10
アリシアの熱がようやく下がったのは、倒れてから三日後のことだった。
いつになくすっきりした頭で目を覚ましたアリシアは、体内に残る最後の気だるさを吹き飛ばすように大きく伸びをして深く息を吐くと、パンッと勢いよく自身の頬を叩く。ヒリヒリする頬は少しだけ熱を持ったけれど、それくらい気合を入れ直さなければと、アリシアは強い意志を持った瞳でぐっと天井を見上げた。
「……よし、頑張ろう!」
家を出てから初めての発熱は、思っていたよりも大きな不安感をアリシアにもたらしたけれど、それでも無理やり職場に出勤するという愚行を犯さずにいられたのは、全てスヴェンのおかげだった。彼がやってきた次の日には、なんと実家からチャーリーがアレックスを伴ってやってきたからだ。まさか実家に連絡をしたのか、と目を丸くしたアリシアだったが、どういった手を使ったのか両親には知られておらず、アリシアが倒れた事実を知っているのはアレックスとチャーリーを始めとした使用人たちだけらしい。
誰もがここに来ると言って譲らなかったのをどうにかまとめるために、家族であるアレックスと使用人の長であるチャーリーが代表でやってくることで、皆の暴走を鎮めてくれたらしい。泣きそうな顔で、すっかり細くなってしまったアリシアの身体へと縋り付くアレックスに、心の底から安堵を覚えた。
そのままアリシアの熱が下がるまでここに泊まり込むのだと言って憚らなかったアレックスだったが、まさか伯爵家の嫡男をこんなところに泊まらせるわけにはいかない。後ろ髪を引かれる思いで去っていったアレックスを苦笑しながら見送る頃には、アリシアの気持ちはすっかり上無菌なっていた。
せっかくスヴェンが持ってきてくれたのだからと、ベルからの差し入れだったリゾットを食べる。すっかり覚めてしまってはいたけれど、それでもベーコンと牛乳の旨みがぎゅっと凝縮されたそれを噛み締めながら、アリシアは改めて、自分が一人ではないということを再認識していた。その事実は、一人で立っていると思い込んでいたアリシアにとって、涙が出るほど嬉しいものだったのだ。
いつも通りの服を着て、いつもより少しだけ元気に、階段を降りる。大家の夫婦に顔を出し、心配をかけてしまったことを詫びると、夫婦は元気になってくれてよかったと、まるで本当の家族のように喜んでくれた。その様子に、少しだけ祖母のことを思い出して胸を熱くすると、殊更に元気な声で「いってきます」と挨拶し、久々の職場へと足を向けたのだった。
「ああ、よかった! アリス、元気になったのね!」
職場に顔を出して、開口一番そう言って駆け寄ってきてくれたのは、やはりベルだった。相当心配をかけていたらしく、その顔は泣きそうに歪んでいる。その様子がまるでアレックスにそっくりで、アリシアはほっこりとした気持ちを噛み締めながら、ベルに丁重にお礼を言ったのだった。
そして、三日ぶりの自席に腰を下ろしたところで、背後から声がかかる。
「やあ、ハリス嬢。少しいいかな?」
声の主は案の定スヴェンで、そうなるだろうという予感がしていたアリシアは、反発することなく頷くと彼に促されるまま立ち上がり、打ち合わせのための個室へと足を向けた。扉を閉めると、なぜか防音魔法まで施されてしまった。アリシアは貴族令嬢とはいえ、すでに家を勘当されている身であるから、男性と二人きりで個室に入ったからと言って、後ろ指を指されることはもうないだろう。しかし、昔からの習い性でぴくりと眉を跳ね上げてしまったアリシアに、スヴェンは気まずそうに口を開いた。
「……勝手なことをしてすまない。しかし、君もあまり他人に聞かれるのは嫌かもしれないことを、これから話す。念のためだと思って、許してほしい」
「い、いえ……お気遣い、感謝します」
驚きつつもアリシアが了承してくれたことを確認すると、スヴェンはアリシアに椅子へ座るよう勧める。打ち合わせのための部屋のため、そこまで大きな空間ではないものの、四人が向かい合って座れるほどのテーブルと、四脚分の椅子が設置されている。最も近場にあった椅子を引いて座ると、その向かいにあった椅子へと、スヴェンも腰を下ろした。そして、アリシアの瞳をじっと真正面から見つめる。
