第四章 悪魔(2)
二日連続での夢見であった。
スタート地点は前回、小夜子ちゃんとの雑談だけで終えた春風神社である。
「あの、黒乃さん――」
と、昨日とは打って変わってどこか不安そうな表情で小夜子ちゃんが切り出す。どうやら良い話では無さそうである。
「――羽山の様子がおかしい?」
その内容は、本当に不穏な話であった。
「はい、何があったのかは詳しく聞けませんでした。でも、麻耶と佐藤君と山田君の三人とも、今日は急病で学校を休んでいました」
この面子を思えば、夢の世界で何かがあったと考えるのは当然だ。
羽山翔太だけは普段通り学校に登校してきたが、終始落ち着かない様子で、まるで何かに怯えているかのようだったらしい。
そして、三人は示し合わせたような欠席。担任教師曰く、急病というだけで、それ以上の情報は語られなかったと言う。
確かに不安を覚える状況ではあるが、だからといって、小学生の小夜子ちゃんがいきなり彼らの情報収集を行う、というのは無理な話だろう。もしかしたら、ただの偶然という可能性もありうるのだから。
「けど、気になるのは確かだな。きっと今は四人とも‘こっち’に来ているはずだから、探してみようか?」
「でも、それは……」
いつも快い返事をくれる小夜子ちゃんだが、その表情は曇っている。
「俺のことなら気にしなくていいよ、友達のこと心配だろ? なら、ちゃんと話をした方がいいよ」
彼らを見つけたら、俺は隅っこの方で大人しくしていれば良いだけの話だ。
小夜子ちゃんは俺が彼らに何か言われるのを気にしてくれているようだったが、相手は小学生だ。少しばかり警戒されたからと言って、ショックを受けるほどグラスハートではない。
「そうですね、分かりました。黒乃さん、ありがとうございます」
「いや、いいさ。それより、何処にいるか分かる?」
「はい、夢ではいつも夜桜公園に集っていたので、その近くにいると思います」
目星がついているなら楽だな。いくら霧によって行動範囲が限られているとはいえ、歩いて探すにはかなりの面積だ。それに、夜桜公園は春風神社を降りればすぐの距離である。
「それじゃあ、行こうか」
羽山翔太はその日、呆然と一日を過ごしていた。
寸でのところで悪魔から逃れたが、だからといって安心など出来るはずもない。
人間が生きる為に睡眠が必要不可欠であるということは小学生でも理解できる。一睡もせずに過ごすことは不可能、普通の人なら三日徹夜が限界だろう。決して夢からは逃れることは出来ない。
ならば今度夢を見た時、あの悪魔が再び現れればどうすればよいか。
少なくとも、まともに戦えないことだけは確かであった。戦力的にも、精神的にも。
そうして翔太は漠然とした恐怖と不安を抱えたまま、一日を過ごすこととなる。非日常の影に怯えながらも、それだけでは日常を繰り返す妨げにはならなかった。
気がつけば、翔太はテーブルで並べられていた朝食を食べていたし、見慣れた通学路を歩いていたし、白嶺学園五年二組の教室の席に座っていた。
ただ、ついに学校へ姿を現さなかった坂本麻耶、佐藤崇、山田弘樹の三人と、昨日と変わらず視線を合わせようとさえしない雪村小夜子の事だけが気にかかった。
もしかしたら、三人は死んでしまったのかもしれない。そして、同じく悪魔の闊歩する夢の世界に閉じ込められている雪村小夜子もまた、彼らと、いや、昨日の自分と同じ運命を辿ることになるかもしれない。
あれほど「小夜子を守る」と口にした翔太だったが、その日はついに彼女へ声をかけることが出来なかった。小学生に、いや、大人であったとしても、自身の生命の危機を前にして、他人の事を気にかけることなど出来はしない。
