解放された元聖女が掴んだ幸せ
「すまない、ルーシャ嬢」
数刻前に来客の知らせを受けて応接室に足を運んだルーシャは、肩を並べてソファー席に座る男女と机を挟んで対面していた。
ここはブルスメリア王国の中枢に位置する神殿で、聖女であるルーシャの職場だ。
部屋の入り口には王族の護衛である二人の騎士が立っている。
つい今しがた悲痛な面持ちでルーシャに謝罪したのは、この国の第二王子であるロードリック。
赤髪に穏和そうな茶色の瞳を持つロードリックは一ヶ月後に成人を迎えるため、それまでに婚約者をきちんと選ばなくてはならない立場にあった。
ロードリックの隣に座る長い黒髪の女性は、ルーシャと同じ白い修道服を着ている。
彼女はルーシャの同僚であるパトリシアだ。
パトリシアは妖艶な笑みを浮かべながらルーシャを見ていた。
ロードリックは険しい顔で言葉を続ける。
「私は正式にパトリシアと婚約することに決めた。だから君との交流はこれをもって最後とさせてもらう」
「承知いたしました殿下。どうかパトリシアさんとお幸せに」
「本当にすまない」
「謝らないでください。私は殿下の婚約者候補であったに過ぎません。あなた様がようやく将来の伴侶をお選びになったことを心より祝福いたします」
ルーシャは穏やかな顔で胸に手を当てて敬意を示しながら祝いの言葉を述べた。
その様子にロードリックは強ばっていた表情を和らげる。
「ありがとう。君にも幸運が訪れるよう祈っているよ。それでは私はこれで失礼する」
「ええ。お忙しい中ご報告くださりありがとうございました」
ロードリックは立ち上がり、隣のパトリシアに手を差し出した。パトリシアは首を軽く横に振る。
「私はルーシャさんと仕事のお話がありますので、このままここに残らせていただきますわ」
「そうか。分かった」
パトリシアは微笑みながらロードリックと護衛二人が退室するのを見送った。
扉がパタンと音を立てて閉まると、パトリシアはルーシャの方を振り返った。
その顔には先ほどまでの美しい笑みはない。とてもじゃないが殿方に見せられない醜悪な笑みを浮かべている。
ルーシャには見慣れたものだ。
パトリシアは脚を組み、ソファーの背もたれに両腕を乗せてふんぞり返った。
とてもじゃないが殿方に見せられない姿である。
「殿下に選ばれなくて残念だったわね。まぁ最初から勝負にすらなっていなかったと思うけど」
パトリシアはふふんと鼻を鳴らしながら顎をつきだす。
彼女がルーシャに高慢な態度を向けるのはいつものことなので、ルーシャは特に動じない。ただ儚げに目元を和らげた。
パトリシアが目鼻立ちがはっきりとした彫りが深い顔立ちの健康的な美女であることに対して、ルーシャは風に吹かれれば倒れてしまいそうなほど儚げな美女であった。
色白な肌、緩く波打つ淡緑色の髪に水色の瞳。
白い修道服の裾から覗く首や手はほっそりとしていて、薄幸そうな微笑みは庇護欲をそそるものだ。
パトリシアはそんなルーシャに一方的に敵対心を燃やしている。
自分と同じロードリックの婚約者候補ということもあり、ここ数年は顔を合わせれば悪態をつくことが習慣になっていた。
ルーシャの方は特にパトリシアに対して強い思い入れはなく、仲良くする気がないなら放っておいてくれればいいのに、面倒くさい人だな、友達がいないのだろうか、などと思うだけであった。
反論する気すら起こらないため、いつものように静かに微笑みながら口を開いた。
「以前からパトリシアさんと殿下はとてもお似合いだと思っていたから、ようやく婚約されることを喜ばしく思っているわ」
「ふん。心にもないことを」
ルーシャは心からの賛辞を送ったが、パトリシアはルーシャの悔しがる顔が見れなくて不満だといいたげに顔をしかめている。
ルーシャはこんなやり取りにいつもうんざりしていた。
最初からこちらに歩み寄る気のない人との対話など時間の無駄でしかない。
「お話は以上かしら。私は仕事に戻りたいのだけれど」
ルーシャは淡々と希望を口にした。
彼女は午前中は護符作りに勤しみ午後は神殿の来訪者に対応したりと忙しない日々を送っている。
特に護符作りはあまりに数が多すぎるため、一分一秒たりとも無駄にしたくない。
パトリシアはルーシャを嘲るように口の端を持ち上げた。
「フン、あなたって落ちこぼれだものね。たかが護符作りに苦戦しているそうじゃない」
「恥ずかしいけれどそうなのよ。パトリシアさんは私と同等の量をいつも短時間でさっと終えていると聞いて尊敬しているわ」
「当たり前じゃないの。あなたなんかとは聖女としての格が違うのよ」
「そうね」
パトリシアはフンと鼻を鳴らすとドカドカと足音を立てながら部屋から出ていき、乱雑に扉を閉めた。
「……はぁ。ようやく静かになったわ」
応接室に一人残ったルーシャは息を吐くと冷めた紅茶を一口飲んだ。
パトリシアのことは特に憎くもないが、あの耳をつんざくような甲高い声は好きではない。
煩いパトリシアがいなくなったこと、そしてロードリックがきちんと婚約者を決めたことに安堵する。
ルーシャがパトリシアから目の敵のようにされる要因が減ったからだ。
ルーシャにとってロードリックは、物腰が柔らかでいつもこちらを楽しませようと豊富な話題で場を盛り上げてくれる良い人、という存在だった。
王子の婚約者候補に選ばれたことは光栄であったし、もし自分が正式にロードリックと婚約することになったら、快く受け入れるつもりでいた。
だけどロードリックはパトリシアを選んだのだから、彼との関係はこれで終わりだ。
ルーシャには結婚願望がないわけではないが、将来の伴侶は穏和で優しくて自分を大切にしてくれる人ならそれでいいかな、というざっくりとした希望がある程度。
その他に一つだけどうしても譲れない希望があるが、それは自分を大切にしてくれる人なら必ず叶えてくれるようなことだ。
今のルーシャは婚約者が決まることよりも待ち遠しいことがある。
ここ数日はずっとソワソワしていた。
神殿での生活はルーシャにとってとにかく辛く苦しいもので、そこからようやく解放される日が近づいている。
聖女とは稀少な光魔法の使い手が就く役職だ。
光魔法の素質がある者は例外なく十五歳になると神殿に迎え入れられ、成人するまで聖女としての職務を全うしなければならない。
本人の意思に関係なく与えられる称号と責務だが、聖女とは世の女性が一番憧れる存在だ。
庶民生まれだったとしても将来は貴族に娶られるほど気高い存在になれる。聖女に選ばれることは誉れであり誰もが選ばれることを誇りに思う。
しかしルーシャは十五歳になって神殿に入ったその日から毎日辛くて苦しくて悲しくて、涙で枕を濡らす日も少なくなかった。