「まずは、元気になってくれて良かった。すっかり顔色も良くなったし、目の下のクマも、少しは改善されたようだね」
「はい、ご心配をおかけしました。おかげさまで、元気になりました」
そういうと、アリシアはスヴェンに向かって深く頭を下げる。
「それから、弟に連絡をしてくれたことも、助かりました。五年ぶりにあったのですが、ハイマール様が連絡してくださらなければ、きっと自分から連絡をすることはなかったでしょう。……とても、感謝しています」
「いや、私は大したことをしていないよ。病気になったときは、誰でも不安になるものだ。残念ながら私では、君の看病をするに相応しくないからね」
おどけたように肩をすくめる彼だったが、アリシアはもうその裏にある優しさを知ってしまっている。倒れる前は、あんなに近寄ってはいけないと思っていたのに、今やその危機感が薄れてしまってるのも、きっとそれが原因なのだろう。アリシアが気にしないようにと配慮してくれていることにも感謝しながら、もう一度小さく頭を下げると、困ったように眉を下げて小さく笑ったスヴェンがすっと空気を変えたのが分かった。
「……ただ、上司として君に訊きたいことがある。答えられる範囲で構わないから、教えてもらえるかい?」
「……はい、私に答えられることであれば、なんでも」
「ありがとう。……では、単刀直入に聞こうか。君は、どうして今の生活をしているんだい?」
それは、あの部屋を見られれば必ず聞かれるだろうと思っていたことだった。アリシアが所属している魔道具省の給料は、決して安くはない。何せ一種の国家機密である魔道具の最先端の技術と知識を所有しているのだ。当然、男性と女性とで給料に差があるとはいえ、あそこまで清貧な生活を送らなければ生活が立ち行かないほどでは決してなかった。
しかも、アリシアは家を追い出されているとは言え、身分は『伯爵令嬢』だ。当然、何かしらの理由がなければあの部屋に住むことは一生ないだろう。
「……私の部屋にあった、作りかけの魔道具を見られたでしょうか。あの魔道具を作るための材料を早く買い揃えたくて、長く節約生活をしていたのです」
「ああ、それは見た。とても緻密な魔力の流れを感じたが……あれは、一体?」
「あの魔道具は、『鉱石病』を治療するためのものです」
鉱石病とは、パレスーム王国で暮らす貴族の成人女性のみがかかる奇病のことだ。その名の通り、少しずつ身体の表面が鉱石のように固くなり始め、最終的にはまるで魔石のように半透明の塊となって、呼吸もできなくなって死んでいく。そんな、恐ろしい病気のことだった。
不思議なことに、他国でこの病気が見られることは滅多にない。そのため、パレスーム王国独自の環境に問題があるのだと思われているが……アリシアは、別の仮説を立てていた。
「私が十歳の頃、祖母が鉱石病で亡くなりました。その時、どんどんと身体の表面が鉱石化していく祖母を見て、思ったんです。……これは、病気にかかったものが魔力を体外に放出できなくて、発病するのではないだろうかと」
そう言ってアリシアは、自らの仮説をスヴェンに語って聞かせた。
パレスーム王国では、貴族の多くが魔力を持って生まれてくる。そして男性は十五歳になると、兵役義務が課せられる。それまでなんとなく使っていた魔法の使い方を本格的に学び、それぞれの魔力の特性にあった魔法を学び、自在に使えるよう訓練されていくのだ。
しかし、女性にはそういった魔法に関する教育は一切施されない。それは、女性が魔法を暴走させて子供の産み手を減らしたくないという理由と、女性の魔力は男の子供に受け継がれていくのだという、もっともらしい噂のためだ。
確かにその話が事実であれば、貴重な戦力のために魔力は少しでも多く男性に渡った方が良い。しかしアリシアは、これが全く根も葉もない迷信にすぎない、と確信していた。
「どうして、そう言い切れるんだい?」