そして、全くの無為に、無気力に、無意識に過ごした一日は終わりを迎える。
翔太の体はすでにベッドの中。
この直後に待ち受けているかもしれない悪夢に、いよいよ体を震わせて恐怖しながらも、襲い掛かる睡魔には打ち勝てない。
「――っ!?」
目覚めると、翔太は薄暗いコンビニの店内に立っていた。
商品は整然と陳列されており、清掃の行き届いた床に汚れは見当たらない。昨日目撃した荒れた店内とは打って変わって元通りになっていた。
だが、二日連続で夢の世界に囚われてしまったことは、紛れも無い事実だった。それを即座に理解し、思わず息を呑む。
「はっ……はぁ……に、逃げないと……」
ショックで硬直すること数十秒、涙と悲鳴を押し殺して、何とか行動を開始する。
幸いにも、あの悪魔は他のモンスターと同じように、夢が中断されれば目の前からは消えるらしい。以前に戦闘の途中で夢が醒めた時、その次はモンスターの群れはいなくなっていたことを思い出す。
しかし、だからといって夢の世界からあの悪魔そのものが消滅したとは思えなかった。恐らく、どこか別の場所に居るだけだろうと思えてならない。
思考はさらに飛躍する、きっと、悪魔は自分を探しているに違いないと。
翔太は足音を立てないように、そっとコンビニから抜け出す。
外はやはり、いつもと変わらぬ不気味な赤い夕焼け空。陽はそこそこ高い、今日も即座に夢から醒めることはないと一目で分かり、より翔太の心を重くした。
右を見て、左を見て、無人の街であることを確認。悪魔の大きな影は見当たらない。
小さく息を吐いて安堵するが、すぐに道の先から、建物の影から、あの悪魔が現れるんじゃないかという悪い妄想に囚われ、爆発的に不安が膨れ上がっていく。
この夢の世界に居る限り、安心なんて出来ない。
それを肯定するかのように、カツン、と乾いた足音が響いた。
街は無人、故に無音。自分が発するものを除き、何かしらの音が聞こえてくれば、それはすなわち、モンスターの襲来を意味する。
「うっ、あ……」
真っ直ぐに伸びる三車線道路の彼方から、アスファルトの硬い路面に蹄を打ち鳴らして現れる、黒い人影。
海に向かって沈む逆向きの夕陽を背景に、山羊頭の悪魔が迫り来る。
「うわぁあああああっ!」
悪夢の続きが、始まった。
春風神社の長い石段を降り立ったところで、まるで俺達を待っていたかのようにゴブリンと赤犬の集団が襲い掛かってきた。
と、説明すればいつも通りのエンカウントに思えるが、
「な、何だコイツらは……」
そんな疑問の声を漏らさずにはいられなかった。敵はもう何度も遭遇し倒してきたゴブリンと赤犬であることに違いは無い。
だが、ゴブリンが赤犬に‘乗っている’のは、始めてみた。
「わぁ、なんだか暴走族みたいですね」
やけに感心したような台詞を言う小夜子ちゃん。この落ち着きようを思えば、彼女もモンスターとの戦闘には随分と慣れたものだとしみじみ感じる。
それはさておき、小夜子ちゃんの「暴走族みたい」という形容は中々どうして相応しい。
赤犬に跨るゴブリンは、彼らのトレードマークとも言えるような謎の茶色いボロ毛皮を着用しておらず、代わりに、その辺の服飾店から奪ってきたとものと思しき衣服を纏っていた。
ゴブリンの好みはやはり革製品が好みなのか、やけにフサフサしたファーのついたコートや、渋い本革のジャケットや、滑らかな黒いレザージャケットが中心だ。
おまけに光物も大好きなのか、金色のネックレスやシルバーの指輪などをジャラジャラと身につけている。中にはサングラスをかけている者も。お前ら、狙ってやってるだろ。
