3:その後
2012-09-04改変
目の前で毛の塊が硬直している。
(えっと、これはどういう事なんだろう)
何だか分からないけれど、わたしは目の前の男の人に抱き起こされている様だ。灰色の瞳の人は何かに驚愕して目を見開いた後、動かなくなった。
もし、もーし。これどういう状態ですか?
貧血を起こした時の様に体中が重たくて、口を開くのも億劫なので、目でアイコンタクトを取ってみる。日本にもある良い文化、以心伝心。目の前の人は日本人には見えないけれど、目は口ほどに物を言うと言うし。向こうもこっちをガン見て来るので、負けずと見つめ返してみる。
男と女が無言で見つめ合っているのに、悲しいかなそこに艶っぽさは感じない。如何せん目の前の彼は、顔を覆ってしまう髪と髭で半分以上が隠れてしまっている。隙間から見える瞳や肌から、老人では無いと判断できるが年齢などは一切分からない。
イエティとサンタクロースを足して二で割った感じ。悪く言っちゃあ不精。何処か山奥に修行で篭っていたんですか?って突っ込みたくなる程モサモサ。もし何も無い状態で遭遇したら、叫び声を上げてしまっていたかもしれない。かと言って体がだるいこの状態が良いと言う訳でも無い。
取りあえず目の前の人を観察してみた。
まず目を惹いたのは、老人では無いのに真っ白な髪。よく見ると髪だけじゃなく、体毛が白いんだと気付いた。生まれ付きとなるとアルビノなのかと思ったけれど、アルビノは瞳も赤かった気がするし、白銀ってのが近いかも知れない。今までお目にかかった事も無い色だけど、正直に綺麗な色だと思った。
ジッと眺めていると、まるで雪の様だと感じた。積もった雪が陽光を反射して光を放っている様子を思い出す。瞳も生まれて初めて見た灰色なのに、何故か驚きよりも先に―――
(安心感を覚えるって言うのかな?)
何故?と思う間も無く、目の前の彼が現実に戻ってきた様で、瞳が揺れた。
「―――――?」
どうやら彼に話しかけられてる様なのに
「…え」
「―――。―――?」
「…何て、言った、の?」
「……」
耳には音が入ってくるのに、何を言っているのかが分からない。知らない言語。そもそも言語にさえ聞こえない《音》は、地球にある言語では無いと直ぐに悟った。
何故なら目の前に居る彼の口から出る音が、まるで肉声に感じない為。こんなに近くに居るのに、その口は動いているのに、口から出る《音》は、まるで電波の悪い携帯で声が途切れ途切れに聞こえて来る時の様で、耳に入る音がまず違う。そしてボイスチェンジャーを使っている様には思えないのに、声が機械的なのだ。
目の前の《肉体》と《音》が一致しない。
彼はまた何かを言おうして、何かを察したのか口を噤んだ。けれど喉を唸らせて眉を寄せていると思われる表情に、彼が苛立っていると気付く。そして小さく口を鳴らした。
(…うっ舌打ちって…思ったよりも短気?)
自分が悪い事をした訳でも無いけれど、状況が状況なのでビクビクしてしまった。しかもあろう事か彼はおもむろに自分の親指を噛む。
わたしは突然の事に驚いたけど咄嗟に(後でそう言う問題じゃないと気付いた)
「指を噛むのは行儀が―――」
―――悪い、と言おうとしたが、その先は言葉にならなかった。
口の中に広がる血の味。
こじ開けられた口から彼が傷付けた自分の親指をわたしの口の中に突っ込んだんだと気付いた。結構深く切ったのか、口の中に広がる血の味に、うっと吐き気がした。咄嗟に吐き出そうとしたが、彼がもう片方の手で口を押さえて来た為、それも出来ない。
「ンッ―――!!!」
やめて、と手を外そうとしたが、ガッチリと押さえ付けられ必死にもがいてもビクともしない。彼の瞳は真剣で、強い光を宿しわたしを見下ろしている。
何故突然こんな事をされるのかが分からず、急に豹変したかの様な態度に、恐怖を感じて涙が滲んできた。吐き出す事も出来ないまま、唾液と混ざった血が口の中に溜まり、遂に苦しくて飲み込んでしまった。血の味と生暖かさに嫌悪感を感じる。
ゴクリと咽が鳴るのを見て、漸く手を外された。わたしは思い切り咳き込むけれど、口の中のサビ臭さに、嗚咽が出た。
「…げほっごほっっうっうう」
血の味だ。鼻血を出した時の様な喉の奥から感じる血の臭いではなく、舌がしっかりと血の味を認識出来るくらい、飲み込んでしまった。吐き出したくても、既に喉を通った後では手遅れだ。
咳き込みすぎて、生理的な涙が出た。おまけに突然の乱心?とも言える仕打ちに混乱もしていた。とにかく、訳の分からない目の前の人から離れたくてもがいたけれど、しっかりと抱えられていた為にそれも出来ない。
「…おい」
頭上からクリアに聞こえて来た声に、パッと顔を上げた。
視線の先には、例の如く彼しか居ない訳だけど、今の声は彼のものだったんだろうか。
「……聞こえてるんだな?」
「!!」
やはり先程の声は、彼の声で間違いない様だ。ちゃんと口と声が合っている。声として聞こえる。突然の変異に目を瞬いた。思っていたよりも若い、けれど落ち着いた口調には知性を感じ、もしかしたら少し年上位なのかもしれない。
いつの間にか、彼は立ち上がっており、わたしは地面に座り込んでいた。
今度は音も意味もちゃんと理解できた。涙でぼやけた視界だけど、確かに彼の口から聞こえて来た《声》。
「…何、したの?」
恐る恐る口に出した疑問。
「おれの血を媒体にした」
即時返される、素っ気ない回答。
「……」
一拍、二拍、三拍、四拍…………??