「他国の魔力保持者を見ていれば明らかです。ハイマール様がいらっしゃったイエニムール帝国をはじめ、ほとんどの国では男性も女性も魔法を使われます。女性魔導士の方も多くいらっしゃると聞きます。もし本当にパレスームで言われている通り、保持している魔力が子供に継承されていくのであれば、他国の魔力保持者の力はどんどん弱まっていなければ、おかしいのです。しかし、実際にはそんなことはなく、むしろほとんど魔力のない両親から高魔力保持者が生まれることもある。つまり、女性の魔力が子供に受け継がれるというのは、絶対にありえないこととなります」
アリシアは、スヴェンの目をまっすぐに見つめて言い切った。その様子に、スヴェンは緩く苦笑して、強く頷いてくれる。
「……ハリス嬢の見立て通りだ。一般的には、生まれてくる子供の持つ性質が強く関係していると言われている。魔力というのは空気中に存在していて、それをどれだけ上手に借りることができるかが、魔力の強さを示しているようだ」
スヴェンのその言葉に、自分の仮説が間違っていなかったことに安堵する。そうであればきっと、今作っている魔道具は正しく作用し、この世から鉱石病を消すことができるからだ。
「……鉱石病の正体はおそらく、取り込んだ魔力が体外に放出されず蓄積されたことで、身体の表面に結晶化された魔力の塊です。パレスームの貴族女性は、魔法の使い方を知りません。せっかく取り込んだ魔力を、身体の外に放出させる術を持たない。取り込んだ魔力量が多くなければ、時間経過とともに身体の外に流れ出ていきますが、魔力を取り込む量の多い女性は、そのままどんどん魔力を溜め込んでいってしまう。その結果、魔力が結晶として身体の表面に出てきてしまうのです」
「……っ、それは……」
アリシアの言葉に、スヴェンは一瞬目を見開き、考え込むように腕を組んで天井を見上げた。そのまま目を閉じてしばらく考え込んだ後、大きく息をついてアリシアへと視線を戻す。
「……もしその話が本当だとすると、あの魔道具はとんでもないことをしようとしていることになる。魔力が結晶化しているということは、鉱石病の皮膚は魔石化しているということだ。魔石は、時間経過によってしか、消滅しない。君は、時間を操ろうとしているのか?」
そう。魔力の結晶である魔石は、金剛石よりも硬いと言われている。魔石を削ったり、割ったりできるものは存在しない。時間経過によって、少しずつ魔石の魔力が空気中に溶け出していくのを待つしか方法がないのだ。しかしこの問いに、アリシアは首を横に振る。
「いいえ、そんな神のようなことは私にはできません。私が行うのは、魔石に瘴気を当てて溶け出させる、という手法です」
魔石に瘴気を当てる、という言葉に、スヴェンは目を見開く。その表情に、アリシアの心の中に急に不安が芽生えた。魔道具製作に関わる者たちにとって、魔石は非常に大切なものだ。現時点で、魔石は特定の条件が揃った洞窟で自然発生するものしか存在しない。そのため、魔石を生み出す技術というのは、悲願とも言えるものなのだ。そこに逆行する魔石を消滅させるための研究を、アリシアは学生時代に最も時間と情熱をかけて行っていた。その事実を知ってスヴェンがどう感じるか、自信がなかったのだ。
しかし、予想に反してスヴェンは、納得が行ったというように、アリシアの言葉に頷いてみせる。
「なるほど……君が学生時代に研究していた内容は、あの魔道具を作るために必要な知識だったということか」
「え……あ、あの……ご存じ、だったのですか?」
「? なにがだ?」
「わ、私の、論文についてです……!」
スヴェンの言葉に、今度はアリシアの方が目を丸くする番だった。まさか、学園内でも最も酷評された論文を他国の人間が知っているなど、思いもしなかったのだ。
その驚きに、スヴェンは肯定も否定もせず、にこりと人好きのする笑顔を浮かべるのみ。アリシアが動揺している間に、スヴェンは腕組みをして何事か考えた後、アリシアへと視線を向けた。
「君の事情は理解した。君にとって、あの魔道具がどれほど大切なのかについても。……そこで一つ、私から提案だ」
なんだか機嫌よさそうに、芝居がかった様子でこちらを見てくるスヴェンに、アリシアは胡乱な視線を返す。そんなアリシアを楽しげに見やったスヴェンは、アリシアにとって晴天の霹靂のような提案を向けてきたのだ。
「ハリス嬢。私と一緒に暮らす気はないかい?」
「………………はい?」