やけにファッショナブルなゴブリン、いや、赤犬に乗っているからゴブリンライダーとでも言うべきか、ソイツらが何十体も集り、俺達を取り囲んでいる。
なるほど、暴走族に絡まれたら、たしかにこんな感じなのかもしれない。まぁ、このご時勢に現役暴走族は早々お目にかかれないだろうが。
「とりあえず、やる事は変わらないし、さっさと追い払おう」
「はい、黒乃さん」
そんなワケで、新しいスタイルで颯爽と登場したゴブリンライダーズには悪いが、こっちには四人組を探すという目的があるのだ、早々にご退場を願おう。
「行くぞ――」
戦意をみなぎらせ、一歩踏み出した瞬間には、もう俺の姿は死神へと変貌を遂げている。隣には白い槍を握る『聖天使』だ。
戦闘準備完了、いざ、というその時だった。
アオォーン、と遠吠えのように鳴き声をあげる赤犬。威嚇の吼え方とは違うな、と経験則で判断する。
そして、それを証明するかのようにゴブリンライダー達は一斉に方向転換し、そのまま散り散りに逃げ出していった。
「何で逃げたんだ?」
「さ、さぁ?」
向こうから絡んできておきながら、勝手に逃亡するとはどういうことだろうか。俺と小夜子ちゃんのエクストラ能力にビビったのか、と思うが、それだったら今までも逃げ出しているはずである。
だが、何かに怯えるように戦意を一気に喪失していたのは確かだ。
二人そろって疑問符を浮かべていると、遠くのほうからガチャチャと金属音が響き渡ってくるのが耳に届いた。
またしても新手の出現か――いや、この重い音には聞き覚えがある、つい昨日のことだ。
「これ、もしかして羽山のエクストラか?」
「そうですね、『セイバーナイト』の鎧が走っている音だと思います」
どうやら俺の勘違いではないらしい。
「どうしたんだろうな、向こうも俺達を探しているのかな」
けたたましい鋼の足音は、どんどんこちらへ近づいてくるのが分かる。『セイバーナイト』はあの見た目だが、それなりに速く動いていた。
俺に斬りかかってきた時と同じ速度で走っているのだと思えば、もう十秒もしない内に目の前に現れるだろう。
足音はもう、すぐそこの交差点の影から聞こえてくる。
もう一歩踏み込めば、あの白銀の鎧兜がコンクリート向き出しの四階建てアパートの脇から飛び込むように姿を見せるだろう。
「あっ、小夜子――」
果たして、予想通りに『セイバーナイト』こと羽山翔太は現れた。
「――逃げろっ! 早く逃げろぉおおお!」
だが、尋常な様子では無かった。
「おい、逃げろって――」
どういうことだ、と問う前に、
「ぐはぁああっ!」
『セイバーナイト』の白銀のブレストプレートを突き破り、その胸元から巨大な刃が飛び出した。
背後から刃物で刺された。そう直感的に理解できるが、あまりに唐突な出来事に、唖然として声が出てこない。
「がっ……あ……」
苦痛の声を漏らしながら、『セイバーナイト』の巨躯はフワリと浮かび上がる。刺さった刃が持ち上げられたからだ。
そして、次の瞬間には人形でも放り投げるように、白銀の鎧兜が宙を舞った。
そのまま民家のブロック塀に盛大な金属音と破砕音の二重奏を轟かせて激突。吹き上がる粉塵と共に、『セイバーナイト』を構成する鋼の肉体が幻のように消失していく。
一連の攻撃によって、エクストラ能力が強制的に解除されたのだろうか。そこに勇壮な白騎士の姿は無く、ぐったりと身を横たえる少年が一人いるだけ。
事ここに至って、ようやく状況の理解が追いつく。羽山翔太が、やられた。
「な、何だコイツ……」
そして、その犯人も今この瞬間に姿を現した。
ソイツを目撃して出てきた第一声は、ゴブリンライダーを見たついさっきの台詞とほとんど同一だが、そこに篭めた感情はまるで異なる。前者はただの困惑、後者は、紛れも無い恐怖だ。
