分がとりかえしのつかない失敗を犯してしまったような、足元が崩れ落ちるような感覚。

 嘘だ、ありえない、そんな馬鹿な――現実を否定する言葉ばかりが頭に浮かび上がるが、どれ一つとして声にはならなかった。

「亜理紗が、目を覚まさないの」




 眠り姫と化した亜里沙ちゃんは、そのまま桜木中央病院へと救急車で搬送された。

 羽山に続き、新たに五人目の犠牲者が現れたことで、病院側にも少なからず動揺はあったことだろう。

 もっとも、だからといって亜理紗ちゃんに特別になにか手当てや、まして手術なんて出来るはずも無い。そもそもの原因が不明なのだ、精々が頭の天辺から足の先まで精密検査をするのが関の山だろう。

 病院にはどこか虚ろな目をした百合子さんを残し、俺は一人で黒乃家へと返された。

 亜理紗ちゃんについていたいという気持ちはあるが、俺が居たところでどうなるものでもない。かえって百合子さんにも余計な気を使わせてしまうかもしれない。

 そうして、どこまでも役立たずの俺は帰ってきたわけなのだが、まだ自分の無能に喘ぐ暇は無い。

 確かめねばならない、亜理紗ちゃんが‘あの夢’を見ていたのかどうかを。

 つい今朝方までの俺ならば、全く考えもしなかった可能性ではあるが、事ここに至ってはそうだとしか思えない。

 単なる偶然や謎の病気によって、亜理紗ちゃん達五人が目覚めなくなったワケじゃないのは間違いない。四人目の羽山までは、確実にあの夢を見ていたことは紛れも無い事実である。

 そして如何なる方法を用いているのか、悪魔に捕らえられると現実に意識が戻ってこなくなるのだ。ならば、亜理紗ちゃんも夢の世界で悪魔に捕らえられたのだと考えるべきだ。

 俺は一つだけ思い当たった事を確認するために、玄関を潜るなり真っ直ぐ寝室へと向かった。

 幼稚園児の亜理紗ちゃんにはまだ専用の自室は無く、この寝室で百合子さんと一緒に眠っているのだ。基本的に、彼女の私物もここにある。

 少し見渡せば、お目当てのモノは即座に見つかった。

 それは小さめのデスクの上に置いてある『らくがきちょう』だ。いつか俺も一緒にお絵かきをして遊んだ時にも、亜理紗ちゃんが使っていたもの。

 そしてあの時、彼女は確かにこう言っていた。

「えへへー、亜理紗ね、リリィなの!」、と。

 憧れのヒーローやヒロインになりきる、単なる子供のごっこ遊びだとしか思わなかったが、もし、亜理紗ちゃんが夢の世界の住人であるならば、その意味合いは大きく異なってくる。

 それは前に小夜子ちゃんが教えてくれた、俺にだけ当てはまらない一つの法則性。

「えっと、エクストラは、アニメやゲームのキャラクターが元になっているみたいなんです」

 そう、亜理紗ちゃんは『フェアリープリンセス・リリィ』のエクストラを持っている可能性がある。

 俺はそれを確かめる為に、亜理紗ちゃんが‘夢の中の自分’を描いたであろう落書き帳を開く。

 最初のページに描かれていたのは、金髪に緑の瞳をした、原作どおりのリリィの姿。

 それから数ページに渡って、リリィや他のアニメ作品のキャラクターが色とりどりのクレヨンで描かれている。たまに何を描いているのか全く不明のものもあるのが幼稚園児らしい。

 しかし、とあるページからリリィの姿は黒髪黒目に変わった。

 その衣装と特徴的な妖精の羽はそのままに、そこに表現されるのは紛れも無く亜理紗ちゃん自身の姿。

 それが彼女の空想によって生み出された存在ではないことを証明するかのように、落書き帳は夢の世界の現実が綴られていた。

「これは……スライムか」

 リリィに変身している亜理紗ちゃんは、アニメの中にいる本物に負けじとばかりに戦っていた。

 星型のついたステッキを振るって七色の光線を放つ彼女の相手は、青いグルグルに中心だけ赤い円が描かれた饅頭のような丸い物体。

 俺は‘本物’を見たことがあるからこそ、コイツの正体がスライムだと判別できた。よく見たら、体から触手を伸ばしているのも表現されている。

 それからページを捲るごとに、俺はいよいよ確信を深めていく。

 亜理紗ちゃんの敵はスライムから始まり、緑色をした小さな人型、赤色の四足歩行と、お馴染みのモンスターの特徴を持った者たちが登場した。

 最後に描かれたページには、黒い服を着た緑の人が、赤い四足の獣に跨っている姿がある。紛れも無く、コイツはゴブリンライダーだろう。

 俺は最後に、一緒にお絵かきをしたあの時に亜理紗ちゃんが描いていたページをもう一度確認した。どうして、この時にすぐ予想しなかったのだろうか。彼女もまた夢の世界に囚われた一人であったことに。

