第九十二話:継ぐ
人の焼ける臭いが、パンテルスの随所から立ち昇っている。
夜空に光る星々の美しさと、いま地上で行われている戦後処理とのコントラストに、立ち眩みを起こしそうになる。
「逆襲の兆候は無し、だね」
ディースカウはエルヴェット橋の欄干上に登り、敵の撤退した方角を念入りに単眼鏡で観察していた。
「この時間まで動きが無いのであれば、もう大丈夫だろう。エリザベス君、オズワルド君と交代してくれ」
彼は視線を動かさずに、同じように単眼鏡を構えているエリザベスへ休息の指示を出した。
「承知致しましたわ」
無言で右手を差し出してきたオズワルドへ自分の単眼鏡を渡し、橋の欄干から飛び降りる。
着地した時に、何か柔らかい物を踏んだ気がしたが、何も見ない様にした。どうせこの暗がりでは、敵のモノかも味方のモノかも分からない。
「……ひどい臭い」
戦後の死体処理時に発せられる臭いは非常に独特であると、嘗て読んだ本には書いてあった。
毛髪を焦がした臭い。
明け方の路地裏の臭い。
打ち上げられた魚の群れの臭い。
その臭いを体験した著者達による、幾つもの形容詞が頭の中を通り過ぎる。そしてどの著者も決まって、同じような言葉で文末を締め括っていた。
『その臭いは服ではなく、心にこびり付く』
その言葉の意味が、良く分かる。分かりたくはなかったが。
この臭いは鼻腔ではなく、身体全体から私の内側に入り込もうとしてくる。目から、耳から、口から、質の悪い油のような粘っこさで、まとわりつくような不快感で、私の内側に入ってくる。無遠慮に侵入してきた臭いが、心の周りに纏わり付く。これを注ぎ落とす事は出来ないと、直感で理解できる程に。
「ランチェスター少佐も、コロンフィラ伯も……」
皆この臭いを経験しているのだ。その上で勝利を祝い、栄光に浴しているのだ。
「イーデンも」
なぜ彼が第二次パルマ会戦の時、私を戦後処理から遠ざけたのか。その理由も解した。
まだ民間人だった私に、この臭いが付くのを避けたかったのだろう。
「…………」
彼がまだ健在だったら。
今回もまた、私を遠ざけたのだろうか。
そう思うと、否が応にも足取りが早くなる。
「次はこっちだ」
「白蛇共も燃やすのか?」
「どうせ焼いたら見分けなんて付かなくなるんだ、さっさと手伝ってくれ」
焼き場の一つを横目に通り過ぎる。死体を放り込む度に、火が一層苦しそうに燃え盛っている。
露営の火とは比べ物にならない程の業火であったとしても、彼らが抱えた無念を燃やし尽くすのは難しいのだろう。燃やし切れなかった彼らの感情が、この臭いなのだろう。
「誰か!?」
臨時救護所の前に立っていた士官が、ランタンをエリザベスの鼻先に掲げる。
「あぁ、カロネード中尉か。東部戦線での渡河阻止、見事だったぞ」
見覚えのある顔が話しかけて来る。
「確か、オズワルドの同期の……」
「あぁ、エドガー・ストックウェル中尉だ。コリードンバーグ伯閣下とは旧知の仲らしいな?流石は商家のお嬢様――」
エリザベスは会話を続けようとはせず、天幕を捲り、中へと入って行った。
「んだよ、お嬢様らしくお高く留まりやがって……」
エドガーの怪訝な視線を背中に受けながら、彼女は横たわった負傷兵達の間を進んでいく。呻き声や啜り泣き声、そして手術台から時折聞こえてくる叫び声が充満した、筆舌に尽くし難い空間を進んで行く。探すは戦友、ただ一人だ。
「違う……違う……」
ひとりひとりの顔を覗き込みながら、戦友を探し歩く。向こう側を向いていたら振り向かせ、うつ伏せでいたら身体ごと起こし、顔が見えなければ帽子を取る。
多くの負傷者が四肢のどれかを、或いはその全てを失っていた。
丸弾か、榴弾か、感染症か。
患部の断面図を見てみると、そのどれもが鋭利な刃物で切り落とされていた。腕の良い軍医が居る証拠である。
