第九十五話:並ぶ星々(前編)
戦場の影が消え去り、再び美しい銀世界の姿を取り戻したパンテルス川。死体の焼ける臭いも、川面を漂う死体も、負傷者の呻き声も遥か遠い昔のようだ。
雪中で眠る名も無き英雄達が、雪解けと共にその姿を現すまでの短い間ではあるが、確かにパンテルスは嘗ての羨望を取り戻していた。
「此度の戦功を鑑みて、パルマ・リヴァン駐屯戦列歩兵連隊を正式に連邦軍の一部隊として昇格させたいんだが、どうだ?」
「つい先日、私からも同じ話を持ちかけましたよ」
リトル・ラウンド・トップ。
パンテルス会戦の終結後も、そこはオーランド軍の本陣であり続けた。
「奴ら『駐屯戦列歩兵』の名前に愛着が湧いたみたいでして、部隊名を変えるなとブーイングの嵐を受けました」
「押し付けられた名に愛着を見出したか、良い傾向だ。この話は聞かなかった事にしろ」
戦略的要衝である為。高所である為。要塞化が容易である為。
この地に陣を張り続ける理由など幾らでも出てこよう。
しかし彼らがこの地から動かなかった最も大きな理由は、単純な験担ぎ故であった。
「再編はこんな所か。善し、皆を集めよ」
「承知致しました。佐官級も含めて全員ですかな?」
「当然だ。勝利を収めたこの地に、全員を集めよ。反撃の狼煙を上げるのだ」
オーランドにとって、此処は勝ちの始まりである。
今まで敗退と後退ばかりを繰り返してきたオーランド軍が、初めて瑕疵無き勝利を掴み取った地である。
彼らにとってリトル・ラウンド・トップは決戦の地であると同時に、始まりの地でもあった。
「……あぁ、そうだフェイゲン。皆を呼ぶついでに椅子を一脚追加で持ってきてくれ」
そう良いながらコロンフィラ伯は、テンの毛皮で出来た黒斑点のコートを翻しながら、座長席へと深く腰掛けた。
「どなたか、新しく軍議に参加される方がいらっしゃるのですか?」
ヨレヨレになった編成表の束をまとめていたフェイゲンが、コロンフィラ伯へと尋ねる。
「あぁ、いるとも」
声色良く答えたコロンフィラ伯の表情からは、新星に対する期待が笑みとなって溢れ出ていた。
「エリザベス・砲兵令嬢・カロネード砲兵少佐殿だ。くれぐれも丁重にもてなすように」
◆
肩の星が一回り大きくなった。小さい星が二つから、大きい星が一つへと。
庶民から見れば、間違い探しのような誤差だろう。しかし軍では誤差と認識する事がそもそも大間違いである。
「中尉から少佐か……」
「二階級特進とは、これまた大胆な人事よな」
「本来成る予定だったランバート少佐が殉死したからな、飛び級の勢いでそのまま天まで昇っていってしまわんか心配だ」
肩章の飾緒は更にきめ細やかに、そして長くなった。床掃除のモップとしては最適だろう。
少佐を表す一つ星も、肩章からはみ出そうな程に大きい。実際に伸し掛かる責任の大きさに比べれば、屁でもない大きさだが。
「流石はリマ市随一の美少女ですなっ!このタジ=サール・キャボット、貴女様の見目麗しさに只々目を伏せる事しか出来ませんぞ……!」
末席の私から見て正反対の位置に座る少将殿が、いつものように熱視線を向けてくる。彼ほどでは無いにせよ、この場に集った高級将校全員の目が、私に注がれていた。
軍団長たるコロンフィラ伯を筆頭とした、上級部隊指揮官にのみ出席を許される戦略会議。その末席に、私は席を連ねる事ができたのだ。
『夢だった砲兵軍団長の座へ、また一歩近づいたぞ。どうだ、嬉しいだろう?』
自分自身に向かって、そんな言葉を幾らか吐いてみたが、心中の靄が晴れる事は無かった。
なぜ今、私はこんなにも落ち込んでいるのか。なぜこんなにも満たされない心持ちなのか。なぜこんなにも居心地が悪いのか。
「カロネード少佐、どうかしたのか?体調が優れないのかね?」
コリードンバーグ伯の対面に座っていたフェイゲンが、物憂げな自分の表情を汲み取ってくれた。
「いえ、大丈夫ですわ」
「……ランバート少佐の件は、誠に手痛い損害であった」
「その件はもう折り合いをつけましたわ、本当にお構いなく」
当初の私もフェイゲンと同じ考えだった。ここまで気分が沈み込むのは、イーデンの死を引き摺っているからに他ならないと。
しかし彼との別れはとうに済ませたのだ。それこそ自分でも驚く程に、潔く踏ん切りがついた。
そしてつい先程、この天幕を捲ろうとした時。ついぞこの空虚さの根源に辿り着いたのだ。