ルーシャは聖女になどなりたくなかった。
そんなルーシャは来週誕生日を迎える。
十八歳、成人だ。
厳しい戒律から解放される日をルーシャは心待ちにしていた。
***
「ルーシャ様、お考え直しいただけませんか」
「せめてご結婚されるまでは……! どうかお情けを」
「あなた様はこの神殿になくてはならない存在なんです。どうか、どうか」
ルーシャが誕生日を迎えた日の早朝。
神殿のエントランスで神官たちに引き留められながら、ルーシャは背筋をピンと伸ばして微笑んでいた。
その服装は聖女としての白い修道服ではなく紺色の長袖ワンピースだ。
神殿の居住区で与えられていた部屋に残してある荷物は、ルーシャの父が王都に所有する別邸に送ってもらう手筈を整えてあるため、手荷物はポケットに入れた財布とハンカチだけ。
ルーシャは数週間後に開催されるロードリックの成人を祝う生誕祭に招待されているため、ここから遠く離れた実家にはまだ戻らず、別邸で過ごす予定だ。
「私が提出した離職届は神殿の事務官が受理して手続きを終えてくださっています。では皆様お元気で。お世話になりました。さようなら」
ルーシャは神官たちからの懇願をさらっと流して淡々と別れの挨拶を告げ、晴れやかな顔で神殿から立ち去った。
そうして向かう先は町の食堂だ。
心が躍る。顔がにやついてしまう。そこにはルーシャが三年間焦がれていたものが存在する。
「お肉……! お肉……! お肉……!」
ルーシャは弾む声で同じ言葉を繰り返しながら、早足で食堂に向かった。
神殿に勤める者たちにはいくつかの戒律が課せられている。
その中の一つに『動物を殺め、そしてその血肉を口にすることを禁ずる』というものがある。
神殿の教徒たちの信仰対象である女神エリアモーヌはそれはそれは慈愛に満ちた女神様だ。その周りにはいつも数多の動物が寄り添う。
女神様は自分を慕う動物たちをたいそう可愛がり慈しみ、その命を大切に扱った。
教徒たちは崇拝する女神様の御心を尊重するべくして、全ての動物を慈しむという戒律を自らに課した。
この国には信仰の自由があるが、女神信仰の中枢である神殿に在籍する者は例外なく戒律を守らなくてはならなかった。
嗜好品について禁止されていることは何もない。
そのため神殿で過ごす者たちは最初こそお肉を食べられないことを嘆いていたが、甘味、コーヒー、酒、煙草などを口にすることで不満を解消していた。
しかしルーシャは彼らとは違う。
ルーシャはお肉が大好きである。
物心ついた頃から一日一食は肉料理を食べなければ満足できないようなお子さまであった。
お肉こそ命。
お肉を食べなければ生きている喜びを感じられない。お肉を食べると体に活力が満ちていく。お肉万歳。
ルーシャは儚げな容姿から誰も想像がつかないほどにお肉を愛する令嬢であった。
それなのに彼女は稀少な光魔法に目覚めてしまった。そして十五歳から十八歳までの三年間を神殿で過ごし、肉食禁止という死よりも辛い環境に身を置かなければならなくなった。
(ステーキ、焼き肉、蒸し肉、炒めもの、とろとろ煮込み……!)
頭の中をお肉一色に染めながらルーシャは食堂に足を踏み入れた。
朝早くから開店しているお店で、店内は冒険者などで賑わっていた。
ルーシャは一人席に座ってメニュー表を手に取った。
気持ちを高ぶらせながら何を注文しようかなとメニューに目を通し、そして愕然とする。
メニュー表の上部には大きな文字で戒忌週間特別メニューと記載されており、その下には穀類、豆類、野菜などが使われたメニューが並ぶ。
「かい、き、しゅう、かん」
ルーシャは手を震わせて、握力を失った手からメニュー表を落とした。
戒忌週間。それは年に七日間だけ生き物を殺めたりその肉を口にすることが禁じられる週間のことをいう。
女神教は国教であるが、国はその戒律を国民に強要していない。
ただ年に一度だけ、人々に安寧を与えてくださる女神様への敬虔な信仰心を表すべく、国民全員が肉食を絶つ週間が設けられている。
ルーシャは忘れていた。
神殿に入るまでは、自分の誕生日から一週間は悲しみに暮れながら過ごしていたことを。
誕生日なのに食卓に並べられた料理の残酷さを嘆いたことを。
神殿での生活が辛すぎて忘れていたのだ。
ルーシャはテーブルに突っ伏して泣きたくなった。
しかしここには朝食をとっている人たちが大勢いる。こんなところで嘆くわけにはいかない。
「……すみません。せっかくお水を出していただいたのに申し訳ありませんが、気分が優れないので帰らせていただきます」
「まぁ、大丈夫ですかルーシャ様」
「少し休めば問題ありません。お気遣いありがとうございます」
店の接客係に謝罪し、ルーシャは青白い顔で店から出ていった。
その背中を店内にいた客たちは心配そうに眺めていた。
「今のってルーシャ様だよな。かなり辛そうだったが」
「今日はいつもに増して倒れて消えてしまいそうなほど儚げだったな」
「もしかしてあの噂が原因じゃないのか」
客たちは小声で話し合う。
町はロードリック王子がパトリシアを婚約者に定めたという噂で持ちきりだった。
噂の出所はパトリシア本人で、神殿の訪問者たちに自ら自慢気に話している。
「殿下には何人か婚約者候補がいたそうだが、なぜルーシャ様をお選びにならなかったのだろうな」
「そりゃパトリシア様の体目当てだろう。かなり色っぽいもんなぁ。俺だってあの人と一夜を共にできるなら大金を積んでお願いしたいくらいだ」
「やだやだ男って本当にサイテー。私はつい最近パトリシア様に治癒してもらったんだけど、すごく雑に面倒くさそうにされたわ。同じ美人でも私はルーシャ様のような穏やかな方の方が好きだわ」
「あぁ、何かここ数日前から不機嫌らしいよな、パトリシア様」
ルーシャが先ほどまでいた店の中では、客たちがルーシャとパトリシアについて語り合っていた。
そんなことは露知らず、ルーシャはショックすぎてふらついた足取りで街道をゆく。
そうして辿り着いた目的地の前で、彼女は膝から崩れ落ちた。
小さな店舗の扉には一週間の休業を知らせる貼り紙。
ルーシャは分かっていた。薄々感づいていた。
国中で肉食を禁じているのだ。
精肉店が営業しているはずなどないと。
それでも希望を持たずにはいられなかった。
わずかな希望にすがりつくことしかできなかった。
飲食店で肉料理が出てこないのなら、自分で肉を買って人目につかない場所でこっそり焼いて食べられると信じていた。
「肉……肉……うぅぅ……」
ルーシャは地面に座り込んだまま俯いた。
せっかくの誕生日なのになぜこんな仕打ちを受けなくてはならないのだろう。
