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身体が、重い。内側から発熱するようなこの感覚は、記憶を取り戻した直後に感じたものと同じだ。元来丈夫なアリシアは、滅多に味わうことのない感覚。だるくて、身を起こすどころか指一本すらも動かすのが億劫に感じてしまう。
(……ダメだ、仕事……行かなきゃ……)
それでも脳裏に浮かぶのは、やっとの思いで仕上げた仕事の依頼のことだった。作り上げたものをリドルに引き渡し、最終確認をしてもらって、納品の手続きをしなければ。
そう思って、なんとか瞼を開けると……なぜか、視界にスヴェンの姿が映り込んだ。
「……ああ、起きましたか、ハリス嬢。気分は? どこか辛いところはないですか?」
「な、で……ハイマール、さま……が……?」
声を出してみて、その掠れっぷりに自分でも驚いてしまう。ついでに喉の痛みも感じて眉を顰めると、苦笑したスヴェンがその長い指を伸ばしてさらりとアリシアの額を撫でた。
「通勤時間になっても現れないので、僕が様子を見にきたんです。事情を話したら、大家の方が鍵を開けてくださって」
「え……今、なんじ……」
「もう、お昼も回っていますよ」
「うそ……! 行かなきゃ、納品が……!」
スヴェンの答えに驚いて身を起こしたが、ぐっと重しがのしかかったように、思ったように身体が動かない。重心を制御できなくて身体が傾いだが、危なげない腕がアリシアを支えてくれて、またそっとベッドに横たえさせられた。
「無理をしないでください。すごい熱ですよ」
「でも、仕事が……」
「昨日言っていた、王家からの依頼の件ですね? 問題ありません、午前中に僕が全て処理をしました」
「え……」
「担当者に基盤を引き渡して、最終確認をして、ベル嬢に納品の手続きを依頼してきました。今頃、依頼者に引き渡しが行われているでしょう。他にするべきことはありますか?」
心配そうに顔を覗き込まれたが、今日やらなければならないことは、全て適切に処理してくれたようだ。こわばっていた身体から力を抜き、ふるふると首を横に振ると、ほっとしたようにスヴェンの口からため息が漏れた。そのまま、もう一度アリシアの額へと手が伸ばされる。少しひんやりとしたその手が優しく頭を撫でてくれるのが心地よくて、アリシアは熱のせいだと自分に言い訳をしながら、こっそりとその手に擦り寄った。
「ありがと、ございます……いろいろ、すみません」
「いいえ、全く問題ありません。むしろ、こんなになってしまうまで無理をさせてしまって、こちらの方が申し訳ありませんでした」
熱を持つアリシアの頬に手の甲で触れながら、スヴェンは情けなく眉を下げて謝罪の言葉を口にする。
「勝手に家の中に上がってしまったことも、すみません。……でも、正直肝が冷えました。扉を開けたら、あなたが倒れ込んできたのですから」
「それ、は……ご迷惑を……」
「いいえ、それはいいのです。……でも、大家のご夫婦も心配されていましたよ。元気になったら、顔を見せてあげてください」
そう言って、スヴェンは傍らにあるボウルへと手を伸ばした。ちゃぷんと音がなったその中には、どうやら布が水に浸してあるらしい。ぎゅっと絞ると、それをアリシアの額へと乗せてくれる。ひやりとした感触に一瞬息を詰め、ふう……と大きく息を吐き出すと、スヴェンはぎしりと音を立てて、アリシアの眠るベッドの端に腰を下ろした。
「……あなたが作った、あの基盤。とても素晴らしい出来でした。あなたが、一から基盤の魔法式を書き起こしているものを見るのは初めてでしたが……正直、わが国でもあそこまでのものを作り出せる者はそう多くないでしょう。それも、これだけの短期間で作り上げるなんて……」
ぽつりとスヴェンの口から溢れたその言葉に、閉じかけていたアリシアの瞼が開く。そしてスヴェンを見上げると、その視線はこちらを向いておらず、ただの独り言なのだということが見てとれた。アリシアも、なんと言って返したら良いのかわからず、そのまま沈黙を受け入れる。心地よい静寂が、しばらくその場を支配した。
「……熱が下がるまで、ゆっくり休んでください。職場への届けは、ベル嬢が代わりにしてくれます。彼女から、せめて栄養のあるものを、と、いくつか食べ物を預かってきました。こちらの箱に入れているので、食べられるときに食べてくださいね」
そういって、スヴェンが指し示したのは、ベッドの足元にある一抱えほどの箱だ。一目で魔道具とわかるそれからは、スヴェンの魔力が感じられる。彼の自作の魔道具であろうそれは、おそらく前世でいう保冷庫のようなものだ。あるいは、持ち運びができる小型冷蔵庫。一体いくらするのかもわからないようなそれを無造作に置いて帰ろうとするスヴェンに、アリシアは慌てて首を横に振った。
「い、けません……そんな高価なもの、こんなところに置いていては……」
「大丈夫ですよ、実験用に作ったものなので、出来はそんなによくないんです。とはいえ、二〜三日は持つでしょうから、元気になったら、改めて受け取りに伺いますよ」
そう言って笑うが、きっと出来が悪いなんて嘘だ。その魔道具からは、とても良い魔力の流れが感じられる。もしこれが本当に実験用なのだとしたら、スヴェンはとんでもない天才に違いない。
しかし、彼の有無を言わせないその様子に、気が弱くなってしまっているアリシアは頷くことしかできなかった。そんなアリシアの様子に満足げに笑ったスヴェンは、少し乱れてしまった毛布を丁寧にアリシアの首元まで掛け直すと、ぽんぽん、と軽く毛布を叩いた。
「さあ、もう少し眠ってください。疲れからくる熱は、ゆっくり眠るのが一番ですよ。あなたが眠るまで、ここにいますから」
そう言ってスヴェンは、まるで子供を寝かしつけるようにゆったりとしたリズムで規則的に毛布を叩いてくれる。子供扱いされることに慣れていないアリシアは、最初こそ戸惑っていたものの、いつしかそのリズムに誘われるように、夢の世界へと戻っていった。夢現の中で、スヴェンの低い、心地よい声が耳をくすぐる。
「……さて、これからどうしましょうかね」
どういう意味なのか、聞いてみたい気もしたけれど、それを決めるよりもアリシアが意識を手放してしまう方が早くて、結局その言葉の意味を聞くことはできなかった。次に目が覚めたのは次の日の朝で、いつも通りの光景に昨日のことが夢ではないかと疑ったけれど……ベッドの足元には相変わらずスヴェンの魔力を纏う箱が鎮座していて、そのことに少しだけアリシアは頬を赤らめたのだった。