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スヴェンがアリシアの職場にやってきて、早三ヶ月。悔しいことに彼は、とても仕事ができる人間だった。
周囲への気遣いに長けていて、細かいことにもよく気づく。的確なタイミングで声をかけ、持ち前の社交性で問題を聞き出し、それを解決できる人間に協力を仰いで、良い形で次の仕事へと繋げていた。さらに、自身の研究者としての知識を惜しみなく相手に与えるので、明らかに全体の業務の効率が上がったように思う。
常に笑みを絶やさない、アリシアからすれば胡散臭さの塊のような表情も、職場の人間からしてみればスヴェンを信頼する要素の一つなのだろう。
特にベルへの効果は絶大だった。平民でありながら、気に食わない仕事や明らかに面倒ごとを押し付けようとする相手には、貴族であろうとも笑顔で断りを入れるベルが、スヴェンには率先して手伝いを買って出ていた。もちろん、そのことについて不満を口にする猛者などいない。
アリシアはと言えば、相変わらず自分からスヴェンの元に近づくということは一切していなかった。上司と部下という関係性上、報告のために話をすることはままあるが、仕方なくそうしているだけであって、ベルのように何もないのに近づきたいとは全く思えない。
そうは言っても、スヴェンが上司になってからは無茶な仕事の振り方をされる回数ががくんと減ったので、それだけは密かに感謝をしていた。
(……まあ、かと言ってお近づきになりたいとは思わないんだけど)
小さくため息をついて、目の前の魔道具に意識を戻す。
急ぎだと言われて今朝持ち込まれた魔道具は、王城の防壁に設置されていた迎撃用の武器だった。外敵が魔道具の射的範囲内に入ってきた場合、自動で方向を変え、大砲を撃つ仕組みになっている。
分解して中の基盤部分を取り出すと、経年劣化によって一部の命令系統の魔力が消えてしまっていた。無理やり使い続けていたのだろう、元の内容は全く読み取ることができない。アリシアは仕方なく、前後の処理の流れを読み解き、自分で新たに内容を描き直すことにしたのだった。
今朝からずっと前後の流れの読み取りに時間をかけてしまっていて、気づいたら昼休憩の時間になっている。凝り固まってしまった首をぐるぐると回すと、ゴキゴキと嫌な音が鳴った。同じように肩や腰も軽くストレッチをして、食堂に行こうと腰を上げると、背後からあまり聞きたくない声がかけられた。
「ああ、ハリス嬢。これからお昼かな? 僕もご一緒しても?」
「……ハイマール様」
にこにこと人好きのする笑顔で近づいてきたのは、声で予想した通りスヴェンだった。アリシアは、迷惑そうな表情を隠しもせず、スヴェンに向き直る。見上げなければ視線も合わせられないという身長差が憎たらしい。
「何度もお誘いいただいて恐縮ですが、今日も先約がありますので」
「ベルくんのことだろう? 大丈夫、彼女も一緒で良いよ」
「いえ、お気遣いなく。それでは失礼します」
流れるように断りの挨拶を入れ、スヴェンの声も聞かずに身を翻した。そのままスタスタとベルの席まで歩いていって、目を丸くしている彼女に有無を言わさず、腕を絡めて立ち上がらせる。
「……ちょっと、良いの? スヴェン様、めちゃくちゃこっち見てるけど」
「いいんです! ほら、早く行きましょ!」
ちらちらと背後を気にするベルには構わず、半ば引きずるようにして部屋を出た。扉を閉める直前にチラリと視線を向けると、相変わらずスヴェンはアリシアの席近くに立っていて、ひらひらと手を振り、眉を下げて笑っているだけだ。
少しの罪悪感を覚えつつ、それでもやはり誘いに乗るのが怖いと思うのは、前世の記憶や五年前の出来事が、未だアリシアを苦しめている証拠でもあった。
(……そう。私はもう、男なんかに振り回されたりしない)
それはもう、アリシアにとっては一種の強迫観念に近いものだ。傷つけられたくないから、近づきたくない。それが顔の良い軽薄そうな男であれば、尚更だ。
食堂に向かうアリシアは、ベルの腕に絡ませる指へと、ぎゅっと力を込めたのだった。
「……食べすぎました……」
「何言ってるの、全然食べてなかったじゃない」
「ベルさんが食べすぎなんです! 一緒にしないでくださいよ、もう」
明らかに膨れたお腹をさすりながら、アリシアは自分のデスクの引き出しに胃薬はあっただろうかと思案していた。
ベルは、その見た目によらず非常に大食漢だ。一体どこに収まっているのだろうかと不思議になってしまうくらい、よく食べる。それなのに、見事なプロポーションを維持しているベルには、同じ女性としてもはや尊敬しかない。
対して、アリシアは非常に小食だ。伯爵令嬢であった頃から割と食べない方ではあったものの、家を追い出されてからは経費節約と作業時間の捻出のため、さらに食に興味がなくなってしまった。結果、枯れ木のように細くなってしまったのだ。
ベルは、そんなアリシアを心配して、よほどのことがない限り一緒に昼食をとってくれる。友人として心配してくれていることを思えば、ありがたいとしか言いようがないのだが、結果として毎回胃薬が必要になるほどの量を食べさせられるのだけはいただけない。