自分がこの世に生まれてきたことは女神様に祝福されないほどの大罪なのだろうか。
だから自分は自分を戒めるべく光魔法の素質を持って生まれたのだろうか。
自分の出生にまで遡ってぶつぶつ呟きながら嘆いていると、町行く人々が心配そうに声をかけてきた。
「ルーシャ様、どうなさいましたか」
「ご気分が優れないのでしたら、ぜひうちでご休憩ください」
「……大丈夫です。ほんの少し立ちくらみがしただけなのでお気遣いなく。心配してくださりありがとうございます」
ルーシャは立ち上がると人々に悲しげな笑みを向けて立ち去った。
町の人々はその背中を痛ましそうに眺める。
「何かあったのかねぇ。いつも悩みを聞いてもらっているこっちが心配になるほどか弱いお方だから心配だよ」
「やっぱりあの噂のせいかしら」
「きっとそうだよ。王子に選ばれなかったことがよほどショックだったに違いない」
「俺この前ルーシャ様に骨折を治してもらった時に個人的な話を聞いてもらったんだが、俺が想い人をバーベキューに誘うことに成功したって話したら、涙ぐみながら自分のことのように喜んでくださったんだ。そんな繊細なお心は傷ついているに違いない」
「そうそう。私が主人の昇進祝いに奮発して高級ステーキを買っちゃいましたって話した時も、笑顔で震えながら祝いの言葉をくださったわ。そんなお優しい方が選ばれないなんてあんまりだわ」
「本当に女神様のような心をお持ちの尊い方なのに」
人々はルーシャの心の痛みを代弁するように話す。
見当違いな心配をされているなどと本人は露知らず、ルーシャは『肉……肉……』と亡霊のように町を彷徨った。
***
一方その頃。
隣国からの遠路を終えて昨日この町に到着した青年ギルバートは、町の大通りを歩いていた。
町行く女性は皆ギルバートに熱い視線を向けてくる。
ギルバートは涼しげな銀色の髪に切れ長の紫色の瞳を持つ端正な顔立ちの美丈夫である。
公爵家の人間であることも相まって、異性に好意を向けられることや注目されることには慣れている。
しかし彼は外見ばかりを気に入られて持て囃されることに辟易していたため、昨年までは男所帯の騎士団に所属して仕事に明け暮れていた。
ギルバートがこの国を訪れたのは、この国の第二王子の成人を祝う生誕祭に貴賓として招待を受けているからだ。
昨年、ギルバートは病気で療養が必要になった父から家督を譲り受けて公爵家の当主となり、それと同時に騎士団を退団した。
それからというもの今まで両親に断ってもらっていた他家からの縁談の申し入れへの対応を自分でせざるを得なくなった。
家を継いだばかりの頃は、忙しい身だから落ち着くまでは結婚を考えていないという断り文句で躱してきたが、それからもう一年経ってしまった。
そろそろ身を固める必要があるということは自覚している。
自覚しているが、いかんせん貴族令嬢という生き物にはどうしても苦手意識を持ってしまう。
そんな中でこの国の第二王子の成人を祝う生誕祭への招待状が届き、気分転換のため数日早くこの国に来たのだった。
それなのにこの国でもいろんな女性から注目されてしまい、気疲れしたギルバートは細い路地を抜けて、静かな遊歩道にやってきた。
人通りはあまりなく、道に沿って流れる小川のせせらぎが聞こえる。
ふと視界の端に今にも倒れそうな女性が目に入り、ギルバートはそちらに目を向けた。
ふらついた足取りで俯きながら歩いているのは、緩く波打つ淡緑色の髪の女性。
今にも倒れてしまいそうだ。
これは手を貸すべきかと悩んでいたギルバートはあることに気づいた。
彼の目が届く範囲には一人の女性しかいないが、明らかに周辺から女性以外の気配を感じる。
ギルバートは辺りを注意深く観察した。
そして分かったことは、右方の茂みに一人、その向かいの木の陰に一人、その向かいの木の陰にももう一人、誰かが潜んでいるということだ。
狙いはあの女性だろうか。
あまり気が進まないが、声をかけて注意を促した方がよさそうに思ったギルバートは女性に近づいた。
「────お嬢さん、大丈夫ですか?」
まずは体調を気遣うように声をかける。
急に話しかけられた女性は驚くでもなくゆっくり顔を上げて、虚ろな水色の瞳をギルバートに向けた。
「お気遣いなく」
今にも倒れてしまいそうなほど儚げで弱々しい女性は、まるで大丈夫かと質問されることを予想していたかのように静かに答えた。
もう答えることすら面倒になってしまったかのように少しそっけなさを感じる。
ギルバートは声をかけたが最後、町に送り届けるまで言い寄られるかもしれないと覚悟していたため面食らった。
しばしの沈黙の後、ギルバートは口を開いた。
「余計なお世話かもしれないが、あなたを隠れて覗き見ている人が多数いるようです。心当たりはありますか?」
「そうですね……町の中心部からここに来るまでいろんな方に声をかけられたので、私を心配して様子を見てくださっている誰かかもしれません」
「なるほど」
ギルバートは妙に納得してしまった。
目の前の女性は飴細工のように脆く繊細な雰囲気があり、こんな姿を見かけたら放っておけなくなって見守りたいという気持ちが芽生えてしまうのは必然だろうと思った。
「念のため安全を確保できる場所まで送らせてもらえますか」
ギルバートは声をかけようと決めた時からそのつもりでいた。彼の言葉に女性は困ったように眉尻を下げたが、『分かりました。よろしくお願いします』と素直に応じてくれた。
二人は町の大通りに向かうことになった。
どちらも口を開くことなく無言で並んで歩く。
グイグイこられないことに安心しながら、ギルバートはふと思った。
女性に急に話しかけて送りたいと声をかけた自分も十分怪しいのではないか。
「……私が言えた義理ではないが、見知らぬ男に付いていくのは危険だから気をつけた方がいいと思いますよ」
ぶっきらぼうに忠告すると、女性はフッと笑った。
「確かにそうですね。ふふっ、今度から気をつけます」
「そうしてください」
ずっと辛そうだった女性の表情が和らいだことに少しホッとする。
ギルバートは彼女の気が紛れるのならと思い、世間話をすることにした。
「そういえばこの国はちょうど戒忌週間に入ったようですね。この町の名物であるブランド牛の料理を食べられることを楽しみにしていたのに、今週はお預けになってしまいました」
ギルバートはプライベートに関係のない無難な話をしたつもりだった。
しかしなぜか女性は目に涙を浮かべて、口元を手で覆ってしまった。
なぜだ。
これは私が泣かせてしまったのか? 今の話題のどこに泣く要素があったんだ?
