3
アリシアが家を追い出されてから、五年の歳月が経った。
チャーリーの手助けで見つけた新居は、平民が暮らすにしてもお粗末な、古いアパートメントの一室だ。
煉瓦造りの三階建のアパートメントは、一階に大家の老夫婦が暮らしていて、二階と三階に二部屋ずつの間取りとなっている。老夫婦の意向で、女性しか暮らしていないというそのアパートメントは、アリシア以外の入居者は全員娼婦だ。しかし、入居者は全員親切な子たちばかりで、時折客から差し入れてもらったお菓子を配ってくれたりして、温かな関係性を築いている。
朝の早いアリシアと、仕事帰りの彼女たちはよく顔を合わせるので、その度に「お疲れ様」「頑張ってね」と声を掛け合っていた。今日も彼女たちとの朝の挨拶を終え、まだ動き出したばかりの街を足早に進む。家賃をケチったので、アパートメントから職場までは歩いて三十分ほどの道のりになるのだ。ゆっくり歩いていては、遅刻してしまう。
アリシアの職場である魔道具省の建物があるのは、王城の一つ目の門を潜った先だ。パレスーム王国の王都は緩やかな丘の上にあるのだが、王族が住まう王城を中心に、ぐるっと四層の防壁で取り囲まれている。
最も内側の防壁の中にあるのは、王族が暮らす王城と賓客をもてなすための離宮。
二層目には公爵の屋敷と舞踏会用のホール、お茶会を催すための庭園、騎士団のための宿舎と訓練場、そして国が管理する各省庁の職員たちのための執務棟がある。
三層目が公爵以下の貴族たちのための居住エリア、一番外側の層が、王都に暮らす平民たちのためのエリアだ。ちなみに、このエリアはさらに細かく分類され、南が商業エリア、東が職人たちの職場、西が平民たちのベッドタウンで、北が貧民街となっている。アリシアが暮らしているのは、当然一番外側の層……北西にある、限りなく貧民街寄りのエリアだ。
「ベルさん、おはようございます」
「おはよう、アリス。今日も朝から疲れた顔してるわね」
「あはは……今日はちょっと寝不足で……」
「あら、『今日も』でしょ?」
二つ目の防壁門をくぐり、ようやく遠目に魔道具省の執務棟が見えてきたところで、前方に見慣れた赤髪を見つけて、声をかける。アリシアの声に反応してくるりと振り返ったのは、魔道具製作部唯一の女性事務員であるベルだ。
肩のあたりで切り揃えられた艶やかなテラコッタ色の髪は、本来は非常に癖が強い髪質らしい。が、ベルお手製のオイルでケアを欠かさないその髪は、いつも美しいウェーブを描き、上品な色気を漂わせていた。こちらを振り返る垂れ目気味の瞳は知的なこげ茶色で、目元に小さな泣きぼくろがある。姿勢良く立つその姿は、ベル自身の女性らしい身体のラインも相まって、平民であるにも関わらず、自然と男性陣の視線を奪う存在となっていた。
しかし、そんな彼女は周囲の視線を物ともせずアリシアの元までやってくると、アリシアと一緒にくだけた様子で歩き始める。
「本当に、アリスはよく働くわね。昨日も残業だったの?」
「うーん……まあ、ちょっと仕事が終わらなくって」
「あなたねぇ……あの半分は他の人から押し付けられてるものじゃない」
呆れたような表情を浮かべるベルに、アリシアは苦笑を浮かべるしかできない。確かにベルの言葉は事実だが、それで自分の技術が上がり、残業手当が出ることも確かなのだから、文句などあるはずがないのだ。
「いいんですよ、残業代が出るなら安いものです」
「そんな呑気な……他の人たちから嫌味言われても知らないわよ」
「大丈夫です、言われ慣れてます」
「そんなことに慣れるんじゃないの! まったく、アリスったら……まあ、今日からちょっと雰囲気は変わるかもしれないけどね」
(今日、何かあったかしら?)