エリザベスは、小さく握った両手を胸に当てながら、祈るように救護所の中を探し回る。
一周、二周、三周と、彷徨うように救護所の中を歩き回った。
「エリザベス」
四周も終わろうとしていた頃。
声の主は背後から、ゆっくりとエリザベスの肩に手を乗せた。
「……ランチェスター少佐?」
急に身体を触れられる事が苦手なエリザベスを気遣って、フレデリカはいつも優しく彼女へ触れてくれる。故に振り向かずとも、エリザベスは誰に触れられたのか直ぐに分かった。
「ストックウェル中尉から、君が救護所に居ると聞いてね」
肩を叩かれても振り返ろうとしない彼女へと、彼女は言葉を続けた。
「此処に、イーデン・ランバート少佐は居ない」
その言葉を聞いたエリザベスは、大きく息を吐いた。
今まで張り詰めていた彼女の両肩が、ストンと下に落ちた。
握り込んでいた両手も、腕と共にだらんと下へ落ちた。
「彼に、会いたいかい?」
「ええ、もちろんですわ」
それは戦傷者達の呻き声の中で、溶けていきそうな程に小さな声だった。
「最後に、会っておきたいですわ」
しかしはっきりと、芯は残っていた。
「こっちだ」
フレデリカに連られて救護所から外に出ると、エリザベスの頬に冷たい夜風が当たる。
それはとても透き通った、心地の良い風だった。
フレデリカの背中を追う形で、救護所の直ぐ隣に建てられた同種の天幕へと入っていく。そこは先程の阿鼻叫喚の渦中とは違い、とても静かな場所だった。
「案内を」
フレデリカが、丁度エプロンを解いていた軍医へと小声で囁く。
「……こちらへ」
血塗れの手袋を外しながら、無機質にエリザベスを案内する。
とても静かに眠っている将校達の脇を、起こさぬようにゆっくりと通り抜ける。何段かの行列を跨いだあと、軍医は一人の将校の前で立ち止まった。
「心臓と脇腹を、ほぼ同時に貫かれていました」
そこには、気持ちよさそうに眠るイーデンの姿があった。
「連れてこられた時にはもう事切れていました。苦しむ時間は短かったと推測します」
「……案内、ありがとうございましたわ」
エリザベスは懐中からクレイパイプを取り出す。いつかの時、火気厳禁だとイーデンから取り上げた物だ。
「砲兵指揮官の頃は満足に吸えず、さぞ窮屈だった事でしょう。向こうでは存分に味わって下さいまし」
彼のポケットにパイプを仕舞い、脱帽して最敬礼を表した。
「ランバート少佐を運んできた兵士が、彼から遺言を授かったと言っていた」
共に最敬礼をしてくれた軍医が、自分へと向き直る。
「これは私一個人としての願いだが、辛かろうとも是非、遺言を聞いてあげてほしい」
「……分かりましたわ」
今一度大きく息を吐くと、私は銃殺刑を受ける直前のように、背筋を伸ばして立った。
『絵でも描きながら気長に待ってる。なるべく永く待たせてくれ』
そこから、どうやって自分のテントまで戻ったのか、あまり良く覚えていない。
気が付くと、私は自分のテントの前に立っていた。
「あ、お姉ちゃん」
テントの中では、先に上がっていたエレンが寝袋の真ん中にちょこんと座っていた。
「エレン……ッ!!」
堪えられなくなった私は、崩れ落ちるように、姉へと抱きついた。
「い゙、いま゙だけでいい゙がら……」
泣きじゃくる私を、お姉様は何も言わずに受け止めてくれた。
「い゙まだけは……わだしのおねえさまでい゙て……」
◆
明朝のエルヴェット橋。
会戦の終結を知った小鳥達が、パンテルスの畔で凱旋の歌声を披露している。
「オズワルド、交代よ」
「やっとか。眠過ぎて川に落ちる所だったぞ」
お互いに目を擦りながら、エリザベスは再び偵察を、そしてオズワルドは寝床へと戻って行く。
「もう大丈夫かい?」
そう尋ねたディースカウの方はと言えば、夜通し警備を行なってもなお、全く顔に疲れが浮かんでいなかった。
「ええ、大丈夫ですわ」
「イーデン少佐殿は?」