ギルバートが狼狽えていると、女性は肩を震わせながらポツリと呟いた。
「私もお肉が食べたくてたまりません。切実に」
***
ルーシャは静かな遊歩道で小川のせせらぎを聞きながら、沈んでいく気持ちを落ち着けていた。
どうやら自分は自分が思っている以上に悲痛な面持ちをしているようで、ここに来るまでもいろんな人に声をかけられて心配されてしまっている。
もう辞めてしまったとはいえ昨日まで自分は神殿の聖女として光魔法で町の人たちの怪我を癒し、少しでも元気になってもらおうと心の悩みにも耳を傾けてきた。
そんな自分が心配をかける立場になってしまうなんて。
町の人たちの前では笑顔でいられるよう、あと少しだけ遊歩道を歩いて心を落ち着けたら町に戻ろう。
そう思いながらぼんやり歩いていたら、見知らぬ男性に声をかけられた。
ルーシャは安全を確保できる場所まで送りたいという申し出を素直に受けとり、一緒に町に向かって歩きだした。
それから男性は一言も話さない。
ズボンに襟付きシャツというラフな格好の銀色の髪の男性は、格好こそ町に馴染んでいるが何となく高貴そうな雰囲気を漂わせている。
お忍びで町に来ているやんごとなきお方だと言われても納得の風貌だ。
あまり話しかけない方がいいかなと思ってルーシャも無言を貫いていたら、見知らぬ男に付いていくのは危険だと諭された。
確かに。それもそうだ。
そんなことにすら頭が回らないほど自分は打ちひしがれていた。
この人が危険な人だったら自分は町ではなく町外れに連れて行かれ、危害を加えられていたかもしれない。
ルーシャの頭はクリアになった。
そして見知らぬ男である張本人から諭されたことに笑いが込み上げてきた。
少し笑うと気持ちが軽くなった。
落ち込んでいないで、どうにか一週間耐えてみようというやる気が湧いてくる。
そうして男性が何気なく発した『ブランド牛』という言葉に、ルーシャの涙腺は決壊した。
男性は『何で?』という顔をした。
そうなりますよね、申し訳ないと心の中で謝罪する。
「私もお肉が食べたくてたまりません。切実に」
心の底から欲望を吐き出すと、男性は目を丸くした後、静かに口を開いた。
「…………お肉?」
男性は考え込むように顎に手を当てると、あぁ、と何かに思い至ったらしい。
「あなたが泣き出してしまったのは、もしかして今が肉が食べられない期間だからでしょうか?」
「そうです。三年ぶりにお肉が食べられると思っていたら、まさかの今日から戒忌週間という残酷な現実が待ち構えていまして……」
ルーシャは今の自分の状況を簡潔に説明した。
自分が聖女であったこと。
今日から聖女でなくなったこと。
そして今日からお肉が食べられることを三年間ずっと一日たりとも忘れることなく楽しみにしていたことを。
男性はルーシャの話を静かに聞いた。
笑うでもなく呆れるでもなく。真剣に耳を傾けて、しっかり理解しようとしてくれている。
ルーシャはそう感じた。
男性はルーシャの話を最後まで聞き終えると俯きながら考え込み、何かを閃いたように顔を上げた。
「それなら女神様の慈しみの対象でない肉を口にすればいいのではないでしょうか」
「?? ……そんなお肉がこの世に存在するのですか?」
ルーシャは半信半疑といったように眉根を寄せた。
男性は言葉を続ける。
「穢れから生まれる悪しき存在。神々に忌み嫌われている対象である魔物です。魔物は人々にとって脅威であり、殺生が禁止されている期間だろうと冒険者たちは狩りに行くでしょう」
男性の言葉にルーシャは呆然とした。
確かに、殺生が禁止されている今の時期だろうと冒険者たちは変わらず活動していて、魔物の毒を浴びたり大怪我を負った人たちが神殿を訪れる。
しかし魔物を食べるなんて聞いたことがない。
本当かどうか疑わしいが、目の前の男性からは誠実さが感じ取れた。ルーシャをからかっている訳ではないと、その真っ直ぐな瞳が語っている。
「不勉強で恐縮ですが、私は魔物は食べられないという認識でいます。食べたことがある人に会ったこともありません」
「あぁ、もしかするとこの国では食べないのかもしれません。そして一般人はまず食べないでしょうね。騎士などが遠征に出かけて食料を現地調達する必要がある場合、魔物は貴重な食料になるんですよ。私の国ではそうです」
「詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか」
「構いませんよ」
ずっと立ち話をしていた二人は、近くにあるベンチに並んで腰かけた。
「そういえば自己紹介をしていませんでしたね。私は隣国から来たギルバートと言います」
「ルーシャです。よろしくお願いします」
二人は今さらながらにお互い自己紹介し、ルーシャは隣国の元騎士団員だったというギルバートから、仕留めた魔物を食べていたという話を聞いた。
魔物の種類によって毒の有無があり、味や肉質も個体によって様々だという話に真剣に耳を傾ける。
この国では今、全ての肉食が禁止されている。
どの動物の肉を食べてはいけないという細かな決まりはなく、生物の肉全てという大まかな括りでしかない。
つまりは魔物だろうと何だろうと肉自体を口にすること自体が禁止されているのだ。
だけど今のルーシャは『女神様が慈しむ動物を口にしない』という、戒律の起源となった思想さえ守ればいいでしょう、と自分の中で結論付けている。
元々、人目につかない場所でこっそりお肉を焼いて食べるつもりでいたのだ。それが牛や鶏から魔物に変わっただけのこと。
ギルバートから話を聞き終えて自分の中で決意を固めたルーシャはベンチから立ち上がった。
「貴重なお話を聞かせてくださりありがとうございました。それでは私は用事ができたのでこれで失礼します」