(…んん?説明お終い?もっと説明する事あるんじゃないの?)
続きを期待し待てども、返ってくる答えは無い。どうやら彼の説明はこれで終わりらしい。「おれの血を媒体にした」で、全て理解出来る人間が居れば、お目にかかりたい。
先程の舌打ちいい、ぶっきら棒な性格なのかもしれない。
(頬に触れた手から勝手に優しい人だと思ったのに)
彼が何かをした事で、言葉が理解出来る様になったみたいだけど、何かが分かった訳じゃない。彼はあまり自主的に話をしてくれるタイプでは無い様だし、例え聞いてもわたしが理解出来る回答は貰えなさそうだ。一先ず言葉については置いておこう。
一体わたしは、どういった状態に置かれているのか、自分でしっかりしなくては。ただ現在頼れるのは彼だけなのだ、まずはこの状況を理解する事から始めよう。
そうと決めたらと、意を決し彼に向き合おうと立ち上がった所で、眩暈がしてよろけてしまった。寸での所で彼が腕を掴んでくれたので、顔から転倒することは免れたが、膝から下に力が入らずへたり込んでしまう。体を起こす事が出来ない。それは血が足りない事での貧血だったのだけど、混乱していた頭ではそこまで気が気が回らなかった。
(あれ?足がガクガクする、何かあたまも揺れて―――)
耳の奥でキーンと言う音が聞こえて、目の前が真っ白になったと思ったら、急激に真っ暗になり意識を失う。直前に体を受け止められた気がしたが、考える前に何も分からなくなってしまった。
* * * * * * * * * * * * * * *
腕の中で意識を失う少女の様な女を見て、少し無理やり過ぎたかと思う。
本人も自身の状況を理解出来ず混乱していた様だが、結局は気を失ってしまった。失神と言うより貧血に近いだろうが、血を失い過ぎたのだから当然。表面的な怪我や骨折は治せるが、失ってしまった血を戻す事は出来ない。
早く城に連れ帰って王に保護を任せるのが懸命だろう。
魔導師では無い事は直ぐに理解できた。黒い瞳と髪、この様な《色持ち》はこの国には居ない。まして触れた時に欠片も感じない恩恵の気配。国人であれば大なり小なり身に宿す恩恵が一切感じられない身体。
魔導師でもないのに、森に立ち入れている事から、これが回収すべき存在である事は間違いない。
あのまま放っておけば、死んでしまうと咄嗟に使った"治癒"が効いたのも驚きだった。「落し物」とは言え、物と人とでは違うのか、ただ人体の作りは俺達とそう変わらないのかも知れない。
言葉については一か八かの荒業だった。体内に魔導師たる俺の媒体を取り入れ、この国に"有る存在"として《同調》させれば言葉も理解出来る様になるかもしれない。―――そう考えての行動だったが些か乱暴に扱った事は否めない。
上位魔導師としては、稚拙な技ではあるが、特殊な例なので仕方が無いと自分に目を瞑る。自分としては、魔導がすんなりと効いた事が驚きだった。
今まで"この世界に存在しないので恩恵の影響を受けない"と考えられていた為、「落し物」に魔導の影響はないと言うのが魔導師達の間で確立した認識だった。
ただし彼女の様子を見るとそれを真っ向から否定する結果が出ている。だがまだ答えを出すには時期尚早な気がしてならない。これが物質と生物の違いと決めるのは簡単だが、恐らく違う理由があると思えてならなかった。
此処で一人思案した所で出来る事などは無いと、森を出る為にも彼女を抱え直す。これを見た時の王の反応が想像できて早くも頭が痛くなるが致し方ない。早々に報告を終わらせて、早く自室に戻ろうと自分で自分を励ます。そこでふと目の隅に見えた物に意識を持っていかれた。
大きく見開いた目に映る、それ。
「…馬鹿な」
先ほどまでは何の変哲も無かったが、今では顕著に現れているそれ。目の前で起きている事が信じられず、ただ実際に目にしている事ゆえに真実だと分かる。
先ほどまで自分が立てていた仮説と合致する事実。そして何よりも、現れたそれに彼女を抱く腕に自然と力がこもった。