今日も例に漏れずお腹はパンパンで、苦しいくらいの胃をさすりながらよろよろと歩いていると、向こう側から会いたくない面子が近づいてくるのが見えてしまって、気分はさらに下降の一途を辿る。
「……ああ、誰かと思えば。伯爵令嬢殿ではないですか」
やってきたのは、アリシアと同じ職場の同僚男性たちだ。苦々しい思いを堪えて、アリシアは渋々口を開く。
「……ユガレン様、何かご用でしょうか」
「いえ、僕たちも昼食から帰ってきたところですよ。そうしたら、あなたの姿が見えたものですから」
その中で、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべるのは、リドル・ユガレン。アリシアの同僚で……実は、元婚約者の弟でもある男だ。
貴族令嬢としてあるまじき、婚約者がいながら職につくことを許してもらえたのは、当時リドルが魔道具省への入省が決まっていることが大きかった。
職場で何かあったときにユガレン家の者が同じ職場であるというのは、何かと都合がよかったのだ。幼い頃はカイルと一緒に三人でよく遊んでいたこともあって、昔はアリシアにとても懐いており、そういった意味でも両家共に安心感があったのだろう。
しかし、カイルとの婚約解消後、職場で久々に顔を合わせたリドルは、いつの間にかアリシアを見下すその他大勢の男性同僚陣と同じ態度をとるようになってしまっていた。今ではアリシアにとって天敵とも言える存在の一人である。当然だがダントツ一位は、あの新任上司だ。
アリシアは、行く手を遮るように立つリドルたちにバレないよう、こっそりため息をついてから目線を合わせる。
「……ご用がないのでしたら、仕事がありますので、これで」
「いいえ、用ならありますよ」
「でしたら、手短にお願いできますか? まだ、処理できていない仕事があるんです」
睨み上げるように挑戦的な視線を向けると、彼らは何がおかしいのか「おお、怖い」と言いながらお互いに顔を見合わせ嫌な笑い声を漏らした。そして、大袈裟な仕草で両手を持ち上げて肩をすくめて見せる。
「この仕事、代わりにやっておいてもらいたいんですよね」
そう言って手渡されたのは、王城で使われる生活魔道具の量産依頼書だった。前世で言うところの冷蔵庫の役割をする魔道具で、確か一週間後に現在使っているものの利用期限が過ぎて廃棄処分になるため、新しく基盤部分を作り直す必要があるという話が会議でも上がっていた。
ついでに、容量をもっと増やしたい、温度調節だけでなく湿度も管理できるように……というような要望がいくつか上がっていたため、基盤部分だけでなく本体部分も作り直さなければならないと、久々の大型発注となっていたはずだった。
その依頼書が、今アリシアの目の前でひらひらと掲げられている。
「……この依頼、確か基盤部分の納期は今週末だったはずですが」
「さすが、令嬢殿はよくご存知だ。その通りですよ」
「依頼日、先月の頭になっていますけど」
「そうですねえ」
「……できているのは、いくつですか?」
「まだ何もできていませんが」
「はあ!?」
悪びれることもなく言い放つリドルたちに、思わず苛立った声をあげてしまった。しかし、そんな様子を見てもなお、リドルたちは余裕の態度を貫いている。
「仕方がないでしょう。僕たちは、三ヶ月後の企画提示大会に向けての準備が忙しいのです。平民どもに楽をさせるための生活魔道具などに、拘っている暇はないんですよ」
「だからと言って……! 依頼主は王家ですよ!?」
「良いではないですか。これからあなたがやってくれるんですから。何せあなたは、生活魔道具が作りたいんでしょう?」
ねえ? とにんまり笑うリドルたちに、ぐっと唇を噛み締めて拳を握りしめる。そのまま黙り込んでしまったアリシアに何を思ったのか、了承は得たと言わんばかりにそのまま書類をアリシアに押し付けると、「頼みましたよ」と踵を返し、笑いながら去っていった。
相手から貴族だからと言い返すこともできずに様子を見守っていたベルが、心配そうにアリシアを覗き込む。
「……ねえ、大丈夫なの? アリシア」
その心配そうな声音が嬉しいからこそ、弱音を吐くことなんてできない。どうせ、やらなければ何かと理由をつけてアリシアに全て責任をなすりつけてくるのだ。それに、もう納期が差し迫っている。一刻も早く、取り掛かる必要があった。
ここで愚痴をこぼすよりもその方がよほど建設的だと判断したアリシアは、杞憂だと示すために、ベルに向かってにっこり微笑みかけて、おどけるようにぺろりと舌を覗かせる。
「……もう、また無茶振りきちゃいました。急ぎみたいなので、先に戻っちゃいますね」
「本当に大丈夫なの? なんなら、スヴェン様にこの話……」
「だーいじょうぶです! きっちり片付けますよ!」
わざと明るい声を出して、ガリガリの細腕で力こぶを作るポーズをとってみせた。未だベルの顔は心配そうに歪んでいたけれど、ここまできたら勢いで突っ走るしかない。
アリシアは「先、行きますね」と念押ししてから、なんとか納期に間に合わせるべく、急いでその場を後にした。