 ヒントは十分にあった。ここに描かれている水平線に向かって沈む大きな赤い太陽は、子供の思い描くステレオタイプな朝日ではなく、あの夢特有の夕暮れを表現していたのだ。

 唯一の救いは、そこで空を飛ぶように描かれている亜理紗ちゃんの姿が笑顔でいることである。

 モンスターが闊歩する世界でも、リリィの能力を使える夢の中は、彼女にとって不安よりも楽しさが勝る素敵なものだったのだろう。

 出来ることならば、そのまま楽しい夢を見続けていて欲しかった。

 だが、それは昨晩から、悪夢へと変貌してしまった。

「俺が、逃げたからか……」

 ふつふつと湧き上がる後悔。俺が悪魔に対して逃げの一手を打ったから、狙う順番が変わったのだろうか。

 恐らく、亜理紗ちゃんが夢の中で居たのは自宅である黒乃家だと思われる。

 リリィのエクストラで飛行能力も獲得しているならば、幼稚園児でも春風神社からこの家まで帰ってくることも出来る。

 その後は、日常的に家の周りで遊ぶのと同じように、この辺に出没するモンスターを相手にしていた。あまり遠くまで離れて行かなかったのは、百合子さんの教育の賜物だろう。

 だが悪魔にしてみれば、街中を逃げ回る俺達よりも、この家の周辺から動かない亜理紗ちゃんの方こそ狙いやすかったに違い無い。

 逃げたりしなければ、悪魔は俺を先に狙ってくれただろうか。

 いいや、中途半端な偽善でも正義感でも、何でも良いから羽山達を救うために戦いを挑むべきだった。もしも悪魔を打倒できていれば、亜理紗ちゃんに怖い思いをさせずに済んだ。

 しかし、そんな事を悔いたって今更に過ぎる。

 昨日までの俺は、生き残る為に最善策をとっていたのだ。無論、悪魔を倒す方法も考えつかなかった。そもそも俺が先に捕まっても、それで亜理紗ちゃんが救われるわけじゃない。数日だけ早いか遅いか、ただそれだけの違い。

「いや、違う……そうじゃないだろ」

 そうだ、無為に思い悩んでいる場合じゃない。そんなことを考え続けたって、何の解決にもなりはしない。

 解決、そう、この最悪の事態を俺は解決したい、しなければならない。

 率直に言って、俺には羽山達のように一度会っただけの子供を助ける為に命をかけられるほど勇敢にはなれない。

 だがしかし、それが妹のように可愛い従妹となれば話は別だ。亜理紗ちゃんと俺は、すでにして仲良くなりすぎた。

 悪魔が怖いからといって、見捨てられるほど軽い存在じゃない。

 そして何よりも、俺がもう一度、あの愛らしい笑顔を見たいと願って止まないのだ。

「亜理紗ちゃんは、俺が助ける」




 亜理紗ちゃんを助ける、すなわち、悪魔と戦うことを覚悟した俺は、直後に家を飛び出した。

 時刻は正午を僅かに過ぎており、朝食も摂っていない俺の胃袋は空腹を訴えかけていたが、我慢しろと一方的に言い聞かせながら、俺は一心に足を動かし続けた。

 向かう先は、白嶺学園の通学路となる表通り。桜木高校ではない、学校なんぞ今日は欠席だ。

 そして目的は勿論、唯一の仲間である小夜子ちゃんに会うためである。

 果たして、どの面下げて俺が会えるというのか悩ましくあるもの、それでも彼女と話をつけなければならない。

 白嶺学園の校門前で待ち伏せていれば確実なのだろうが、流石にそれだと不審者として通報されかねない。

 俺と小夜子ちゃんは現実的に見ればどこまでいっても高校生と小学生。亜理紗ちゃんと違って血のつながりも無い、赤の他人である。堂々と友人です、と宣言した所でどれほどの人が納得を示すだろうか。