ルーシャはペコリと頭を下げて立ち去ろうとした。
何となく嫌な予感がしたギルバートはルーシャを引き留めるように右手を前に出した。
「待ってください。まさかとは思いますが今からお一人で森に行くつもりではありませんよね」
「?? 行くつもりですが」
ルーシャは何を当たり前のことを言ってるのだろうこの人、というように首を傾げた。
「……せめて冒険者ギルドで護衛を雇ってから行くべきです」
「そんな手続きに時間をとられて、依頼を受けてくださる方が現れるのを待つことに更に時間をかける暇などありません」
「危険です」
「問題ありません。私は聖女ですから。……あ、『元』でした。ですが実力は現役だった昨日と変わっていませんので大丈夫です」
落ち着いた声で淡々と説明するルーシャにギルバートは額を押さえた。
まさか自分が軽く提案したことで、女性がたった一人で魔物が出る森に行こうとするなど思ってもみなかった。
確かに聖女の力は魔物に有効だ。
よほど森の奥深くまで行かない限りは一人でも余裕だろう。
だからといって一人で森に行こうとしている女性をそのまま見送ることなどできない。
ギルバートは何かを諦めたように息を吐いた。
「……分かりました。では私が同行します」
「いえいえ。お気持ちだけで十分ですよ」
「そんなわけにはいきません。ここであなたを一人で行かせてしまったら、私は自分自身を一生軽蔑することになるでしょう」
「そんな大袈裟な」
ルーシャは困ったように眉根を寄せた。
どうやら自分はギルバートの騎士道精神的なものに火をつけてしまったらしく、少し面倒だなと思った。
ルーシャには本当に手助けは必要なく、誰かの手を煩わせるのは申し訳ない。
そして一秒でも早く行かせてほしい。切実に。
諦めてもらうために少々キツめに断ろうか。だけど何だかんだとお世話になった人に失礼な態度はとりたくない。
ルーシャは悩んだ。
ギルバートはルーシャが無言で葛藤しているうちに首を縦に振らせるべく畳み掛けることにした。
「ところであなたは魔物を捌けるのでしょうか? 魔物を捌くにはコツがいります。そしてモタモタしていると肉の質が落ちて不味くなります。私はスピーディーに解体できるだけでなく、肉を特に美味しい状態に保てるよう処理する方法を熟知しています。完璧な味付けと焼き加減で肉を提供することもできます。そんな私はあなたに同行してもよろしいでしょうか」
「よろしくお願いします」
ルーシャは即答した。
ギルバートは道中の店で調理に必要なフライパンなどを購入していき、そうして二人は王都近郊の森にやってきた。
二人で森に足を踏み入れると、さっそく小さな魔物が出現した。
ギルバートが腰の短剣を抜いて一歩踏み出すより早く、ルーシャは右手から出した光魔法を魔物にぶつけた。
額に角を生やした豚のような見た目の黒い魔物はプギャッッと鳴いて絶命してその場に倒れる。
ルーシャは期待を込めた瞳をギルバートに向けた。
「あー……残念ながら、その魔物は毒があるので食べられません」
「毒ですね。分かりました」
ルーシャは右手から光魔法を出して、光で魔物の体を包み込んだ。
「解毒しました。これで大丈夫ですよね」
「……」
先ほどより更に輝きを増した瞳を向けられたギルバートは絶句する。
あまりにスピーディーすぎる。肉への執念がすさまじい。
ギルバートはルーシャの気迫にたじろいだ。
しかし自分がこの場にいる理由を思い出して魔物の足を掴んでひょいと持ち上げた。
本来ならこの魔物の肉を口にした者には嘔吐、下痢、手足の痙攣といった症状が現れる。
しかし元聖女が解毒したというのなら問題ないはず。今目の前でルーシャが使った魔法は光魔法で間違いない。
仮に体に異常が出ても聖女の力で回復できる。
この魔物の味は同じ系統の魔物と変わらないはず。
ギルバートは自分の記憶を頼りにその場で手際よく魔物を捌きはじめた。
ルーシャはそわそわしながら彼を尊敬の眼差しで見つめた。
あっという間に可食部である肉の塊を取り出したギルバートは、火をおこして肉の下処理をしてと無駄のない動きだ。
ルーシャは椅子の代わりとして手頃な岩に座りながら、フライパンで肉を焼くギルバートを感動しながら見つめていた。
一人で森に来ようとしていたルーシャは、魔物を倒す。食べる。という2ステップしか頭の中で思い描いていなかった。
その間に挟まる工程など微塵も考えていなかったのだ。
野ウサギすら捌いたことのないルーシャには、ギルバートが目の前でしていたように魔物を捌くことなどできなかっただろう。
彼が一緒に来てくれて本当に良かったと心から感謝する。
そしてついに、ルーシャが待ち焦がれていた瞬間が訪れた。
こんがりきつね色に焼けたお肉。
震える両手で皿を受け取ったルーシャは、涙で瞳を滲ませた。
「あぁぁ……お肉……三年ぶりのお肉……ついに……」
胸がいっぱいだ。感動で嗚咽しそう。
だけど泣いている暇はない。
焼きたてをしっかり味わうべく、フォークで一切れ刺して口に運んだ。
香ばしい香りが鼻を抜ける。
しっかり歯ごたえのある肉質。固すぎず柔らかすぎず、赤身と脂身のバランスが絶妙だ。
噛むたびに旨味と肉汁が口いっぱいに広がっていく。塩と香辛料の加減が抜群すぎるため美味しさが天元突破して大変なことになっている。
臭みは一切ない。高級店でメイン料理として出てきても遜色ない上品な味わい。
つまり最高である。
ルーシャはあっという間に一皿平らげて、おかわりを要求した。
「ははっ、そんなに美味しかったんですね。良かったです」
ギルバートは楽しそうに笑い、フライパンからルーシャの皿にお肉を取り分けた。
ルーシャはきょとんとした顔でギルバートを見た。
ギルバートさんって笑えたんですね。などという失礼な言葉は呑み込んで、おかわりをしっかり堪能する。