「……悪魔、なのか」
下半身が獣、上半身は人、そして頭部が雄雄しい二本角を生やしたその姿は、正しく悪魔。より正確に言うならば『バフォメット』と呼ばれる存在と瓜二つだ。
大きさは凡そ俺の死神と同じ程度、ならば、ひょっとしたらコイツもエクストラ使いの可能性があるのかもしれないが、目の前で羽山を襲う凶行を見せ付けられれば、どちらにせよ、敵対関係になるのは避けられないと直感的にも理性的にも判断できる。
悪魔は分厚い蹄をカツカツと鳴らしながら、ゆったりと歩み始める。
恐らく向こうも俺達の姿を認識しているのだろうが、特に反応を示さず、視線も体も真っ直ぐに倒れる羽山へ向けられている。
一体、羽山に何をしようというのか。
いや、考えるまでも無く最悪の想像が脳裏を過ぎるが、右肩に担がれている『セイバーナイト』を一撃で葬った巨大で凶悪な鎌が、俺に一歩踏み出すのを躊躇させる。
もしアレを喰らえば、俺の死神も一発で消滅しそうだ。
幸いにも、胸元を貫かれたはずの羽山の体には、外傷も見あたらなければ、出血している様子も無い。エクストラを纏った状態で受けた攻撃は、直接的に肉体へフィードバックはしないのだろう。
だが、苦しげに声をあげていたことを思えば、その痛みはしっかり感じるのかもしれない。
これまでの群れるモンスターと異なり、圧倒的な存在感を放つ悪魔を前に、内心で冷や汗を流しながら硬直状態が続く。
どうする、どうすればいい。堂々巡りの思考に囚われている間にも、悪魔はどんどん歩を進め、ついに羽山の元へとたどり着く。
まずい、これ以上はもう、悩んでいる時間がない。
「さ、小夜子ちゃんは、下がっててくれ……」
この時、ようやく俺の喉が発声を許してくれた。覚悟を決めた、とでも言うべきか。
「え、黒乃さん――」
「羽山を助ける」
エクストラ、なんていう大げさな力を与えられたんだ、ここで見捨てる選択は出来ないだろう。ヒーローに憧れる、ってほどでは無いが、それでも躊躇無く子供を見捨てられるほど、クズでもないつもりだ。
「行くぞ」
自分を励ますように、小さく一つ呟いてから、俺は死神の歩みを進める。
幸運、とでも言うべきか、悪魔は生身の羽山へ凶刃を振るってトドメを刺すことはしなかった。捕えるのが目的なのだろうか、悪魔は左手を伸ばし羽山の体を担ぎ上げる。
小学生にしては大きな身長と体格だが、二メートル超の悪魔に抱えられれば小さな子供にしか見えない。
そして、悪魔が羽山を荷物のように小脇に抱えて立ち上がったところで、
「うぉおおおおおっ!」
俺の拳が届く距離まで接近した。
今までで最も気合を入れた一撃。渾身の右ストレートが不気味な山羊頭に炸裂する。
「――っ!?」
インパクトの瞬間、拳に走る強烈な反作用。
コイツ、無茶苦茶硬い。
まるでダンプカーの巨大なゴムタイヤをぶん殴ったような感覚だ。かろうじて生物特有の柔らかさはあるようだが、薄皮一枚下は銅像になってんじゃないかと思えるほどの重量感。
だが、これまで数々のモンスターをブッ飛ばしてきたパワーを誇る死神パンチを喰らい、悪魔の体は大きく傾く。
少しは効いたのか――否、悪魔は山羊の脚を後ろに踏み込んで衝撃に耐えた。結果、倒れる事無く、上体を逸らしただけに終わる。
その時、横に長い特徴的な瞳孔の山羊目が、ついに俺へと向けられた。
目が合う悪魔と死神、どちらも邪悪な風貌だが、こちらは中身が高校生、向こうは真性の化物だ。
背筋に悪寒が走る。思わず泣き叫びたいほどの恐怖を覚えるが、これまでの戦闘経験のお陰か、何よりも優先して体は動いてくれた。
「うおっ――」