「……下校時間はまだか」

 例のコンビニの前までやってきたが、未だ濃紺のブレザーにランドセルを背負った小学生の姿は見えない。

 小学五年生の下校時間って具体的に何時頃だったかなと考えるが、どうにも思い出せない。

 俺は無為に時間を潰しながら、ひたすらに小夜子ちゃんが現れるのを待つ。今の俺と目的だけを見れば、言い逃れしようもないほどに不審者だな。

 だが事情も事情である、世間の目を気にするほどの余裕は、今の俺には無い。

 そういえば、現実で小夜子ちゃんと会う時は、向こうから声をかけてくれた。きっと、今の俺のように下校するタイミングを待っていたんだろう。

 そうして、どれだけの時間が経っただろうか、ちらほらと小学生の黄色い声が道行く人に混じり始める。

 そろそろかと思えば、予想を裏切らずに彼女は姿を現した。

 その煌く白銀の長髪は、他の子供に混じっても強烈な存在感を放っている。人違い、なんてことは有り得ない。

「小夜子ちゃん」

 幸い、とでも言うべきか、一人で歩いていたお陰で声をかけやすかった。

「えっ、黒乃さん!?」

 どこか人形のような無表情で歩いている小夜子ちゃんだったが、俺の声に気づいて弾かれるようにこちらへ顔を向けたその時には、歳相応の愛らしい笑顔が咲いていた。

「今日は早いですね、学校はもう終わったんですか?」

 そういえば、俺の格好は朝に着替えた学ランのまま。普通に俺も放課後みたいな装いである。

「いや、そういうワケじゃないんだけど――」

 詳しい事情を説明するのは、後で良いだろう。

「あっ、とりあえず、公園に行きましょうか?」

「ああ、そうだな」

 俺は何と言って切り出すべきか未だに悩みながら、夢の中と同じように小夜子ちゃんと連れ立って歩き始める。

 結局、この寂れた児童公園に到着するまでの数分の間にも、良い答えは出なかった。

「今日はどうしたんですか? 黒乃さんの方から会いにきてくれて、少し、驚いちゃいました」

 これをそのまま描ければどれほどの名画になるだろうか、と言うほどに素敵な微笑みを浮かべて俺を見つめる小夜子ちゃんの視線が少しばかり胸に痛い。

 俺はこの子を、自分の目的の為に巻き込もうとしているのだから。

 改めてそう自覚できれば、やはり単刀直入に話を切り出すのが一番だと結論が下せた。

「小夜子ちゃん、俺に力を貸してくれないか」

「はい、いいですよ。私が黒乃さんのお役に立てるなら、なんでもします」

 変わらず笑みを浮かべ続ける彼女に、益々胸が締め付けられる思いだ。

 違うんだ、俺の頼みは、そんな二つ返事で引き受けて良いものじゃない。

「俺は、悪魔を倒そうと思う」

 これで分からないはずがないだろう。俺の頼みは、彼女の命を危険に晒す最低最悪なものだと。

「ふふ、何となく、そう言うんじゃないかと思っていました。それでも、私の答えは変わりませんよ」

 だが、小夜子ちゃんは未だに微笑んだまま。そこに一切の拒絶の意思は見えない、全てを受け入れる慈母のように、ただ肯定の言葉を返してくれた。

「いいや、俺はただ――」

 果たして、彼女には俺が友達を救うことを決断したヒーローのように見えているのだろうか。

 だとしたら、それは大きな間違いだ。

 ただ自分の家族が巻きこまれたから助けたいと思った、どこまでも利己的な理由。羽山達の救出など二の次、どう言い訳のしようも無い。

「いいんです、私は黒乃さんの力になりたい、そう思っているだけですから」

 そうして、膝の上で拳を握る俺の右手に、小夜子ちゃんは手を重ねた。

 昨晩に感じたのと全く同じ、その感触はただ柔らかく、温かい。同じ生き物とは思えないほどに白く繊細な手のひらが、優しく俺の強張った手の甲を撫でた。

「だから、本当は理由なんてどうでもいいんです。私は黒乃さんと一緒に戦う、そう決めたんです」

 ああ、これじゃあ逃亡を決めた時と同じだ。小夜子ちゃんは、俺に言いづらい事を言わせない、言わせてくれない。

 小学生の女の子に俺はどれだけ気遣わせればいいのか。いいや、小夜子ちゃんはその見た目通りに天使のような心を持っている、並の子供とはワケが違う。

「ありがとう、小夜子ちゃん」

 俺には、そう返すだけで精一杯だ。

 本当はただ、彼女の優しさに溺れているだけかもしれない。それでも、悪魔を倒す可能性を僅かでも上げる為には、二人で挑むべきなのだ。

 俺は必ず亜理紗ちゃんを助け出す、その為にはどんなことだってする。それこそ、小夜子ちゃんを小学生の女の子としてではなく、一人の戦力であるエクストラ使いとして戦いに参加させようとしたのだ。

 けれど、究極的に、俺には彼女を犠牲にすることは出来ない。

 共に戦いはする、だが、いざとなったその時には、何としてでも小夜子ちゃん一人だけは逃がしてやらねばならない。それこそ、自分の身を盾にしてでも――

「……盾、か」

 その時、俺の脳裏に一つの可能性が閃いた。

「そうか、盾だ」

 それを実行するに必要なのは気合と根性、つまり、俺の覚悟一つで成立する至極簡単、単純なものだ。

「あの、黒乃さん? どうしたんですか?」

「悪魔を倒す方法を思いついた」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