お肉に夢中になっているルーシャは、ギルバートから優しげな眼差しを向けられていることには気づかなかった。
その後も何度かおかわりをして、ルーシャの欲は満たされた。
二人は一緒にお肉を食べながらずいぶん打ち解けて、いつの間にか明日以降もギルバートが一緒に森に同行することに決まっていた。
ルーシャはさすがに悪いなという気持ちを抱いたが、これほどまでにスピーディーに魔物を捌いて完璧に調理できる人物を手放すべきではないという本能に従うことにした。
「今日は本当にありがとうございました。ギルバートさんのお陰で素敵な一日を過ごすことができました」
「お役に立てて何よりです。では明日は時計塔の前で待ち合わせということで」
「はい。よろしくお願いします」
ルーシャはペコリと頭を下げてギルバートと別れた。
翌日も二人で森に出かけて魔物を倒してお肉を食べ、その翌日も同じようにして過ごした。
戒忌週間なのにルーシャは毎日お肉が食べられている。
幸せすぎて、町の大通りをギルバートと並んで歩くルーシャは花のように可憐な笑顔でギルバートに話しかけていた。
その様子を見た通りすがりの人々は、ルーシャが数日前に今にも倒れてしまいそうなほど弱っていたことを知っている。
心配しすぎて物陰に隠れてこっそり見守っていた人も少なくはない。
「ルーシャ様、すっかり元気になられたみたいね」
「クッソあのイケメンめ。傷心中のルーシャ様に付け入りやがって」
「嫉妬は見苦しいからおよし。付け入ったって何だっていいんだよ。ルーシャ様が元気になられたならそれで十分じゃないか」
「あんなに素敵な人がいるなら、殿下に選ばれなくてむしろ良かったのかもねぇ」
「そうだよな……パトリシア様のようなキツい女性を選ぶようなお方だもんなぁ」
「それな」
「やっぱ体で選んだのだろうな」
やたらと見目麗しい銀髪の男性と一緒に穏やかな顔で歩くルーシャの姿に町の人々は安堵しながら、王子に対して不敬な発言をしていた。
ここ最近パトリシアの評判は下がる一方で、そんな人を婚約者に選んだロードリックの評判も自然と下がっていた。
戒忌週間が明けると、ルーシャは森に同行してくれたお礼と称して、ブランド牛をふんだんに使ったフルコースを出すレストランにギルバートを招待した。
「ようやく食べられますね。ぜひ一緒に楽しみましょう、ギルバートさん」
ルーシャはこれでもかと瞳を輝かせながらギルバートを誘った。
ルーシャもこの町の名物であるブランド牛はまだ食べたことがなく、食べることをずっと楽しみにしていたのだ。
「私、聖女だったのでけっこうお金を持っているんです。今まで使う機会があまりなかったので奮発しちゃいましょう。どうせなら町で一番の高級店なんてどうでしょうか。絶品メニューがあるらしいので、ギルバートさんにもきっと満足していただけるはず。私もずっと食べてみたかったのです」
ルーシャはワクワクしながら提案する。
ギルバートは自分の存在がついでかのような誘いに笑ってしまった。
彼は女性から積極的に誘われることを苦手としていたが、ここまでグイグイくる方向性が違う誘いを受けたのは初めてだ。
女性に食事代を出させることには少し気が引けるが、ルーシャの誘いを受けることは彼女のためにもなるだろうと、快く受け入れた。
ギルバートはすっかりルーシャに心を開いている。
ルーシャと一緒にレストランでの食事を楽しみながら、今後に思いを馳せた。
「こうやってお礼をいただいているのに恐縮ですが、私から一つ頼みごとをさせてもらって構わないでしょうか」
「もちろんです。私にできることでしたら喜んでお引き受けします」
ルーシャはステーキをナイフで切り分けながらギルバートの頼みごとを聞き、笑顔で快諾した。
***
ブルスメリア王国、王宮の大ホールでは、第二王子ロードリックの成人を祝う生誕祭が執り行われていた。
パーティーには国外から招いた貴賓も大勢参加している。
主役であるロードリックは婚約者のパトリシアと共に会場に現れた。
二人は金糸で刺繍が施された衣装を身に纏っている。
ロードリックは白を基調とした服を、パトリシアはデコルテ部分に透け感のある生地が使用されたワインレッドのドレスを着ていてとても美しい。
はっきりとした目鼻立ちが映える大人っぽい化粧に、結い上げられた艶やかな黒髪。
耳や首元で輝くアクセサリーは彼女の美しさを引き立てている。
裾の広がりを抑えたドレスはメリハリのある体のラインを強調させ、それでもしっかり上品さが感じられるデザインだ。
本日の主役として挨拶を終えたロードリックは、ふと隣に並ぶパトリシアの胸元に視線をやった。
一般的な女性の胸の大きさを遥かに上回るボリューム。
しかしその膨らみの大半が幻であることをロードリックは知っている。
ロードリックとパトリシアはすでに体の関係を持っていた。
婚約が成立したその日に心だけでなく体も結ばれたのだ。
もちろんお互い同意の上。誘惑してきたのはパトリシアの方だった。
少し前までロードリックには二人の婚約者候補がいた。
二人とも侯爵令嬢で聖女で、そしてとても美しい。
健康的美人か儚げ美人か。タイプが真逆の二人。
ロードリックはギリギリまで悩んだ。
どちらの容姿もロードリックの好みだったが、強いていえばルーシャの方が穏やかで優しく、好ましい性格をしていた。
やはりルーシャか……。
心にそう決めかけた頃、パトリシアが積極的にグイグイくるようになった。
大人っぽい見た目のパトリシアの上目遣いや甘えるような声。そして抱きついてくる柔らかな感触。
パトリシアは婚約さえ済ませれば、自分の全てを捧げていいと言ってくれた。
真面目なルーシャならこうはいかないだろう。婚約しても清らかな関係を保ち、婚姻を結ぶまで体を許してはくれなそうだ。
