9(スヴェン視点)
傍らで横になるアリシアから、規則的な寝息が聞こえてきたのを確認して、スヴェンはそっとその場から立ち上がった。そのまま、小さな小さな部屋をぐるりと見回す。
小さなカウンターテーブルと、女性が一人丸まって眠るくらいしかない小さなベッド。女性が持つには小さすぎるクローゼット。そんな、貴族女性が暮らすには清貧にすぎる室内で、一際大きな存在感を放っていたのが、作りかけの大きな魔道具だった。
小さな子供くらいの大きさがあるその魔道具の周辺には、これからつなぎ合わせていくのであろう魔石の欠片が無造作に散らばっている。しかし、それら一つ一つは小さなものでも、平民の家族が三ヶ月はゆうに暮らしていけるだけの価値を持っているものだった。それがいくつもいくつも落ちているのだから、スヴェンは思わず頭を抱えてしまう。
本来、こんなセキュリティも何もガバガバなところに置いておくべきものではないのだ。
しかし、そうしなければならない理由があることも、スヴェンには痛いほどよくわかっていた。この国にやってきてから三ヶ月、たったの三ヶ月で、この国の恐ろしいまでの男尊女卑思考にスヴェンは触れてきたからだ。
スヴェンがやってきたイエニムール帝国では、むしろ女性は全く逆の扱いをされる。女性は全ての人類を生み出してくれる、敬うべき存在として、何よりも丁重に扱うようにという教育が行われるのだ。当然、女性だからという理由だけで、不当に職を制限されたり、奇妙な差別をされることなどあり得ない。
だからこそ、スヴェンはパレスーム国内での女性の扱いの不当さが、とりわけアリシアの扱いに憤りを覚えていた。
(こんなに才能あふれる女性が、こんな扱いを受けるなんて……)
そして、そんな状況を一息に改善させることができない己の不甲斐なさに、歯噛みするしかない。今回のことにしたって、リドルの上司への厳重注意と、アリシアを自分の直属として移動させるくらいしか、できることがなかったのだから。
しかしそれでも、彼女を殊更に気に入っていることを周囲に匂わせておいたのだから、勘の良い人間たちは今後、アリシアにあからさまな嫌がらせをすることはなくなるだろう。それだけでも、少しは意味があったのだろうと己を慰める。
実はスヴェンは、この国にやってくるよりもかなり前から、アリシアのことを知っていた。正確には、アリシアの名前を知っていた。
イエニムール帝国でトップを争うほどの知識と技術を持つスヴェンがその名を知ったのは、国から提供された他国の魔道具に関する秀逸な論文をまとめた資料の中だった。当時アリシアが書き上げた数々の論文に、スヴェンは目を見開いたのを覚えている。
他の論文が、各国の精鋭の技術者たちである中、たった一人学生の身分で資料にまとめられていたのが、アリシアの論文だった。しかも、他者が新しい魔道具の製作方法についての論文であった中、彼女が書き上げていたのが、魔道具を製作する技術そのものに対する比較検証の論文だったのだ。
例えば、魔石に書き込む記号の大きさや太さによって効力に違いが出るのか、基盤に付与する魔石へ書き込む記号を複数にした場合にどのような効果をもたらすのか、など。
それは、『どうして魔道具を作り出すのに、こうした書き方をするのか』という、技術そのものに対する検証をする論文だった。
スヴェンですら、そんなことに疑問を持ったことはなかった。ただ、こうした書き方をすればこのように動く、だからそれを組み合わせてこのような効果を生み出すという、既存の知識を元にした魔道具製作しかこれまでやってこなかったのだ。
この論文は、すぐさまイエニムール帝国内で共有され、帝国内の魔道具製作技術は飛躍的に向上した。それだけの価値のあるものだ、当然の結果だとも言えるし、おそらく他国でも似たようなものだろう。
しかしそれよりもスヴェンを驚かせたのは、この論文、ひいては論文の著者であるアリシアが、驚くほど軽い存在として扱われている事実だった。かねてより、パレスーム国内では男尊女卑の傾向が強いということは他国でも共通認識ではあったものの、まさかここまで素晴らしい論文を、まるでなかったもののように扱うほどだとは思っていなかったのだ。
そして同時に、強い興味を惹かれた。これだけの素晴らしい論文を書き上げる人物が、それだけの扱いをされて、どんな境遇で暮らしているのか。そこには、ちょっとした同情と、少しばかりの優越感が混じっていたのかもしれない。帝国内でトップだとも言われる自分が思いもしなかった感覚を身につけていた人物が、そこまで不当な扱いをされていることによる、優越感。
……自分でも最低な考えだったと、今になって思う。実際に会ってみた彼女は、かわいそうなほど健気で、決して夢を諦めない、強い意志を持った女性だと分かったからだ。そして強く思った。叶うことなら、自分が彼女を守りたい、と。
心地よい彼女の魔力が流れる、作りかけの魔道具にそっと触れ、意識を研ぎ澄ますために目を閉じる。まだ基盤部分が書きかけだから、何をする魔道具を作ってるものなのか、までは読み取れない。しかし、この魔道具が人を傷つけるものではなく、守るためにあるものだということだけは、痛いほど伝わってきた。
「……さて、彼女を捕まえる準備をしなくては」
そう呟いたスヴェンの瞳には、彼女に苦しみを与えてきた全ての者たちへの怒りと、それらから彼女を守りきるための決意に溢れていた。