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「うあぁ……やっ……と、終わった……」
凝り固まってしまった首をごきりと鳴らして、大きく伸びをする。壁にかかった時計を見ると、針はもう日付が変わる時刻を示していた。机の傍らに置かれたチョコレートをつまみ上げて口に含む。と、過分な程の甘味が、顎の付け根をきゅうっと引き絞った。
あっという間に溶けていったそれは、ベルからの差し入れだ。遠目からでも、リドルたちに何か押し付けられていたのに気付いたのだろう。いつものことではあれど、ベルのそういった細やかな気遣いは本当にありがたい。
(……それに、ハイマール様も……)
ふと頭をよぎった黒髪の上司の言葉を思い出し、アリシアは椅子の背もたれに身体を預けて天井を仰ぎ見た。かの上司がアリシアに声をかけてきたのは今日の終業後、リドルたちが帰路についてからのことだった。
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『勘違いだったら申し訳ないが、その仕事はハリス嬢に割り振ったものだったかな?』
スヴェンがいつも通りにこやかな笑顔で話しかけてきたものだから、アリシアは警戒することも忘れ、基盤から視線を外すことなく素直に答えてしまったのだ。朝から休憩も取らず作業をして、ようやく九個目の基盤の動作テスト中だったので、頭がほとんど動いていなかったのかもしれない。
『いえ、これは……一昨日、ユガレン氏に頼まれまして……』
半ば無意識で答えた後、はっと気付いて目線を上げた時には、時すでに遅し。顔に貼り付けていた笑みを更に深くしたスヴェンは、そのままわざとらしさ満載で室内を見渡し、そして再度アリシアに向き直った。
『そうですか……別の者の仕事まで請け負っているなんて、非常に素晴らしい心がけですね。しかし、彼らは皆、一昨日から君を手伝うこともなく、帰り支度を始めているようですが……』
ん? と首を傾げるその瞳が全く笑っていなくて、ようやくここでアリシアは、スヴェンが相当怒っているらしいことに気が付く。しかし、そうは言ってもこの仕事は王家から受託しているもので、納期が差し迫っている以上誰かが仕上げなければならないものだ。本来の担当者が全くやる気を見せていない以上、職場の皆に迷惑をかけないためにはアリシアがやるしかない。少なくともアリシアは、そう思っていた。
だからと言って、スヴェンが自分のために怒ってくれていることもわかっているから、いつものように噛み付くこともできない。
どうやって言い訳をしようかと考えていると、徐にスヴェンがリドルたちに向かって声をかけようと足を向けたのに気づいて、慌ててその背に取り縋った。
『ちょっ……余計なこと、しないでください!』
『何が余計なのですか? これは本来、彼らの仕事です。あなたがやるべきことではない』
スヴェンの言っていることは正論だ。だからこそ、何も言い返すことができない。悔しくて唇を噛み締め俯いていると、しばらくして小さなため息がアリシアの旋毛に落とされた。
『……すみません、八つ当たりをしました。あなたが納得しているなら、今回はもう何も言いません。ただ、本当ならお手伝いしたいのですが……二国間での条約の関係上、私は実際にこちらで使われる魔道具の製作ができないのです』
苦しげな声に視線をあげると、悔しそうに眉を寄せるスヴェンが苦虫を噛み潰したような表情をしているのが目に飛び込んでくる。何かを堪えているかのようなその顔が、普段のスヴェンと全くそぐわなくて、思わずアリシアはくすりと笑みをこぼしてしまった。
『お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です、慣れているので。それより、こちらは大丈夫ですので、ハイマール様も早くお帰りください』
『……しかし……』
これ以上気を遣ってほしくなくて、帰宅を促したアリシアだが、なぜかスヴェンはアリシアを見下ろすだけで、その場から動こうとしない。少し待ってみたが、一向に背を向ける様子のないスヴェンに焦れてしまって、アリシアは会話が終わったのだと判断し、スヴェンに背を向けて仕事に取り掛かった。
まだ何か言いたい様子のスヴェンに敢えて気づかないふりをして、目の前の魔道具に没頭していると、いつの間にか彼の気配は消えていた。そのことに、なぜかアリシアは心の底から安堵の息を漏らしたのだった。
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夕方の出来事を思い出して、アリシアは力無く唇を笑みの形に歪める。目の前に並ぶ十個の石板は、魔力がまだ馴染んでいないのか、仄かに淡い光を帯びていた。その幻想的な光景に、ほう……と息をつくと、しばし目を閉じて椅子の背凭れに身を預ける。そのままずぶずぶと沈んでいきそうになる意識を無理やり引き起こして、アリシアは重い身体を起こし、立ち上がった。
「……よし、帰ろう」
多くはない荷物を鞄にまとめ、石板を保管庫に預けて職場を後にする。見上げた夜空は、今朝から曇り空だったからなのか、星どころか月すら見えない。普段よりも闇が深くて、心許ない気持ちを持て余しながら、アリシアは足早に家へと向かった。
家にたどり着いたのは、もう酔っ払いも出歩いていないような時間だ。アリシアは、大家の夫婦を起こさないよう気をつけながら階段を登り、部屋の扉を開けてすぐ、その場に崩れ落ちてしまった。対して大きな部屋でもないくせに、すぐそこのベッドへ行くのすらも億劫に思ってしまう自分に、自分で驚いてしまう。
普段なら絶対に欠かすことのない祖母への祈りの時間すら、取る気力が起こらないくらいに心も、身体も疲弊しているのがわかった。
(どうしよう……着替え……そう、着替えなきゃ……)
そう思いながらも、身体は泥のように重く、思考はだんだんとぼやけていく。気づけばアリシアは、そのまま深い眠りに落ちてしまっていた。