素早く後ろにステップを踏むと同時に、眼前を大鎌の刃が凪いでいく。人の腕ほどもあるデカい刃がほとんど見えない。とんでもない速度で振るわれたのだと、バックスップの着地と同時に実感する。
今のはヤバかった。ゴブリンの能力吸収で得た機敏なステップが無ければ、確実に当たっていた。
というか、ゴブリンのスキルはもう獲得してたんだな。
自分で気づくよりも発動する方が先にくるとは、何とも不親切である。もっとコミュニケーションしようぜ死神よ。
そんな事を考える程度には、余裕があった。悪魔が追撃をしなかったお陰だ。
空振りに終わった鎌を再び肩に担ぎなおし、左腕には羽山を抱えたまま。振り出しに戻ってしまったな。
いや、悪魔が明確に俺を意識したことで、もう初撃のような奇襲は許してくれないだろう。
次はきっと、ガチンコの正面対決になるに違い無い。そうなると、刃物を持ってる悪魔の方が断然有利だ。
ちくしょう、こんな事になるなら、武器を持った相手を想定した護身術でも習っておくんだった。
無意味な後悔を頭の隅へ追いやって、目前に迫った危機への対処を考える。と言っても、こっちの打てる手は限られている。
武装する相手を安全に攻撃する方法は、一つしか思いつかない。
「出ろっ、触手!」
両腕を突き出し、あらん限りの力を篭めて黒いスライム触手を作り出す。
左右の腕から五本、合わせて十本の触手が、それぞれ蛇のようにうねりながら悪魔へと迫る。
所詮は雑魚モンスターの代表スライムの技だと侮っているのか、悪魔は棒立ちのまま甘んじて触手の拘束を受けた。
何よりも重点的に封じるのは、一撃必殺の威力を持つだろう大鎌を握る右手。未だに羽山を抱えている以上、動かすことは無いと思うが、左腕にも念のため三本ほど絡ませておく。
恐らく、この悪魔は俺の死神と同等かそれ以上のパワーを持っている。故に一息で触手の拘束を破られる可能性は大いにあるが、それでも攻撃の発生はワンテンポ遅れるはず。
その一拍があれば、一撃をいれてから離脱する余裕はある。偶然ながらも、ゴブリンスキルのワンステップで鎌の攻撃範囲から逃れられることは証明済みだ。
俺は悪魔を縛りつけたまま、引き寄せるように力を篭めると同時に前進する。
それなりの力が上半身にかかっているにも関わらず、悪魔は彫像のように微動だにしない。何でも良いから、頼むからそのまま動かないでくれよ。
放つのはパンチではなく、赤犬のボスを仕留めた貫手。無論、狙う場所も同じ。
山羊の部分は毛皮そのものが厚くて硬い、かなりの防御力を発揮するように思われる。
一方、人間の男と同じ上半身は、薄い皮膚一枚と、まだ攻撃が通りそうな気がする。それが例え、海外のボディビルダーのように分厚い筋肉で膨れ上がっていたとしても。恐らく、きっと、多分、山羊の毛皮よりもマシなはずだ。
「はあっ――」
鋼の刃と変わらぬ強度を秘める死神の鋭い指先を、悪魔の心臓があるだろう左胸に向けて突き出す。一撃必殺の気合を篭めて繰り出す貫手。悪魔はまだ動かない。当たる。
「――ごはああっ!」
指先が胸元に触れる直前、腹にボーリング玉を落とされたかのような重い衝撃が全身を揺する。
痛い、と感じる前に視界がグルグル回りながら流れていく。
小夜子ちゃんが何か叫んでいるような気がするが、聞き取れない。理解するだけの余裕が頭に無い。
再び全身を襲う衝撃。思い出すのはブロック塀に激突する羽山の姿。俺が叩きつけられたのは、果たして塀か建物か路面か。
「あ……かはっ……」
息も絶え絶えに、視界一杯に広がる灰色の地面に両手をつく。見えるのは黒衣の袖と骨だけの手。どうやら、エクストラはまだ解除されなかったようだ。