ベルの言葉に、アリシアがきょとんとした顔で首を傾げる。そんな表情に気づいたのか、ベルが苦笑いしながらこつん、とアリシアの額を小突いた。
「もう忘れたの? 今日から新しい上司が来るって、一ヶ月前から告知されてたのに」
「……あ! あー……あれ、今日でしたっけ?」
「そうよ! 帝国から、うちの国の技術向上のためにって研究者が来るって話。昨日もこの話、したじゃない」
「え、そうでしたっけ? あはは……ごめんなさい、ベルさん」
言われて、確かに昨日の昼休憩の間にそんな話をしていたなと思い出す。魔道具製作技術の最先端をいくと言われる、イエニムール帝国の研究者が、パレスーム王国の技術協力のために来てくれるらしいのだ。
本来、魔道具製作技術というのは、国の重要機密として扱われるような知識だ。まず一般人は作り方を知ることも叶わず、厳しい試験を通過した一部の人間だけが、国の管理する施設の中でしか技術を伝えることが許されない。しかも、決して口外しないよう、厳しい契約魔法を利用して管理するようなものだ。
パレスーム王国だけでなく、イエニムール帝国でも、その他諸外国でも扱いはほぼ同様。つまり、いくら両国間が同盟を結んでいるとしても、本来は帝国から技術協力のために人が来て、我が国の国家機密である魔道具省の中に他国の人間を入れるなどあり得ないことなのだ。
「……なんか、きな臭くなってきたわよね」
「そうですね……明らかに、武力向上のための開発しか、最近はしてないですし……」
二人揃って深いため息をつくのは、そんな超法規的な技術協力が行われることとなった背景にある。
かつてパレスーム王国が立国した後、戦乱の世が終わって各国が軍縮を行う流れとなった後も、パレスーム王国だけはなかなか武力を手放そうとしなかった。それは、かつて理不尽に領土を奪おうとした周辺国に、二度と自分たちの土地を奪われまいとする恐怖によるものだけではない。
パレスーム王家としては、かつて自分たちを裏切ろうとした周辺他国に対して、いつか痛い目を見せてやりたいという思いが拭いきれなかったのだ。
立国時の後ろ盾であり、同盟国でもあるイエニムール帝国からの催促により、パレスームは一旦軍縮を認める。しかし、どうしても諦めたくない王家は、何代もかけて魔道具兵器の開発を水面下で密かに行うことを決意した。
特にここ数十年、現在の国王が王位を継承してからは、その傾向が非常に顕著だ。パレスーム王家はもはや、国民の生活の向上のための開発はほぼ行っておらず、ひたすら武力のための魔道具開発を推し進めている。
他国を一気に攻め落とすための、決定打となる武器がほしい。今回の帝国との技術協力の話は、おそらくパレスーム王国の裏の目的を達成するためのものに違いない、というのが、職員たちの暗黙の共通認識だった。当然、武器開発に関する知識をそのまま請うことはできないにしても、手がかりとなる知識はいくらでもあるはずなのだから。
思わず深くなるため息をこぼした後、ベルと視線を交わして情けなく眉が下がっている様子をお互いに小さく笑い、施設の扉を開けたのだった。
「……ということで、彼が今日から来てもらうことになっている、帝国からの使者だ」
「スヴェン・ハイマールと申します。今日から一年間、お世話になります。みなさん、よろしくお願いします」
自己紹介をした男性の男性の第一印象は、『軽薄そう』の一言に尽きる。耳にかかる程度の黒髪は無造作に散らし、少し垂れ目気味の紫の瞳はを柔らかな笑みで彩られていて、気安い印象を周囲に与えていた。スヴェンの顔の造形は非常に整っていて、まるで無機質な人形のように作り物めいている。それがこんなに親しげな印象を醸し出せるのは、彼自身が自分の顔が周囲に与える影響をよく理解し、かつ自分自身でその印象を操作しようとしているからに他ならない。
しかも、あまり背が高くないアリシアにとっては、スヴェンは頭一つ分以上の身長差がある。やってくるのは研究者である、と聞かされていたから、てっきりもやしのようなひょろひょろの人物が来ると思っていたのに、目の前の男性は服の上からでもわかるがっしりとした体躯をしていた。
さらに、にこやかに職員全員を見渡していたスヴェンがベルを視界に入れた瞬間、殊更にその表情を甘く崩したことから、彼が非常に女性慣れしていることが見受けられる。隣でベルがうっかりときめいているのを、アリシアはどこか空虚な気持ちで眺めていた。
「ちょっ……アリス! すごいイケメンがこっち見て笑ってるわ……!」
「あはは……そうですね、さすがベルさん……」
(……ああ、あれは絶対、関わり合いにならない方がいい人種だ)
スヴェンは、どことなく前世で自分を振った男に似ている。顔が、というわけではなく、その醸し出す雰囲気が、だ。自分の顔の良さをよく理解していて、それを武器に女を食い散らかそうという、そんな打算が見え隠れするその立ち居振る舞い。
この瞬間、アリシアにとって、スヴェンは『できる限り忌避すべき対象』であると、インプットされたのだった。