23. 魔王軍の兆候
その日――
学院の生活は、一見、いつもと変わらないように見えた。
朝の講義、昼の訓練、夜の自習。
教室にはペンの音が響き、食堂にはいつも通りの賑やかな声があった。
誰もが、いつもの日常を保とうとしていた。
……あたかも、それが崩れかけていることを認めたくないかのように。
でも、世界は確実に軋み始めていた。
魔族の動きが、目に見える形で活発化し始めたのは、春の終わりのことだった。
「……また、北の砦が陥ちたってさ」
昼休み、食堂の隅でスープを啜っていた時、グレイが重たい声でそう呟いた。
「三日前には、西部の村でも襲撃があったらしい。もう、王都近くも安全圏じゃないってよ」
ノアが珍しく静かな声音で続け、隣のバルドは無言のまま拳を強く握りしめていた。
その背中が、普段の豪快さを欠いているのが分かる。
騒がしかった訓練場も、どこか緊張した空気に変わっていた。
いつの間にか、打撃用の木剣は片隅に追いやられ、本物の剣と鎧が並び始めていた。
模擬戦ではなく、実戦を想定した布陣と指導。
それは、何より雄弁に事態の深刻さを物語っていた。
「なあ……これって、本当に、戦争になるのか?」
誰かがぽつりと呟いたその言葉に、訓練を監督していたマルセル先生――元・王国騎士団の実戦経験者が、静かに答えた。
「なりつつある、ではなく――もう、戦争だ。
今は、どこまで押し返せるかの段階に入っている」
教場の空気が、息を呑んだように凍りついた。
その声音には、歴戦の兵士にしか出せない、乾いた現実味が滲んでいた。
各地の報告は、どれも似通っていた。
魔族は大規模な軍勢こそ繰り出していないものの、数を頼りに、しかも局地的かつ分散的な攻撃を繰り返していた。
油断を誘い、包囲し、逃げ道を塞ぐ――組織立った戦術。
それは、ただの獣ではなかった。
俺にはわかっていた。
これは――ゲームで起きた、あの流れそのままだ。
そして、ついに『それ』が現れた。
ある日突然届いた、魔王と名乗る存在の降臨報。
各国の王族は緊急で連絡を取り合い、連盟会議を招集。
それが学院にも影響を及ぼすのは、時間の問題だった。
実際に動き始めたのは――その翌々週。
「……召集、かかったわよ」
教室の後ろで、セリナが手にしていたのは羊皮紙に封蝋が押された召集令。
学院上層部から発行された、志願者に向けた招集通知だ。
最初は、卒業を間近に控えた生徒や、訓練課程を修了した補助兵が対象だった。
だが、日が経つにつれて範囲は拡大し、ついに俺たちのような未熟な生徒にも、任意参加の名のもとで、その影が差し始めていた。
備品庫には、魔導装備と実戦用ポーションが山のように積まれ、訓練場では実戦演習の頻度が倍増。
教官たちの表情も、日を追うごとに鋭さを増していた。
「俺、志願するか迷ってる……」
「俺も……怖いよ。
でも、家族のいる村が、ちょうど北の境界近くなんだ……」
「逃げるわけには、いかないよな……」
生徒たちの間にも、ざわめきと動揺、そして決意が静かに広がっていく。
誰もが不安だった。
けれど、誰もがそれを隠すように、表面上の平静を装っていた。
俺は、知っていた。
これは、単なる異変なんかじゃない。
世界が、ひっくり返る前触れだ。
だからこそ、俺はもう一度、自分の立ち位置を見つめ直す必要があった。
誰のために力を振るうのか。
何のために、ここにいるのか――
まあ、ここまではゲーム通りだった。
でも――その先の展開は、まるで違っていた。
ゲームの筋書きでは、ここからヴァルガスが表舞台に現れる。
だが、それは闇落ちという最悪のかたちでだった。
本来なら、ヴァルガスは俺という主人公に敗れ続けることで、徐々に心を削られていく。
劣等感と無力感に打ちひしがれ、自らの存在意義を見失ったその隙を、魔王軍の四天王の一人、大淫婦と呼ばれる誘惑者に突かれ、魂を契約に染められる。
「力を得る代償に、人間を裏切る」――それが、本来の彼の選択肢だった。
そして、四天王に匹敵する立場をえた彼は、人類の宿敵として立ち塞がる。
だが、現実のヴァルガスは――その真逆の道を選んでいた。
闇落ちどころか、誰よりも早く戦場へと立った。
それも、貴族としての義務などではない。
彼は自ら志願し、兵士たちの列に加わり、自らの剣を振るい、仲間を守り、民を救うために。
後方で命令を出す将ではなく、最前線で剣を掲げる一兵士として――
ある日、学院の補給所で、戦地から戻ってきた教官の一人が語っていた。
「……ルアント家の坊っちゃん、正直見直したよ。貴族のお飾りだと思ってたが、違ったな。あいつ、一人で後衛まで回って、撤退支援してた。しかも、何度も、だ」
「うちの部隊でも噂になってたぞ。死にかけの兵士を背負って撤退ラインまで運んでたって。
『白衣の騎士様だ』ってな。血まみれのくせにな」
別の日、図書室の隅で、後輩がこっそり話しているのを耳にした。
「ヴァルガス先輩、また前線に出たらしいよ。
魔族の大部隊が来た時、自分が囮になって、別動隊を逃がしたって……」
「あの人、ほんとに人間なのかな……」
それらの言葉を、俺は黙って聞いていた。
いや、聞かずにはいられなかった。
ヴァルガス・デ・ルアント。
ゲームでは悪役として道を誤り、世界の敵として描かれるはずだった男。
だが今、彼は――指揮官ではない。
王でも将でもない。
それでも人々の先頭に立ち、剣を振るう。
誰よりも血にまみれ、誰よりも泥を被りながら――
それでも、誰よりも誇り高く。
彼のその背中は、
まごうことなき、英雄そのものだった。
……そして、俺は思う。
俺は彼とは違う。
闇に堕ちる予定もなければ、表の舞台に立つような立場でもない。
彼のように、誰かの希望になるような資質も、たぶん俺にはない。
でも――それでも俺は、彼のためにできることがある。
影から支えるだけじゃない。
いざというときには、同じ場所に立ち、隣で剣を振るってやるさ。
俺は、英雄じゃない。
でも、英雄の隣で戦うもう一人としてなら、きっと存在できる。
ゲームの主人公にはなれなくて、
平穏なスローライフもお預けで――
せめて、月下の守護者の名に恥じない働きくらいはしないとな。
……かっこ悪いのは、柄じゃないから。