しかし、俺は一体何をされた? 何で攻撃した俺の方がやられてるんだよ? カウンター? そんな馬鹿な、両腕は拘束していたし、動いた気配も無かった。
いや、待て、思い出せ。攻撃の瞬間、視界の下方にチラリと動くモノが見えたような気がする。
ああ、そうか、俺は蹴られたのか。
納得すると同時に、自分の馬鹿さ加減にあきれ返る。
両腕は塞がっていても、両脚は自由のまま、キックを出せない道理は無い。それを俺は、反撃に対応できると信じきって突撃していったのだ。
ちくしょう、やっぱり喧嘩素人だよな。
けど、まだ死神の姿でいられる内は、諦めるわけにはいかない。腹部には鈍痛が走っているが、耐えられないほどじゃない。まだだ、まだ、戦える。
そう自分を励まして、いざ立ち上がろうというその時、ズン、と重厚な音を響かせて‘何か’が俺の前へ現れる。
目に映るのは、焦げ茶色の毛皮と、鋼鉄と同じ金属質な光沢を宿した分厚い蹄。ああ、俺はこれで蹴飛ばされたのか。
そんな感想を抱くと同時に、反射的に体を跳ね起こす。
「くっ――」
だが、致命的なまでに遅い。見上げれば、悪魔はすでに右腕を振りかぶっている。
命乞いの台詞を吐く暇すら無い。
ギロチンで処刑されるヤツの気持ちが少しだけ分かった。迫り来る巨大な刃を眺めながら思ったのは、それだけだった。
「がぁああああああああっ!」
心臓を狙ったお返しと言わんばかりに、刃は死神の左胸を貫いている。
俺から見ればホログラムのように見える半透明な死神の体を通り抜けている刃はしかし、俺自身の肉体には触れていない。
そもそも俺と死神には身長差がある、悪魔が死神の左胸を狙って刺せば、中にいる俺には左肩の上部をかするように刃が通る。
だが、今俺の肉体を襲う痛みは、実際に刃が触れているはずの左肩ではなく、死神が貫かれた左胸である。
あらん限りに絶叫をあげる。だが、声が出るという事は、即死はしなかったということだ。
「――かはっ」
刃が引き抜かれる。死神の胸元からは、血の代わりに真っ黒い靄のようなものが吹き出している。
未だ灼熱のような痛みを発する胸元に思わず手を当てるが、俺の肉体そのものから血は出ていなかった。
だが、死神の体から黒い靄が溢れ出る度に、急速に体から力が抜けていく。
すでに、立っているのも辛いほどだ。出血こそしていないが、肉体的には大量に血液を失ったのと同じということなのか。
「あっ……くそっ……」
同時に、意識も遠のき始める。まずい、このまま倒れたら、俺はどうなる?
未だに死神は消える事無く存在し続けているが、感覚的に分かる。もうコイツを、エクストラを維持できなくなると。
事実、死神の体は足元から霧散するように消滅を始めている。
しかし、その消滅現象さえ、悪魔は悠長に待っていてはくれなかった。
「がっ――」
ダメ押しの一撃。再び硬く重い蹄がハンマーのように俺の腹部に突き刺さる。一瞬、意識が飛びかけるものの、路面を転がる衝撃でどうにか保つことが出来た。
しかし、気がつけば死神は完全に消滅していた。
素肌が向き出しになっている手と顔には、アスファルトとの摩擦で生まれた傷がひりつくような痛みを訴えかけている。夢の中で生身の痛みを感じるのは、スライムの触手を掴んだ時以来か。
ああ、そうだ、エクストラが無ければ、俺はスライム一匹にも勝てないほど無力だ。
もうダメだ。純粋に諦めの感情が湧き上がる。
次に、その絶望に伴って噴出しそうになる後悔や恐怖や悲嘆やら、そんな諸々のネガティブな感情を一時だけどうにか抑える。男の意地、ってヤツだ。
「小夜……に、げ……」
ちくしょう、まともに声も出ない。
この場には、まだ小夜子ちゃんが残っている。