『軍団長になった所で、結局私は何をしたいのだろう』
それは余りにも根源的で、そして致命的な問いだった。
あの朝靄の中、リマ市を抜け出した時の私は、ただただ親を見返してやるという一心だった。その勢いは余りにも無秩序で、そしてがむしゃらだった。目が見えなかったと言い換えても良い。
しかし次第に軍団長という座の解像度が上がり、ピントが合っていくにつれ、私はそもそもなぜ軍団長になりたかったのかと、ふと立ち止まった。
そう、立ち止まってしまったのだ。
一度動き出した馬車はそう簡単に止まらないのと同じように、一度止まってしまった馬車はそう簡単に動かす事は出来ない。
私は、自分自身の目的を客観的に、冷静に束ねてしまった。無秩序に放出していたエネルギーに、ベクトルを与えてしまった。
そのベクトルの先には何も無いのではないかと、今までの犠牲や苦労に見合うだけの『何か』など無いのではないかと、進む道先に広がる暗がりに、恐怖と亡失を覚えてしまったのだ。
「大出世の割に、なんとも面白くなさそうな顔をしているな」
「私が貴官の立場であれば、雪の上を裸で小躍りしている所だというのに」
将校達が放つ勝手な言葉が次々に耳へと入ってくる。
私がここで不貞腐れているのは自業自得によるものだ、彼らに原因は無い。であれば記念すべき勝利の丘に居る事を自覚して、もう少し明るい顔を見せて然るべきだろう。
「そ、そうですわね!このような身に余る光栄を――」
「彼女の肩に掛かる責務を考えれば、気が引けるのも当然の帰結かと」
エリザベスの隣に座っていたフレデリカが、彼女の虚勢を包み込むように声を重ねた。
「二階級特進という異例を前にして動揺しない者などおりません。むしろ、この人事を前にしてなお軽薄な態度を取る者を、果たして信頼できましょうや?」
エリザベスの一つ上、二つ星の階級章に身を包んだフレデリカは、着座した将校達をひと睨みした後、うってかわってエリザベスに優しい顔を見せた。
「……動揺していようが、歓喜に打ち震えていようが、与えられた責務を果たしていれば余は文句も無い。カロネード嬢、精進せよ」
場の雰囲気に収集を付ける為、座長たるコロンフィラ伯が渋々口を開いた。将校達は咳払いをしながら帽子を机に置き、エリザベスは軽く会釈を返した。
「よろしいか?では、現状の確認から始めようではないか」
コロンフィア伯が仰々しく両手を広げると、呼応してフェイゲンが卓上に資料を撒いた。
「やはり、この損害は手痛いな」
現有戦力の帳簿を眺める将校達が額に手を当てる。ノール帝国軍ほどではないとは言え、オーランド軍も此度の会戦で手痛い損害を受けたのだ。
二個歩兵連隊の消滅と、カノン砲部隊の壊滅。
勝利の為に戦力の過半を消耗したオーランド軍には、ノール残存兵力を追撃する余裕も残っていなかったのである。となれば戦略会議の議題は当然、戦力の補充に関する物となる。
「連邦諸侯からの戦費追加借入の件はどうなりましたか?」
「未だ粉叫中だ。近々に結論が出る物では無い」
会戦当初と比較すれば、幾らか連邦議会の動きも活発化していた。少なくとも無根拠な楽観主義や放任主義は姿を消し、曲がりなりにも『どう勝つか』に関する論戦が交わされた。
しかし『誰が幾ら金を出すか』という問題に直面した瞬間に、議会の進行は全く滞ってしまったのである。
先の戦費調達で金庫が空になった諸侯も居れば、既にタルウィタ中央銀行からの借金で首が回らなくなった諸侯も居るのだ。全員から同額を徴収する案は早々に破棄された。であれば傾斜を付け、余裕のある諸侯から多く戦費を取り立てる案などを出せば、当の取り立てを受ける諸侯達が猛反発を重ねる。
では幾らの傾斜を付ければ皆を納得させる事ができるのか。そのような問いに対する答えを出そうという行為そのものが不毛であると皆が気付くまでに、連邦議会は一週間を費やした。
「歩兵戦力が補充出来ない、となると」
「やはり、先の退却戦のように」
「少数部隊による追撃戦を」
「実施するしか無いようですな」
将校達が、リレー方式で台詞を回す。そのリレーの終着点に座っていた小娘は、特大のため息を飲み込みながら、両肩を張った。
「承知致しましたわ。但し、指揮官各位にあっては最大限の協力を要請しますわよ」
しばし、忙しさに我を忘れることが出来そうだと、エリザベスは奇妙な安心感を覚えた。




