第九十三話:忘却の20年
茶褐色の調度品で統一された部屋。
薄緑色の壁紙が一切の皺もなく張り巡らされ、敷き詰められた板材は天井の白色を反射できる程に艶がかっている。
貴族は元より、王族であっても首を横には振らぬこの部屋には、惜しむらくべき欠点が二つあった。
一つは調度品の種類が極端に少ない事。
「…………」
そして今一つは、窓口と戸口に設置された鈍色の鉄格子達である。
「かくも、貴貧の甚だしき光景よ」
部屋中央に敷かれた絨毯の上で胡座を掻きつつ、オルジフは窓に嵌められた鉄格子を見つめている。
微細な歪みも許されなかったであろう窓枠に対し、鉄格子はオルジフに対してお辞儀をするように傾いでいる。窓枠との接合部には大きな亀裂が入っており、強引に鉄格子の差し込み穴を開けた形跡が残っていた。
「家具の亡霊も、数多に」
翻って部屋の中に目を向けてみると、床の板材には日焼けした部分と、そうでない部分とが混在している。こぶし大の跡が正方形に並んだ彼処には化粧台が、壁際に這う長方形の跡は衣装棚があった事を物語っている。
「牢としての歴は、一週間かそこらか」
オルジフが連行されたこの牢屋は、高名な捕虜を受け入れんが為だけに、急遽誂えた部屋である。
部屋の各所に残された手がかりから、当の捕虜であるオルジフ自身もその真実へと辿り着いていた。
「オルジフ・モラビエツスキ」
名前を呼ばれるよりも僅かに早く、彼は胡座の姿勢から立ち上がった。
鉄格子の向こう側にある木扉が無造作に開かれ、鍵帯を腰につけた衛兵がジャラジャラという音と共に姿を現す。
「両手を上げて、ドアから離れろ」
衛兵は槍を左手に保持しながら、右手で鉄格子の鍵穴に合う鍵を見繕っている。オルジフは彼の槍を値踏みするように一瞥しつつ、両手を挙げながらゆっくりと後ずさった。
「捕虜であろうと爵位を有する御方である事に変わりありません。相応の敬意を以て接しなさい」
「も、申し訳ございませんっ……!」
衛兵はうなじに針でも刺されたかのように、肩を窄めて縮こまった。声の主たる女性は壁の裏に居るようで、部屋の中に居るオルジフにその姿を捉える事は出来ない。
鉄同士が擦れ合う耳障りな音が暫く響いた後、これまた耳障りな高音と共に鉄格子が開かれる。衛兵が部屋へと押し入り、一通り異常が無い事を確認した後、彼は直立の姿勢で戸口の脇へと収まった。
「閣下、異常ありません」
長槍を片手にオルジフを見つめたまま、主人の入室を促す。返答は無く、革靴の音だけが戸口へと近づいた。
「……ランドルフ家の」
オルジフの目前に現れたパルマ女伯。彼女がぶら下げている筆記用具吊りに、ランドルフ家の家紋を認めたオルジフはすぐさま片膝を付いた。
「アトラの麓に座す同輩に接する事、かの峰々に誓って光栄と存じます」
「礼儀は無用です。どうか安んじてください」
麻の一枚布に荒縄の帯紐を巻いただけの、極めて簡素な装い。そんな彼の姿を見たパルマ女伯は、衛兵にまともな服を持って来させるよう目で命じた。
「承知致しました、直ぐに他の者に手配を」
「貴方が直々に持ってきなさい。半刻掛けて、この御仁に似合う服を持ってきなさい」
彼女が人払いを希望していると漸く理解した衛兵は、深く一礼した後に部屋を後にした。
「利口で従順な部下を擁していますな」
「滅相もありません。口の悪さがどうにも」
オルジフは片膝立ちから直るとベッドに腰掛け、パルマ女伯は空いていた椅子に腰掛ける。お互いに足を組み、二人分の距離を空けて向かい合った。
「いや、まこと利口である」
背中を丸め、絡めた両手に顎を乗せながら首を傾ぐ。
「慣れぬ性格を演じ、人柄の悪い看守として振る舞い、主人の格を上げる為に自身の格を下げる。まこと利口で従順な配下であろうに」
「はて、なんのことでしょうか」
パルマ女伯の腰掛けた椅子が、居心地悪そうに軋んだ。
「ご用件は如何に?」
「ノール帝国ストシン市において、ヴラジド人を主とした武装勢力が蜂起しました。首謀者は貴卿でしょうか?」
「嘗ては、そうであったな」
締め切った窓に霙が吐き付けられ、徐々に外景色が霞んで行く。
「今の首謀者は誰ですか?」
「言えぬ」
「では少なくとも、太公殿下の御家筋が率いている訳ではないのですね」
血筋という大義のある蜂起であれば、堂々と担ぎ上げた御旗の名を公にしてしまえば良い。それが出来ぬという事は、少なくとも首謀者に貴い血は流れてはいまい。パルマ女伯はそう判断したのだ。
「この蜂起に対して、ラーダ王国側は何の動きも見せていません。あの超過干渉主義国家が、です」
「そうである、か」
「ラーダとの間で、どんな約定を結びましたか?」
「私はきっかけを作ったに過ぎん。約定の内容までは存ぜぬ」
まるで他人事のように、オルジフは肩をすくめた。
「……この報告を受けて眉ひとつ動かさないという事は、ラーダの動き自体は予測済みですね」
「さぁ、どうだか」