ロードリックは欲望に負けた。
彼は期待していた。
いつも自分の腕に抱きついてくるパトリシアの柔らかな感触を直に味わえることを。
腕に当たる膨らみは確かにそこに存在している。
どう考えてもすさまじい質量を持っている。
聖女が着る修道服は体のラインを拾わないデザインだが、自分に抱きついてくるパトリシアが自分好みの肉感的な体つきをしていることはその感触が証明していた。
パトリシアと婚約した日の夜。
薄暗い寝室で待っていたナイトドレス姿のパトリシアはとても扇情的だった。
ロードリックは欲望のまま彼女の衣服を全て乱雑に取り去った。
床に落ちたナイトドレスが重量感のある音を立てたことには気づかず、夢中で彼女を求めた。
しかし二つの膨らみはロードリックが予想していたほどのボリュームはなく、一般的なものより少し大きい程度に感じた。
思ってたのと何か違う。
女性は服を脱ぐとこんなにも印象が変わるものなのだろうか。
軽くショックを受けながらも、ロードリックはパトリシアとの初めての夜を楽しんだ。
それからも彼女と何度も夜を共にした。
そうしてロードリックは、女性が胸元のボリュームを偽ることはよくあることだということを知った。
辛い現実に打ちひしがれる。
期待していただけに悲しくてたまらなかった。
だけど自分はパトリシアだけを愛すると心に決めたのだ。
たとえ婚約した日から少しずつパトリシアの性格がキツくなっていたとしても、生涯彼女だけを愛すると決めた。
ロードリックは自身の成人を祝うパーティーで、いろんな招待客と挨拶を交わしていた。
ルーシャの父であるメイウェザー侯爵とその夫人、弟とはすでに挨拶を済ませてある。
てっきりルーシャも家族と一緒にいると思っていたのに、そこにルーシャの姿はなかった。
ロードリックの婚約者になれなかったことにショックを受けて欠席しているのかもしれない。
ロードリックは申し訳ない気持ちを抱きながら、隣で『もう疲れたんですけど』と愚痴をこぼしはじめたパトリシアを宥めていた。
まだパーティーは始まったばかりなのに勘弁してくれと心の中で嘆いていると、見知った女性が前から歩み寄ってきた。
ルーシャだ。
淡綠色の髪をハーフアップにした可憐なルーシャは、銀色の髪を後ろに軽く流した長身の男性を伴っている。
「……やぁ、メイウェザー侯爵令嬢。よく来てくれたね」
ロードリックが声をかけると、ルーシャは淑女の礼をとって挨拶を述べた。
紺色のドレスはいつも儚げなルーシャを凛々しく見せていて、彼女の白い修道服姿しか見たことのなかったロードリックにはとても新鮮だった。
ロードリックはルーシャと会話しながらも心ここにあらずといった様子だ。
なぜならルーシャの胸元には自分が想像していた以上の膨らみがあるから。
パトリシアの真実の膨らみよりも大きい。
だけど彼は知っている。
女性は胸元を偽る生き物であるということを。
だから目の前の光景が真実であるとは限らない。
一つ分かることは、もしもルーシャの胸の膨らみに嘘偽りがないとしたなら、自分はなんとも愚かな選択をしてしまったということだけだった。
***
パトリシアはルーシャが大嫌いだ。
自分と同じ侯爵令嬢で聖女で、そしてロードリック王子の婚約者候補。
ルーシャは自分とは正反対な儚げな容姿をしていて、神殿で働く男性たちはパトリシア派とルーシャ派という二つの派閥に分かれていた。
パトリシアには直感的にルーシャ派の方が多い気がして、それがどうしても許せなかった。
ルーシャはいつも真面目で落ち着いていて、どれだけパトリシアが喧嘩腰に煽っても静かに淡々と躱されてしまう。
パトリシアにとって世の女性の憧れである聖女という肩書きを得られたことはとても誇らしいことだ。
しかし日々課せられる神殿での職務はとても面倒くさかった。
だから自分に甘い上位神官を誘惑して、ルーシャや他の聖女たちが作った護符を自分が作ったものとして擬装させ、その成果を奪い取った。
パトリシアとルーシャのどちらを選ぶか決めかねているロードリック王子は、絶対にルーシャに奪われたくなかった。
だから王子に強引に迫り、甘えた声と色香で誘惑して婚約者の座を勝ち取った。
笑いが止まらなかった。
自分がルーシャに劣っている部分など一つもない。
この国で自分と同じ年頃の高位貴族の令息にはすでに婚約者がいる。
つまりルーシャがこの先誰かと結婚したとしても、それは伯爵以下でしかない。
ロードリックはいずれは侯爵位を賜ることになる。
そうしたらパトリシアは侯爵夫人となり、既婚者となってからもルーシャより優れた立場でいられるのだ。
パトリシアがロードリックと婚約した日から、たらし込んでいた上位神官が冷たくなった。
人の女になったパトリシアに興味を失ったという。
それによって他人が作った護符を自分の成果だと偽ることができなくなった。
護符なんて二年ほどまともに作ってこなかったため、その日のノルマを達成するだけで毎日クタクタになった。
苛立ちを全てルーシャにぶつけようとしたのに、ルーシャは成人したことでさっさと神殿からいなくなってしまった。
普通なら結婚や出産で引退するまでは、聖女という誇らしい地位を保つものなのに。ルーシャはずいぶんあっさりと、聖女なんて地位に興味はないとばかりに去っていった。
本当にむかつく女だ。
ルーシャがいなくなったことで、彼女の治癒を希望していた神殿の来訪者は、仕方なくといった態度でパトリシアから治癒を受けるようになった
しかもなぜか町ではパトリシアの悪い噂が出回っているようで、町に出かけるとパトリシアを見かけた人々がヒソヒソとするようになった。
この国の王族と婚約したことでルーシャに勝ち、誰からも憧れの眼差しを向けられる存在になれたというのに、パトリシアは毎日イライラしていた。
