18(スヴェン視点)
腕の中で震える薄い肩を宥めるように撫でながら、目の前のつむじに何度も口付けを落とす。ようやく落ち着いたらしいアリシアは、ぐずつく鼻を小さくすすって、ようやくこちらを見上げてくれた。ラピスラズリと純金をはめ込んだような、奇跡のように美しいオッドアイの瞳が、今は涙で赤く染まってしまっている。そんな様ですら、自分が原因だと思えば可愛らしいだけだ。しかし、それと同時にここまで追い詰めてしまった自分に、忸怩たる思いもある。
(あんな条件、無視してしまえば良かった)
もっと早くにこの思いを告げてしまうべきだったと、スヴェンはに苦い思いで振り返る。少々強引な手を使って自分の屋敷に囲い込んだあの時から、もうすでにアリシアに心惹かれている自分には気づいていたのだから、もっと早くに手を打ってしまうべきだったのだ。
それができなかったのは、パレスーム王国に技術協力と称してやってくる際に、両国間で取り交わされた条件が関係していた。技術者としてやってくるのがスヴェンだと知ったパレスーム側が、ハニートラップを警戒して急遽取り交わされた条件。
それが、「パレスーム内では本来の身分を明かさないこと」と「パレスーム国内の人間に対して明確な好意を示さないこと」というものだった。
スヴェンは、その甘い顔立ちも相まって自国でも非常に異性からの人気が高いことは自覚していた。とはいえ、それはスヴェン自身にとって誇れるものでもなんでもなく、ただ煩わしいだけのものではあったけれど。
昔から魔道具に対する興味が強く、遊んでいる暇があれば自室にこもって魔道具をいじっている方が好きな子供だった。その性質は成長してからも変わることなく、無理に社交する必要のない立場であったこともあって、これまでほとんどパーティーなどにも顔を出すことはなかったのだ。
しかしそれでも、スヴェンの存在自体は誰もが知っている。数少ない社交の場で顔を見た者の多くは、スヴェンに対して娘を、もしくは自分自身を売り込むため媚を売ってくるという強行手段に出てきていた。興味もない人たちに囲まれることが苦痛で仕方なかったスヴェンはさらに引きこもりがちとなり、いつの間にか『幻の貴公子』なんて呼ばれて周囲の熱がどんどん上がるという悪循環に陥って……そんな時だった。パレスーム国への技術協力のことを知ったのは。
アリシアに一度会ってみたいという興味だけでパレスームにやってきたけれど、ここでもまた顔立ちを理由に妙な制約がつけられる。パレスームを訪れた当時は、一年間のことだし特に問題ないと歯牙にもかけなかったけれど、あの頃とは全く状況が違った。
目の前に愛しい人がいて、あまつさえ一緒に暮らしているというのに、明確な好意を伝えることすらできない。アリシア側から好意を向けられていることも、スヴェンが何も言わないことに不安を抱いていることもわかっているのに、両国間で取り交わされたたった一つの条件が邪魔をする。スヴェンは、この時ほど自分の顔立ちを呪ったことはなかった。
それでも、先日のリドルの事件によって、ようやくパレスーム側の弱みを掴むことができた。イエニムール帝国にも情報を共有し、それを元に両国間で取引が行われるはず、だったのだ。
スヴェンにとっての最も大きな誤算は、アリシアの有能さだ。アリシアは、スヴェンが考えているよりもずっとハイペースで、今取り組んでいる魔道具の開発を進めていた。しかしそれはスヴェンがアリシアのために衣食住を整え、身体的にも精神的にも安定させことが原因なのだから、スヴェンが文句を言えるはずもない。
とはいえ、初めてアリシアのアパートメントを訪れた際に見た製作状況では、ちょうどスヴェンが帝国に帰る頃できあがれば上出来だろうと思っていた魔道具が、なんと半分の期間でできてしまったのだ。スヴェンですら、アリシアの優秀さは驚異的であると認めざるを得なかった。
先ほど、フィリアがスヴェンを呼びに来たときには、ついに来たかと喜びを隠しきれなかった。
あの魔道具の完成がアリシアの悲願であるということは、狭いアパートメントでギリギリの生活をしていた痛々しい姿からよく理解していたつもりだった。またそこに使われる技術は、魔道具製作士にとって未知の技術を詰め込むことになるだろうということも、同じ立場のスヴェンには理解できていた。
だから、その喜びをアリシアと分かち合いたいと思って急いでやってきたのに……スヴェンが部屋に足を踏み入れたとき、アリシアはぽつりと「この家を出ていかないと」と呟いたのだ。
思いもよらなかったその言葉に、スヴェンは地面が急に消えてしまったかのような、とてつもない不安と恐怖に襲われた。
(……アリシアが、いなくなる? この屋敷から……?)
呆然としたままふとそんな未来を想像して、ざっと血の気が引く。そんな生活、考えられる訳がない。アリシアの気配はもうこんなにも、この屋敷に深く溶け込んでしまったというのに。
そこまで考えて、ふとその背中が小さく震えているのに気づいた。知ってしまえば、もう躊躇う理由はどこにもない。
(……国同士の約束なんて、知るか!)
そんなことよりももっと大事なのは、今この温もりを手放さないことだ。そう決意して、スヴェンはアリシアの寂しそうな背中に手を伸ばす。一度その腕に抱き込んでしまったら、その存在は驚くほどスヴェンの形にぴったりと寄り添うようで。この熱を手放さないためなら、なんでもできると、そう思えたのだ。
「あ、あの……スヴェン、様?」
「……うん?」
「……そ、そろそろ、腕を……」
見つめあったまま、何も言葉を発しないスヴェンに焦れたように、おずおずとアリシアが口を開く。いつの間にか、彼女を見つめたまま考え事に耽ってしまった自分に苦笑を漏らすが、それでも腕を離すつもりは毛頭なかった。
その羽のように軽い身体を抱き上げて、作業部屋の隣にあるアリシアの自室に移動する。小さく叫び声を上げたアリシアだったが、急に視界が高くなったのが怖かったのか、ぎゅっとスヴェンの首元にしがみついてくる。アリシア自身の甘い匂いが鼻腔をくすぐって、なんだかとても気分がよかった。
窓際にあるソファへ、彼女を抱えたまま一緒に座り込む。顔の近さに恥じらうアリシアが可愛くて、もう一度そのピンク色の頬に音を立てて口付けた。
「悪いけどこのまま聞いてね。君にはもう、逃げられたくないから」
「……ま、まだ逃げてません」
「でも、逃げるつもりだったんだろう?」
ひどいなあ、とわざと肩を落として言えば、むっと口を尖らせたアリシアが、ぺちんと軽く肩を叩いてくる。まるで子猫のじゃれつきのようなそれに、にやにやと口の端が緩むのを止められなかった。その手をきゅっと握り込んで、真っ赤になったアリシアの顔を覗き込む。拗ねたような顔でそっぽを向くそのこめかみに、もう一度唇を落とすと、小さく息を吐いてアリシアに向き直った。
「……もう君には、一つだって嘘を吐きたくない。だから、私の話を聞いてくれるかな?」
そう、真剣な顔で告げるスヴェンに、アリシアも神妙な顔で頷いた。