陶器で出来た暖炉が、チリチリと優しい熱を発している。それとは裏腹に、二人の間に流れる空気はヒヤリとしていた。
「自分の役目は終わった、とでも言いたげな顔ですね」
「元より、パンテルスから生きて帰るつもりは無かったのでな。側から見れば、死んでいないだけの死人であろう」
オルジフの表情に影が差す。元より老兵然としていた顔立ちが更に色濃く現になる。
「一般に、死者は生者よりも雄弁と伺っています。もう少し、対話の構えを見せてはくださいませんか?」
「それは貴卿の要件次第である。まだ真意を伝えられていないのでな」
頑として腹の内を見せようとしないオルジフに、パルマ女伯は小さく溜め息を漏らした。
「はぁ、良いでしょう」
腰に下げた筆記用具吊りから小さなカギを取り外すと、彼女はわざとらしく音を立てながら机に置いた。その形状は、衛兵が鉄格子を開ける時に使っていた物と全く同じであった。
「鉄格子の鍵です。これを差し上げますので、オーランド軍の騎兵指揮官として登用されて下さい」
「……意図を理解しかねるが」
流石のオルジフも目を丸くする。
「やっと生者らしい反応が出てきましたね」
人相の悪い笑顔を見せながら、パルマ女伯は言葉を続けた。
「ノール帝国軍を退けたは良いものの、我が軍の士官損耗率は甚大です。急ぎ指揮官級の人材を集める必要があります」
彼女は鍵のリング部分に指を当てると、それを机の上でクルクルと回転させた。
「そして誠に僥倖ながら、かの有翼騎兵指揮官が捕えられたという話を聞きましてね」
パルマ女伯は天井の四隅を順繰りに見渡した後、彼の残灰のような瞳を見据えた。
「元はタルウィタ市長舎であったこの屋敷を、貴殿を迎え入れる牢屋へと急遽作り変えたのです」
窓に嵌められた鉄格子が、その答えに賛同するかのように軋み音を奏でた。
「貴殿の経歴からして我らと刃を交えるよりも、祖国の仇たるノール帝国へ刃を向けた方が、幾分も道理に適っているかと」
口を閉じ、オルジフの反応を窺うパルマ女伯。
「元からこれを狙って、私を拐かしたのか」
「いえ、偶然です。そこは砲兵令嬢の辣腕に感謝ですね」
オルジフはベッドに浅く腰掛け直し、三十秒ほど掛けて彼女の言葉を咀嚼した。
「つい先日まで殺し合っていた相手に、任官を請うのか?」
「我々が殺し合っていたのはノール帝国です。ヴラジド大公国ではありません」
その質問を最後に、オルジフは押し黙った。足を組み、口元を片手で隠し、思案にくれ、耳だけは欹てている。
彼が熟考の姿勢に入った事を確認したパルマ女伯は、ゆっくりと組んでいた脚を解き、軋む椅子から立ち上がった。
「一日差し上げます。それまでに考えを纏めるよう、お願い致します」
「……もし答えを出さなかったら?」
立ち上がったパルマ女伯は、机の鍵を手に取りながら無言で首を横に振った。
「左様か」
オルジフは戸口へと向かう彼女に向かって、ポツリと納得の声を漏らした。
「……一つ、助言をしておきましょうか」
そう言うとパルマ女伯は不意に足を止め、暖炉に刻まれたイルカの彫刻を指差した。
「そのイルカを右に三度、左に五度回すと助言が出てきますよ」
なんとも支離滅裂な発言を残して、彼女は部屋を後にした。
再び鉄格子の金切り音が響き、唯一の出口が塞がれる。
「……」
オルジフは音を立てずにベッドから立ち上がると、暖炉に刻まれたイルカの彫刻に手を掛けた。
「右に三……左に――」
五度回した所で鈍い音が部屋に響き、衣装棚が置いてあったと思われる箇所の壁が、僅かに開いた。
「これはこれは」
隙間に手を差し込み、隠し扉を開ける。
「なんとも、奥ゆかしい仕掛けよ」
暗く狭い廊下の先から、外の冷たい風が吹きつけてくるのを、オルジフはじっと肌で受け止めていた。
◆
「おや」
翌日。
再び彼の部屋を訪れたパルマ女伯は、昨日と変わらない姿勢でベッドの上に腰掛けるオルジフを目の当たりにした。
「変わらず其処に居るという事は、余の提案を受け入れて頂けるのですね」
オルジフは無言で彼女が差し出した鍵を受け取ると、隠し扉があった壁を指差した。
「なぜ隠し扉の事を知っていた?」
「このタルウィタ市長舎を設計したのは余の祖父です。祖父の作った建物の構造は全て頭に入っています」
自らの発言の異常性を自覚する事なく、パルマ女伯は言い放った。
「……尋ね方を変えよう。なぜ私に逃げ道を用意した?」
オルジフは受け取った鍵を使って部屋の外へ出ると、後から付いてきたパルマ女伯へと向き直った。
「……自由の身と引き換えに、致し方なく同行を認める者を余は信用できません」
それをわざわざ言わせるのか、といった顔つきで、彼女は口を僅かに尖らせる。
「自分の意思で同行を望む者こそ、信用に直する人物です」
するとパルマ女伯は、薄手の白手袋を嵌めた右手を、オルジフの前へと差し出した。
「ようこそ、オーランド連邦へ」
 