俺が悪魔にまるで敵わなかった以上、彼女が勝てる可能性は無に等しい。ならばもう、逃げてもらうより他は無い。
しかし、その意思も伝えられない。口からは途切れ途切れで意味の成さない小声しか出てこない。その上、猶予も無いときたもんだ。
無様にもうつ伏せで地に伏せっている俺の視界には、真っ直ぐこちらへ接近してくる悪魔の姿が映る。
俺も羽山と同じように捕まるのか、それとも、殺されるのか。後者の可能性の方が高い気がする、思い切りぶん殴ってやったからな。
「に……逃げ……ろぉ……」
やはり、声は出てくれない。
もしかしたら、とっくに小夜子ちゃんは逃げてくれたかもしれないな。この体勢じゃあ首もろくに動かせない、背後に控えているはずの、彼女の姿は確認できない。
それでも、見えないからこそ、俺は言い続けるべきだろう。彼女がこの窮地を脱してくれることを祈って。
そうしていないと、今すぐ無様に泣き出してしまいそうだ。一人だったら、何て命乞いしていたものか、小夜子ちゃんのお陰で、少しは格好がついている。
「逃げろ……小夜子ちゃん……」
小さいながらも、ようやくまともに発音できた台詞に、
「――嫌です。私は絶対、黒乃さんを助けます」
聞きなれた少女の声が返ってきた。
涙が出るほどありがたい返答、だが、それはダメだ、それだけはダメだ。小夜子ちゃん、君まで、犠牲になる必要は無い。
しかし制止の声は、この期に及んでは無意味だろう。小夜子ちゃんは、もう俺のすぐ脇に立っているのだから。
そして、悪魔はもう目前まで迫っていた。
「はっ!」
可愛らしくも凛々しい掛け声が頭上から聞こえた。
やめろ、やめてくれ。生身向き出しの小夜子ちゃんがあの悪魔から一撃くらえば、エクストラの解除だけじゃ済まないかもしれない――
だが、そんな懸念を他所に、俺の目には勇ましく槍を構えて突撃する少女の後ろ姿は移らない。
「――うわっ」
急激な浮遊感が俺を襲うと同時に、ガキン、と響く甲高い金属音が鼓膜を振るわせた。反転する視界に、横向きに鎌を振り切った悪魔の姿が映った。
「逃げましょう、黒乃さん!」
ああ、俺は小夜子ちゃんに抱き上げられているのか。悪魔が羽山をその腕で抱えているように。
いや、体勢は全然違うな、小夜子ちゃんの細腕が俺の背中と膝の裏に回されている。所謂お姫様抱っこってヤツだ。
その恥かしい体勢を理解した瞬間、グルリと景色が回る。軽い遠心力が頭にかかるのを感じながら、その場で方向転換したのだと察する。そして、次の瞬間には回る景色は方向を変え、後ろに流れていった。
身長180センチを越えるほどデカい俺の体を抱えて、こんなに速く走れるもんなのか。
長い白銀のポニーテールを宙に踊らせる小夜子ちゃんの顔を見上げながら、改めてエクストラの力に感心した。
首を後方に向けると、鎌を担ぎ羽山を小脇に抱えるお決まりのポーズで路上に立ち尽くす悪魔の姿が見えた。
ついでに、その横には『聖天使サリエル』が振るっているのと同じデザインの槍が地面に突き立っている。
槍を投げて牽制、その僅かな隙に俺を抱き上げて逃走。それが小夜子ちゃんのとった行動の全てだった。
幸いにも、それは全て上手くいったようだ。悪魔は追ってこない。その場で立ち尽くしたまま、まるで俺達を見送っているかのようですらある。
気がつけば、水平線へ完全に陽が没しかけている。
沈む直前の真っ赤な夕陽を背景に立つ悪魔の姿は、俺にどこまでも血塗れた恐怖のイメージを刻み込んだ。
ようやく理解した。気づかされたと言うべきか。前にここは「リアルなゲームの世界じゃない」なんて言っていたが、正しくその通り。
そう、ここは夢の世界なんかじゃない。これは、悪夢の世界だ――