「戦死なされましたわ」
「そうか、残念だ」
非常に短いやり取りが交わされた後、エリザベスはやや口を尖らせながら言葉を続けた。
「今後ディースカウ大尉殿は、騎馬砲兵隊を含むオーランド砲兵部隊の長を務める事になりますわ。ついてはランバート少佐の指揮法を引き継く形で――」
「いや、指揮官は君だよ」
自分の方を向いたまま固まるエリザベスへ、彼はお構い無しに言を連ねた。
「指揮統制上、僕より君がアタマを張った方が良い。最近来たばかりの外国人将校に比べれば、砲兵令嬢の方が余程信頼度も高い筈だ」
「で、ですけども階級序列が……!それにオズワルドがどう思うか……!」
慌てて両手と首を振りながら恐縮するエリザベスだったが、ディースカウは単眼鏡に目を通したまま、彼女の心境などお構い無しに言い放った。
「今までの君の戦果を鑑みれば特進程度、容易いだろう。むしろ功績に比べて昇進速度が遅いくらいだ」
彼は構えていた単眼鏡を畳み、エリザベスへと顔を向ける。ここで初めて、ディースカウと目が合った。
「それに君は、先の戦闘にて、素晴らしい指揮官の才を発揮しているだろうに」
「し、指揮官の才……?」
彼の糸目が開かれ、真っ黒な瞳が顔を覗かせる。
「君は戦友が真後ろで撃たれようとも、決して振り向かず、歩みを止めなかった」
「…………」
エリザベスは想起した。
彼の言う優秀な指揮官が意味する所を。
「その無慈悲さ、その冷血さこそ、指揮官に相応しいんだ」
味方歩兵ごと有翼騎兵を薙ぎ倒したのも。
パルマを灰にしたのも。
クリスを見殺しにしたのも。
イーデンの死を振り払ったのも。
私が極めて功利主義的な考えの元に導き出した結論なのだと、彼は心からそう確信しているのだ。
「親友への同情如きで、味方一万の行進を止めてはならない。その事実と効用をしっかりと認識している君は、素晴らしい指揮官――」
手が動いた。
一瞬の記憶喪失の後に、私はディースカウの胸ぐらを掴み、彼の背中を橋の欄干へと叩きつけていた。
「やめろやめろやめろやめろッ!!何も話すなッ!!」
戦友達の死を、数値のように扱うのは決して許さない。たとえ直属の上官だろうと、絶対に赦すものか。
「私が成した決断の裏にある感情を!勝手に推測すのはやめろッ!私の心を踏み荒らすな!やめろッ!」
「……なぜ怒るんだい?僕は君を褒めてるのに」
「――こンのぉッ!!」
本当に不思議だと。
心からそう思っているであろう顔を、私は思いっきりに殴り付けた。
「私があの人達を見捨てたのは損得勘定じゃないッ!お前と一緒にするな!!」
振りかぶった右手で、再び化物の顔を殴る。奴は私の拳を防ごうともしなかった。
「私が足を止めなかったのは!あの人達の無念を!願いを!無碍にしまいと誓ったからだッ!」
奴が首に巻いたクラヴァットを両手で掴み、縛り上げる。
「切り捨てたんじゃない!受け継いだんだ!だから足は絶対に止めないッ!分かったか!?」
涙など一滴も浮かべない、純然たる義憤の感情を、エリザベスは彼へ叩きつけた。
「指揮官職拝領の件は、謹んでお受けいたしますわ……!」
未だ怒り収まらぬ両手をディースカウの首元から解き、エリザベスは一言一句、言葉で殴りつけるように所存を打ち付けた。
「精々、わたくしの後ろで見ていなさい……!貴方の間違いを、貴方の誤りを、貴方の目の前で証明して差し上げますわッ……!」
解放されたディースカウは、クラヴァットを締め直し、一つ二つ、短い咳を漏らした。
「……素晴らしい」
そしてエリザベスの顔を見つめると、極限まで張り詰めた、三日月のような笑みを浮かべたのである。
「是非とも拝見しようじゃないか」
◆
この一件と時を同じくして。
旧ヴラジド大公国の首都、ストシン市にて、多数のヴラジド人が蜂起。
ヴラジド独立戦争の火蓋が切られたのである。