早く鬱憤を晴らしたくてたまらない。
ロードリックの成人を祝う生誕祭には侯爵令嬢としてルーシャが参加するはずだ。
そこで自分はルーシャより上だと見せつけて、存分に悔しい思いをさせようと決めた。
そうして婚約者であるロードリックの成人を祝うパーティーの当日となり、パトリシアは令嬢たちからの羨ましそうな視線を浴びながら優越感に浸っていた。
だけどロードリックの隣でずっと微笑みながら挨拶を続けることに疲れてきた。
もう疲れた。そろそろ休憩したいとロードリックに愚痴を溢していたら、ルーシャが前からやってきた。
その隣にいるのは銀色の髪を後ろに軽く流した長身の男性。
程よく逞しくて大人っぽくて、何より顔がいい。この会場で一番の男前だ。
「お初にお目にかかりますロードリック殿下。私はデルラント王国ラトクリフ公爵家当主、ギルバート・ラトクリフと申します」
ルーシャの隣に立つ男性は胸に手を当てて挨拶をした。
パトリシアは頭をガツンと強く殴られたような衝撃を受けた。
そんな、まさか。
ルーシャと一緒にいる男性はまさかの公爵様だなんて。
パトリシアは失念していた。
今日催されているパーティーには国外からの貴賓が大勢いて、その中には独身の王族や公爵もいるということを。
ルーシャとギルバートはロードリックへの挨拶を終えると、二人で軽食コーナーに向かった。
彼らは今日の主役であるロードリックとパトリシアよりも人目を集めていた。
「メイウェザー侯爵令嬢とご一緒の方は公爵様らしいわ」
「とても素敵な方よね。お二人はどういった関係なのでしょう」
「すごく仲睦まじくされているのを見ましたわ。お似合いよね」
「きっとルーシャ様はあの方とご結婚されるから聖女を辞めたのね」
「神殿の方々は優秀な聖女様が引退してしまったことを嘆いていたわ」
パトリシアの近くにいる令嬢たちが楽しげに盛り上がっている。
パトリシアは不快すぎてルーシャの背中を無言で睨みつけ、その後もずっとイライラしていた。
「殿下の婚約者って美人だけど何か怖いよな」
「最近、聖女として町での評判が悪いって聞くよな。神殿への来訪者への当たりがキツいだとか」
「それは俺も聞いたことがある。ただの噂だと思ってたけどあの様子だと本当かもしれないな」
パトリシアの令嬢らしい淑やかな姿しか知らなかった貴族たちは、不機嫌そうなパトリシアを眺めながら噂に納得していた。
***
ルーシャはひたすら肉料理を堪能していた。
軽食コーナーには王家のお抱えのシェフが腕を振るった料理がところ狭しと並んでいる。
盛り付けの美しさはもちろん味も一級品ばかり。
ルーシャがうっとりしながら食べる様子をギルバートは優しい面持ちで眺める。
さすがにずっと食べてばかりいる訳にはいかないので間にダンスも挟む。
ギルバートに熱い視線を向ける女性は大勢いたが、彼はルーシャをパートナーとして伴っているため、挨拶以上のアプローチを受けることはなかった。
「本当に感謝していますルーシャさん。このお礼は後日必ずさせてください」
「いいえ。私にはパートナーがいなかったので、こちらとしてもありがたい申し出でした。ギルバートさんとご一緒できてとても楽しいですし」
再び軽食コーナーで肉料理を堪能しながらルーシャは柔らかく微笑んだ。
ギルバートは唇を引き結んで拳に力を込める。
肉料理を食べるルーシャは本当に幸せそうだ。今日は特別美しく着飾っていることもあり、彼の心臓はずっと高鳴っていた。
気持ちを抑えきれなくなったギルバートは、ルーシャを真っ直ぐ見つめて真剣な表情で口を開いた。
「私はあなたのことをお慕いしております。どうか結婚を前提としたお付き合いをしていただけないでしょうか」
ギルバートからの突然の告白にルーシャは目を丸くした。
彼から好意を向けられていることには何となく気づいていた。
ルーシャはこのパーティーが終わってからもギルバートと交流を続けたいと思っていて、彼も同じ気持ちでいてくれているような気がしていた。
しかしまさかこの会場内で、それも軽食コーナーの前で告げられるとは思っていなかった。
「ふふ、ここで言うことではないと思いますよ」
「っ、失礼しました。つい気が急いてしまって……」
申し訳なさそうに謝罪するギルバートにルーシャは目元を和らげた。
ルーシャがギルバートと出会ってからまだ一ヶ月しか経っていないが、彼はいつもルーシャの考えを真剣に聞いてくれて、意思を尊重してくれる。
ギルバートはルーシャが結婚相手に求める条件、決して譲れない希望を必ず叶えてくれるだろう。
聞く必要もないと思うが、ルーシャはギルバートに尋ねることにした。
「私には結婚生活でどうしても譲れない希望があります。それを叶えてくださる方と結婚したいと思っています」
「それは何でしょうか。たとえどんなに困難なことだったとしても、私はあなたの希望を叶えるために必ず全力を尽くします」
まだ聞いてもいないことは絶対に叶えますと言わない誠実さにルーシャは強く胸を打たれた。
「私の希望は毎日肉料理が食べられることです。ギルバートさん、私は毎日肉料理が食べられる幸せな生活を送りたいです」
ルーシャが心のままに欲望を吐き出すと、ギルバートはホッとして目を細めた。
そんなことかと安心して笑う。
「それはもちろん叶えます。希望を聞くまでもありません。ずっと私のそばにいてくださいルーシャさん。毎日あなたが肉を食べる隣に私はいたい。あなたの幸せそうな顔をすぐ近くで見られる特権を私にください」
ルーシャは肉料理を載せた皿を手に持ちながら、これ以上ない口説き文句を口にするギルバートと見つめ合った。
心と胃袋が満たされていく。
幸福を噛みしめながら、ルーシャはギルバートと共に歩む幸せな未来を受け入れた。